ワンダーランド
手を、ぶたれた……?
ショックで固まった、アナベラの灰色の瞳に
「あっ……」自分のしたことに、驚いている顔の、ベティが映る。
「アナベラ様――わたし」
おどおどと伸ばされた手に、びくっとなって――逃げるように、小屋から飛び出した。
ひどい――ひどい! メイドのくせに! 新米の役立たずのくせに! お母様にだって、ぶたれた事なんてないのに……‼
前を見ないで、怒りに任せて走っていた小さな身体が、ぼすんっと何かにぶつかった。
「おっと――大丈夫か?」
大きな両手で肩を掴まれて、見上げると、軍服を着た大男が……
「きゃーっ!」
夢中で手を振り払って、モーニングルームに駆け込んだ。
なんなの、なんなの――なんで兎穴に、軍人がいるの⁉
知らない間に、『不思議の国』に、迷い込んでしまったような、心もとない気持ちで。
階段をかけ昇り、やっと客用寝室にたどり着く。
ここ数日ですっかり見慣れた、いつもと変わらない美しい部屋に、ほっとして。
俯いたまま、ふらふらとベッドに歩み寄り、ぽすんと倒れ込んだ所で
「ぐぇっ……」
潰れたカエルのような、声が聞こえた。
なに今の、変な声――それに、お布団が固い……?
ばっとアナベラが、顔を上げると、
「誰……?」
ベッドに横たわる、見知らぬ男性が。
少し眉を顰めたまま、すやすやと幸せそうに、寝息を立てていた。
白い額にかかる、淡い色の金髪。男らしくきりっとした眉の下には、長い睫毛を伏せた瞳、高い鼻梁と形の良い唇。
人間じゃなくて、まるで精巧に造られた人形……それとも
「天使様――?」
自分の声にびっくりして、両手で口を押さえて、思わず後ずさったところで、
ガタンッ!
ベッドの足元に置いてある、フットベンチの上に落ちた。
「ん……?」
やっと目を覚ました見知らぬ天使が、もぞもぞ目を擦る様を、呆然と見上げていると――ぱちりと目が合った。
「誰?」
少し掠れた声の天使――いや不審人物が、むくりと上半身を、起こしたところで
「きゃあーーっ……‼」
屋敷中に響き渡るような大声が、アナベラの口から、飛び出していた。
※『フットベンチ』は、ベッドの足元に置く、背もたれの無い、長方形の椅子のようなベンチ。オットマンとも呼ばれ、海外のベッドルームやホテルで、良く見かけます。




