あの日の野原
かちゃりと、『奥方の間』の扉が、細く開いた。
中に入るのをためらっている、廊下からの気配に、
「ずいぶんと、ごゆっくりの『偵察』でしたね――お嬢様? ユナも」
すっかりご機嫌のかたむいた、乳母の声が、かけられる。
そっと足を踏み入れた、部屋の主と侍女は
「ばあや……こっそり消えて。お手伝いもしなくて、ごめんなさい」
「ごめんなさい、おばあちゃん」
そろってしょんぼりと、頭を下げた。
その、雨にぬれた子猫達のような姿に、たちまち陥落した乳母は
「いいんですよ! こちらのメイド達が、手伝ってくれましたし。
まぁ最初は――『この際しっかり、しつけ直してやろう!』と、待ち構えていたんですけどね。皆てきぱきと、思いのほか手際も良く……中でもエマという娘が、気働きの出来るしっかり者でしたよ」
何も謝ることはないと、優しく銀の髪をなでながら、孫娘にも頷いてみせる。
くるりと部屋に、視線をめぐらせたシャーロットが
「そうなの? すっかり綺麗に片付いて――見違えたわ! さすが、『狼城の乳母様』ね?」
嬉しそうに、にっこりと、花が咲くように笑う。
「まぁまぁ――そんなに喜んで頂けると、ばあやも嬉しゅうございます!」
ほこらしげに乳母は、胸を張った。
「お嬢様の方こそ、大丈夫でしたか? 領主様と、お茶を召し上がったんですよね?」
そういえばと、眉をひそめての問いかけに
「心配するような事は、何もなかったわよ? ユナもジェル兄様も、いてくれたし。お茶とケーキをごちそうになって、子ウサギを、抱かせてもらっただけ」
シャーロットはことさら、明るい口調で返す。
「子ウサギ、でございますか?」
「こちらでは代々、白と黒のウサギを守り神として、大切に育てているそうよ。 白ウサギがハルで、黒ウサギがナツ――東洋の言葉で、『春と夏』という名前なんですって」
「おやまぁ、さすが兎穴……これ、お嬢様!」
ベッドに腰掛けた、部屋の主が、そのままポスンと上体を倒したのを見とがめて
「ここは、狼城ではないんですよ?」
たしなめた、乳母の声が
「ごめんなさい――今朝は早くに、目が覚めてしまったから」
眠そうに目をこする幼い仕草に、たちまち甘くなる。
「来て早々で、気を張ってらしたんでしょう? 少し、お昼寝なさいますか?」
「うん」
「では、コルセットだけ、ゆるめましょうか?」
「うん、お願い」
ころりと、うつぶせになった背中に連なる、ドレスのボタンを外した乳母の指が、ウエストを絞っていたヒモを、順番にゆるめて行く。
ふう……っと、楽になった息を吐きながら、
「ねぇ、ばあや?」
「何ですか?」
「10年位前、お父様が、こちらの先代の領主をご招待して、『狐狩り』をしたの――覚えてる?」
何気なく尋ねると
「10年前……あぁ! お嬢様が、『迷子』になられた時ですね!?」
『狼城の生き字引』は、即座に記憶を探し当てた。
「……迷子じゃないもの」
シャーロットのすねた口調に、祖母を手伝っていたユナが、くすりと笑う。
「あの頃いきなり、お嬢様がお転婆になられて。お留守番をしていたはずが、昼食を運ぶ馬車に隠れて、狩場に行かれたなんて――今思い出しても、気が遠くなりそうですよ!」
「本当に大騒ぎだったって、おばあちゃん達から、聞いてます」
「だって――兄様とジェル兄様の、初めての狩りを、応援したかったんですもの」
「あげく、『ここで、待っていて』と言われた、天幕まで抜け出して」
「広い野原を思い切り、走ってみたかったの」
「どちらかのご子息に、連れて戻られるまで、行方知れずだったなんて……ばあやは、生きた心地がしませんでしたよ!」
「――ごめんなさい。二度としません」
当時の様子を思い返しただけで、声を震わせた乳母に、素直に頭を下げる。
「それで? あの狩りが、どうかなさったんですか?」
「ううん……ちょっと思い出しただけ」
首を傾げながら、乳母は、ベッド周りのカーテンを引いた。
「おや、キレイな刺繍だこと――そういえば、エマが言ってましたっけ。
『ウィルフレッド様が、細々とご配慮して、このお部屋の模様替えを、なさったんですよ』って」
「……そうなの?」
「はい。敵ながら趣味はまぁ――悪くない様ですね。お嬢様、昼食は後で、召しあがりますか?」
「ううん――もぉ、お腹いっぱい」
「では、そのむね、厨房に伝えて参ります」
扉を閉めた乳母が、立ち去る足音を聞きながら
「『どちらかのご子息』が、ウィルフレッド様だった……なんて」
そっと呟いて、ころりと上を向けば、天蓋に広がる、ビロードの青空。
『初めてお会いするのを、楽しみにしていたのに、シャーロット嬢は、来られないと聞いて……でも樫の木に、帽子を取られて泣いていた、小さなレディのお顔が、狼城から送られた、絵姿そっくりだった』
寝台を取り囲むカーテンは、まるで森のような、樹々の模様。
『あの日たまたま、親を亡くした子ウサギを、見つけた後で……確かこいつの、三代前かな?』
そして、ふわりと広がる、草花が一面に刺繍された、掛布団。
『いつもウサギを、連れてる訳じゃないよ?』
鼻をくしゃりとさせて、照れたように笑った、先程のお顔が――10年前と重なって
まるで
「あの日の野原に、いるみたい……」
シャーロットは、うっとりと、眠りに落ちて行った。




