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クロワッサン物語  作者: コダーマ
第二章 黄金の林檎の国

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復讐の剣を(4)

 外に向かっては頑強な市門だが、内に対しては案外もろいというのはマリア・カタリーナもよく知っている。


「み、見られてたか。役に立つ情報を仕入れようと思って」


「ウィーンのパンを、オスマン軍に売りに行ったんでしょう。儲けた金は自分のもの?」


 危ないからやめて、という一言が何故言えないのだろう──マリア・カタリーナは唇を噛みしめる。

 兵役拒否を認めてくれたシュターレンベルクのために、少しでも役に立つ情報を仕入れようと、アウフミラーは危険を冒して敵陣に入り込もうとしたのだろう。


 軍隊の駐屯地に物売りが集まるのが常とはいえ、間諜のような真似をして、もし見付かれば命はあるまい。

 もしもアウフミラーに何かあったら、自分はどうするだろうか。

 後を追う? それとも修道女にでもなって一生沈黙の誓いを立てる?


 ふと気づけばアウフミラーが腰をかがめて自分を覗きこんでいる。

 背の高い彼女は、隣りでこういう体勢をとられることは普段ない。

 藍色の目に吸い込まれてしまいそうで、マリア・カタリーナは慌てて顔を俯けた。


「い、いつものように絵を見せてちょうだい」


 照れくささもあったのだろう。

 ひったくるようにアウフミラーの手から帳面を奪う。


 乱暴に頁を繰ったのは、もはや見慣れた感のある美しい女の線画を見ないようにするためだ。

 一番新しい頁には、今や抉れて形を変えてしまったシュテッフルの塔の在りし日の姿が精密に描写されていた。

 ふと、マリア・カタリーナは訝しげに目を細める。


「それはシュテッフルじゃないよ」


 ぺらりとめくられた前の頁には、別の塔らしき絵が描かれていた。

 時間をかけて描いたのが分かる。

 塔には人物を象った装飾が丹念に書き込まれていた。

 豪華な衣服を身につけた司祭の姿に、皇帝のような人物の姿まで。悪魔を思わせる禍々しい影もあれば、マリア・カタリーナを悩ますあの美しい顔も、ここでは天使の装いで舞う。


「この女……いえ、この絵は何なの?」


「オレ、彫刻家になりたいんだ。ウィーンの街にこの碑を刻むのが夢だ」


 彫刻家ですって? マリア・カタリーナは顔を顰めた。


「呑気な男ね。明日……いえ、今日にでも死ぬかもしれないっていうのに、将来の夢なんてよく語る気になるわね」


「……慣れてる」


 アウフミラーの口調は変わらない。

 いつもこうだ。

 低い声で、感情に乏しい喋り方。


「今日死ぬかもしれないって、いつも思ってた。小さい頃からずっと……」


 彼の視線が、シュテッフルの抉れた箇所をさ迷っているのが分かった。


「父はいない。母はペストで死んだ。市門の外で野垂れ死にだ。オレもじきにそうなると思ってたよ」


「お、大袈裟だわ」

 自分の声が裏返っていると、マリア・カタリーナは自覚した。

「ウィーン市民が野垂れ死ぬなんてありえないわ。ペストが流行った時は市長さまや、うちのお父さまだって市内に残って、市民のために援助してやっていたのよ」


「そうだね……そうかな?」


「な、なによ……」


 マリア・カタリーナの表情が強張った。

 アウフミラーはわざと彼女の言葉をはぐらかし、煙に巻き、馬鹿にして見下している。


「偉いよなぁ、お父さまは。貴族の皆さんが郊外へ避難なさる中、地獄みたいな市内に残って市民の救済にあたられたんだからなぁ」


「な、何よ。どこが気に障ったっていうのよ」


 馬鹿にされようが見下されようが、非難されるようなことは何もない筈。

 なのに今、アウフミラーの声が怖い。


「オレの母はウィーンに住んでたよ。だけど難民で、下働きで日銭を稼ぐ生活してたんだ。どう頑張っても、市民様にはなれなかったんだよ」


 声は徐々に低くなる。

 それがマリア・カタリーナを追い詰める。


 ようやく分かった。

 どこが気に障った──じゃない。全部だ。


「周りがどんどん感染して死んでいく中、オレたちはじっと息を潜めてるだけだったよ。オレらが病気になったって、誰も助けてくれやしない。自分たちにだけは災厄が降りかからないようにと祈ることしかできない。祈ったって誰も助けてなんかくれないのに。案の定、母は感染してすぐに死んだ」


 なのにオレは……。アウフミラーは顔を伏せた。


「なのにオレは、今も祈ってるんだ」


 紙の上の天使と目が合って、マリア・カタリーナは悲鳴をあげた。

 この人が祈る相手はコレだと直感する。

 この天使。帳面の中に息づくこの女──。


「シュテッフルの地下には、ペストで死んだ二千人の遺骨が納められてるんだって。でも母はそんな立派なとこにはいない。グラシでまとめて焼かれて、灰はドナウに捨てられた」


「ご、ごめんなさい……」


 反射的に口にした謝罪の言葉。

 涙も出ない。

 渇いた感情は、マリアが謝ることじゃないよと言ってもらうのを待っている。

 だが、アウフミラーが彼女を見ることはなかった。


     ※ ※ ※

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