初めて呼んだ名前
「――びっ、くりしたぁ……!」
心底驚いた様子で、両手で胸を押さえる天使。
アナベラが視線を外さないまま、警戒しながらそろそろと、フットベンチの端っこまで、後ずさった所で
ばたばたばたっ……せわしない足音と共に
「アナベラさんっ、どうされました……⁉」
雲のような裳裾を腕にかけた、『お伽噺のお姫様』が、息せき切って、飛び込んで来た。
振り返って目を見張った、アナベラの様子に、ほっとしながら
「そこのあなた、アナベラさんから離れなさい!」
ベッドの上の見知らぬ男性を、きっと睨む。
ウェディングドレス姿のシャーロットを、ぼんやりと見返した天使は
「なんと、麗しい花嫁……あぁ、いい夢だなぁ……」
両手を広げて、夢見るように、微笑んだ。
「わたくしは、警告しましたよ?」
目の前の『敵』の言う事など、一切気に留めず、袖を探るような動きをした後
「あらっ?」困惑した声を上げた、公爵令嬢に
「お嬢様、こちらを!」いつの間にか、すぐ後ろに控えた侍女が、細長い皮のケースを差し出す。
「ありがとう、ユナ」
敵から目を離さずに、すばやくケースから取り出した細身の短剣2本を、左手の指で挟み、
「アナベラさん、伏せてっ……!」
シュッ、シュッ……!
ベッドに向けて迷わず、白ばら姫は放った。
「あれっ……? わーーっ‼」
たっぷりとしたシャツの両袖を、短刀で枕ごと縫い留められた天使が、両手を広げたまま、叫んだのと同時に
「アナベラさまっ、こちらに……!」
フットベンチの上から小さな身体を、侍女が助け下ろし、転げるように、廊下に脱出。
「動くな……!」
扉の前では、裏庭でぶつかった軍人が、なぜか食べかけのパストラミサンドイッチを片手に、目を眇めて、拳銃を構えていた。
「アナベラ様っ、お怪我はございませんか⁉」
廊下で待ち受けていた、ミセス・ジョーンズが、膝を付いて、心配そうに尋ねる。
こくりと、頷いた少女を
「良かった……!」
ぎゅっと、抱きしめた。
すぐ後から出てきたシャーロットも、そっと黒髪を撫でながら
「さぞ、怖かったでしょう? おかわいそうに……」
「平気……」
ふっと涙が出そうになって、固く両手を握りしめたとき
「アナベラ様っ……!」
人込みをかき分けて、ベティが走って来た。
「すみません! すみませんっ‼ わたしがお傍にいなかったせいで、怖い思いを……本当に、ごめんなさい‼」
ぽろぽろと涙を零しながら、何度も頭を下げる。
『なんで謝るの? 怒ってたんじゃない、の?』
腕を離した家政婦と公爵令嬢に、優しく背中を押されて、そっと右手を差し出すと、強く引っ張られて、ぶつかるような勢いで、抱き留められた。
「ごめんなさい――ごめんなさい」
何度も繰り返しながら、頭や背中を優しくさすってくれる。
新米で、役立たず……でも、優しい
わたしだけの、メイド。
「ベティ……」
初めてきちんと呼んだ名前は、我慢できずに零れ落ちた涙で、少し掠れて聴こえた。
その頃、客用寝室の中では、
「おとなしくしろっ!」
「お前、この間の――ウィーズルの仲間か⁉」
ジェラルドに銃で狙われたまま、従僕たちに取り押さえられた、侵入犯が
「痛っ、誰それ――? あっ! アンダーソン!」
執事の顔を見て、ぱあっと、嬉しそうな声を上げた。
「僕、僕っ! ヒューバートだよっ!」
「ヒュー坊ちゃま……」
頭痛を抑えるように、俯いた額に右手を添えた、ミスター・アンダーソンは
「皆、手を離しなさい。この方は、ヒューバート・ヘア様……ウィルフレッド様の弟君です」
ため息交じりに、犯人の正体を告げた。




