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クロワッサン物語  作者: コダーマ
第二章 黄金の林檎の国

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ひそむ闇(4)

「何でもパン生地にヒントを得たとか。市民に混ざって懸命に戦っていましたよ、リヒャルト殿は」


 あの生地がシュターレンベルクの眼前に迫った敵兵をなぎ倒したのは確かだ。


「そ、そうでしたか。リヒャルトが……」


 まさかという思いはある。

 それにあの場合、軍人であり射撃の訓練も受けているリヒャルトは表に出て指揮官らに加勢するべきではないかとも。


「そういうのが苦手な者もいます」


 武器の準備をしたり、積極的に市の見回りに参加したり。

 市内のあちこちに防火用水の設置を行ったり──すべてこの数日のリヒャルトの行動であるという。


「リヒャルト殿を褒めてさしあげなさい。分かりづらいかもしれませんが、あなたの役に立とうと懸命に取り組んでいるのですよ」


「ひ、人違いじゃないですかね。さすがにそれは……」


 あれは気が利かない上、嫉妬心が強い。

 肝の小さい男だ。

 ルイ・ジュリアスの足をどれほど引っ張っていたことか。

 そんなに甲斐甲斐しく働く姿は想像できない。


「そもそも息子がそんなに優秀なら、俺はとうに家督を譲って隠居していますよ。愛人囲ってただれた生活を送ってる。それができないのはあいつが……」


 冗談めかして言ったわけだが、ヨハンは乗ってはこなかった。

 嫌味が過ぎるとはいえ、元より喋り好きなこの男が妙に達観したような微笑を湛えたままこちらを見やる。


「人には分があります。巨大なオスマン帝国軍を捌けるのは、この国ではあなたくらいのものでしょう。自分でも分かっているのでしょう」


 いつもの皮肉なのか。

 今度はシュターレンベルクが黙る番だ。


「分かっているから、だからリヒャルト殿には避難民の誘導なんて任を与えたのでしょう」


 正確にはグラシに住み着く民の避難と、そこに建つ屋台や小屋などの建造物の破壊を命じた。

 実際、息子は一人ではそれすらもままならなかったではないか。

 もういいというようにシュターレンベルクは首を振った。


「市長殿は買いかぶってらっしゃるよ。俺も息子も……」


 吹き抜ける風が、語尾をかき消した。七月とはいえ、夜気が肌を刺す。

 今更、沈黙を恐れるわけでもあるまいがヨハンが大きく咳払いした。


「いつぞや陛下が音楽会を開いてくださいましたね。自分で作曲したとか何とか言って演奏なさっていた。何という題名でしたかな、あの陰気な曲。今のあなたの顔はアレが流れてきそうな雰囲気ですよ」


「やめてくれ、市長殿」


 シュターレンベルク、ますます顔を顰める。


「ミゼモーレ……といいましたか。覚えていますか」


「思い出したくないのに。あの気味悪い曲。陰気な調べが延々と続いて、聞かされてるこっちの神経が……」


 シュターレンベルクは頭を抱えてしまった。

 だが、張りつめた空気は解けようとしている。

 皇帝の悪口で場を和ませたことを、市長は気にする素振りもない。


 皇帝レオポルトは音楽家のパトロンとして有名であるが、自ら作曲をこなす才能の持ち主でもあった。

 教会音楽にバレエ音楽と多くの作品を作るは良いが、いちいち家臣の前で発表会をしてくれる。

 悲しみの調べが詰まった曲だと言いながら、モゼモーレという題名の陰気な音楽を延々三十分聞かされた日には心が折れそうになった。

 今、その感情が蘇ってきては防衛に支障をきたすに違いない。


「他にもありましたね。聖母マリアの悲しみの調べを表現したとか仰った……あれは何でしたかね、司令官殿」


「ああ! 市長殿のせいで思い出したじゃないか。音楽と、それから陛下の顔。あのでかい鼻とでかい顎!」


「ははっ、ぼくもです」


 特徴的な鷲鼻と、異様に大きな下顎。

 どれほど美しい王妃の血を入れても、それはハプスブルク家に生まれる人間が共通して持つものであった。

 呪われたとしか言いようのない不幸な容姿。

 現皇帝レオポルトとて例外ではない。

 口髭を捻りあげ、外国風の衣服と赤い靴下で装ってもその醜男ぶりは有名であった。


「さすがにこんなこと、塔の上でしか言えませんからね。うっかり下で言って市民に聞かれては大問題になる」


「確かに」


 ひとしきり、二人は笑った。

 不忠者の会話だが、悪意はないのだ。

 レオポルトとて許してくれよう。

 今必要なのは張りつめた精神を、切れないように一瞬だけ緩めることだった。

 市長には礼を言わねばなるまい。

 一応、皇帝にも。


 レオポルトは元々次男坊であったため、皇帝位につく為の帝王学の教育を受けていない。

 むしろ高位聖職者として必要な知識を身につけていたこともあり、軍事的知識は皆無であった。

 優柔不断な所には苦しめられるが、自らの弱点はきちんと自覚して、軍事面に関しては有能な将を登用し、任せるという形を貫いてくれる。

 そこだけは偉いと思う。


「それでも……」


「どうされました?」


「戦場から帰ると、陛下はいつも泣きながら出迎えてくれたんだ」


 命を奪い奪われる戦場で、しかも指揮官として責を負う過酷さから、その瞬間、解放されたと感じるのだ。


「そんなものに騙される俺もどうかしてるか。あの方はオペラを見たって泣くし、犬が子どもを産んだって泣くんだから」


 気付けばヨハンが眉をひそめてこちらを見ていた。


「ちゃんと寝ていますか、防衛司令官殿。悪口を言いながら泣くなんて」


「えっ?」


 まさか自分が泣いていると?

 慌てて目元を拭うシュターレンベルク。

 良かった。涙は出ていない。

 ほんの少し目頭が熱くなっただけだ。

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