冬の旅立ち(前編)
今回は在る人との御別れの御話です。
ゼルシェン大陸編の「異種たちの慰安旅行」を、
思い出して貰えたら、色々気付く所が在るかと思います。
ゼルシェン大陸の長い冬季が終わろうとしていた。
春の訪れを間近に迎え乍ら此の冬最後の雪が降り、
冬の精霊たちが大地に最後の白塗りをして去って行く。
翡翠の館の居候、金の貴公子は、朝食後の一服を主の執務室で過ごしていた。
翡翠の貴公子は机に向かい、もう仕事を始めている。
金の貴公子は窓辺に座って硝子越しに空を見上げていた。
今日の空は曇っている。
どんよりとした灰色の雲が空全体を覆っているが、雨が降りそうな気配はない。
雪も、もう降らないだろう。
地面に積もっていた雪は溶け始め、所々茶色の土を覗かせている。
「もう冬も終わりなんだなぁ」
一人呟くと、金の貴公子は一向に晴れない空を依然見上げていた。
何故だか酷く、晴れた空が見たかった。
何故だろう・・・・こんなに曇っているが、もう直ぐ晴れる気がする。
そして晴れた空は最高に綺麗なのだろうと思った。
そんな事を思う自分に、金の貴公子は内心、首を傾げた。
どうして、こんなに空が気になるのか。
別に晴れなくては困ると云う事情もないのに。
なのに、見たい。
晴れ渡る空を・・・・。
此の数ヶ月、金の貴公子は、やたら空が気になる日が多々在った。
青空へと強く駆り立てられる此の気持ちは何なのか・・・・。
そもそもいつからなのか・・・・過去の記憶を手繰り寄せてみて、
金の貴公子はぼんやりと思い出した。
「そっか・・・・慰安旅行が始まる辺りだったかも・・・・」
はっきりとは覚えていないが、空をやたら綺麗に感じ始めたのは其の頃の様な気がする。
「もしかしたら俺、すっごいロマンチストになっちゃったのかも??」
にへっと笑い乍ら、ちらりと翡翠の貴公子を見たが、彼は書類に目を落としたまま顔を上げない。
どうやら話し相手にはなってくれそうになく、金の貴公子は脚を両手で抱えて膝に顎をつき、
又ぼんやりと空を見上げる。
此の雲の上には青い青い空が広がっている。
太陽以外には何も無い、何処までも澄んだ青い空が。
とても美しい青い青い・・・・其処まで思った時。
一羽の鳥の影が上空に見えたかと思うと、真っ直ぐに窓辺に舞い降りて来た。
鳥は大きな白銀の鷲だった。
「白銀の貴公子の羽根だ!!」
金の貴公子は声を上げると、窓を開ける。
すると翡翠の貴公子が、はっとした様に顔を上げた。
白銀の鷲は翡翠の貴公子に向かって飛んで来ると、机に降りた。
鷲の黄色い足には銀のホールが取り付けられており、
翡翠の貴公子は其処から折り畳まれた紙を取り出すと、其れを開いて文字に目を走らせる。
其の翡翠の瞳が大きく瞠られたのに、金の貴公子は気が付いた。
翡翠の貴公子は紙を折り畳むと、ホールに戻した。
すると白銀の鷲は直ぐに窓から飛んで行った。
「え?? 何?? 何て書いて在ったんだよ??」
金の貴公子は現状がよく判らなかった。
普段、同族の羽根が来た時は、手紙を受け取った時点で消える事が多い。
だが翡翠の貴公子がホールに紙を戻すと、白銀の鷲は消える事もなく、
他にも任務が在るのか様に飛んで行ってしまった。
其れは、つまり、緊急の連絡を意味し、
そして他の同族にも知らせなければならない事を意味していた。
其れは一体・・・・??
だが直ぐに翡翠の貴公子が立ち上がって強くベルを鳴らした。
そして、いつになく厳しい表情で言う。
「母様が危篤だ」
「・・・・え??」
まるで不意打ちの様な其の言葉に、返答の言葉を失う金の貴公子。
直ぐに執事が部屋に入って来ると、翡翠の貴公子は快の貴婦人が危篤で在る事を告げた。
「左様でございますか。直ぐに馬車の御用意を致しますので、主様は御着替えられて下さい」
いつもと変わらぬ口調で執事が言うと、珍しい事に翡翠の貴公子は頷かなかった。
「馬車はいい。俺は・・・・」
「主様」
珍しい事に、翡翠の貴公子の言葉を執事が遮った。
「今、シェパード家には、多くの人々が出入りしている事かと思われます。
単馬を御用意致しますので、どうか、そちらで向かわれて下さい」
其れは今、翼で飛んで行ってはならないと、主を窘めていた。
「・・・・判った」
執事の言葉に、翡翠の貴公子は自分が冷静ではなかった事に気が付くと、頷いた。
「直ぐに御用意致しますので、金の貴公子様も御着替えられて下さい」
「え・・・・あ、うん・・・・」
突然の訃報に、戸惑いを隠し切れない金の貴公子。
執事はメイド達に事の次第を伝えると、メイド達が急いで用意に走った。
翡翠の貴公子は衣裳部屋でメイドが用意した軍服に着替えると、ブーツを履いて肩掛けを羽織り、
手袋を着けて正装する。
上流貴族で在るシェパード家に行く際は、正装する様、定められているのだ。
人の出入りが多くなっている今なら尚更である。
翡翠の貴公子が部屋から出て階段へ向かうと、同じく正装姿の金の貴公子が追い掛けて来た。
「主!! 俺も馬で行くよ!!」
だが翡翠の貴公子の言葉は冷たかった。
「御前は馬車で来い」
「な、何でだよ!! 俺も馬で行くって!!」
「御前には無理だ。馬車にしろ」
「何だよ其れ?! 俺も馬で行くからな!!
こんな時に、ちんたら馬車なんかで行ってられるかよ!!」
「・・・・・」
階段を下り乍ら言い合っている二人に、執事は金の貴公子の馬の用意もする様、メイドに促した。
二人が玄関を出ると、間も無くして二頭の馬の準備が出来た。
馬の背には、喪服が入っているであろう箱が取り付けられて在る。
ギィ・・・とメイドが門を開けると、翡翠の貴公子はひらりと馬に乗った。
其れに倣って金の貴公子も馬に跨る。
「詳細は後で連絡する」
翡翠の貴公子が馬上から言うと、執事は「かしこまりました」と頷いた。
快の貴婦人が隠れる事になれば、シェパード家に泊まって葬儀に参加する事になるだろう。
「どうぞ、御気を付けて行ってらっしゃいませ」
執事とメイドが深々と首を垂れると、
「飛ばすぞ」
金の貴公子に低く言って、翡翠の貴公子は一気に馬を走らせた。
慌てて金の貴公子も手綱を強く握ると、馬を走らせる。
二人の姿は直ぐに館から見えなくなると、疾風の如く途を走った。
だが雪が溶け始めた地面は、非常に足場が悪かった。
馬の脚が滑らぬ様、ぬかるみを避けて全速力で走らせる。
こんな最悪な状況で猛然と馬を走らせるのは、金の貴公子は初めてだった。
態勢を崩さない様、身体の全神経を張り巡らせると、手綱を握る手に汗が滲んだ。
速度を落とさない事に集中するので一杯で、金の貴公子は何も考えられなかった。
だが雪泥を飛ばして走る中、翡翠の貴公子が金の貴公子の名を呼んだ。
「此の地面を何とかしろっ!!」
いつになく声を荒げる。
やはり翡翠の貴公子も足場の悪さに、内心、歯軋りしているのだ。
金の貴公子は向かい風に掻き消されぬ様、大声で言った。
「無理だよ!! 雲が厚過ぎる!!
白の貴公子に羽根を飛ばして、消して貰った方がいい!!」
空は灰色の雲に覆われており、金の貴公子が太陽の熱で地面の雪を蒸発させるには、些か厚かった。
それならば白の貴公子に羽根を飛ばして、雪を消して貰った方が良い様に思われた。
だが依然、猛然と馬を走らせ乍ら、翡翠の貴公子は大きく言う。
「白の貴公子の神力は東部まで及ばない!!」
其の言葉に、金の貴公子は一瞬、唖然とした。
白の貴公子は雪を支配する異種だったが、主神ではない。
主神とは其の属性の中で最も其の精霊たちに愛されている異種の事を言う。
主神ではない異種の自然への影響力の範囲は、主神の異種より狭いのだ。
雪が徐々に溶け一層ぬかるむ泥途に、二人は黙って馬を走らせた。
一分一秒でも速く南部のシェパード家に着きたかった。
だが中途半端に溶けた雪が二人の馬の足を取ろうとする。
此の状態では、通常の一・五倍以上の時間は掛かるだろうと思われた。
だが・・・・其れは突然、起きた。
南部の空から光が差してきたかと思うと、円を描く様にして空の雲が消えていくではないか。
一気に青空が広がっていく光景に、二人は目を瞠る。
白銀の貴公子が青空を広がせてくれたのか?!
そう金の貴公子は思ったが、直ぐに其れが否であると感じた。
晴れ渡っていく空から、ほんのりと香ってくる。
此の香りは・・・・
「・・・・母様・・・・」
母様の香りだ・・・・。
金の貴公子は、きゅっと胸が締め付けられる痛みを感じた。
だが直ぐに己の役目を悟ると、
「主!! 任せろっ!!」
口の端で、にぃと笑った。
其の途端、南中に掛かり始めた太陽が一瞬、強い光を放ったかと思うと、
地面を覆い尽くしていた溶け掛けた雪が一気に蒸発した。
まるで突然春が訪れたかの様に、足場の悪かった地面は新芽の覆う緑の大地に変わった。
其れを目の端に、二人は向かい風を切るかの如く一気に速度を上げた。
二人は馬を走らせ続けた。
翡翠の貴公子は馬の速度を僅かに落とす事もなく、最高速度で走らせていた。
其の後に必死につき乍ら、金の貴公子は息切れしていた。
こんなに長時間馬を飛ばすのは、生まれて此の方、初めてだ。
手綱を握る手は、もう感覚が無くなってしまいそうだ。
息が苦しいのに、きちんと呼吸をする事も出来ない。
激しく揺れる馬の背で体勢を保つのにも、もう限界を感じていた。
だが前を走る翡翠の貴公子の顔に疲れは見えない。
金の貴公子は改めて自分と彼との体力の差を感じた。
自分よりも背が低く華奢な人なのに、恐ろしく運動能力に長けている。
もし此の人の隣を夏風の貴婦人が走っていたとしたら、きっと彼同様、
殆ど息を切らさずに同じ速度で走っていた事だろう。
其れを思うと金の貴公子は、己に悔しさを感じずにはいられなかった。
「少し休もうよ」、そんな言葉を言える筈もなく、
金の貴公子は痺れる身体を堪えて馬を走らせた。
そんな相方に気付いたのだろう、翡翠の貴公子が低く言った。
「御前は少し休んでから来い!!」
だが金の貴公子は大声で言い返した。
「何だよ!! 俺は休まねぇよ!!」
ぎりぎりと歯軋りすると、徐々に開いてきていた翡翠の貴公子との距離を詰める。
だが、もう自分が限界である事は明らかだった。
必死に距離を詰めても又、直ぐに差が開いてくる。
此の儘では、翡翠の貴公子の背中を見失ってしまうかも知れない。
やはり彼の言う様に少し休むべきなのか??
だけど嫌だ・・・・。
此れでは何故、彼の反対を押し切って馬でついて来たか判らない。
あれだけ、きっぱり、馬車で来いと言われたのに・・・・。
だが、もう此れ以上は・・・・。
弱気な考えが脳裏をぐるぐるとする中、だが金の貴公子は或る事に気が付いた。
馬の息切れが激しい。
一心不乱に走ってはいるが、明らかに目が普通ではない。
馬の方が限界に来ている!!
「主!! 此の儘、南部まで行くのか?! もう馬が倒れる!!」
金の貴公子が叫ぶと、翡翠の貴公子は大きく答えた。
「判っている!! もう直ぐ太陽の館だ!! 其処で馬を替える!!」
其の言葉に金の貴公子は納得した。
よくよく考えてみれば、翡翠の貴公子が考え無しに馬を走らせる訳がないのだ。
此の速度でシェパード家まで行けない事は、彼には想定内だったのだ。
太陽が南中に達する頃、二人は東部の南部境界地に在る太陽の館に着いた。
屋敷には既に夏風の貴婦人も蘭の貴婦人も居なかったが、門の鐘を鳴らすと、
直ぐにメイドが出て来て中へ入れてくれた。
夏風の貴婦人が気を利かしてくれていたのだろう、
翡翠の貴公子が何も言う前にメイドが水と駿馬を用意してくれていた。
走り通しだった馬は崩れる様に地面にしゃがみ込むと、其の格好の儘バケツの水を飲む。
金の貴公子も地面に尻を着くと、メイドから水の入ったグラスを受け取り、ゴクゴクと飲んだ。
翡翠の貴公子は立ったまま水を飲むと、
「御前は馬車で来い」
もう息も整ったのか、用意された駿馬に跨る。
金の貴公子は「一緒に行く」とは言えなかった。
自分が共に馬を走らせられない事を、最早、情けない程に痛感していた。
ならば、せめて彼の足手纏いにだけはなるまい・・・・。
「ああ、そうするよ。主、気を付けてな」
ひらひらと金の貴公子は手を振ると、再び馬を走らせる翡翠の貴公子の背中を見送った。
まだ肩で荒く息をし乍ら、金の貴公子は其の場に座り込んでいた。
情けない・・・・。
なんて情けないんだ・・・・。
馬車で来いと言われたのに、大口を叩いてついて来て此れか・・・・。
まるで口先だけの自分に、何とも云えない感情が胸に湧き上がる。
飲み干したグラスを手に持った儘ぼんやりとしている金の貴公子に、
メイドが柔らかな態度で馬車を勧めてきた。
金の貴公子はグラスを返すと、よろりと立ち上がり、馬車に乗り込んだ。
そして扉が閉まり馬車が走り出すと、金の貴公子は気が抜けた様に座席に横になり、
用意されていた毛布に包まると、後悔の念と共に眠りの中へと落ちていったのだ。
この御話は、まだ続きます。
シェパード家へ向かう翡翠の貴公子と金の貴公子は・・・・?
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