愛の多寡が生死に直結するような人生だった
プロローグ――愛の多寡
「愛してあげようか」
投げやりな言葉。無味乾燥な取引を持ちかけるような、気持ちの籠らないソレ。けれども女の瞳には冷えた愉悦が宿る。
女は歌うが如く甘い毒を連ねた。――母のように、姉のように、友のように、恋人のように。
「あたしはキミを愛してあげられる」
愛の毒でたっぷり彩った囁き。白雪に吸い取られるまでもなく、それは彼に拾われた。
彼は幼い仕草で首を傾げる。然れども檸檬の目には老獪な光。巨大にして強大、ちから持つモノであるドラゴン――それでも手に入れられぬものはある。
――ほんとう? と。呟きは淡く、雪に埋もれる。
「愛して」
――愛して、シアラ。
女は左胸の痛みを無視して、わらった。
生きるために必要と、空気を欲するように愛を乞い、酸素を貪るように依存に溺れ。毒毒が回りきった頭では世界の果てすら見えず。
これは、そうやって息をして食事をして寝て愛を抱きしめるような、二人の話。
起――ドラゴンと彼女
シアラの朝は早い。まだ光が地を照らす前、薄暗い中をのっそり起き上がる。
分厚い特注の寝袋から出ると途端に切り裂くような冷気が肌を撫でた。冬だ。とは言っても、このあたりは一年中冬なのだが。
ぶるぶる震えながら防寒具を着込む。着込んだそれらがもこもこしすぎて体積が倍になったような錯覚さえ覚えるほど、寒さ対策は万全だった。
彼女は寒さが嫌いだ。それなのに雪の中に埋もれるちいさな洞窟を寝床にしている矛盾。勿論これは彼女が気狂いだとかそう言うわけではない。フクザツな事情があるのだ。
洞窟の入り口をみっちり塞いでいる雪をどけようとして――シアラは咄嗟に左胸の辺りの服を握り締めた。左胸にかかる手が乳房のすぐ横を痛めつける。
膝をつく。彼女の服がしっとり濡れた地面から水分を吸収してゆく。
「ぁっ……ぎっ」
漏れた呻きは獣の鳴き声に似ている。歯がガチガチと寒さの為でなく小刻みに動く。痛みとさえ認識できない。いや、やはり痛い。痛い。心臓に硝子が突き刺さったよう。
頭の中をぐるぐると、痛い痛いと言葉が駆け巡る。それとは別に何故か余裕のある思考が現実逃避気味に「彼が起きる」と笑った。
フーッ、フーッ、と威嚇じみた呼吸音に彼かと驚いて、自分の口がそれを出していることに気づいた。人間もやはり獣か。
暑くもないのに汗がだらだらと流れる。寒さとはまた違うつめたさが彼女を荒々しく抱き締めたかのようだった。背をつるりと氷が滑った。そんな錯覚。
全身がいろんな水分でびしょ濡れになっていた。呟く。おさまった、たぶんおさまった。自己暗示の仕事は早くて優秀だ。繰り返し心の中で呟けば、そっちに気を取られた脳が痛みを無視する。
「ああ」
掠れた声が安堵の溜息を吐く。
「おさまった」
今度のそれは感想だった。安堵の一言だった。
雪が、洞窟をさらに暗くじめじめしたものにさせていた入り口のそれがとろりと水になって溶けた。そう思うと、それは空気に旅に出て盛んに動くものだから、彼女の露出した肌は霧に包まれる。それがどんな現象を経て霧と化したのかシアラは知っていた。
光が瞼を焼いた。前は目がやられてしまったから、その経験がうまく生かされたといえる。
音が聞こえた。言葉とすら思えないような、そんなささやかな音が。――シアラ、シアラ、シアラ……。
彼だ。
彼女の表情が変わる。余裕のある不敵な笑み。けれども橙の瞳は一つの情に満ちる。
「ここだよ、ルーテ」
――さあ早く、ここを開けてくれ。
雪の壁が溶けゆく。やがて洞窟の中、そこら中を光が舞う。視界一杯の乱舞。うつくしいというよりは眩い。
寒さは温さに変わり熱さへと続く。先の霧のためでなく肌を濡らし、色々と着込んでも結局全身びっしょりになるのは毎朝のことだった。
「シアラ」
ひょい、と。
溶けた雪の代わりに現れたのはゴツゴツとした黒いモノ。彼女の身の丈を優に超える巨体だが、まだ一応彼は幼いらしく将来的には二倍以上に膨れ上がるそうだから、『神秘』はつくづく人間からかけ離れている。
黒鉄に似て滑らかな肌――というよりは鱗――、口を開けば鋭い牙が並ぶ。強靭な顎の力と合わせれば噛み砕けぬものはない、脆い人間など尚更。その凶悪としか言いようのない強面に似合わぬつぶらな瞳は檸檬色。透き通る黄が、シアラの様子を窺っている。
彼女は瞳にたっぷりの愛をのせ、彼に言う。
「ルーテ、おはよう」
そうすれば黒きドラゴンは、人間にはわかりにくくも、嬉しそうに笑った。
シアラはルーテの母であり、姉であり、友であり、そして恋人だ。たった二人だけで完結する世界で彼を愛する人間だ。それがふたりの契約だから。
けれども彼女の体は脆く弱い。華奢な体には多少なりとも筋肉はついているが、極寒の地でドラゴンと戯れて暮らせるほどに屈強なわけではない。ここが、毎日降り積もる雪にすら潰されるような儚い人間には厳しい土地と言うのなら、強い力を持つモノが助けてやれば良い。
そうやってできた毎朝の恒例行事が、あの『雪溶かし』だった。
「シアラ、ねえシアラ」
ルーテが尻尾を緩く揺らしながら恋人を見た。
「どうしたの、ルーテ」
重そうなローブで全身を包んだシアラが彼に駆け寄ろうとして、雪で足を取られて顔面から白い地面に倒れ伏す。フードが取れて、栗色の髪が彼女を包むように広がった。
これに驚いたのはドラゴンである。けれども彼女の運動神経が余りにも悪いことは既に数ヶ月の生活の中でよくよく解っていた。容易に予想できる事態を回避できなかった要因は彼女を呼んだ自分だと少し落ち込む。
「……」
どう助けるべきかと彼が悩む間に、彼女は自分で起き出した。無言で。
ドラゴンが恐る恐る、その巨体をできるだけ縮めながらちいさな声で彼女に問う。
「し……シアラ、その、怪我はない?」
母に怒られるのではと怯える檸檬の瞳に、シアラはため息をついた。
「……やっぱり慣れないな」
疑問符を身体の周りに撒き散らす彼が首どころか体を傾げている。それに苦笑を漏らした彼女は「何でもないよ」と彼に触れた。
彼が見せたかったのは珍しい花だったらしい。ちらちらとこちらを伺う姿が可愛くて、彼女は笑って許した。元々悪いのは便利な力に頼り切って身体をあまり使ってこなかったシアラなのだから。
暗い洞窟の中、手を握る。何回か開いて閉じてを繰り返し、黒い文字が染み出してこないことを確認する。
溢れたため息に心臓が痛いと喚いた。
承――他国の刺客
シアラとルーテが住まう森の奥地の近くに、小さな村がある。雪に包まれ閉じた村ではあるが行商人が月に一回訪れるのだ。その時期にシアラも村に買い物に出かける。
森は人間には優しくないから、どうしたって人間に必要なものすべてがとれるわけではない。だから人里との交渉は不可欠だった。
もう老人ばかりで、常は静かな村は何故か今日は騒がしい。怪訝に思った彼女が近くにいた村人を捕まえて聞いてみると、客が来ているらしい。こんな国の端っこにある辺境の村に。珍しいどころの話ではない。怪しいの一言だった。
客の目的が掴めないと言いたいところだが、彼女には心当たりがあった。まさかと思うが……あの方ならば可能性はある。
あれだよ、と教えてくれる村人。指の先には騎士服を着た男たち。顔がやけに白い、と感想を抱いたシアラは彼らの正体を悟って真っ青になった。
「先詠の……仮面騎士」
顔が白いのではない、白くのっぺりとした仮面をかぶっているのだ。故に仮面騎士。
それは隣国における、『神秘』殺しを専門とする兵団だった。
この村は辺境といえど、一応国に所属している。その国に正式な名前はない。けれどもそれでは他国と区別するのに面倒だからと、呼び名はある。『花白』。この国の有名な祭りから取った名である。
同じように隣国にも名はないがやはり呼び名はついた。『先詠』。隣国に君臨する一族――花白でいうならば国主の一族――詠姫の能力から取った名だ。
仮面騎士が、引いては今代の詠姫が動いたということは非常にまずい。確実に『神秘』であるルーテを殺しに来たのだ。あの鮮烈にして苛烈な『正義のひとごろし』は躊躇というものを知らない。――昔の彼女はとても優しかったけれど、やっぱり思い切りは良かったのだと、記憶が呆れ顔で告げる。
「ルーテ!」
急いで村から戻ったシアラは依然として蒼白な顔で叫んだ。早く帰って来た彼女に嬉しそうな雰囲気を見せた彼は、鬼気迫る勢いの彼女にすこし怯える。
「シアラ?早いね、どうしたの?」
「逃げなきゃ、」
そう言いかけて、
「その必要はない」
無機質な男の声に遮られた。
振り返れば、村で見たよりは少ない騎士たち。この早さで見つかるということは彼らは既に森に入っていたのだろう、村に置いたのは監視か。
白い仮面は近くで見るとその異様さが際立つ。目鼻口という顔を構成するパーツがなく、額から顎までを覆うつるりとした陶器めいた仮面。それなのに声は響き、呼吸は正常で、視界は遮られない。
仮面騎士の一人が淡々と宣言した。
「ドラゴンを捕捉。『正義』を執行する」
それは余りにも独りよがりな『正義』だった。然れども詠姫にとっての『正義』ならば、彼らには絶対の『正義』。
やめろと叫ぶ声はみっともなく震えていた。シアラはルーテの母で姉で、だからいつも彼にお手本を見せなければならないのに。
心臓が制止を喚いた。脳が拒絶を宿した。心だけは逸って前へ。浸み出す黄金が右の橙を塗り替えてゆく。手のひらの上を旋回するのは黒い文字。いたい、とルーテに隠した呟き。
「魔女」
だが、と仮面騎士は続ける。
「歪な呪いだ」
彼女は笑った。かの方の呪いが歪な訳がない。歪だというのなら、それは自分の在り方だけだ。
汗が雪に落ちた。寒くて寒くて仕方ないのに、何故汗が止まらないのだろう。泣きそうな声で名前を呼ばれた気がした。嗚呼、もう音が遠い。視界が霞む。高鳴る心臓の鼓動音と蠢く黒い文字だけが彼女の知覚できる全て。
死んじゃいそうだと思わず吐いてしまった言葉が、形になっていなければいい。
遠い感覚を手繰り寄せて行使しようとした黒い文字は――悪魔の御技は。
一人の騎士から生えた、黒い翼にかき消された。
「……やっぱり、キミなんだね」
喉の奥に引っかかる幸せな記憶。決して永遠を約束できなかった、けれど一緒に居たかった四人。シアラ、セイレ、エファナ、クレイヴ。何処の誰かも知らなかったけれど、確かに友達だと認め合っていた。
「クレイヴ……っ」
「無駄な抵抗はやめたほうがいい、シアラ」
黒い羽がどこからか、ひらひらと舞い降りる。
「クレイヴ、キミならわかるでしょ!? 殺しちゃ駄目だ!」
落ちて、蕩けた羽が地を溶かす。アレは身体に触れてはいけないものだと悟ったらしいルーテが自らの翼を振り上げ、風を起こす。シアラには優しく穏やかなそれは、仮面騎士たちと黒い羽に対しては暴れまわった。
「シアラ、忘れたのか。……我々が何のために生まれたのか」
「覚えている、忘れるわけがない! けれど、私たちはもう…………終わりにしなくちゃ」
震え掠れた呟きに、その仮面騎士は――かつての友達は、何も言わずただこちらを見つめた。
『クレイヴの瞳は絶対に正面から見るな。特に、白目と黒目が裏返っているならば』
でないとお前は、捕まってしまう。
過去のセイレの言葉が蘇る。あれは四人が二人になった時。――エファナが詠姫で、クレイヴがその従者と知った時。まるでセイレとシアラの鏡写しだと、そんなことを思っていた、あの時。
「ルーテ!」
叫びに素早く反応した彼がシアラを咥えて飛び去る。空中、振り返って見下ろした騎士の群れ。見上げる彼らの中、白い仮面に覆われ友達の顔は伺えなかった。
*
――城の奥に扉があるんだ。
古びたそこは、あるじが言うには秘密の通路らしい。幼い顔に年相応の悪戯っぽい笑みを浮かべ、あるじがシアラの手を引き道を行く。
「どうしてみちがわかるの?」
「さあ?」
あるじは暗い道を明かりもなく迷いなく進んでいく。明かりがなくても、悪魔の子孫であるシアラとあるじは魔法で見えるのだけれど。
あるじは、シアラのあるじで、将来はこの国のあるじになる人だ。だから血が覚えているのかもしれない。千年もの間受け継がれてきた貴き血。
「……ひかり?」
「でぐちか……どこにつながっているとおもう?」
まだ生まれて七年しか経っていない身体ではその光が漏れる大きな扉を開けられるとは思えなかったが、
「さがっていろ、シアラ」
シアラのあるじはほとんど何でもできるのだ。まるで、かつて『全知全能』と定義された彼らのように。
「すごい! せんだいひさまよりつよいよ!」
扉を魔法で開けたあるじは、照れの中に先代妃――自らの祖母への憧れと誇らしさを綯い交ぜにした顔でシアラの賛辞に応える。
「シアラだって、きっとこれくらいはできる。……おれはこくしゅになるんだから、もっとつよくならないと」
責任感の強い彼が、「国主は民を守るものだから」と強さにこだわるのをシアラは知っていた。けれども、もう十分じゃないかと密かに思っている。守るためなら、きっと必要ない。――殺すためには、きっともっと必要だろうけれど。
扉をくぐり外に出る。強い光が闇に慣れた目を焼くが、あるじが手を一振り、空からまろび出た黒い文字がくるくると二人の体を巡れば何ともなかった。
そこはちいさな広場だった。周囲は木々が生い茂っているが、そこだけぽっかりと空いていた。背の低い草花が風に揺れる。
振り返っても城は見えず、それほど歩いていないのに何故だろうとシアラは首をひねった。けれど、やはり魔法という便利で不可思議なものを知っていたシアラはきっとそういう『神秘』が何かしたのだろう、と納得する。
そんなふうに、シアラがきょろきょろと辺りを見回していると、あるじが低めの声で彼女の名を呼ぶ。
「……だれかくる」
耳を澄ませば、さわさわという葉の擦れる音以外にちいさくも話し声が聞こえてくる。シアラの耳はたぶんあるじやシアラと同年代だろう男女の声を捉えていた。
あるじが声の方へ手を差し伸べる。黒い文字が染み出て、その辺りの木々や草花を退かす。それを見て思わずシアラは後ろを振り返った。全く同じ扉が、振り返った先にもある。
「しろの、ほかのつうろ?」
「ちがう」
やがて声が扉のすぐ向こうから聞こえた。
「いっけークレイヴ!」
「ひとづかいがあらいとおもう」
開け放たれた扉から飛び出たのは薄紅の髪の少女と黒髪の少年。シアラとあるじを見て、不思議そうな顔をする。
「……だれ?」
少女がぽつりと呟いた。
一五年前。あの春の日、あるじ――セイレとシアラは、薄紅色の髪の少女エファナと黒髪の少年クレイヴに出逢った。
その交流は約一年半……四人が九歳になるまで続いた。
そしてお互いの正体を知るのが、十二歳。実母を殺害して位を簒奪し詠姫になったエファナだった彼女と、実権を握り国主となるための準備を進めていたセイレだった彼の殺しあいの時。
『あなたの最期はきっと孤独だ、国主』
『……お前だって、そうだろう? 詠姫』
転――勘違いと魔女たち
昔の話だ。
思慕のために、尊き我があるじは狂った。
いや、それは正確ではない。彼は狂うこともできなかった。ただ独り骸の道に佇むのみ。
今日もかの方がひとを殺した。悪魔と同じ黄金が涙のような血を流す。彼の表情はとうに亡いのに、どうしてか自分はずっと瞳から雫を滴らせた。
もう見ていられなかった。ただそれだけのこと。けれどもあるじを救うこともできず。
――昔みたいに、笑って、一緒の道を歩かせて欲しかっただけなんだよ、セイレ。
黄金が――自分の右目と同じ色のきらきらした瞳が、悪魔の子孫の証が、心臓を睨みつける。……そうしてシアラは呪いを受けた。
あの時逃した『神秘』のこどもは無事だろうか。
――あたしは、これ以上セイレの手を汚させずに済んだのかな。
*
ねえ、魔女ってなあに。
そうやってシアラに聞きたいのに、彼女は強張った顔で地を見据えぶつぶつと何かを呟いている。
ルーテは『神秘』だ。それは知っている。人間たちに必要とされなくなって、この世界から消えて行くモノ。悪魔、吸血鬼、精霊、人魚、それからそれから。
『魔女』は聞いたことがなかった。けれどもあの黄金は悪魔の色。黒き文字は忠実なる悪魔のしもべ。恐らく悪魔の亜種のような存在なのだろう。悪魔よりも数段劣る力はその弊害か。あるいは彼女が苦しむのは代償だろうか。
――彼女が苦しむところは見たくない。ましてや、それが自分の与えた苦しみでないのなら。
だから彼は、彼女からそっと離れて、村へと翼を向けた。真っ白い仮面を頭に思い浮かべながら。
*
軽やかな声がシアラの鼓膜を揺らした。
「騎士さま」
懐かしい呼び名。何故、どうして、そんな言葉が彼女の胸を満たす。
「レル……?」
灰色の瞳の少女が銀狼を従えてそこに居た。
「ここはとても寒いから、あなたがこんなところにいらっしゃるとは思いませんでした」
少女――レル・カデリアが淡々と言葉を紡ぐ。こちらに向ける目は熱がない。冷ややかとまでは言えないが、憐れみのこもった灰色に射竦められると体が強張った。
レル・カデリア。シアラと同じ魔女。しかし彼女の力はシアラよりも強い。それこそ、悪魔のように。
シアラとレルの仲は良くない。悪い、と言ってもいいほどだ。
シアラは元々国主の幼馴染だ。と言っても友人よりは部下や腹心に近い。幼き頃から側で彼に忠を尽くしてきたのがシアラだった。
レルは、国主が拾ってきた幼子だった。拾われた時、まだ四つにもなって居ないようなちいさなこども。けれども宿る力は国主にさえ迫る。彼女は周りの大人から避けられていて、そして彼女自身も大人に怯えていた。シアラはそれに対して何もしなかったどころか、助長した――と、彼女は思っているだろう。
本当は、もう、幼馴染を止められないから。すこしでも幼馴染が傷つく少女に人らしい情でも抱けば、こんな幼いこどもに『ひとごろし』をさせるのを躊躇ってくれるのかもしれない。そんなことを思っていたのだけれど。
だが今更言い訳も何もない。シアラは国主から離反し、レルは悪魔と契約して国主の犬になったのだから。
「……あたしを殺しに来たんだ?」
「いいえ」
にっこりと少女が笑った。灰色は冷めていた。青灰の髪が風に靡く。
「ドラゴンはどこですか?」
その問いに「何を言っているんだろう」と一瞬考え、背筋が凍った。辺りを見回す。真っ白い雪と鬱蒼と生い茂る木々。
大きな黒鉄のドラゴンの姿など、どこにもない。
――ルーテは、どこ?
銀狼が薄っすらと焔の宿る黄金の瞳を開けた。
*
ドラゴンは大きい。成体は人間を丸呑みできるくらいになる。まだ成体になりきれていないルーテだが人間が一目でドラゴンとわかるくらいには大きい。
要は、ドラゴンが村に行ってこっそり誰かを見つけるなんて不可能だった。
あの白い仮面をつけた人間たちを探そうとした彼は、最初から躓いた計画に項垂れていた。思い立った時はいけると思ったがどうにも無理そうなのだ。森の中でさえ窮屈でどうにかこうにか体を縮こめて隠れているというのに、遮蔽物の少ない村で隠れられるわけがない。
「うーん……」
すこし脅かせばどこかに逃げるのではと考えて出て来たが、村の人間を追いやるわけにはいかない。ここはシアラの生命線だ。森の恵みだけで人間は生きていけない。
――とりあえず一回シアラのところへ戻ろう。きっと、シアラなら何かいい案を考えてくれるはずだ。
導き出した結論に満足気に頷いて、木々を薙ぎ倒しつつも方向転換する。……その時、ルーテは自分の目を疑った。
白い仮面を被った男たちがぞろぞろと歩いている。間違いない、先ほどルーテとシアラを襲った人間の集団だ。
近づこうとするが、慌てた彼は蔓を翼に巻きつけてしまっている。シアラがいればすぐに外してくれるそれも、ごつごつしたおおきな手にかかれば難解なパズルだった。
一生懸命蔓をいじる彼の耳に人間の話し声が届く。
「あの魔女は確か、花白の魔女騎士ではないですか、団長」
「団長と同じく……あるじの近衛だと」
「ドラゴンをかばうとは……」
「おかしな話ですね」
それまで話に加わらなかった先頭を歩く男――シアラの魔法をかき消した男が、嘲笑を含んで言った。
「アレも、もういくつの『神秘』を殺したことやら」
笑いが伝播する。他の男たちがそれに追従した。
「もしや、あのドラゴンは魔女騎士の獲物でしょうか」
「魔女騎士の長が『神秘』を愛するはずもないのに」
嘲り。憐れみに同情さえ含んだ、強者が弱者へ向ける笑み。
呆然と……蔓を外すことも思考から零れ落ち、彼は何も考えることができずにいた。魔女騎士の長。それは、恐らくシアラのことだったから。
――どうして?
あの黒い羽根の男は『神秘』だ。シアラだって、『神秘』だ。ルーテの同胞のはずだ。
――どうして?
男は彼女が『神秘』を殺したと言った。何度も。……ルーテがシアラと出会った時、彼女はぼろぼろだった。土と塵に塗れ、服が破れ白い腕が見え、血を垂らし。だが汚れたその服はまるで騎士服のようではなかったか。今目の前にいる騎士たちとは違うが――『神秘』殺しの騎士がいるのは隣国だけではない。
金髪に深海の如き碧眼。悪魔さえ超える、『全知全能』に迫るちからを持つ魔法使い。この国のあるじは、直属の騎士を持つという。――シアラは、近衛の魔女騎士?
「うそつき」
各地に残るお伽噺。ドラゴンは、人を喰うのだ。
*
シアラはただ、見上げるしかなかった。まだ彼の名を呼ぶ権利はあるのか。そう思っても零れ出る音を止めることはできない。
「ルーテ」
彼女のかわいい竜が檸檬色の中に彼女を映した。いつものようにとろとろ蕩けたあたたかいいろでないから、それはすごく冷たい色に見える。
シアラ、と囁き声が聞こえないことが悲しかった。然れどもそれは自業自得なのだろう、と。
きっと彼は知ってしまった。
偽りの愛を壊す、一つの事実を。
「あたしを食べる?」
ドラゴンは人を殺す――餌として。特に生贄として要求されることが多いのはうら若き乙女。シアラは四半世紀ほど生きているから、うら若きと言うには不適合であるけれど……そうでない人間を食べない保証がどこにある。
ドラゴンが口を開く。鋭い牙がずらりと並ぶ口腔に怖気付きそうになりながら、シアラは微笑った。母として、姉として、恋人として、友人として。愛すると約束したのは彼女だから。
彼女は無力な女であった。
彼女は魔女騎士の長だ。国主を守る近衛であり、側近として名家から選ばれた魔法のちからを持つ令嬢だ。魔法と周囲の人間に頼り切って生きてきたため、近接戦闘どころか体を動かすことそのものが苦手だった。
魔法が使えない今、ドラゴンから逃げることなど不可能。……そうでなくとも、シアラはきっと逃げないだろうけれど。
最期に謝罪をしようかと考えたけれど、結局言葉は紡がれなかった。
ルーテが言う。
「うそつき」
「あいしてくれるって、いったのに」
「うらぎったんだ」
それは幼い子供じみて、拙くたどたどしい文句だった。瞳からぽろぽろと雫が滴り落ちる。
違う。彼は本当にまだ子供なのだ。人間のことを何にも知らなくて、怖いと思っている。けれど愛して欲しいから、シアラの提案に乗った。それなのにやはりシアラが信じられなくて一つの事実で簡単に動揺する。
檸檬色がこちらを向く。涙は止まっていたが、まだ潤むそれに冷たい色はもうない。あたたかいとも言えないけれど。
たぶん、ルーテはまだシアラを信じたいのだ。そうでなければ、どうしてまだシアラは生きているのか。
シアラは言葉を操ることが苦手だった。いつも大切な時に何も言えないから、大切な人を失う。
エファナの嘲笑が、クレイヴの軽蔑が、セイレの無関心がその結果。
それでも、正しくなくても、何かしなければ。伝えなければ。
取引のためでなくても、シアラはもう、ルーテを『愛して』いるから。
結――硝子の呪い、あるいは優しい魔法
懐の中のかつての友情を握り締めたまま、彼女は目の前のおおきな身体に精一杯ちいさな手を回した。ごつごつした鱗は金属のように硬くて冷たくて、生き物めいたぬくもりなど欠片も無い。身体全体を彼に預け、シアラは目を瞑った。
結局、愛されたかった『こども』がどちらかなんて簡単なことだった。
ルーテの身体が震えた。驚いている、しかし彼女は何も言う気になれなくて、ただ呼吸をするだけだ。――こんな風にだれかに触れたことなんていつぶりだろうか。
他人の命は重い。少なくともシアラにとってはそれが真実。
なのに、どうしてだれかの命を奪って平気でいられるだろう。
「しあら?」
掠れた声が、甘えるような囁きが彼女の耳に滲み透る。るーて、とつられて幼く彼の名を呼ぶ。――シアラがつけた彼の名を呼ぶ。
彼は答えてくれるだろうかと微睡みかけた意識を引き戻す。
だから、たぶん、それらに気づけたのは偶然に近かった。
「……クレイ、ヴ?」
雲に覆われた真白い空から、黒い羽が降る。触れるものを溶かす死神の羽が降る。
「レル….…?」
少女が無表情で森の中に立っていた。隣に銀狼の姿はない。
無言のまま身を翻す彼女と入れ替わりに、矢が森の至る所からドラゴンを付け狙う。
音が、止まった。
それはきっと錯覚だったろうけれど、その時のシアラには世界に一人取り残されたように感じた。
事態はすべてシアラを置いて進行した。
ルーテが翼を広げた。烏天狗の死の羽が風に煽られる。矢の豪雨が風に負けず翼に突き刺さる。
ルーテの咆哮が響く。死の羽が苦しむ彼に触れた。矢の豪雨は限界を知らない。
シアラは、彼の翼の中で守られていた。
ドラゴンの息吹。羽が消えた。矢が焼かれた。されど、量は質に勝った。
どのくらいの時間だったのだろうと、思い返す。どう、と巨大な質量が倒れる音を聴きながら。
自らを囲んでいた巨体が地に伏す姿を見た。
森は炎に包まれている。乾いた冬の空気がそれを助長しているらしい。仮面騎士が散り散りに逃れる。灰色の瞳の魔女と、烏天狗の騎士は見当たらなかった。
森の木々の中にぽっかり空いた、この場所だけが炎から遠い。
――いったい、何が起きていたんだっけ。
呆然と立ち尽くす魔女だった女は、無数の矢が生えた黒鉄の竜を眺める。コレが、あのルーテなのだと……シアラを助けてこうなったのだと、理解できなかったから。
「たすけなきゃ」
自分には、それができるはず――だった。
『神秘』は生命力も総じて強い。だからいまだルーテが苦しんで、鼓動を止めていないことは解っていた。
しかしいくら『神秘』といえど生死の軛から離れられはしない。このままでは愛したかっただれかが、死んでしまうことだって解った。
「たすけなきゃ」
悪魔は願われれば、ほぼなんでもできる存在だ。そして魔女は彼らの契約者あるいは子孫だ。だから、多少の制限はあれどほぼ同じことができる筈。
シアラが、呪われていなければ。
心臓が恐怖を叫ぶ。脳が竦んで、痛みの記憶が、何も浮かばない深海の瞳を呼び起こす。無関心と虚の間の。
過去の記憶の中で、国主は言った。
『お前はもう魔法を使えない』
『お前はただの人間になる』
『……それが、俺を裏切るお前への罰だ』
解っているよ、あるじさま。でも、今だけは見逃して欲しい。
優しい彼を救うことだけは、赦して。
深呼吸。懐から取り出し髪にくくりつけたリボンと同じ色を右の瞳が宿す。片目だけの黄金がドラゴンを睥睨する。
心臓が硝子になったみたいだった。今にも割れそうな脆く儚い硝子の。
汗をびっしりと全身にかいていたようだが、その時のシアラは感覚が消えかけていて、わからない。
今まで使っていた、あのちからを念じる。いとも容易く振るっていた悪魔の御技。ただの人間にはできない、魔女が魔女たる所以。人と『神秘』の狭間にあるあかし。
思い出せ。魂が梳られるような底知れぬ不快も痛みも置いてけぼりにして。
指を鳴らす。本当は『祈り』を口にするのが一番やりやすいが、この遠い感覚では到底無理だ。触覚だけは――ルーテに触れていた手だからか――まだあった。視界はちかちかと点滅し、ぼやけた輪郭が彼を黒い塊にしていたが、充分。黒い塊につけた名を知っている。世界から区切る名前という呪い。
何か大いなるものに接続する感覚。畏れを抱きながら、そこからちからを引き出す。
ルーテを見下ろす。傷が塞がっていく。溶けた鱗が出来上がる。けれど檸檬色は閉じていて、嗚呼、と思う。遠い感覚を手繰り寄せる。ここで終わってはいけない。
「たりない」
呪いに抗いながらでは、到底足りない。
彼に触れた手を見る。白くて華奢な指。新鮮な、肉。魔女の血肉。
――代償を。
献げよう、奉じよう。だから、代わりにちからを寄越せ。
あの子を救うためのちからを寄越せ。
黒い文字が蠢きながら手に絡みつく。遠いどころではなく比喩なく感覚が消える。肩まで手を喰らったちからがルーテに融けこむ。段違いの速度で傷が癒える。
黒の中で、檸檬色が見えた。
「るぅ、て」
目の前が黒く染まる。目を開けていられなくなったのか。背中に衝撃。後ろに倒れこんだか。
思考さえも散漫になりゆくが、最後に残った聴覚が甘やかな囁きを拾う。
「シアラ……?」
救えた。
涙が零れ落ちる。そんなことももう彼女は知覚できない。かつて四人で揃えた黄金色のリボンが、その涙を受け止めた。
竜は、混乱していた。
大切な彼女を守ったと思った。それは幻ではない確かなことだった筈だが、何故目の前には守りたかった彼女が倒れているのだろう。脂汗をびっしょりとかき、顔を真っ青にして力無く倒れ伏している。
「シアラ、シアラ!」
「……」
返事はない。けれど、シアラが口を開き話そうとしたそぶりはあった。顔は変わらず真っ青だ。
あまりにも華奢な身体を壊さぬように抱きしめる。鋭い爪が、硬い鱗が彼女を簡単に傷つけてしまうから、彼からそうするのは本当に久しぶりのことだった。先ほど彼女が抱きしめてくれたのも、何年ぶりか。
柔らかくてちいさくてか弱い、力の脆くて儚い生き物。それが人間だ。時には数の力と感情を爆発させルーテたちを襲っては殺すが、基本的にはそんな取るに足らない存在だった。
殺すことは簡単だった。なのに、その反対は難しくてしょうがない。どうすれば彼女を助けられるのかなどという知識を彼が持つはずもなく。
「シアラ、シアラ、しあらぁ……」
ぐすぐすと子供のように泣き喚く。やがて、彼は目を瞬いた。涙の粒がいくつか流れ落ちるが、それを気にせず彼女を注視する。
彼女は億劫そうに表情を動かす。母のような優しい微笑み。小さく口が動く。
『だいじょうぶ』
空気を震わせはしなかったが、確かに彼女はそう言った。だが唇の動きで言葉を読む技術をルーテが持つわけがない。彼は、『母』の微笑みに涙を止めた。
本当は、大丈夫ではない。呪いは体を蝕み、消えた腕の負荷も大きい。今すぐにでも息を止めてしまいそうな中で、それでもシアラはルーテを愛する。
竜に抱かれ、朦朧とした意識の中思い出すのは、どうしてもいつかのあるじで。
彼が祖母の遺体を見つけた時、それを一番に伝えられたのは彼女だった。表情の抜け落ちた幼馴染を心配したシアラに、彼はこう言った。――殺してやる、と。
無い表情、しかし感情は死んでいない。どころか怒りに激しく燃え上がっていた。その怒りに、シアラは賛成した。先代妃さまを殺した罪を償わせるのだ、と、そんな想いで。
あるじとシアラの想いの乖離に気づくのは、そう遠くない日だった。
魔法大国がなくなった後先代妃が魔女であることもあり、花白の国は『神秘』たちの保護をしていた。……復讐に煮えたぎった怒りを抱えた彼が、玉座を求めるまでは。当時、彼は十二歳。あまりにも幼く残酷な君主の誕生だった。
保護は隷属に変わった。シアラをはじめとした伝統ある家柄の魔女や吸血鬼に精霊以外は全て隷属させられた。従える側にまわったシアラは、昔は笑顔で会話していたような人々が悲しそうにこちらを見やる様に疑問を抱いた。このひとたちに、本当に罪はあるのだろうか、と。
こんな簡単な問答を彼が導き出せないはずはないのに。
ずっと、優しいひとだった。俺が民を守るのだと笑っていたセイレ。それは嘘ではないのに。民の中に、彼らは含まれないのか。
だから、もう、シアラは彼を止めねばならないと理解した。彼を裏切り、『神秘』たちを逃した。彼に反抗した。彼に意見した。
そして、呪いを受けた。未練がましくつけていたあのリボンを媒介に。今も手の中にある、それが。
あれ、と。
閉じかけていた瞼を開く。重たい瞼は持ち上げるのにひどく苦労したけれど、それを見れば何もかも吹き飛んだ。
「しあら、それ、それは」
ルーテが慌てたように言う。けれども本能的に『それ』が敵性のものではないと理解しているのか、彼は黙って見ていた。
薄青に輝く、シアラの手の中のリボンを。
手を伝い、光が彼女の中へ流れ込む。あたたかいとか、つめたいとか、そういう感想は抱かなかった。ただ染み込んでくる感覚だけが脳の隅に届く。
『染み込む』度にその部位は拘束を解かれる。動かない手足が、音を発せない唇が、朦朧とした意識が回復するのを感ずる。シアラには自覚し得ないことだったが、この時、彼女の瞳の片割れは黄金色に輝いていた。
端から廻る光はやがて心臓に到達する。
ぱりん、と硝子が砕ける音が響いた。次いで生じた硝子でできた心臓が壊れるような衝撃と共に、彼女は自らの鼓動を聞く。思わず左胸を服の上から掴めば、手の中には黄金色のリボンの他に、もう一つよく似たかたち。色だけが紺青。
シアラの中の『神秘』のちからが、その紺青色のリボンのちからを教えてくれた。呪いが変化した優しい魔法を教えてくれた。
心配そうな顔を横目に起き上がった彼女は黒鉄の竜尾にそれを結ぶ。
「ルーテ、祈ってみて」
あたしと一緒にいたい、って。
彼女は簡単なおまじないだと笑った。焦燥のような喜びと、諦念のような悲しみを混ぜて。
檸檬色が閉じる。素直な彼は目を瞑って考えることにしたらしい。予想通りのことが起きた。
「……シアラ、人間のカタチになった……」
黒鉄の巨体が消える。代わりに艶めく黒髪に檸檬色の瞳の少年が立っていた。手首に紺青色のリボンが結ばれている。
「そうだよ、ルーテ。これは魔法のリボンなんだ。……しあわせになるための、魔法のね」
いいながら、過去の記憶がシアラの心を抉った。唇を噛みしめる。
硝子の呪い、黄金リボンから伝った解呪の青い光、よく似た紺青色のリボン、『神秘』を人間のカタチにするちから。
シアラの呪いは魔法を行使することで発現する。解呪のきっかけは、代償を払う癒しの魔法。
極め付けの事実は、呪いにより魔女でなくなったとみなされたシアラが両騎士団に追われ、怪我を負うことは決してないということ。
どう考えたって、追放されたシアラが代償を払ってまで魔法を使わなければいけない時――つまり愛する誰かを救う時に解呪されるようになっている。
オマケに、愛する誰かが『神秘』だった時、国主と詠姫から逃すために『人間のフリ』ができるアフターケアつきだ。
何が裏切りの罰だ。何がただの人間になる、だ。解呪された今、昔と同じく魔法のちからは彼女の身体の中を駆け巡っている。いつでも魔法を使える魔女に戻っている。
――本当に、あたしの友達は、ばかだ。
「ルーテ」
名を呼べば、彼はこちらを見た。人の姿でも変わらない檸檬色の瞳に、柔らかい光を宿して。
変わってしまったことと、変わらないことを考える。友達と、愛するひとと、今と昔と未来のことを考える。
「この山から出て……旅にでも、行こうか」
ルーテと一緒に暮らせる、安住の地を探しに行こう、と笑えば。
愛しいひとは嬉しそうに笑った。
エピローグ――遥か遠い青空
あるじは、ひとりで、そこに居た。
「……」
呼ぼうとした名は何だったか。孤独の玉座に座る彼が、かつて周りにいた『誰かたち』を懐かしく想ったのか。
そんなことはない。あってはならないと、彼は決めたから。
玉座だけががらんどうの大広間に在る。見上げれば、窓のカタチに切り取られた青空。その色を持つ誰かが昔いた。兄上と、そんな幻聴さえ聞こえて来るようで。
ふと、視界に碧が瞬く。
「……っ、し、…………」
呼んではいけない。息がつまる。自らの魔法が作動したのを知覚する。ただそれだけで、『彼女』がどのような状況下にあるのかが予測できた。
幼き頃とは桁違いの魔法が、大量の事実を伝えてくる。知らなくてはいけないこと、知りたくないこと、知らないふりをするべきこと――忘れなきゃいけないこと。
これはいったいどれだろうと、思考がまわる。まわるまでもなくわかりきったことをさんざん捏ねくりまわした。躊躇いなんてものは捨ててしまえと。
瞳を閉じる。深海のごとき青と、黄金が遮られる。窓の外の青空は瞼の裏に取って代わった。
そうして、セイレと呼ばれていた男は、裏切り者のことを忘れた。
昔書いた話の供養。
神秘世界シリーズ、国主の側近たる元魔女騎士兼幼馴染の話。