5―1 背中にはいつもお前がいた
「……これが、俺が『大厄災』の日に見た全てだ」
静寂に支配された夜。空に浮かぶ氷の板の上に立つ四人の間にも言葉はなかった。真下の舞台にて爆ぜる炎の壁が放つ音だけが聞こえていた。
レインは三人に全てを打ち明けた。ベルはかつてのレインの師であり、人類の根絶を目指していること。『大厄災』はレインの異能によって引き起こされたこと。『大厄災』の日にベルが〈飢憶の印〉という呪いを各地に振り撒いていったこと。恐らくヘルビアもまた、その呪いを受けてしまった者だということ。
それら全てを聞いて――アリアは言った。
「じゃ、ヘルビアを元の通りに戻せばいいのね。策はあるの?」
「…………え?」
予想外の反応にレインは戸惑う。てっきり『大厄災』やレイン自身のことについて聞かれると思っていたのだが。
「何よ、そんな呆けた顔して。ヘルビアを何とかしたいんじゃないの?」
「いや、それはそうだけど……。何か他に聞くこととかないのかなーって…………」
自分で言うのも何だが、今現在レインは相当に怪しい存在である。『大厄災』を引き起こした原因であり、かつ『大厄災』を目論んだ存在の仲間となれば疑わない方がおかしいだろう。そしてレイン自身、過去のことを問われても今は答えることはできない。
アリアたちには自分のことを信じてほしいと思ってはいるが、無条件に信頼されるのも納得がいかない。何かしら説明する必要があると思っていたはずなのに。
あまりにもさっぱりしたアリアの態度にレインが情けない声を出していると、アルスが小さく笑った。
「レイン君がどんな人かは分かってるつもりだよ。少なくとも僕からすれば、君は、いつでも正しい判断ができる人。だから君を信じる。そもそも、君が僕を救ってくれたことに変わりはないからね」
「アルス…………」
ふわりと、柔らかな風がレインの頬を撫でた気がした。
アルスの穏やかな微笑がレインの心配をどこかへ優しく流してくれる。言葉を尽くそうと、言葉でどうにかしようとした自分が間違っていたのだとレインは気付いた。いつだって、大切なものは行動に表れていたのだ。アルスの微笑みだけで、レインの胸が温かくなるように。
レインには背を向けるシャルレスも言葉を紡ぐ。
「過去や未来はどうでもいい。あなたは私の恩人。それだけで、助ける理由は十分」
口数こそ少なくとも、気持ちは確かにレインに伝わった。シャルレスの冷たい表情の奥にある温もりをレインはしっかりと感じとった。
そして、最後にアリアも。
「……ま、そういうこと。私は私が見たあんたを信じるだけ。あんたが自分をどう思ってるかなんて関係ないわ。何か文句でもある?」
いつも通り、傍若無人で恐れ知らずの才媛に戻ったアリアは、ふてぶてしくそう言い放った。そこまで真っ直ぐ言われてしまえば、レインに返す言葉などあるはずもない。
思わず、レインも笑っていた。
「……ないよ。文句なんてある訳ない。俺もお前らを信じる。お前らを頼るから」
レインの言葉に、三人は同時に頷いた。その笑みにはきっと、これだけの時間をかけた価値があるはずだ。
「……よし、じゃあ、状況を確認するぞ。あまり時間もないしな」
そして四人は気持ちを切り替える。今最優先なのはヘルビアへの対処。とてつもない難題なのは重々承知の上だ。
だが、この四人ならば、今までできなかったこともやり遂げられるかもしれない。淡い可能性だが、決して無色ではない。白でさえなければ、色は重ねていくらでも濃くできるのだから。
「今のヘルビアは〈飢憶の印〉の呪いで魂が焼かれてる状態だ。普通ならまともに立つこともできない苦痛を感じてるはず」
「……平然と立ってるけど? それも〈顕神〉も行使しながら。あれって、よほど集中しないと使えないわよね?」
「ああ……多分だけど、あいつの異能のせいだと思う。“希憶”って異能らしいけど、誰か詳しいことを知らないか?」
「それなら聞いたことあるよ。確か、過去に見たり聞いたりしたことを完全に記憶できる能力だったはず。自分の意思に関係なく、どんなこともね。彼が神王に謁見しに来たときにそう言ってた」
「……自分の意思に関係なく…………か」
アルスの情報をもとにレインは考える。〈飢憶の印〉は確かにヘルビアの記憶を侵食していた。ベルの姿がレインの姿に書き換えられていたのは、ヘルビアの態度からも間違いない。
その術式を消去したとき、本来人は苦痛に苛まれる。それは、書き換えられた過去の記憶が偽りと知り、記憶の欠如に混乱するからだ。信じてきた記憶を失い、心の拠り所を失うからと言ってもいい。呪いにより攻撃的になっている人は、その攻撃性の基礎になっていた部分を失うことで自壊してしまう。
しかしそれならば、書き換えられる前の記憶をそのまま保持していれば――?
「……ヘルビアは、『大厄災』の日に見た全てを潜在的に覚えてるのかもしれない。抜け落ちた偽りの記憶を真の記憶で埋められれば、少なくとも混乱に陥ることはない」
「それでも確実に呪いの効果は発揮されてる訳でしょ? つまり……レインは親の仇で、殺さなきゃないっていう強制観念は…………」
「ああ。その結果があの状態なんだろうな…………」
下を見れば、今なお舞台の上にヘルビアは直立している。〈顕神〉を解く気配はさらさらなく、濃密な殺気が放たれ続けている。レインに気付けばすぐにでも襲いかかってくるだろう。
「ヘルビアは真の記憶を持つことで混乱を防いでる。ただ、偽りの記憶も完全には消えてない。呪いの効果で俺を殺そうとしてることには変わりないってことだ」
「となると、ヘルビアを救うには――」
アルスの問いかけにレインは頷いた。
「〈飢憶の印〉を完全に消去する。偽りの記憶ごとな。そうすれば、ヘルビアの殺意も消えるはずだ」
ヘルビアの攻撃性を助長しているのは偽りの記憶と〈飢憶の印〉。それら二つを完全に消してしまえば、ヘルビアの怒りは本来の対象――ベルへと向き、落ち着きを取り戻せるはずだ。
「でもどうやって? 〈虚無〉でも消せなかったのに…………」
確かに、〈無能空間〉でも消しきることはできなかった。ベルの呪いはそれだけ強力だ。例え神能を用いても容易に消去することは叶わない。
しかし、レインには考えがあった。いや、考えというよりも、今まで躊躇っていただけのことか。レイン一人では決してできなかったが、今ならば。三人がいてくれるからこそ、レインも勇気を持って決断すべきなのだ。
「……時間を稼いでくれ。準備をするための猶予が必要だ。その間、ヘルビアがこちらに気付かないとは思えない」
「つまり、私たちでヘルビアの相手をしろってことね。……いいじゃない。話が単純で助かるわ」
レインの願いを、アリアは即座に了承した。そこに恐れや躊躇はない。自信に満ちあふれたような――否、怖がる理由などないとでも言いたげな表情で、アリアはヘルビアを見下ろした。
「燃えてるなあ、アリアさん。あの負けが余程悔しかったんだろうね」
「気合いが入りすぎて空回りすることだけが心配」
「うるさいわね! 三人だったら何とかなるでしょ!」
正直、今のヘルビアがどれだけの実力を持つのかはレインにも見当がつかない。事実〈制限解除・祖〉を用いた状態であの様だ。恐らく三人も、レインが吹き飛ばされる瞬間は目の当たりにしたはず。
それでもなお萎縮する様子は皆無だ。彼らは自分たちが負けることを予期していない。誰一人として気後れする者はいない。
ヘルビアを見下ろす表情に不安の色がないというそれだけのことが、レインをこれ以上なく勇気づけた。
「それで? 私たちが時間を稼いでる間、あんたは何するつもり?」
首だけをこちらに回したアリアの問いにレインは笑みを浮かべて答える。
「お前らと同じことをするだけさ。もう一度、自分と……カミサマと向き合ってくる」
「…………?」
レインの言葉にアリアが首を傾げたとき。
「「「「―――!」」」」
――四人が感じたのは強烈すぎる重圧。発生源は言うまでもない。
眼下でヘルビアがゆっくりと上を見上げる。その視線が四人をしかと捉えた。ついに位置が割れたのだ。
「……さて、じゃあ行ってくるわ。何するつもりかはよく分からないけど、まあ上手くいくでしょ」
「ああ。任せろ」
そんな短い言葉だけを交わして、アリアはヘルビアへと向き直った。三人揃って〈顕神〉が発動し、姿が変わる。
神々しい後ろ姿は、危機に晒されているこの状況にも関わらず、不思議な安心感をレインに与えた。彼らがいれば何だって上手くいく。訳もなくレインはそう感じた。
「レイン」
「ん?」
アリアは最後に一言だけ。
「信じてるから」
そして三人は、宙に身を投げ出した。
数秒後、凄まじい激突音が第一闘技場に響き渡る。三人とヘルビアが正面から衝突したのだろう。その戦闘に対してレインができることはない。
氷板の上に一人残されたレインは一人ごちる。
「……それは俺のセリフだ。信じてるからな、お前ら」
アリアたちは自分たちの役目を全うしてくれる。ならば、レインはレインにできることをするだけだ。だったそれだけのことができれば、きっと全て上手くいく。
レインは鞘に納めていた神器〈タナトス〉を抜いた。漆黒の刀身は夜にその黒々しさを増す。どんな光も飲み込んで消してしまう。
『大厄災』の日はどうだっただろうか。これよりも黒かった気もするし、明るかった気もする。あの日のレインにそんなことを考えている暇はなかった。いや、そもそも剣を得てからついぞ今日まで、この剣とまともに対話をしてこなかった。
「……それじゃ、ダメだよな。逃げてるままじゃ俺は進めない」
レインは目を閉じる。真っ暗な視界から意識を外し、剣へと集中する。無心のその先にある境地へ意識を導く。波一つない水面のように、意識が収束していく。
――一体どれだけの時間そうしていただろうか。
ふと目を開けたとき、そこは既に氷板の上ではなかった。
足下は固く黒い床。傷も汚れも繋ぎ目すらもない、どこまでも広がる一枚の床だ。決して自然物ではないが、人工物にも思えない不気味さがあった。
どこにも照明の類いはなく闇に包まれているが、自分の体や、体と床の境界面は知覚できる。部屋ではなく巨大な空間だ。どこまで行っても限界のない空間にレインはいた。
そして、レインの前に立つそれ。
シルエットは人間に似ている。背丈はレインと同程度。レインと鏡合わせのように直立していた。
服装はボロボロの黒いコートだ。裾のいたるところが無理矢理引きちぎられたようにほつれている。顔は仮面によって隠されており、フードを被っていた。
「……こうして会うのは久しぶりだな」
レインが声を発すると、それは微かに首を動かした。
『そうだな。千年はとうに過ぎたか』
それの声はレインのものによく似ていた。違いを挙げるとすれば、レインに比べわずかに掠れているところだろうか。
「一つお前に聞きたい。――なぜ俺を選んだ? かつてお前と殺しあった俺をどうして認めた?」
レインの問いが考えたことのないものだったのか、それは腕を抱え虚空を見上げた。妙に人間らしい仕草をするが、もちろんそれは人間などではない。むしろ対極に位置すると言ってもいい存在だ。
『何故、か……。うむ……分からんな。ただ一つ言えるとすれば、汝は己れと似ていた』
しばらく考えたあと、それはそんな答えを返した。
『殺す殺さないなど問題ではない。己れは単純に力を求めていた。汝も力を求めていた。ならば共に行く他にどんな道があろうか? 汝が己れを手に取ったとき、己れは感じたのだ。己れが認めるべきは汝なのだと』
偽る様子もなく、それは淡々と語る。そのどれもがレインの想像と違えていて、レインはおかしな気持ちになった。勝手に決めつけて勝手に迷っていたのは自分だけだったのだ、と。
あの三人がいなければ、レインがこうしてここに来る時間も決断もなかっただろう。きっと今も三人は頑張ってくれている。レインを信じて戦ってくれている。ならば、レインも早く戻らなければ。
「……頼みたいことがある。勝手な願いかも知れないが、それでもお前を信じて頼む。もう一度、力を貸してくれないか。俺が望む未来を創れるように」
そんなレインの願いにそれは答えた。
『己れらはかつて勝手な望みのために戦った。ならば今、どうして汝の勝手な望みを否定できようか。汝を拒否した覚えは一度たりともない。思うがままにこの力を振るうがいい』
それの言葉と共に頭上からレインに降り注ぐのは闇の結晶。それらがレインの体に触れ、内に吸収されていく。一粒ごとに膨大なエネルギーがレインへ蓄えられていく。
意識が無理矢理引き剥がされていくのをレインは感じた。もうすぐここから弾き出され、レインは元の世界へ戻るのだ。この闇に包まれた精神世界から、現実へと。
秒を追うごとに霧散していく意識の中、レインは最後に呟いた。
「ありがとう……タナトス―――」
そうして、レインの意識はかき消えた。




