悪意の殺人に対抗する方法〜京都アニメーション放火事件の報道を聞いて考えたこと〜
歳を取ると時間の流れを早く感じるようになるというけれど、おかげで年がら年中嫌な事件が起きているような気分になる。
相模原障害者殺傷事件、川崎の小学生殺傷事件、そして昨日起こった京都アニメーション放火事件。
どの事件にも共通して言えていることは犯人は明確な殺意を持って事件を引き起こしたということだ。
計画を練ったり、弱い標的を狙ったり、強力な殺害道具を用いたりして自分の殺人の確度を出来うる限り高めている。
本気で人が人を殺そうと狙ってきた時、防ぐことはまず出来ないということを一連の大量殺人事件を見て思わざるを得ない。
たとえ、世界で最も治安の良い国で暮らしていても。
細かい不満は山ほどあるが現代の日本はなんだかんだで住み心地がいい。
「そんなわけあるか!」
と思った人もインターネット環境を使ってこんな駄文を読む程度には余裕がある暮らしをしている。
飢え死になんてほとんど起きないし、低所得者層でもスマートフォンで娯楽を堪能し、身分の高い人間の靴の裏を舐めさせられることもない。
ほんの数十年前まででは考えられないほど現代の日本社会はとても優しい。
ここに暮らす人々は殴り合いの喧嘩はもちろん、意見の対立によるいざこざといった争いを嫌う。
つまり、和を尊ぶ。
人をねじ伏せる事よりもみんながそれなりに納得がいく事を望む。
傷つけ合う事を恐れる人間たちが、そんな事態にないように法を整備し、教育を行い、マナーを作り、危険なものを遠ざけて作り上げたのが現代の社会だ。
一見軟弱に見えるだろうが、人間が理性的な生物として進化し続けた集大成だと私は思う。
しかし、原始的な暴力や短絡的な悪意は平和な社会に生きる優しい人々を嘲笑うようにして命を奪っていく。
今、この文章を書いている間にも事件の情報が更新された。
死亡者数33名。
事件の全貌が明らかになるほどに常識の範疇のセキュリティで防げるようなものではなかったと思い知らされる。
私たちの社会システムでは悪意を持って襲ってくる殺人鬼から無辜の人々を守りきれない。
この世の中を支えているモノや仕組みは善性の人間しかいないという想定で作られているものが多く、それらは悪用によって無力化するか凶器に変わる。
平和を望む人間と平和を壊したい人間が一緒の社会に暮らしていることは草食動物とそれを食らう肉食獣を同じ柵の中で飼っているようなものだ。
殺人鬼から完全に身を守ることのできる社会システムも科学兵器もおそらく誕生しないだろう。
その両者は人が作ったものである以上、悪用できてしまうからだ。
で、あれば私たちはどのようにして悪意に対抗すべきか。
僭越ながら、私は主張する。
「子どもたちを『人を殺さない人間』に育てよう。
それしかない」
と。
「人を傷つけてはいけない。」
「自分の命も他人の命も大切にしなきゃいけない。」
「みんなが幸せになれるように努力しなきゃいけない。」
等といった優しい社会を作るための心得を教えていくこと。
そして、貧困や差別やイジメなどから彼らを守り、すくすく育つことができるような環境を整えること。
抽象的で他愛もないことだが私はそういうことが必要なのだと思う。
「殺人鬼から身を守る手段でなく、殺人鬼を生まない世の中を作り出す」
このやり方に即効性はないだろう。
効果が出る頃には私は死んでいるかもしれないし、そんなことが可能なのかもわからない。
そもそもどんな時代だって子供たちを殺人鬼にしようだなんて思って育てていたはずがない。
私の言っていることは絵空事以前の戯言だろう。
だけど、絶対防御のバリアを作ったり、犯罪を起こしようがない監視社会を作るよりは現実味も人間味もある話だとは自賛している。
私たちが戦争を過去の歴史上の事件として扱えるのは幸福なことである。
それは戦争から遠い時代、遠い国で生きてきた証だからだ。
同様に今回のような事件が「過去のもの」とされてしまうような時代が来ることを切に願う。
戯言と言ったが、やっぱり私は人間の善性を信じたい。
眠れなくて書きました。
うまくまとまらなかったけど……私としては改めて世の中の脆弱さを思い知らされると同時に、やらなくてはならないことがあると思い至りました。