prologue 鳴動する者たち
「…………」
その男は、空を見上げていた。
黒と白と透明が混じった瞳に映るのは、黒々しく厚い雲。時折輝く稲光が一瞬だけ雲の色を変化させていた。どこかに流れていくこともなく、雲はただそこに停滞し続け、永遠に晴れることはない。
未知大陸。記録上、未だ人類が足を踏み入れたことのない地だ。大陸の周囲は潮の流れが異常に速く、船などでは容易に近付けないほか、上空には飛行できる悪魔が大量に飛び回っている。そもそも人類が定住する大陸とはかなりの距離があり、迂闊にこの地を目指そうものなら大海の上で干からびてしまうだろう。
男がいるのは、そんな未知大陸のほぼ中央。赤茶けた土が広がる平野の真ん中に冗談のように置かれた長テーブルの端の椅子に座っていた。テーブルには純白のテーブルクロスがかけられており、男の眼前には空のワイングラスが置かれている。
「……どうしました? ベル様。何かお考え事でも?」
男――ベルの横に立っていたのはメイド姿の女性。スラリとした長身だが、女性らしさを主張する部位は服の上からでも分かるほどに豊満だった。もっとも、繁殖の必要がない悪魔にとっては性欲も不要であり、外見や肉体の差異などベルにはどうでもよい話だ。
必要なのは力だけ。立ちはだかる敵を処理できるかどうかだけが悪魔における優劣の基準なのだ。
その点で、このメイドはベルが求める条件を満たしていた。つまりは、敵を潰すのに十分な力を持つとベルに判断されていた。
「ラヴァス、お前は『人間を守る』という行為にどういう意味があると思う?」
「…………?」
ラヴァスと呼ばれたメイドは小さく首を捻る。ベルの質問の意味が理解できなかったのだ。
「……よく分かりませんが、強いて言うのであれば、意味などないのでは? どうして人間を守らなければならないのですか? 我らが王の意思を阻むものは何者であれ排除すべきかと」
「…………」
ラヴァスの答えが気に入らなかったのか、ベルは何も言わず空を見続ける。
相変わらずの曇天はベルに何の答えも与えてくれない。曇った空は嫌いではないが、降り注ぐ滴の方がベルにとっては心地よい。中途半端な天候にベルは深くため息を吐いた。
「……何故あいつが人間側についたのか、俺には分からない。かつて我らと対立した人間に与し、あまつさえ神の力まで使うなど……。あいつが我らと共にあれば、今ごろ人間は滅んでいただろうに」
レインに神器の扱い方を教えたのは失敗だったと、今になってベルは後悔していた。そもそも悪魔と神は相反する存在であり、悪魔が神器の力を引き出せるはずがなかったのだ。敢えて半端に神器の力を解放させてレインの力を暴走させようとしたのだが、あの神器に宿る神は相当な物好きだったらしく、レインを主と認め力を授けた。その上〈顕神〉をも完璧に使いこなしたとあれば、ベルにとってますます無視できない存在だ。
加えて、誤算だったのはレインの義姉とやらの存在。あの義姉がレインに制限を施したせいで、レインの力が抑えつけられてしまった。それもまた、レインが暴走を免れ人間と同じように過ごせている理由の一つなのだろう。
「…………動かなければならないか」
ベルはぽつりと呟いた。視線を空から水平へと戻し、自身の力を行使する。
「〈召集〉」
パキン、と指を鳴らしたベル。途端、虚空からにじみ出るように三体の悪魔が現れる。細身の男、巨躯の男、小柄な少年という外見のそれらは、ベルの周囲に足を下ろすと、決まりきった形式というように無言で長テーブルに着く。ベルを最上座とし、長辺に向かい合うような配置だ。ベルがラヴァスにも一度視線を配ると、ラヴァスは恭しく一礼してからテーブルの末席に着いた。
しばしの沈黙を置いて、ベルは告げる。
「さて、いよいよお前たちの出番がやってきた。情報は各自伝達済みだな? これから、人類を根絶やしにするための計画に乗り出すとする」
ベルの言葉は何もない荒野に響く。さして大きくはない声だが、無風であることも相まって随分と遠くまで届いたように思えた。先程までは上空で飛び回っていた悪魔たちもいつの間にか姿を消している。
口を開いたのは細身の男。
「ようやく王の悲願を叶えるときが来たのですね。大戦終結から眠りについていたとはいえ、随分と時間が経ったように思えます」
男の名はクリューエル。ベルに仕える古参の悪魔にして、大戦で生き残った数少ない個体の内の一体である。
「……早く、殺しタい。王のたメに人間殺ス」
不自然な言葉で、殺す、殺すと繰り返す巨躯の男はアンゴラー。クリューエルと同様に大戦を生き延びた古参の悪魔だ。見て分かるように知的な能力は皆無だが、戦闘での破壊力にはベルが認めるほどのものがある。
悪魔は基本的に好戦的な種が多い。他の生物とは異なり、唯一「人間を殺す」という行動原理のみが与えられているからだ。そのため、悪魔の大半を占める知性を持たない個体は血気盛んに人間に襲いかかる。知性を持つ個体でさえ、潜在意識下で攻撃的な考えがはたらいてしまうことが多い。
ベルの〈召集〉に応じてこの場に集った四体の悪魔もそれは例外ではない。ベルは悪魔たちを諫める意も込めて言う。
「慌てるな。いくら我ら悪魔と言えど、全世界をまとめて制圧するのは難しい。まずはここから最も近い地……神王国ゴルジオンを落とす」
当然ながら世界にはゴルジオン以外にも複数の国が存在する。人間が定住する大陸が一つなのは幸いだが、数が限られた悪魔だけでその全てを同時に支配するのは不可能だ。戦力の分散が各個撃破という最悪の事態を引き起こしかねないことは、ベルも十分に理解していた。
そこで、最初に向かうのは、ここ未知大陸から最も近い国、神王国ゴルジオンという訳である。
「人間共の国の中で最も悪魔に対する備えが強固なのがゴルジオンだ。ここさえ手中に納めれば他の地域はどうとでもなると言っていい。各自、最大限の警戒をもって任務に向かえ」
大陸に点在する国の中で最北――つまり未知大陸に最も近い位置――にあるのが神王国ゴルジオンだ。悪魔の襲来は他の国に比べ圧倒的に多く、それゆえ悪魔への対応に慣れている。神器が数多く出土するため、単純に国内の戦力も大きいのだ。
「……何で、今なの……? 悪魔側も準備は万全じゃない……。もう少し待つことも、できる…………」
ぼそぼそと呟くのは少年の外見をした悪魔、スドニエ。どう見ても体の大きさに合っていないブカブカのローブを羽織る彼は、他二人とは違い、慎重な意見を持っているようだった。
「…………いや、我々には時間がない。悠長にしていれば人間共はさらに力を付けるだろう」
今このタイミングで侵攻に移るというベルの考えの奥には幾つかの理由があった。
まず第一の懸念はレインの存在。本来は悪魔側に味方するはずだった男が人間側に付いており、加えて戦力として機能し始めている。かつては一度暴走さえさせてしまえば問題ないとベルは考えていたが、最近ではそんな予想さえも信じられなくなってきていた。義姉の介入、神器の制御など、幾つもベルの想像を上回る事態が起きているからだ。
幸い、今はレインがおらずとも十分な戦力が育っている。最悪はレインを始末することも考え、レインの影響が小さい今の内に攻めるべきだと考えたのだ。
そして二つ目の懸念は、ミコトというクロノスの瞳を持つ神騎士。あれもまた放置しておくには危険すぎる存在だった。大戦では悪魔たちに多くの損害を与えた忌々しい者であり、その厄介な性質はいまだ健在らしい。時間をかければかけるほど、ミコトに情報を与えれば与えるほど、悪魔側にとっては不利になってしまう。
利益を求め争う人間ゆえに、国同士で争い疲弊するまで待つという選択肢がない訳ではないのだが、神王国ゴルジオン相手にそのやり方は効果が薄いだろう。ゴルジオンの近隣諸国は悪魔の恐ろしさを知っており、自国がそんな悪魔に対応できる力がないことも知っている。ただでさえ簡単には落とせないゴルジオン相手に戦争などを吹っ掛け、万が一勝てたとしても、その疲弊したところを悪魔に襲われればひとたまりもない。
不幸にも、悪魔は人にとって強大すぎる敵だった。わざわざ防壁となってくれているゴルジオンと敵対する国は恐らく存在しないだろう。それが、ゴルジオンが他国からの侵略をほとんど受けず、長きに渡って存続できている理由なのだ。
だからこそ、今攻めるという判断をベルは下した。
「私はベル様のお考えを支持します。鬱陶しい蝿どもは早々に叩き潰すに越したことはありませんもの。ご命令とあらば、私はこの身をもベル様に捧げましょう」
ラヴァスは相変わらずベルを肯定する。しかし、ラヴァスが半ば妄信的にベルを崇拝しているのは事実だが、自身で考えることなく同意している訳ではない。むしろ、ここに集った四人の内で最も理知的に事象を判断できるのがラヴァスだった。
そんなラヴァスが考えうる限り、ベルの判断は常に最適なものだったのだ。ラヴァスがベルを否定したことがないということはつまり、ベルの判断が間違っていたことは一度もないということを示す。だからこそベルは、こうして今の悪魔たちを統べる唯一の存在となっていた。
「……他に、異論がある者は?」
ベルの問いかけに声を上げるものはいなかった。ベルは小さく頷き、四人に命じる。
「ではお前たちに命じる。お前たちそれぞれに一つの街区を与えよう。手段は問わない、その街区内の重要拠点を潰せ。必要な情報は全て与えているはずだ。それでも足りないものは自分たちで探すがいい」
ベルが各地で暗躍し集めていたのは神騎士や貴族たちの情報。生物を操るという力を使って得られたそれらは、かなり深い位置まで到達しており、王国側が想定しているよりもずっと深刻なものだった。また、それらの情報は既にこの四体の悪魔にも共有されていた。
一ヶ所を全勢力で叩くという戦法は悪魔側にとっては都合が悪い。というのも、総力戦になったときに分が悪いのは悪魔側だからである。総数の大半を占める下位級の悪魔は知性を持たず、中位級でさえ半分の個体は力任せに戦うことしかできない。組織だった行動を不得手とする悪魔は多数対多数の状態を作りたくなかった。
ゆえに狙うべき場所を分散させ、物量で圧倒する。どれだけ優れた神騎士がいようと、少数で守れる範囲には限りがある。多発的に重要拠点を襲撃し、神騎士側の守備戦力を割いていけば、悪魔側に有利な展開に持ち込めるはずだとベルは考えた。
「各自が担当する街区は――」
ベルは一人ずつ、担当街区を告げていく。
第一街区、アンゴラー。
第三街区、ラヴァス。
第四街区、スドニエ。
そして――第二街区、クリューエル。
「俺は基本的に第二街区に付く。分かっているだろうが、撤退などという無様な結果は期待していない。死んででも目標を達成しろ。――“四選魔”の力を俺に見せてみろ」
「「「「――全てはベル様、そして我らが王のために」」」」
“四選魔”と呼ばれる選ばれし四体の悪魔が立ち上がり、ベル――そしてその奥に存在する巨大な扉へと頭を垂れる。
『大厄災』以降続いていた、悪魔と神騎士の膠着状態。“四選魔”の登場により事態は急転し、レインとミコトという不安因子がいる第二街区は激動の戦禍へと巻き込まれることとなる――




