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epilogue 黒白の逕庭

 カイルとの交渉を終え、這々の体でレインが女子寮へと戻ったときには、既に朝日が部屋に射し込んでいた。半ば体を引きずるようにして居間へと繋がる廊下を歩く。ほんのわずかな距離のはずだが、一歩歩くごとに居間が一歩分離れていくかのような錯覚に陥る。よほど体に反動が来ているらしい。


 あまりにも――あまりにも濃い半日だった。途中で倒れなかった自分を褒めたいほどだ。肉体的な怪我などはないが、精神的な疲労が凄まじい。ヘルビアとの命がけの戦闘をくぐり抜け、カイルとの一瞬の油断もできない交渉を終わらせた今、レインの意識は消える寸前だった。


 そんな脳で考えられるのはベッドに倒れ込んでそのまま眠りにつくことのみ。今日は普通に学園の登校日だが、さしものミコトも許してくれるだろう。


「ベッド……ベッドに…………」


 壊れたおもちゃのように繰り返しながらレインは歩を進める。しかし、居間へと足を踏み入れるその最後の一歩でついに限界に達した。足がもつれ、勢いのまま前に倒れる。

 受け身をとるのすら億劫で、レインは数瞬後に遅いくるであろう激痛を覚悟した。


 ――もにゅっ。


「…………あ……?」


 しかし想像と反し、レインの顔面を出迎えたのは硬い床ではなく柔らかい何かだった。暖かく、ふんわりと良い匂いがする。これは何の匂いだっけ……とレインが記憶を探るよりも早く、強烈な睡魔が押し寄せてきた。


「……お疲れ様、レイン」

「…………ん」


 聞こえてきた声に、レインは何故か無性に返事をしたくなり、辛うじて小さな応えを返した。


 いつかも感じた優しく頭を撫でられる感覚と共に、レインの意識は甘い闇へと落ちていった。


  ***


「……んーと、まずは一つ聞きたいんだが」


 翌々日。学園の教室にて。


 体すら動かなくなるような疲労がたった数時間で回復するはずもなく、結局レインがいつもの調子を取り戻すのには丸二日とさらに半日の休養を要した。寝ている間、レインの意識は朦朧としていたが、アリアが文句を良いながらも丁寧に看病したお陰で無事に完全回復したのである。


 そんな訳で久しぶりの登校となったレインだが、教室に入って一番に気付いたのは――


「……何でヘルビアがまだいる?」


 ――あの白髪の青年が至って普通に教室にいることである。


 ヘルビアが学園に来た理由はレインを監視するためだったはず。ヘルビアはレインとの確執が消え、カイルもレインを警戒する必要がなくなった今、ヘルビアがここにいる意味がない。


 その理由は、珍しくレインより早く登校していたアリアがレインを見ることもなく教えてくれた。


「“王属騎士団”副団長の任を解かれて、復学するらしいわよ。一応“王属騎士団”所属のままだから何か呼び出しがあればそっちを優先するでしょうけど、普段は学園こっちに来るってこと」

「……それ、いつ決まったんだ?」

「さあ? 昨日の朝には学園長がこの教室に来て正式に発表したわ。……一体、誰のせいでこんなことになったのかしらね」


 言外に秘められた棘がレインを抉る。だが、そもそもレインはヘルビアを学園に留まらせるように頼んだのではない。カイルの判断か、ヘルビアの希望か、どちらかは分からないが、いずれにしろレインにとってやりづらいことには変わりなく。


「あ、おはよう、レイン君。体は大丈夫?」

「ん。おかげさまですっかり元気だよ」


 登校してきたアルスに挨拶を返しつつレインは席に座る。


 歩くのにも苦労した数日前の疲労は完全に消えており、体調は万全に近い。むしろ〈タナトス〉の目醒めを経た今は以前よりも体が軽いように感じる。神器としての力は今も抑えているが、神と完全に一体化した経験自体がレインの肉体に影響を与えていた。


 勉強道具を机に置いたアルスが、いつものようにレインたちの机に来た。ちなみにシャルレスも自席にて“受心トレース”を用い、レインたちと接続している状態だ。


「……えーと…………」


 たかだか数日しか間は空いていないはずなのに、こうして四人で机の上で話すことは随分と久しぶりに感じた。以前なら誰からともなく出ていたはずの話題さえもなくなり、何を言えばいいのか分からない。


『レイン、団長との交渉はどうなったの?』


 ――そう話を切り出したのはシャルレス。相変わらずの鋭さでレインの痛いところを突いてくる。レインにとっては今一番話したくない部分だ。

 だが、ずっとそうやって黙っていられることでもない。事情だけでも説明しておかなければならないだろう。


「あー……まあ、結論から言えば俺の要求は呑んでくれた。俺の正体は副団長以外には知らせないでくれるらしいし、ヘルビアについても刑は避けられるように約束してくれた。その分貸しができたから、何かあれば俺も騎士団に呼ばれるかもしれないけど」


 レインが“王属騎士団”に入団することは内密にするようにカイルに指示されていた。もともと第零部隊が秘匿された部隊であることに加え、下手に情報が漏れればミコトが警戒する可能性があるからだ。レインに課せられた任務はミコトの情報をより多く集め報告することらしい。


 ミコトを疑い騙しているように思えるが、逆に言えばレインの情報によってミコトの潔白を証明できる可能性もある。今はミコトを信じて、カイルの指示通り動くしかない。――とは言っても、まずは今まで通り普通の学園生活を送るだけなのだが。


「ふーん…………」


 アリアの視線がレインを射抜く。妙に鋭い勘を持つアリアだが、今回は「ま、いいわ」と追求することはなかった。勘と言えばシャルレスも“受心”で人の心を読むことができるが、シャルレスが読み解けるのはあくまでその時々の感覚や大まかな思考といった漠然としたものであり、記憶を探れる訳ではない。下手に意識さえしなければ読まれることはないはずだ。


「そっか……。レイン君も“王属騎士団”に入るなんてことになったらなー、なんて思ってたんだけどね。さすがにそんなはずないよね」

「……そうだな」


 跳ね上がりかけた心拍数を無理矢理押し止める。アルスもアルスで変に勘づくところがあるため注意が必要だ。問題なのは、レインにできる対策がほとんどないということで。


 心労が増えるなあ……とレインは心中でため息を吐いた。


「レイン」

「……?」


 そのとき突如背後からした声に振り返ると、そこにはヘルビアが立っていた。いつの間にか席を立ち、レインの席へと近付いてきていたらしい。相変わらずそつのない動きで、レインは全く気付いていなかった。


「…………何だ?」


 数日前の記憶が想起され、攻撃を警戒して自然と体が強張ってしまう。しかしヘルビアの瞳には敵意や害意の色はなく、深みのある赤色が鮮やかに輝いていた。


 ヘルビアはわずかに逡巡していたようだが、やがて言った。


「……まずは非礼を詫びたい。敵の術中に嵌まり、愚かにも、無関係なお前に剣を向けてしまった。謝って赦されることだとは思っていないが、それでも…………すまなかった」

「…………」


 ヘルビアは深く頭を下げた。何も知らない他の生徒から見れば不可解な光景だろうが、ヘルビアの気持ちを考えれば無下にやめさせる気にもならなかった。その言葉と思いに偽りがないことは、礼の長さからも分かる。

 やがて頭を起こしたヘルビアは、レインだけでなくアリアやアルス、シャルレスにも視線を送って言った。


「そして、俺を術から救ってくれたことに感謝する。お前たちがいなければ、俺は今ごろどうなっていたか分からない。本当にありがとう」


 アリアはそっぽを向き、アルスは微笑んで手を振る。シャルレスにいたってはこちらを見もしなかったが、ヘルビアの気持ちは伝わったはずだ。


 レインも何か言うべきだろうと思い、口を開いたとき。


「……別に俺は――」

「しかし勘違いしてほしくはないが、レイン、俺は今でもお前が嫌いだ」

「はあ!?」


 予想外の一言に、レインは耳を疑った。


「『誰かのために動く』という信念を俺は好まない。剣は自らのためにあるものであり、他者のために自身を犠牲にする行動原理は理解できないからだ。感謝はしているがお前と馴れ合うつもりは微塵もない」

「…………」


 全てが棘で覆われたようなヘルビアの言葉に、レインは何も言うことができなかった。別に有り難がられるためにヘルビアを救った訳ではないが、救われた側の態度というものがあるのではないだろうか。


「……確認させてくれ、お前を助けたのは俺だよな?」

「そうだ」

「俺がいなかったらお前は大変なことになってたよな?」

「そうだな」

「…………」


 ヘルビアは「他に何か?」とでも言いたげな表情で黙っていた。どうやら素の反応らしい。悪意のない言動というのがましてレインの感情をかき乱す。


「今回の件では本当に世話になった。この恩はいつか必ず返す」


 ヘルビアはそれだけを言い残し、席へと戻っていった。残されたレインは呆気に取られたように黙ることしかできず。


「……まあ、人生を全て復讐に捧げてきたんなら、それ以外の感情も乏しくなるんじゃない?」

「そ、そうだよ。ヘルビア君も一応感謝はしてたんだし……」

『これで怒るのは有り得ない』


 三者三様の意見が一層レインの感情を狂わせる。泣きたいような叫びたいような、何とも言えない心境のまま、レインは机に突っ伏した。


「……俺、やっぱりあいつとは仲良くできないと思う」


 ヘルビアと反りが合わないことを再確認しつつ、レインはホームルームの予鈴を聞いた。


 いつも通りの日常が、再び始まろうとしていた。

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