舌戦
それぞれの心の奥深くにあるもの……
それはまるで形なき地図のようなもの……
何処に向かい、何を成すのか……
全ては己という羅針盤にかかっている……
(……気のせいか)
今はブラウンに見える瞳と、何事もないかのように再び微笑を浮かべるレイに何か底知れぬ不気味さを感じる祈秀だった。
頭上では、澄み渡った青空からまるで幼い子供が機嫌を損ねたように今にも泣き出しそうな鉛色へと変化していく。
そして遂に堪えきれなくなった空は、ボロボロと大粒の涙のような雨をこぼし始める。演習場に敷き詰められた石畳は一瞬にして暗灰色に染まり、尚も勢いを増す涙雨は、まるで怒りをぶつけるかのようにその身を大地に叩きつけて爆ぜる。さらに地上で行き場を失くした雨の残骸は、川のように増水した下水溝へと流れ込む。
『恐ろしいほどの変わりようですなぁ』
『全くです』
心配そうに空を見上げる祈秀に軽く応え、再び廊下を奥へと歩き始めるレイ達三人がしばらく進むと、幾つかの装飾された扉が見えてきた。そのうちの重厚で豪奢な扉の前で祈秀たちに向き直ったレイの顔はやはり見慣れた笑顔が張りついていた。
『こちらの部屋でお待ち下さい。直、用意が出来しだいお迎えに参りますので』
『では少し休ませてもらおうか、秀因』
『……』
振り返った祈秀の目に映ったのは、こちらも右手であごをいじりながら難しい顔をする見慣れた秀因の姿だった。
『はぁ……秀因!』
『は、はいっ!?』
祈秀の声に体をビクッと震わせ、今にも両の瞼からこぼれ落ちそうなほどにパッチリと目を見開き、周囲をキョロキョロと見回す秀因。
『ここで少し休ませてもらうことにするぞ』
『はい……』
オドオドした様子の秀因が扉を開け部屋の中へと滑るように入る。続いて部屋へ入ろうとする祈秀の視界の端で捉えたレイの表情は、今までの見慣れたあの笑顔ではなく、なんとも形容し難いほどに歪んで見えた。
(ほぅ…此奴の心は一体何処にあるのか)
掴みどころのないレイの存在に惑わされているように感じる祈秀だった。
『では、暫しごゆるりと』
祈秀の心の中を知ってか知らずか、レイの顔は再びあの笑顔に包まれている。
扉を閉めようとしたレイの動きが止まり、巻き戻されたかのように閉まりかけた扉がゆっくりと開く。
『申し訳ありません…』
不意に声を掛けられた祈秀は扉の方に向き直る。
『祈秀様よりご連絡いただいたとき、まだ早計かとは思いましたが、事が事なだけに隣国へも此度のことを伝書させていただきました』
レイはそこで言葉をきり、様子を窺うように祈秀と視線を合わせる。
『ほぅ、隣国にも』
思案するようにレイから視線を逸らす祈秀。
『はい、東国のランティスからはすぐにでも話を聞きたいと聖ガイア教団の星学士長サーンターン様と、星学士ラギア様が既にご到着されております』
『ほぅ…サーンターン殿とラギア殿が』
暫し思案した祈秀はレイへと視線を戻し疑問を口にした。
『そうすると、此度が円卓会議と…』
『…いうことになりますね』
祈秀の言葉に続けてレイが答える。
その声には何故か少し楽し気なトーンともとれる雰囲気が混じっていた。
今まで遠巻きに二人のやりとりを聞いていた秀因だったが、何故かレイの発した言葉の雰囲気に、自分の心に蟠という鋭い棘となって突き刺さる不快感を覚えた。
『では後ほど』
そう言って立ち去ろうとするレイに、思わぬ声がその動きを止めさせる。
『軍令師様…でしたか?』
満面の笑みを浮かべレイを見つめる秀因だった。
祈秀は驚いて秀因を振り返る。
その時の秀因が醸し出す雰囲気に、祈秀は一瞬、全く根拠は欠いているが自分が考えるほど行く末はそう悪くないのではないかと思わせるほど、その佇まいは凛としたものだった。
『左様…ですが』
突然、思いもよらない人物から声を掛けられ、多少の焦りはあったもののなんとか平静を保ったまま答えるレイに、初めて人間味を感じるところでもあった。
『私は、いずれ父の跡を継いで陰明寺家の当主となる秀因と申します』
『はい…存じております』
『では…私が次の当主となることも?』
レイの答えに、秀因はわざとらしく少し驚いた表情を浮かべる。
『えぇ、確か…陰明寺家は代々世襲制と伺っておりますが』
『ですが私には双子の兄がいることは…』
『勿論、存じております』
二人から視線を逸らしていた祈秀の肩が微かに動く。
『軍令師様の言う通り、我が家の当主決めが世襲制だと、次の当主は私の兄、翔因が跡を継ぐことに…』
『しかしお兄様は確かご病気で……』
先ほどとはうってかわり、真顔で自分を見つめる秀因の不敵な目にレイは己の浅はかさに気付き言葉を切った。
『兄の病気のことは陰明寺家の中でも限られた者だけが知る秘め事。結構レアなところまで知ってるんですね……我が家のことを。まぁ一国の軍令師様なら、これくらいの情報を得ることなど朝飯前といったところですか?』
(くっ…此奴)
レイの顔からゆっくりと笑顔の仮面が剥がれ落ちていく。
暫し視線をぶつけ合う二人の間に立つ祈秀の心中は、そのバチバチとした空気感とは裏腹に穏やかで、そして何処か淋しくもあった。
『では…』
『レイ殿!』
なんとかこの場から立ち去ろうとするレイに、尚、呼び止める秀因の顔にはわざとらしい笑顔が張りついている。そんな秀因の顔を見ての苛立ちからか、一瞬顔を引きつらせるレイだったが、辛うじていつもの笑顔を浮かべる。しかし先ほどまでとは変わり、目の奥が全くと言っていいほど笑えていない。
『まだなにか?』
『レイ殿は何故、軍令師という要職にお就きになろうとご決心なさったのですか?』
質問の意味を理解できないのか、それとも、答えられない何かが心中にあるのか、あれほど余裕のあったレイの表情は強張り、饒舌だった口は閉じられてしまった。
『秀因、レイ殿に失礼ではないか』
『申し訳ありません、出過ぎたことを…』
祈秀にたしなめられた秀因は恭しく頭を下げる。
『あぁ、いえ、お気になさらずに。ただ…』
『ただ?』
レイの返答に即座に返し、下げた頭をゆっくりと持ち上げ、こちらを見つめるレイと視線を交わす。
『ただ、一口に言うことはできないので…』
『そう…ですよね。聖ガイア軍のなかでも軍の全てをまとめる元帥に次ぐほどの要職、どのようなご覚悟や志があればそれほどの若さで軍令師という要職に就くことができるのかと気になりまして』
『はぁ、いえ…』
『ですが…』
さらに切り返す秀因に、どきりと眦を上げて更なる言葉に備えるレイ。
『この城を訪れたときから、どーも腑に落ちないことがありまして』
『と申されますと?』
『あっ、いえ。私自信が勝手に感じたことで大した事ではないですから』
『是非、お聞きしたいですねぇ』
舌戦は尚も続く。
『そうですか…では、城に足を踏み入れたとき、私はとてつもない緊張感のようなものに包まれる感覚に囚われました。この城全体を包み込むほどの緊張感は一体何なのか…まるで今すぐにでも戦争が始まるのではと思わせるほどの重い空気感に、息詰まる感覚を覚えたのです』
『……』
『しかし、跳ね橋まで迎えに来ていただいたレイ殿からは、微塵もその気配が感じられなかった…、何故か…。さらに中庭の演習場で行われていた訓練を見ているときにも、レイ殿と軍との微妙な温度差に妙な違和感を覚えました。まだあります。青天の霹靂、あの時、突然の雷鳴のときに貴方から感じられたもの、あれは……そう、暗流の悪意』
(チッ、此奴、自分の脳内どころか、しっかりこちらを観察していたということか…)
最早、秀因を見返すレイの目は敵意に満ちた力で溢れていた。
それを正面から受け止める秀因の顔からも、笑顔は消え去っていた。
どれほどの時間が無言のまま流れただろう。寧ろ、この重苦しい空気感に時間さえも進むことが許されないかの如く息苦しい真空の時が漂う。
『もう良い!』
それを打ち消したのは、二人のやりとりを見ていた祈秀だった。
『それでは…』
思わぬ助け船を得て、今度こそレイは素早く扉を後ろ手に閉め二人の前から姿を消した。どんよりとした重苦しい空気を残したまま、舌戦は一時中断された。
この後に開かれる円卓会議が、どれほど波乱に満ちたものになるのか、残された二人には想像することすら出来なかった。