明日、私はココにいる
3月初旬のことだった。この日、乾 日南子は東京駅にいた。
日南子が、田舎に帰ることになったと友人である園子に打ち明けられたのは、ほんの一週間前のことだった。父親が倒れて、実家の稼業を継ぐという園子。今日はその園子が、東京から新幹線で田舎へ帰る日だ。
「仕事中なのに、ムリに呼び出してごめんね」
と園子。
日南子は笑って言った。
「大丈夫だよ。私の仕事は調整がきくから」
2人は新幹線乗り場を目指していた。日南子の肩には、園子から預かった荷物。かさばるカバンを抱えて、日南子は階段を登った。
「それにしても、心配だなァ。日南子1人を置いていくのは」
階段を登りながら、園子は日南子に言った。
「1人暮らしをはじめたら、ごはんもちゃんと自分で作って食べるのよ。お姉さんがいた頃とは違うんだからね」
日南子が笑った。
「大袈裟だよ。子供じゃないんだから」
それを聞いて園子は言った。
「放っておけないのよね。日南子ってさ、お姉ちゃん子で母性本能くすぐるタイプだから」
「母性本能って……。それって彼氏に言う言葉だよ」日南子が口をとがらせる。
2人はやっと、新幹線乗り場のホームに到着した。思わずふう、とため息をついてしまう日南子。そんな日南子に園子は、
「そうそう、荷物持ってくれてありがとう」
と言った。
「持ってもらった手前、言い辛いんだけどね。実は荷物は全部、もう実家の方に送ってしまっているの」
「じゃあ、この中身は何?」
日南子が聞くと、園子はにっこり笑う。
「開けていいよ」
日南子は園子に言われるがまま、カバンを開けた。カバンの中には、カバンが入っていた。綺麗なビーズと刺繍をあしらった、手作りのカバンだった。
「前に日南子が気に入っていたのを思い出してね。良かったら、貰ってくれる?」
日南子は、カバンの中からカバンを取り出した。
「ありがとう」
ちょうどそこに新幹線が入って来た。ドアが開き、園子が車両に乗り込んだ。
「お別れといっても、全然会えなくなるわけじゃないよ」と園子が言った。
発車のベルが鳴り出した。2人を隔てるにように、ドアが閉まる。そして新幹線が動き出した。窓から園子が手を振った。日南子も手を振り返す。
やがて新幹線は速度をあげていき、そしてホームを去っていった。1人取り残された日南子。ふと寂しさが残る。
手元に残ったカバンを見ているうちに、急に悲しさがこみ上げてきた。
園子はまた会えると言ったが、もう、会いたい時に会えるわけじゃないのだ。同業者の友達が去っていくのは、悲しかった。戦友を失った悲しみと言った方がいいかもしれない。
家に帰ろう。
悲しみに浸ってばかりはいられない。
日南子は、園子から貰ったカバンを抱え直した。そして新幹線のホームを後にした。
日南子はいま、姉の蕗子とともにマンションの一室で2人暮らしをしている。ゆとりの2LDKは、姉妹で住むには贅沢すぎる広さだった。これも姉蕗子が家賃の3分の2を負担していたおかげだった。しかしその生活に、突然の変化が訪れることとなった。
近々、姉の蕗子が結婚をするという。
蕗子は日南子に何度も左手の薬指の指輪を見せびらかしたあとに、こう言った。
「で、どうするの? あんたは」
「えっ? 何? 何が?」
日南子が聞き返すと、蕗子は言った。
「いつまでもこのままって訳には行かないでしょ。私が引越したら、当然日南子も、ここから出ていくことになるのよ」
そうなのだ。蕗子の結婚とともに、日南子と蕗子の同居生活は終わる。そうなれば、日南子は引越しをせざるを得ない状況に追い込まれてしまうのだ。
それにしても……。
自分の部屋の真ん中にいて、部屋を360度見回した日南子は、ふう、とため息をついた。それにしても、この荷物の量、どうすればいいんだろう? 日南子の仕事部屋は、机の上に画材が散乱し、壁には日南子が仕事で描いたイラストが貼り付けてある。資料用に買った雑誌類、イラスト集や写真集が積まれるなどした、独特雑多な空間がそこにはあった。部屋は物で溢れてどこから手をつけて良いものか分からない。
いつかはやろうと思っていたのだ。毎年大晦日には、大掃除をやろうと計画はした。だが気が付くと先送りしていて、「まぁいいや」で終わってしまった。
日南子は、ちょっとやそっとでは片付きそうにない部屋に再びため息を1つつき、それでも表面ぐらいは何とかしようと思って、身近なところから掃除をはじめた。とりあえず、机に散らばったマーカーの片付けからだ。
やがて、目の前に転がっていたマンガ本に手がのびた。ページをぺらぺらめくっているうちに、その世界に引きずり込まれていった。
突然の電話に、驚いた日南子。ハッと我に返って電話の受話器をとった。
「もしもし」と日南子。
すると電話の向こうで、
「もしもし、私白木和夏子です。覚えてる?」
電話の向こうから、懐かしい声が響いてくる。日南子は思わず声をあげた。
「和夏子? ええっ、懐かしいね!!」
「久しぶりに友達の家に電話をかけるのって、なんだか勇気がいるね」
和夏子は照れながら言った。
「そんなこと、気にしなくてもいいのに」
日南子が笑った。
「最近多いんだ。友達からの電話が。田舎に帰るとか、結婚するとか」
すると和夏子は、さりげなくこう言った。
「実は私もなの。今度結婚するの」
日南子は驚いて言う。
「和夏子が? おめでとう! いつ? 式はあげるの?」
和夏子は、日南子にも披露宴には来て欲しいと告げた。そんな会話をしているうちに、話は最近会った友達のことになっていった。
「人生の岐路に立っているのは、私だけじゃないんだよ」と和夏子が言う。
「スガッチは覚えてる?」
「菅山君のこと?」
「来月ドバイに転勤だって」
「ドバイって? 日本から遠そうな所だね」
「ミノちゃんとも連絡とったよ。同棲中の彼と別れたんだって。ミノちゃん落ち込んじゃってて。今度、日南子も会ってみない?」
「いいね、ぜひ誘ってよ」
とりとめもなく懐かしい友人達の話をする2人。いつしか2時間、3時間と、時の経つのも忘れていた。
「でもさ、何故か突然古い友達と、たて続けに会ったりする時期ってあるよね」
ふいに和夏子が言った。
日南子自身も、最近同じことを感じていた。
とても不思議なことだが、人と会う時期はまるでバイオリズムのように波があって、突然ぱったりと誰からも連絡が来なくなるということもあれば、一度に様々な人……特にずっとごぶさたしていた人から連絡があったりするという時期がある。
「今は、交際運が上がってる時期なのかな」
と日南子が言うと、
「人生の転機ってヤツじゃない?」
和夏子がサラリと言う。
「人生の節目なのかもしれないよ。そういう時期って、つき合う人が急に変わったりするんだって。日南子は今が人生の転機なんだよ」
「そう言えば、私今度引越しするかもしれないんだ」日南子が言った。
「へえ、そうなんだ。また、お姉さんと一緒に住むの?」
「お姉ちゃん、結婚するんだ。だから今度は1人暮らしをするかもしれない」
すると和夏子が言った。
「じゃあ、ウチの近くに引越してこない? また一緒に遊ぼうよ」
日南子は、ちょっと嬉しくなった。人生の転機か。付き合っている人が変わり、引越して住む場所も変わる。何もかもが新しい生活に向かっていく。和夏子からの電話、これも何かのサインだろうか? と日南子は思った。
「とりあえず、今はヒマなの?」
と和夏子が聞いた。
「うん、まあね」と日南子。
「これから会わない?」
和夏子と会うのは何年ぶりだろうか、と日南子は思いながら、和夏子と約束をとりつけた。駅で会おうと言って電話をきり、日南子はうきうきと出かける支度を始めた。
和夏子と日南子は喫茶店で会って、1、2時間ほど話をした。久しぶりの和夏子は昔と印象が変わっていた。綺麗に痩せて、スタイルも抜群に良くなり、化粧の仕方も上達し、一段と洗練された大人の女性となっていた。
「今度、私もメイクの仕方とか、いろいろ教えて貰おうかな」と日南子が言うと、和夏子は、「喜んで」と言って笑った。
話はとりとめもなく広がった。久々に楽しい時を過ごした日南子は、和夏子の再会を心から喜んだ。
店を出て和夏子と別れた日南子は、何げなく不動産屋の前を歩いていた。店を通り過ぎようとして、ああ、そうだ、新居を探さなきゃならないんだなと思って立ち止まった。
店の入口には、マンションやアパート、貸家等の、様々な物件のチラシが並び、日南子はそれらを食い入るように見つめた。
間取りの図面に自分を投影させて、近い未来を一瞬想像してみる日南子。そのとき不動産屋のドアが開き、1人の女性が外へ飛び出してきた。半袖の黒いVネックのワンピースを着た、背の高い細身の女性だ。きつね顔の美人な彼女は、日南子を見ていきなり声をかけてきた。
「日南子? 日南子じゃない?」
戸惑う日南子。最初は誰だか分からなかったが、記憶を辿るうちに、彼女の顔と名前が閃いた。
今西花音。
過去の苦い記憶が、一瞬で蘇る。
「やっぱり日南子なのね。久しぶり、元気にしてた?」
日南子は、何と言っていいのか分からず、黙り込んでしまった。結局どうしていいのか分からず、花音から背を向けて歩き出した。すると花音が追いかけてきて言った。
「日南子?! 別に逃げなくたっていいでしょ」
花音は日南子の横に並んで話しかけてくる。日南子は花音を無視して歩いていく。
「ねえ、久しぶりに会ったんだから、喫茶店で話でもしない?」
日南子は、花音を振り向きもせずに言った。
「私、お茶飲んで来たばっかりなの」
「じゃあさ、その辺歩きながらでいいわよ。ちょっと話しようよ」
花音は、しつこく追いかけてきた。日南子が立ち止まって言った。
「花音、変わってないね」
花音も立ち止まる。
「逃げるなって言われても、逃げたくなるわよ。琉二のことで、あんなことになって!」
日南子は、言い切ったあとでしまった、と思い、口をつぐんだ。そして、どうしていいのか分からずに下を向き、再び早足で歩き出した。花音はそのまま呆然として立ち止まっていたが、再び日南子を追いかけてくる。
「悪かったと思ってる。あの時、琉二の誘いに乗らなければ、日南子を傷つけずに済んだのに。……友達の彼氏をとってしまうなんて、サイテーよね」と花音。
「今さら言っても遅いよ。私は彼氏と親友をいっぺんに失ったのよ」と日南子。
花音は黙ってしまった。2人はしばらく何も話さず、黙り込んだまま並んで歩いていた。
日南子は花音の目を見ることが出来なかった。なんでだろう? 私が悪いんじゃないのに。どうして私が後ろめたい気分にならなきゃいけないんだろう? 日南子はそう思った。
「そういえば日南子。さっき不動産屋の前で、物件を探してたね」不意に花音が言った。
日南子も言った。
「花音こそ。引越ししようと思っていたの?」
「そのことなんだけどね……」花音は言った。
「私、琉二と別れることになるかもしれない」
「?!」日南子は、思わず花音を見つめた。
「そう。引越して、琉二のことは、全て忘れてしまおうかと思ってる」
「どういうことなの?」
日南子が花音に聞いた。だが、花音はその話題を避けるように、話題を切り換えてしまった。
「そうだ、日南子はお姉さんと住んでいるんでしょ」
日南子は、うん、と軽く頷いた。
「姉貴、結婚するんだ」
「で、今の場所、引き払って引越しするつもりなの?」
花音が少し考え込んでから言った。
「日南子のお姉さんが出ていったら、私がそこに居候させて貰おうかな」
突然の花音の申し出に驚く日南子。
「冗談でしょ」
「そうでもないわ」と花音。
「ねえ、今から日南子の部屋を見に行ってもいい?」と花音が言う。
そんな花音の言葉を、日南子が跳ね返す。
「何で花音に部屋を見せなきゃいけないのよ」
「まだ怒ってるの?」と花音。
「あたりまえでしょ」日南子が言った。
花音はいったい、どういうつもりなんだろう? 無言で歩く日南子を、なおも追い続ける花音。花音は、どこまでも日南子を追い続けて歩いていった。
結局花音は、日南子のマンションまでついてきてしまった。日南子は半ば諦めて、花音の為にドアを開ける。入るなり花音は言った。
「いいところだね」
2人は部屋の中へ入っていった。
この部屋は、8階建ての7階にあって、リビングの日当たりは良く、窓からは町が一望できた。ちょうど丘の上に立っているので、眺めも最高にいいのだ。
「ここなら私も、住んでもいいと思うわ」
花音がソファに腰掛けて言った。
そして花音は、こんなことを語りだした。
「親友って何だと思う? 一緒にいて楽しくて、何でも話せて、信じることが出来て、何も気兼ねしなくていい人のことよ」
「そんな友達、そうはいないわよ」と日南子。
「そう、そんな友達に出会うことなんて、そうそうないわ。だからよ。失って改めて気付いたの。ねえ、日南子、もう一度友達をやり直さない?」
花音にそんなことを言われて、とまどう日南子。だが、花音はさらに続けた。
「一緒に住むってことは、友達をやり直す方法の1つでしかないの」
日南子は、花音を見ていた。琉二のことがなければ、今も友達だったかもしれない花音。一緒にいて楽しくて、何でも話せて、信じることが出来て、何も気兼ねする必要のなかった友達。日南子は、まだ琉二と知りあう前の花音を思い出していた。
……そうだね、花音。私もそう思っていた。だからこそ、琉二を花音にとられた時、私はあんなにも泣いたんだ……。
「まだ傷は癒えてないんだから。ムリだよ。花音と一緒に住むなんて」
日南子は下を向いた。
すると花音はソファから立ち上がり、
「そうだ、日南子の部屋も見せてよ」
日南子は、慌てて花音を制した。
「ダメだよ。まだ片付けの最中なのに!」
ここかな、と言いながら、花音が日南子の部屋の扉を開けた。日南子の部屋を見るなり「よくこんな部屋に住んでいられるわね!」と花音は言った。花音はおもむろに近くにあったゴミ袋を手にとり、手早い動作で掃除をはじめた。日南子は驚く。花音が言った。
「いらないものからどんどん捨てていかないと、このままじゃ床が抜けてしまうわ」
「もう。勝手に人の部屋に入ってきて、何を言い出すのよ」と日南子。
すると花音が反論する。
「日南子。私は同居人候補よ。その私が、口出しするのはまっとうな権利だわ」
花音は日南子の前で、クローゼットを開けた。花音のいきなりな行動に、日南子は目を白黒させて、
「待って!! ちょっと待ってよ!!」と言った。
「クローゼットもぎっしりじゃない。これじゃ、片付ける隙間もないわ」と花音は言う。
そのクローゼットの奥に、花音はふと目を止める。ぎっちりのスペースの中に、とても大事そうにしまわれている箱を見つけた。
箱は綺麗な菓子箱で、赤いリボンがかけられており、ていねいに『封印』と書かれた紙が貼られていた。
「何これ?」
「わっ、それはダメ!」
日南子は花音の手から、その箱を奪い返そうとした。が、花音はさっとそれを交わした。
「なんだか分かりやすいなぁ。開けてくれ、と言わんばかりじゃない」
花音は興味津々といった様子で封印を破り、その箱を開けた。
箱の中にはアルバムやペンダントや、小物や小さなクマのヌイグルミが入っていた。アルバムを開くと、そこには琉二の写真や、日南子とのツーショットの写真などが貼られている。
「処分しようと思ったのよ。だけど……」
日南子は言った。
「思い出はそう簡単には捨てられない、か」
と花音。
「私もそう。ずっと過去を引きずっているもの。でもこのまんまじゃ、いつまでたっても前向きになれないよ」
花音がアルバムを閉じた。
「そうだ、リセットしよう」
「リセット?」日南子が聞き返した。
「今までの関係をきれいに清算して、そして引越しして、新しい生活をはじめるの。今までの生活をきれいに掃除したら、いろんなことが前向きになっていくかもしれない」
花音は言った。
「さあ、掃除掃除。まずは部屋を綺麗にして、全てはそれからよ」
再び花音はゴミ袋を持ち、片付けを始めた。
チャイムが鳴り、玄関のドアを開けた日南子。そこには掃除用品などを買い込み、手荷物で一杯の花音がいた。
「また来た」日南子は露骨にイヤな顔をした。
「何度来ても同じなんだから。私はまだ花音のことを許したわけじゃないんだからね」
花音は「ちょっと買い物に出かけてくる」と言って出かけていき、そしてしばらくしてから戻ってきたのだ。花音の買い物袋の中身からは、本気の程がうかがえる。
花音は、部屋に上がり込んで、日南子の部屋の片付けをはじめた。床に散らばったお菓子の空箱をゴミ袋に放り込みながら花音は、
「だめだよ、日南子。お菓子を食べたら、空き箱はすぐにゴミ箱に捨てないと」と言った。
「余計なお世話よ。私の部屋なんだから、好きに使っていいでしょ」と日南子。
しかし、花音は日南子の言葉など耳に入っていないといった様子だ。
さてと。花音が手を打った。そして、部屋を見回しこう言った。
「そうだ。片付けの基本は『いるもの』と『いらないもの』を分けていくことよ」
花音は部屋にある、小物や本や雑誌類を手にとって、1つ1つ日南子に聞いていった。
「これはいるもの? いらないもの?」
「これは『いらないもの』かな」
思わず花音のペースに引きずり込まれる日南子。ついつい受け答えをしてしまう。
「これは? いるもの?」
「いらない」
「じゃあこれは?」
「これも……『いらない』かな」
そんなことをしているうちに、やがて部屋の中央には、『いらないもの』の山が出来た。
「こうして見てみると、結構『いらないもの』が多かったんだな」と日南子は思った。
「気がつかなかった。いつの間にか私は『いらないもの』に囲まれて生活してたんだ」
そこへ日南子の姉の蕗子がやって来た。いつの間にか、帰ってきていたのだ。
「あら、花音ちゃん、久しぶり。何年ぶりかしら」蕗子は、日南子の部屋を覗いて言った。
「ああ、覚えていてくれたんですね」と花音。
「道でばったり会って日南子と話をしたら、盛り上がっちゃって」
「盛り上がってなんかいないでしょ」と日南子が反論する。
「お姉ちゃん、顔を出して来ないで」
日南子は蕗子を部屋から閉め出して言った。
「ありがとう、花音ちゃん。妹の日南子をよろしく頼むわね」
にこにこ笑いながらそう言う蕗子に、日南子は思わず、
「勝手によろしく頼まないでよ」と言う。
そしてやれやれと、部屋の中に座り込んだ。
「まったく、お姉ちゃんもお姉ちゃんなら、花音も花音だわ。なんでみんな勝手なことばかり言うのかしら?」
「でも、もうすぐそのお姉さんも、日南子と離れてしまって、いろんなことを言わなくなってしまうのよ」
ふい花音がそう言ったので、日南子は思わず口を閉ざしてしまった。
友達が次々と田舎に帰ったり、結婚したりしていき、姉蕗子との同居生活も終わってしまう。いま日南子は、寂しい最中だった。本当のことを言うと、花音に「一緒に住もう」と言われた時、少しだけ嬉しかったのだ。
だが、問題は、相手が花音だということだ。自分の彼をとってしまった友達を、まだ、心から許せる気分にはなれなかった。
そのとき花音がふと、床に積み上げられた『いらないもの』を見ながら言った。
「『いらないもの』って、いつの間にかたまっているんだよね」
「そういえば、そうだね」日南子も頷いた。
日常の積み重ねが、知らない間にたまっていて、それが押し入れなどを占拠する。今はそれがたまりにたまって、身動きがとれない状態なのかもしれないと、日南子は思った。
「ものを、どんどん整理していかなきゃいけないね」と日南子。
突然花音が言った。
「そうだ、フリーマーケットにでも出てみようか」
「フリーマーケット?」と日南子。
「そうそう。私も引越しするし、売れそうなものがあったら持っていくわ」と花音。
「そうよね。どこかで処分しなきゃいけないのよね」
日南子が『いらないもの』の山を見ながら言うと、花音が、
「じゃあ、さっそく参加の申し込みをしておくよ」と言って笑った。
ある晴れた日曜日。都内の大きな公園で、フリーマーケットが開催されていた。花音と日南子は、2人で会場を訪れていた。上着や靴、カバン、アクセサリー、ショールや食器、エンピツ立て、小物入れ……。日南子と花音がそれぞれに処分しようとしていた品々が、敷物の上に並べられている。
周囲の別の店を見に行っていた花音が自分たちの売り場に戻ってきてから言った。
「ここの品物は、私達のカラーが出てるね」
そこへ母親とともに会場を回っていた12、3才ぐらいの女の子が来て、日南子たちの店の前で足を止めた。女の子は白いイルカのペン立てを見て、それを欲しそうに眺めていた。
「お母さん、これ買っていい?」
「いいけど、もう少し別のところも回ってからにしたら?」母親は言った。
女の子は言った。
「なくなっちゃうかもしれないよ」
「じゃあ、しばらくの間、取り置きしておきしましょうか?」花音が口を出した。
女の子は、「ありがとう」と言って、喜んだ。そして女の子は、母親とともにフリーマーケットの雑踏に消えていった。
「良かったね、思い出を買ってくれそうな人がいて」花音が言った。
日南子はちょっと名残惜しそうに、ペン立てを見ていた。本当は売りたくなかったのだ。だが、ものを減らすと決めた以上、好きな品物でも、売らざるを得ないと思っている。
「やっぱり自分が好きだったものが売られていくのは、悲しいな」
日南子がつぶやくと、花音が言った。
「思い出を、別の思い出に変えればいいのよ」
突然花音が言い出した。
「そうだ、今日の売り上げで新しい家具を買わない?」
日南子は、思わず聞き返す。
「家具?」
「ソファがいいな」と花音。
「今日の売り上げは、ソファを買う足しにしよう」
驚いた日南子が言った。
「ちょっと待ってよ、ソファなんか買ってどうするのよ」
「決まってるでしょ、リビングに置くのよ。想像してみて。ソファがあると、2人でくつろげていいと思うよ」花音が言った。
日南子が慌てて花音を制する。
「まだ一緒に住むって決まったわけじゃないでしょ」
花音は黙ってしまった。日南子もつられて黙ってしまう。なんだか居心地が悪くなってしまったなと、日南子は少し後悔した。
しばらく何も話さないまま、2人は黙って店番をしていた。
ふいに花音が話し始めた。
「ねえ、そういえば今思い出したんだけど、あのピアス、覚えてる?」
「タツノオトシゴのピアス。2人でお揃いで買ったヤツのこと?」日南子が言った。
それは、まだ琉二と日南子が付き合う前に、花音と2人でショッピングに行った時に買ったものだった。銀色で小さな赤い宝石のついた、ちょっと変わった形のピアスで、2人同時に気に入って、お揃いで買ったものだった。
「私、いつも持ち歩いているんだ」
花音がポーチの中から大事そうに小さな袋を取り出した。そこに一対のピアスがあった。
日南子の顔が、思わずほころんだ。
突然、花音がこんなことを言い出した。
「私たちって、本当に不思議ね。2人して友達に彼氏とられちゃうなんて、運命的としか言いようがないよ」
その意味が分からず、日南子は思わず聞き返してしまう。
「どういうこと?」
「琉二ね、今は私の友達と付き合っているの。私には隠してるけどね」花音は言葉を続けた。
「それで初めて分かったわ。あの時日南子がどんな気持ちだったのか。あーあ、なんで琉二は恋人の友達とばかり付き合うんだろう?」
その時、さきほどの女の子が、母親とともに戻ってきた。
「さっきの……イルカのペン立て、下さい」
女の子に言われ、日南子が品物を手に取る。
「ハイ、これですね」
女の子がお金を渡し、うれしそうに品物を受け取った。母親の後を追いかけて、スキップのように駆けていく女の子の後ろ姿を見て、
花音が言った。
「思い出が、別の思い出になっていくよ」
花音のもの言いに、日南子はつい笑ってしまう。それにしても、花音が友達に琉二をとられたという話は本当なのだろうか?
日南子は今までずっと花音を避けていた。だが花音からその話を聞いたとたん、何故か心を閉ざしていた氷が溶けていくような気持ちになった。
友達がみな去っていき、姉が結婚し、部屋を引越していかねばならない。そんな時、花音が近くにいた。今、花音は日南子の寂しい気持ちを和ませてくれている。これはもしかすると花音ともう一度やり直すチャンスかもしれないと、日南子は思い始めていた。
フリーマーケットの帰り道に、日南子と花音が歩いていると、商店街の一角にとある不動産屋があった。花音が足を止めて、店頭に貼られている物件を見始めた。日南子もつられてそれを見る。花音が言った。
「新しい場所に引越す方が、気持ちの切り換えにはなるかもね」
花音がマンション情報の1つに目を止めた。
「あ、この物件、何かいい感じだよ」
その物件は、2人暮らしには丁度よい大きさの物件だった。日南子は言った。
「私、まだ花音と住むって決めたわけじゃないのよ」
すると花音は言った。
「ちょっと見るだけだよ。どうせ日南子だって、自分の住むところを探しているんでしょ」
「そうだけど……」
「いいから、見に行ってみようよ」
花音は強引に日南子の手を引き、不動産屋へと入っていった。
日南子と花音は、不動産屋に連れられて、とあるマンションの一室にやって来ていた。
不動産屋で、2人は何件かの物件を紹介された。そのうち成り行きで、今日これから実際に部屋を見てみましょうということになり、3、4軒の部屋を見て回ることになったのだ。
しかし1軒目、2軒目と回ってみたものの、それらの部屋は花音の気に入ったものではなかった。
そして3番目に一行が向かったのが、4階建てのマンション。最上階の角部屋だった。 このマンションは4階建てではあるものの、エレベーターがついていた。3人はエレベーターで、目的の場所に向かった。
入るなり、2人は「わぁ」と声を上げた。
その部屋は入口のドアからして風変わりだった。ドアは木製で、四角いタイルが6つついている。それを開けると天井に目が留まる。この部屋はマンションなのに屋根がついており、傾斜した天井には出窓までついている。
システムキッチンは木製で、カウンター付き。リビングにはなぜか3畳のロフトと、出窓になっている可愛い丸窓がついていた。
「ここいいね!」
花音と日南子は、同時に叫んでしまった。「屋根裏部屋みたいな感じが、特にいいよ」
日南子が目を輝かせた。するとすかさず、
「この物件は、今日出たばかりなんです」
と不動産屋が言った。
「ここは以前、大家さんの娘さんが住んでいたんですが、急に海外に行くことになったっていうんで、この部屋が空いたんです。掘り出しものだと思いますよ」
「海外って、留学でもしてるんですか?」と花音がたずねると、
「結婚するって聞きましたよ」と不動産屋。
「ねえ、ここに引越さない?」花音が言う。
「ちょっと高めだけど、2人で家賃出すなら、手の届かない額じゃないよ」
そう言われて、日南子の気持ちは大きく揺れ動いた。
窓の外には、公園が見えていた。子供たちが楽しそうに遊んでいる姿が見える。
日南子も、ここに住んでみたいという気持ちが強まっていたが、急に現実に立ち返ってしまう。いろんな迷いが頭をもたげてきた。
もしここと決めたら、花音と一緒に住むことになる。私の気持ちは大丈夫? 私は花音ともう一度やり直すことが出来るの?
「花音、ごめん。今すぐは決められないよ」
花音は言った。
「一日考えてみて。とりあえず一日待つから、その間に考えてみてよ」
日南子は、黙って頷いた。
一日悩むというのは、大変なことだなと日南子は思った。自分が本当は何に悩んでいるのか、日南子自身良く分からなくなっていた。そんな時だった。姉蕗子の学生時代からの友達が訊ねてきた。彼女は蕗子が押し入れから見つけた新品同様のコーヒーカップのセットを貰いに来たのだった。
「ありがとう、本当に貰っていいの?」
蕗子の友人の萌美は、コーヒーカップのセットの箱を手にして言った。
「どうぞご遠慮なく」と蕗子が言った。
「でも、何でこんなもの、持ってたの?」
萌美が訊ねると、日南子がすかさず言った。
「ビンゴの景品よ」
萌美が笑った。そういえば……と、蕗子が手を叩いて言った。
「こんなものもあるわよ。これもいる?」
蕗子が押し入れの中に首を突っ込んで探してきたのは、ティーカップのセットだった。それは、白地に四つ葉のクローバーの模様がついている、シンプルで使いやすそうなティーカップだった。
「これもビンゴの景品?」と萌美が聞く。
「クリスマスのね」と日南子が笑う。
ところで何でカップばかり貰っていくの? と日南子が聞くと、萌美は説明した。萌美は今、喫茶店を経営しているのだという。
「カップ集めっていう趣味も兼ねているのよ。その時の気分でいろんなカップでお茶を出すの」萌美がそう言うと、日南子は納得した。
「妹さん、たしか日南子ちゃんと言ったわよね。今度うちに遊びにおいでよ。東町の商店街近くでやってるのよ」
「東町って言ったら……」日南子が言った。
そう、花音と見つけたあのマンションは、東町にあるのだ。
それを聞いた萌美は言った。
「そのマンションに引越すつもりなの?」
「まだ分からない」と日南子。
「何で?」と蕗子。
あのマンションはとても気に入っている。しかし、今一歩踏み出せないでいるのだ。花音のこともある。引越しそのものに前向きになれないこともある。それとも、これまでの自分が変わっていくことに耐えられないのかもしれない。いろんな変化が恐いのだ。
萌美が言った。
「もし日南子ちゃんが引越すことになったら、ご近所さんね。そしたら、どんどん遊びに来て欲しいわ」
「その時は友達も一緒でいい?」と日南子。
「お姉ちゃんの友達と友達になるなんて、なんだか不思議な縁ね」と日南子。
「でも、こういう関係も、面白いと思うわ」
萌美は笑った。そして萌美はカップを手に取って言った。
「カップの底には、何を置くと思う?」
「受け皿?」と日南子が答える。
萌美は言った。
「カップと皿はセットでなくちゃ。新しいカップを用意したら、同じ柄の受け皿も用意しないとね」
その話を聞いて、日南子はふと和夏子と話をしたときのことを思い出した。
今は転機。そうだ。友達が去り、姉が結婚し、そして懐かしい友達に逢い、そして?
引越しをして、新しいところへ行く。
そして、新しい生活が始まる。
日南子の周囲で、いろんなことが動き出している。あとは、日南子の決断次第なのだ。一歩踏み出せば、ものごとは新しい場所へ向かって流れていくに違いない。
「決めたわ」日南子は言った。
蕗子と萌美が、驚いて日南子を見る。
「私、新しいところに引越すことにする」
日南子は、覚悟を決めていた。
新しいマンションへの引越しを決めて以来、日南子の掃除は急ピッチで進んだ。がぜんやる気が出たのだ。あのマンションに住みたいという思いが、日南子の魂に火をつけたのかもしれない。そんな日南子の変貌に、蕗子も驚いていた。
萌美が帰ったあと、日南子は即座に花音に電話をし、翌日花音がさっそく契約をしに不動産屋に行ったのだ。
これでもう、後には引き返せなくなったなと日南子は思った。
引越しの日は、着実に近づいていた。
この日は、一足先に蕗子がマンションを出る日だった。マンションの下には、引越し用のトラックが停まっている。そして、部屋から、家具などが運び出されていた。
姉蕗子は、引越の大半を、引越し業者に頼んでしまった。だから引越しの最中は、日南子は邪魔にならないように、部屋に籠もって仕事をしていた。
ああ、今日から私は1人暮らしなんだ、と日南子は思った。姉と2人で暮らして来た広い空間に、1人暮らし。それはいったいどんな生活なんだろう? と日南子は思った。
やがてトラックに荷物が詰め込まれ、マンションの部屋の半分、つまり蕗子のいた空間だけが、何もない、殺風景なものになってしまった。
部屋に荷物が全てなくなると、蕗子が日南子のもとにやって来て言った。
「私はそろそろ、新居の方へ行くわね」
「うん」日南子が答えた。
「1人で大丈夫?」と蕗子。
「うん。大丈夫」と日南子。
それ以外に、言いようがない。姉が部屋を出ていくのを見て、突然寂しさがこみあげる。
蕗子が玄関を出てから数分後、窓の外を見るとトラックが去っていくのが見えた。
姉は、行ってしまった。
姉がいたはずの部屋の半分は、まるでそこからオーラが消えてしまったように感じた。
日南子は何もなくなった姉の部屋の中を歩いた。そして、そこに一枚の写真が落ちているのに気が付いた。
写真は、この部屋に住み始めた頃、姉と2人で行ったディズニーランドでの写真だった。蕗子と日南子のツーショットの写真。日南子はその写真を拾い、蕗子の部屋の窓に立てかけた。
日南子は、1人の寂しさを改めて感じていた。こんなに寂しいのに、1人なのだ。
1人暮らしなんてムリだ。
寂しいのはイヤだ。
……とその時だった。
突然玄関のチャイムが鳴った。日南子がドアを開けると、花音が立っていた。
花音は玄関に佇む日南子を見て言った。
「どうしたの? 何か元気がないね」
「お姉ちゃんが、今日出ていったの」
日南子がそう言うと、花音が日南子を慰めるように言った。
「大丈夫だよ。日南子ももうじき出ていくことになるから。そしたら、新しい気持ちでやっていけるよ」
寂しさに押し潰されそうになっていたとき、花音がやって来た。花音の姿を見ているうちに、日南子は急に元気を取り戻した気がした。
花音は部屋の中に上がってきた。そして蕗子の部屋を見て言った。
「本当に何もなくなっちゃったんだね」
花音は次に、日南子の部屋を見た。
「日南子の部屋も、随分ものが減ったね」
そのとき花音は、部屋の隅に、あの『思い出の箱』を見つけた。
「『封印の箱』は、まだ捨てられないの?」
日南子もそれに気付き、恥ずかしそうに笑った。
「うん、ゴミ箱に捨てるには、ちょっと勇気がいるなと思って」
その時ふっと、日南子にある疑問が浮かんだ。花音は? 花音は琉二とどうなっているんだろう?
「花音は、琉二とちゃんと別れたの?」
花音の声が、だんだん小さくなっていった。
「実はまだなの。言い出せなくって」
やっぱり。日南子は思った。
「それは花音らしくないよ。花音も引越しするなら、リセットすべきだよ」
日南子はふと、思い出の箱に手を触れた。
「ものが残っていると、嫌でもいつか目につくんだよね。思いは捨てられないけど、ものは残しておいちゃいけないのかもしれない」
花音は黙って聞いていた。
「突き返しちゃおうか」と日南子。
「えっ?」と花音。
「琉二にさ、思い出を全部。今度こそ本当の本当に、リセットしちゃおうよ」
すると花音の顔が少し明るくなった。
「いついくの?」
「今すぐ。思いついたら即行動よ」
花音が頷いた。日南子は『思い出の箱』を紙袋につめる。花音がクスッと笑う。
「『思い出』を返しに行くなんて、いい思い出になりそうね」
それを聞いて、日南子も笑った。
花音と日南子は、電車を乗り継いで、隣町までやって来た。この町には花音が今住んでいるアパートと、琉二のアパートがあった。花音は、独り言のようにつぶやいた。
「琉二の近くに住みたくて引越ししてきたけど、もうここには居られない……」
やがて2人は花音のアパートにやって来た。花音は自分の部屋をくまなく探し、琉二との思い出をかき集めた。そして思い出の品々を寄せ集めては、それを紙袋一杯に詰め込んだ。日南子は言った。
「これでもう、思い残すことはないわね」
日南子は、念を押した。
「本当にいいの?」
花音は決心を固め、頷いた。
2人はさっそく、琉二のアパートへと向かった。琉二のアパートは、花音の部屋のすぐそばだった。2人は琉二の部屋の前まで行き、玄関のチャイムを鳴らした。すると、中から、Tシャツとスウェットズボン姿の髪を1つに束ねた女性が出てきた。
それが、花音の友達の美貴子だった。
「美貴子!」花音は思わず叫んでしまった。
美貴子は、気まずそうに言い返した。
「な……何? 何で花音がここにいるのよ?」
花音の後ろから、日南子が現れて言った。
「私、琉二の、花音の前の彼女よ。よろしく」
日南子が握手しようとして手を差し出すと、美貴子は怒って言った。
「バ……バッカみたい。何で琉二の元彼女と元々彼女が私と仲良くしなきゃならないの?」
玄関が騒々しいので、琉二が気になったらしく、顔をひょっこり出した。琉二はズボンに上半身は裸、という姿だった。花音と日南子を見て、琉二が唖然とする。
「花音、日南子、何でお前らがいるんだよ?」
花音が言い返した。
「何で琉二のところに、美貴子がいるの?」」
琉二は口をつぐんだ。すると、花音がおもろむに紙袋を取りだし、
「忘れることにしたのよ、琉二のことは。これ返すわ」と言った。
「何だよ、これ」琉二がたずねた。
花音は紙袋一杯の思い出を、琉二に突き出して言った。
「私の琉二の思い出は、紙袋一杯分よ」
「貰ったものを、返す必要なんかないだろ?」 琉二が言った。そこへ日南子も割って入ってきた。日南子も、思い出の箱を差し出して言った。
「返してもいいでしょ。全部忘れるためよ」 琉二は言った。
「お前もかよ。もう3年も前のことだろ? お前と別れて3年だ。とっくに忘れてる頃だと思ったぜ」
日南子は言った。
「今度こそ、きれいに忘れるつもりよ」
花音は、美貴子に言った。
「美貴子、私は今でもあなたを友達と思ってるの。それだけは覚えておいて」
そしてこう付け加えた。
「同じことは、3度あるかもしれないわ」
「そんなこと、あるわけないでしょ」
美貴子は言った。
「もう、友達なんかやめるわ」
「じゃあ、もうお別れね」
花音は琉二と美貴子から背を向け、アパートを離れていく。日南子は花音を追いかけ、アパートを後にした。前を向き、歩いていく花音。花音は自分に言い聞かせるように言った。
「なんだかバカみたいなこと、やっちゃたね。でもこれで吹っ切れた気がする」
花音の顔はさっぱりとしていた。
「これでリセット完了」日南子も言った。
2人は顔を見合わせて笑った。
引越しの荷造りは、毎日少しずつ進んだ。
そして日南子は、自分で運べるものは新しいマンションへ運び込み、あと一歩で引越しが終わるという所まで作業は進んでいった。
昨日とうとう荷物のほとんどを運び出した。
今日は、日南子がこれまで住んでいた部屋を、明け渡す日だった。日南子と花音は、部屋で最後の掃除をしていた。
台所の汚れや風呂場の垢を取り除き、部屋の隅々をきれいにして、埃を払う。花音がその作業を手伝いながら、こう言った。
「よくここまで頑張ったね」
そして花音は、デジカメをとりだし言った。
「記念にこの部屋の写真を撮っていく?」
日南子は言った。
「でも、何もない部屋だよ。ここはもう、私の色がないように思うの」
日南子は不思議に思った。
なぜだろう? もうこの部屋には、未練がなかった。きれいに何も無くなった部屋は、きっと新しい誰かの部屋になるはずだ。だが、もしもう一度ここに住んでいいと言われても、日南子は、もうここには住まないだろうと思った。
「それはきっと、心がもうここにはないって
ことだよ」花音が言った。
蕗子の部屋の入ると、以前窓に立てかけていた一枚の写真が目についた。
ディズニーランドで撮った、姉妹のツーショット写真だ。
「これが、この部屋の最後の思い出ね」
日南子はその写真を大事そうにカバンの中にしまった。
日南子は思った。
この部屋を引越していくことで、私は新しい生活を始めていくことになる。荷物をたくさん捨て、過去をたくさん捨てた。思い出の品々を売ったりあげたりした。大掃除もした。でも、思い出は消せない。残っていく思い出はあるんだ……。
日南子はなぜか胸のこみ上げる思いと、楽しい思いがないまぜになった、複雑な思いに囚われていた。
そう。今は転機だ。過去の日々と新しい日々の、ちょうど中間地点に立っている。
明日からは、新しい日々が始まる。
日南子はやがて、部屋の掃除を終わらせた。そして、部屋全体を見回し、最後のチェックをした。
掃除用具を片付けた花音が、部屋を出ようとする。日南子は、これまで住んでいた部屋のありのままを目に焼き付け……玄関を出た。
これで最後だ。
日南子は、ドアに鍵をかけた。
「行こう」
日南子は、大きく息を吸った。そして花音とともに、歩き出した。