後半戦
わたしと正宗が食器を片付けたタイミングで、フローラルな香りをまきちらしながら父が風呂から出てきた。
そして「サンキュー、サンキュー」となぜか英語で正宗に礼を言いながら、母とおそろいの大リーガーのTシャツを指し、ビールと柿ピーを持ちテレビのある和室へと行った。
正宗が洗面所を使いたいと言うので、新しいタオルを渡した。
しばらくすると、正宗は生き返ったかのようにさっぱりとした顔で戻ってきた。
「……」
「なにか、ぼくの顔についてる?」
「いえ、なにも」
正宗の回復力、すごいな。
つい十五分ほど前には、疲れて思いつめた様子だったのに、今はピカピカの新品みたいな顔になっている。
新品になった正宗とわたしは、ようやくそろって我が家の二階にあがり、そのまま目的地であるベランダに出た。
夏の夜のなまぬるい風が、わたしの髪を揺らす。
顔にかかる髪を払いながら正宗を見上げ、そして視線をうちのベランダのすぐ前にある彼の家の窓へと向けた。
うちと正宗の家は隣接していた。
そして、正宗の家は換気のために、いつもその窓を少しだけ開けているのだ。
はじまりはいつだったのだろう。
小学三年生か、もしかすると四年生だったか。
ある日、たまたま小学校の帰り道が一緒になった正宗が、実はと言って家の鍵を忘れたと言い出した。
正宗のお母さんは働いてはいなかったけれど、それでも時折家を空けることがあり、そんなとき、正宗に鍵を持たせたそうだ。
正宗はその鍵を、自分の部屋の机に置いたまま学校に行ってしまったと言う。
「おばさんが帰ってくるまで、うちで待っていればいいよ」
わたしは正宗を見下ろしそう言った。
――しかし、待てよ。
小学生のわたしは思った。
――それだと、正宗が家に鍵を忘れたってバレちゃうよね。鍵を忘れたぐらいで、おばさんに怒られるのはかわいそうだ。
あとになって思うと、あのときのわたしの思考回路は、どうかしていたのだと思う。
鍵を忘れたぐらいで正宗のお母さんは怒らない。
なにかと小さなことで怒ってくるのは、わたしの母だ。
眠る前に時間割をそろえろとか、鉛筆はいつも削っておけとか、布団でお菓子を食べるなとか。
わたしは、年がら年中母の小言を聞いていた。
そんな風に怒られ慣れてしまうと、どうしても思考がそっちにいってしまうものなのだ。
わたしは、どうしたら正宗が怒られずにすむのかを、考えに考えた。
そして、うちのベランダから正宗の家の窓をくぐって、家に入れるのではないかと閃いたのだ。
お転婆だったわたしは、その考えに興奮した。
ベランダからの侵入、やりたい。
もはや、正宗の事情は吹っ飛んでいた。
そして、わたしは正宗のうっかりを盾にして、ちょっとした冒険を楽しんだのだった。
案の定少し開いていた正宗の家の窓と彼を交互に見た。
うずうずとした気持ちを押し込め、できるだけそっけなく正宗に話す。
「正宗、ここから家に入ったらいいんじゃない?」
ほんとうは自分がやりたいっ。
けれど、さすがにそうは言えない。
だって、わたしは二十七歳の素敵な女性に成長しているわけであって。
そんなわたしが、よそ様の家に窓から入るなんて、ねぇ。
しかし、正宗からの返事はない。
しびれをきらし、わたしは正宗の家の窓を全開にした。
全開とはいえ、引き違い窓なので窓の半分しかオープンにはならないのだけれど。
半分の窓の向こうに、真っ暗な正宗の家の廊下が見え、わたしは少し怯んだ。
「……ぼく、この窓から入れるかなぁ」
正宗がようやく動き、窓枠に手をかけた。
実はこの窓は、かなり小さいサイズでありまして。
「正宗、窓より大きいかもしれないね」
「椅子を借りて、その上に乗って足から入れ――」
「だったら、わたしがやってもいい?」
正宗の言葉を遮って言う。
「ほら、わたし、昔もよくやったじゃない? わたしにならできるよ、簡単に」
「……それは、助かるけれど」
「では、決まりね。正宗はさ、自分の家の玄関に行ってね」
正宗からNOが出ないうちに、わたしは少し出っ張っている窓枠の上を手で掴んで、足を窓枠の下に乗せてぐいっと体を持ち上げ、そのまま体を正宗の家にすべりこませた。
「いたたた」
背中と顔を擦りながらも、なんとか正宗の家の中へと入った。
小学生のころより、わたしだって大きくなっていたか。
「頼子、大丈夫?」
まだそこにいた正宗が声をかけてきた。
「大丈夫、大丈夫。ほら、玄関に行って」
小さな窓の向こうに見える正宗にわたしはそう言うと、彼の家の玄関を目指した。
とはいえ、真っ暗な家の中を歩くのは、ちょっと怖い。
よその家だけれどかまわずに、わたしは目に付くスイッチを片っ端からぱちぱちとつけながら歩いた。
廊下を進みながら、この家に入るのも久しぶりだなと思う。
ずっととなりにあったのに、こんなにも知らなかったのかと不思議な気持ちになる。
そして、ちょっぴりワクワクもした。
階段を下りる。
トントントンというわたしの足音だけが響く。
正宗の家で響く自分の足音にも、これまた不思議な感じがした。
と、同時に懐かしさもあった。
家じゅうピカピカの明かりのなかで、段々と目の前に見えてきた正宗の家の玄関。
ふっと、時が遡る。
小学生のわたしも、今と同じようにワクワクしながら正宗の家の玄関に向かっていた。
この扉を開けると、正宗が立っているはず。
心配そうな顔で、わたしを待っている小さな正宗が。
わたしは扉を開けた。
「わぁ、頼子。ありがとう」
正宗がいた。
けれど、そこにいたのは小さな正宗ではなく、大人の正宗だった。
仕事が忙しくて、年中海外に行く。
背だって、見上げるほど高くなっていた大人の正宗が。
途端に、わたしは恥ずかしくなった。
この正宗の前であんな窓くぐりをしてみせたのかと思うと、自分だけがとても幼いような気になった。
正宗の前から逃げ出したくなった。
「うん、よかった、よかった。それでは、わたしは任務終了ってことで――」
そう言って、さてさて家に帰ろうと思って玄関を見たら。
「あたりまえだけど、ないわ。わたしの靴が」
もしかして、と思って正宗を見る。
「ごめん、持ってくるの忘れた」
そう言って、正宗は申し訳なさそうな顔をした。
「うーん。だったら持ってきてもらってもいいかなぁ?」
「うん、持っていってあげるよ」
そう言うと正宗は、あろうことかわたしのことを持った。
「ちょっと、なに? わぁ」
これはいわゆる、お姫さま抱っこというヤツでは?
「待って、正宗。正宗がわたしをこのまま家に連れて行ったら、その間正宗の家は鍵が開いているってことだよね? それって、危ないでしょう?」
「そうだよね」
正宗は素直にわたしを下ろしてくれた。
木の床に、わたしの裸足の足がぴたんとついた。
「留守にするときは鍵をかけないとね。だから、正宗がわたしの靴を持ってきてくれればそれでいいんだから」
今の出来事に動揺して、わたしは早口でそう言った。
「鍵はかけないとね」
そう言うと正宗は、自分が玄関に入ったまま背中で鍵を閉めた。
「は?」
「閉めたよ」
そして、正宗は靴を脱がないままでわたしが立つとなりに腰を下ろした。
正宗、座っちゃっている。
「あのね。わたしたちがここにいるのに鍵を閉めることもないでしょう?」
なんだかわからないけれど、わたしもその場でしゃがんだ。
目線を正宗に合わせる。
「正宗、あのね。わたしの靴を取に行くのが面倒なら、正宗の靴を貸して。それを履いて家に戻るわ」
正宗はわたしを見たあと大きくため息をついて、そしてうなだれた。
「どうしてだろう。頼子以外の人にはみんなぼくの気持ちがばれているのに。お土産だって頼子が好きそうなヘンテコなのを選んで買ってきているのに。どうしてそれが頼子には伝わらないんだろう」
「……ん?」
正宗のぼやきの内容に、わたしは動きが止まった。
お土産?
ヘンテコ?
どういう意味?
「あのさ。今から、口説いてもいい?」
「えっ? くどい?」
正宗がうなだれたまま顔をこっちに向けてきた。
「頼子を口説きたいんだ。だから、ぼくに隙をください」
正宗がやけになったように言う。
正宗がわたしを口説く?
この、聖人君主みたいな正宗くんが、わたしを?
「いやいや。突然、なにを言い出すかなぁ」
しゃがんでいた座り方を正座に直す。
「誰か好きな男いるの?」
「いません、けど」
「ぼくのことが、嫌い?」
「嫌いなわけ、ないでしょう」
嫌いというよりは、むしろ――。
「でもね、わたし、正宗のことよく知らないし」
正宗がなにを好んで、どんなことが嫌いかなんて。
わたしはなんにも知らないのだ。
正宗は、わたしの好みのお土産を買ってきたと言ったけれど、わたしは正宗がどんなお土産を喜ぶのかわからない。
すると正宗は、今のわたしの言葉で完全にノックアウトされたような顔になった。
そうか、こんなものの言い方が隙がないってことなのかもしれない。
「ぼくさ、海外の仕事が多くなって。なかなかこうして時間もとれなくて。毎回出張から帰ってくるたびに『今度こそ頼子に言おう』って思っていたんだ。けれどそれが上手くいかなくて、どんどん時が過ぎていって、焦って。そんなとき――って、つまり今晩なんだけれどさ、お土産持っていったらおばさんに夕飯に招かれて。頼子も家にいて。そうなるともう『今日しかない』みたいな切羽詰まった思いになっちゃってね。ごめんね。頼子を驚かせちゃったよね」
失敗したなぁ、と正宗が苦笑いを浮かべた。
そんな正宗を見ていたら、なんだか健気で。
わたしは正宗をいじめているような気になってしまった。
と、同時に、今頃なんだけれど胸が苦しいというか、ぎゅっとしてきた。
どきどきしてきた。
「頼子の靴を取ってくるか」
正宗が立ち上がろうとした。
「あのさ!」
ぐいっと正宗の腕を掴む。
わぁ、と言いながら正宗がもう一度その場に座った。
「あのさ、正宗。今じゃなきゃダメ? 今、わたしを口説きたい?」
正宗の腕を掴んだまま聞く。彼の驚いた顔が目の前にある。
「正宗の気持ちはわかったけど。でもさ『まずは、友だちから』っていうのは、あり?」
「なしだよ。だって、友だちなんて、それは今の状態と同じじゃないか」
けれど、待てよと正宗がつぶやく。
正宗がわたしの瞳を探るように、じりじりと近づいてきた。
「頼子の中で、ぼくは友だちですらなかったとか?」
いつもはさわやかな正宗の目が怖い。
わたしは、すっと目を逸らす。
あぁ、はい。そうです。
ついさっきまで、わたしは正宗とは友だちという言葉よりは、幼馴染みとかご近所さんといった言い回しが合う、ぬるい関係だって思っていました。
正宗がすっと両手を伸ばし壁につき、わたしはその中に包囲された。
うわっ。これ。あれでしょう? 一時期流行った……。
そんな突っ込みさえできない、嫌な流れですよ。
「……正宗、怖いよ」
「ぼくは頼子が怖いよ。ほんとうに、もう。きみをどうしてくれようか」
正宗がわたしをじっと見ている。
わたしは二十七歳なんていい年になっているけれど、恋愛方面はからきしダメで。
こんなときどうしたらいいかってことさえ、わからなかった。
それでも、今、彼から目を逸らしてはいけないのだということはわかった。
わたしを見る正宗の瞳が揺れる。
正宗の目に、わたしはどう映っているのだろう。
「友だちから、ありにして」
ささやくように、わたしは言う。
「なしだよ」
そう言うと、正宗がかするようなキスをしてきた。
こんなことして、友だちだって言えるのってわたしに問うかのように。
「……わたし、正宗のことを勢いとかじゃなくて、ちゃんと好きになりたい。ちゃんと、正宗に恋がしたい。だから、少し時間が欲しい。そのために、友だちっていう猶予期間をちょうだい」
「ずるいな、頼子は。そんなこと言われたら、YESしか言えないじゃないか」
正宗は腕を壁から外し、少しだけ不貞腐れたような顔でそう言った。
そんな彼の顔がかわいいと思ってしまった。
これは、確信ともいえる予感。
わたしは、すぐに正宗に恋をしてしまうのだろう。
もしかすると、もう恋をしているかもしれない。
そうだとしても、やっぱり、少し時間が欲しいのだ。
自分の心を見つめてみたい。
今までの、彼への感情を整理したい。
なんたって、わたしは「鈍感娘」なのだから。
恋を自覚する時間は必要なのだ。
「頼子」
正宗が、真面目な声でわたしの名まえを呼んだ。
「好きだから」
正宗のストレートすぎる言葉が脳天に響く。
「……ちょっと。まずは友だちからって言ったじゃない」
正宗に抗議する。
「ぼくは嘘つきだからね」
正宗はそう言うと、ズボンのポケットに手を入れて、じゃらじゃらしたものをわたしの目の前にぶら下げた。
「鍵?」
「うん。持っていたんだ」
「え?」
正宗は鍵を持っていた。
「ついでに言うと、小学生のころも」
「は?」
小学生のころ、とな。
「嘘っ」
「ほんと」
「……どーいうこと?」
「頼子にかまって欲しかったから」
おとなしい顔して、正宗はそんな告白までしてきた。
「嘘つきっ!」
嘘つき、嘘つき、と連呼するわたしに、正宗は動じることなくじゃらじゃらとした鍵の中の一つを取ってわたしに握らせた。
「となりの駅だから。駅からは徒歩七分。三LDK。オートロック。三階、角部屋」
「な、なによ」
正宗から離れようと、座ったままずりりと後ろに下がる。
「マンション。買ったからさ。窓から頼子が入らないですむように渡しておくね」
マンションを買った?
鍵を渡す?
さっきまでわたしの目の前にいた健気な青年はどこへ?
「なんか、ずるい。ずるいよ、正宗」
「うん。ぼくはずるくて、嘘つきだよ」
正宗があたりまえとばかりに言い放つ。
「でもそうでもしないと、頼子に近づけなかった。そばにいられなかった。頼子はお転婆だったけど、乱暴な男子は苦手だったし」
その顔を見て、そんな正宗を見て。
あぁ、これが正宗だったんだなぁ、と思った。
わたしの目の前に現れた、嘘つきで策略家の正宗。
「でもね、まずは友だちから、だからね」
正宗がそうくるのなら、わたしだって負けられない。
形だけ睨んで、しつこくもそう言うわたしに「三か月だけだよ」と正宗は言うと――。
その嘘つきのままの顔で、とっても嬉しそうに、にっこりと笑った。
「きみをどうしてくれようか」
このセリフをずっとどこかで使いたかった、わたしです。
唐突に、ツイッター開設しました。
使い方が謎なんですが…。
https://twitter.com/nakamachikanoko




