2─3 少年の苦悩
「…………」
レインは、ただ茫然と見つめることしか出来なかった。
視界に映るのは一人の少女。
薄暗い中でも鮮やかに輝く赤髪に、同じく透き通ったように輝く赤い瞳。
白く女性的な柔らかさを感じさせる肌とそれが描く曲線。
はだけた制服と、その下から覗く、下着にもおさまらない豊かな胸。
ほぼ半裸で、辛うじて特定の部分が下着で隠された少女――アリアの姿を。
普段はどこか大人びたアリアの顔はいまや真っ赤に染まり、目はほぼ涙目になっていた。
アリアの上に覆い被さるような体勢で見るレインは、ぼんやりとした意識の中で考える。
――何で……こんな、ことに……?
答えはおよそ一分前のレインの行動にあった。
***
レインは、神騎士学園〈フローライト〉女子寮三階、203号室の扉の前に立っていた。ミコトの指示に従いこうして部屋に辿り着いたのである。
ミコトの言葉通り、周りには生徒が入居している部屋はない。もちろんその分寮の出入り口や集会場には遠いが、夜寝られるところがあるだけでレインにとってはありがたかった。幾多に渡る緊張や心労で、レインとて体力の限界が近いのだ。
加えて、連日の“力”の使用でかなり消耗している。体にかかる負荷を考えれば本当に限界だ。
明日からの本格的な学園生活に備えて、出来るだけ休んでおきたいというのが本心だった。
そんな理由から早く部屋に入り休みたいのだが――。
「…………」
特にやましいことがある訳ではないのに、扉に手をかけただけでどことなく不安になってしまう。思っていた以上にあの出来事が強く記憶されているらしい。
半ば自動的に始まった記憶の再生を必死に止めつつレインは覚悟を決める。そもそもミコトの言う通りここに誰かがいるはずがないし、躊躇う理由がない。
とりあえず一度周りを見て誰もいないのを確かめてから、レインは思いきって扉を開いた。
かくしてそこには――。
「…………ふう」
――誰もいなかった。
というか誰かがいるはずもないのだが、そのことにレインはほっと息を吐く。
灯りは当然ついておらず、アリアと始めて会った時のように薄暗い。だがあの時と決定的に違うのは、部屋の中に何もないことだった。
スペースの都合上からか廊下はほとんどなく、レインが今いる玄関からでも居間が見えるのだが、そこに家具の姿はまさに一つもない。せいぜいが備え付けの二段ベッド程度であり、ここに人がいないのは明らかだった。
寝るだけが目的の部屋なので、とりあえずは問題ないだろう。必要があれば後々自分で運んでくればいい。
――自分の部屋に入るのにどうしてこんなに緊張する必要があったのだろうか。
思わず過去の自分に突っ込みを入れたい気持ちでレインは部屋に上がった。
ちなみに寮の部屋と言ってもさして狭い訳でもない。さすがに街の一般的な家よりは狭いだろうが、一部屋に二人入ることを考えて作られている割には大分広いのだ。部屋の中にトイレや風呂場があることからも広さが分かる。
学園長から渡された見取り図によると、玄関から見て一番奥に居間。玄関と居間を繋ぐ廊下があり、廊下のそれぞれ右と左にトイレ、風呂場がある。
そんなことを廊下を歩きながら確認するレイン。
だが、その時にそれは起こった。
普段のレインなら有り得なかっただろう。しかし今は、疲れによる注意力の低下、完全に一人だと思っているが故の警戒心の欠如が重なり、本来避け得たはずの何かをかわせなかった。
視界左側の風呂場の引き戸が開き、中から何者かの影が現れ出たのだ。
「…………!?」
何が――と思った時には遅かった。
お互い予想などしていなかった出来事に対応出来ず、二人は見事にぶつかり、そして――。
――ドサッ、と床に倒れた。
「痛た…………」
レインの下で押し倒されたような体勢になった何者かが、声を発した。
「わ、悪い…………って――」
反射的にレインは下にいるのが誰かも分からずに謝ってしまう。頭をさすりながら思わず閉じていた目を開けて、レインはその人物をやっと認識した。即ち。
「アリア!?」
「レイン!?」
――そう、さっきまで一緒にいた赤髪の少女だと。
「な、何でここに!?」
「それはこっちの台詞よ! 何であんたがここにいるのよ!?」
「分かってたらこんなことになってないっての! というかそも……そ、も…………」
理解出来ない現象に二人は共に混乱する。
しかしその時、レインは気付いた。気付いてしまった。
今、アリアがどんな状況なのか。
さらに言えば、自分がどんな体勢になっているのか。
「? 何よ、何か言いたいことがあるなら……」
急に語気が弱くなったレインを不思議に思ったのか、アリアはレインの視線を辿る。
「…………っ!」
――制服がはだけ、下着が見えてしまっている上半身を凝視する視線を。
***
制服の上からでもかなり強調されていた膨らみが、そのベールを脱いでレインの目をいやが上にも惹き付ける。
「え……えーと…………」
必死で目を反らそうとするが、悲しいかな男の性で脳が許させない。加えて体勢が悪かった。床に押さえつけるような体勢では、アリアも動くに動けないのだ。
アリアも状況を察したのか、声を押し殺すようにしながら叫んだ。
「ちょっ……レイン、いきなりこんな……っ!」
顔を真っ赤にし、涙目になるアリア。
「―――」
そんなある意味極限の環境下で、レインの中の何かがプチンと切れた。
「アリ、ア……」
レインの顔がアリアの顔に向けて下がっていく。
「やっ……レイン……! …………っ」
徐々に狭まっていくレインの視界に、アリアがぎゅっと目を閉じたのが辛うじて見えた。
同時に、体から力が抜けたように――いや、恐らくアリアが自ら力を抜いた。
――もう、どうにでもしろと言うように。
そんなつもりはない。決してアリアをどうにかしようという魂胆は微塵もないが。
レインにはもう弁解する気力すらなく、何とかアリアの顔を外れ、すぐ横の床に頭をついた。
鈍い音は聞こえたが、痛みはあまり感じなかった。
「はっ……あ……かはっ」
「え…………?」
アリアの声が聞こえたところで、レインは気を失った。
***
神騎士学園〈フローライト〉学園長、ミコト・フリルは、学園長室から月を見ていた。
執務机の反対側、普段は指を組んでいる彼女の背にある巨大な窓。たまにそこからきれいに月が見える時があるのだ。彼女は月に気付くと、仕事をする手を止めてまでその月を見る。
椅子を回転させ、背もたれに体を預けて。まだ完全に日が暮れている訳ではないが、それでも月は見える。満月ではないのが残念だが。
月を見ていつも思い出すのは彼のこと。
「レイン……か」
あの少年の正体を知る者はほとんどいない。いや、ミコトが知る限りでは自分しかいないのでは、とも思う。
ミコトが彼と初めて会ったのもこんな月の夜だった。もちろんあの時は辺りは真っ暗だったし、レインには意識はなかった。そういう意味では、「会った」というより「発見した」と言う方が適切だろうか。
最初は正体など知るはずもなかった。ただそれでも、ミコトには漠然と視えたのだ。
彼は何かを成し遂げた。そしていずれまた、何か大きなことを成し遂げると。
だからこそ彼を助け、回復して彼が出発する時に言ったのだ。
『私はいずれ学園の長になる。その時は必ず来い。君の願いを叶えるために』
ミコトの言葉はやがて、事実となった。
「まさか本当にこんなことをしでかすとは思わなかったがな……」
苦笑しつつ、ミコトは小さな手で壊れたストレイルキューブを弄んだ。カラカラと音を立てて転がるが、欠片の堅さはそこらの金属を軽く凌駕する。手の感触からもそれは分かった。
きっと彼は、自分では出来なかったことすらもやってみせる。今は出来ずともいずれ自分を超えていく。ミコトはそんな予感を確かに感じていた。
決して恐怖や不安ではない。むしろ楽しみな何かだ。
――彼が一体どんな景色を創るのか。
レインが思い描く世界を見ることがミコトにとっての一番の楽しみであり、希望である。悪魔に覆われているこの世界で、彼は何を望むのか。何を創るのか。レインが創るものを見たい。
そしてそのためにも、今は自分のすべきことをしようと思うのだ。
「さてと……ではさっさとこの仕事を終わらせるかな……」
椅子を戻し、再び机に向かおうとしたミコト。しかしその時、胸につけられた校章が震えた。
応答するとアリアの声が聞こえた。
『すみません学園長、寮でレインが倒れました。生憎看護の教官がおらず――』
「……分かった。すぐに行くから待っていろ」
会話を終え、静かにため息を吐くミコト。
「だから言ったのだ……あの馬鹿者が!」
手に握られたままだったストレイルキューブの破片が、バキッ、とさらに割れた。
***
「んあ…………」
ズキズキと頭が痛む。閉じられた瞼の闇の中で、一番最初にレインは頭痛を感じた。
ゆっくりと目を開けると、いつもよりやや低めの天井――いや、二段ベッドの上段の底面が見えた。つまりここは寮ということだ。
「俺……倒れたのか…………」
直前の記憶を何とか探りつつ、レインはふと横を見た。そこには床に座るアリアと、壁にもたれかかって立ったままこちらを見るミコトがいた。
「起きたか」
「あ……はい……つっ!」
起き上がろうとした途端に頭だけでなく体にまで痛みが走る。予想以上に重症らしい。「いいから寝ていろ」というミコトの言葉に従って、レインは静かにベッドへと倒れた。
「俺……さっき……」
「いきなり倒れるから何事かと思ったわ。看護教官もいなかったし……」
「全くだ。体を休めろとあれだけ言ったのにも関わらずこれなのだから手に負えん。大分無理をしていたんだろう」
ミコトの言葉でレインは察する。アリアがいる手前言葉を濁してはいるが、ミコトが指しているのは間違いなく“力”のことだ。
確かに自覚はあった。しかし、そうしなければならない理由があったのも確かだ。多少無理をしなければ、レインが学園を追い出されていた可能性もあった。
だが、きっとミコトは自分の身を案じて言ってくれているのだろうと思ったレインは素直に謝った。
「……すみませんでした」
「うむ。これからは気をつけろよ。今回はただの疲労だったから良かったものの、次はどうなるか分からないからな」
「はい……」
それだけ言うと、ミコトはもたれていた壁から背を離し、部屋を出ていこうとする。直後、去り際にレインに向けて言った。
「二人で暮らすのだから、あまり心配はかけないようにな。お前が寝ている間、アリアがずっと心配そうだったぞ?」
「なっ……!? そ、そんなことありません!」
「はは…………?」
体が痛まないように小さく笑いつつ、レインは何かに違和感を持った。学園長室を出た時にも感じた違和感だ。
即ち。
「では仕事もあるから私は帰るぞ。まあ仲良くやりたまえ」
「はい……ってちょっと待て二人って何ですかっ!?」
――そう、学園長がさりげなく会話に織り混ぜていた、二人でということを示す言葉。
『部屋には何も無いから調度品等は自分たちで運んでくれ』
『二人で暮らすのだから、あまり心配はかけないようにな』
ミコトの不自然な言葉にやっと気付いたレインは、体の痛みを忘れて叫んだ。
だが当然、ミコトは動じることもなく答えた。
「何と言われても、言葉の通りここで二人暮らすということだよ。言っていなかったか?」
「言ってませんよ! というかそのせいでさっきアリアの――じゃなくて、こんなことになってるんですって!」
アリアの、と言った瞬間に凄まじい圧力がアリアから放たれ、レインはすんでのところで言ってはいけない単語を回避した。もし回避に失敗していれば、今頃どうなっていたかは分からない。
「アリアもあの部屋が嫌になったそうでな。誰かが淫らな行いをしたせいで」
「すみませんすみませんすみません!? けどだからってこんな――。大体、俺はいいとしてもアリアが……」
「いや、アリアには伝えたはずだが。レインと一緒になるが部屋はある、と」
「え…………?」
「が、学園長! それは言わないでくれとあれほど…………」
思わずレインはアリアを見る。するとアリアは下を向いて小さく呟いた。
「わ、私はその、あの部屋が嫌になっただけで……その……レインが嫌いになった訳では……」
もじもじとアリアは小さくなる。
「……だそうだ。そういう訳で、君がここに住むことを拒否する者はいない。まあ何か不満があれば聞くが……あるか?」
「…………」
と言われても、レインとしては特に何も不都合はないのが現実だ。そもそも異論は最初から認められていないような気がした。
「いえ……ありません」
「よし、なら二人仲良く暮らしたまえよ」
レインが答えると、ミコトは微笑ましく笑った。そのまま玄関まで行き、「邪魔したな」とだけ言い残して部屋を出ていった。
部屋にいるのは二人だけ。
レインが意識した途端に、何とも言えない気まずさのような沈黙が満ちた。
「…………」
「…………」
アリアは俯いたまま何も話さない。あまりの気まずさに耐えられず、レインは自ら口を開く。
「え、えーとさ。そもそも何で俺と一緒に暮らそうと思ったんだよ?」
「…………」
アリアは答えないどころか、むしろさっきよりさらに不機嫌になった気がする。アリアが辺りに放つ重い空気が増したようにレインは感じた。
――もしかして俺、地雷踏んだ?
冷や汗が吹き出すが、ここで話すことを止めれば今後の生活にすら支障を来す可能性がある。なけなしの勇気を振り絞り、レインは極低温下にあるアリアに話しかけた。
「そ、そうだ。さっき床に転んだ時、怪我とかしなかったか? 俺が乗っちゃったし、背中打ったんじゃ……」
「…………っ!」
無言のまま、アリアはこちらを睨んだ。が、顔は真っ赤で涙目のままで、すぐに顔を下に向ける。
レインにもアリアがそうした理由は分かった。というか思い出しそうになった。
「や、あ、あれは別に意図してやったんじゃないぞ。ただ偶然お前とぶつかって転んだだけで、決して淫らな行いに及ぼうとした訳じゃ…………」
言えば言うほど弁解が逆効果になっていくことを分かっていながらも、レインは話すことを止めなかった。今話すことを止めれば二度と話せなくなる。それだけは避けたい一心で、レインは必死に無意味な弁解を続けていた。
「……もう、いい。分かってるから」
しかしそんな弁解もアリアの一言で止められる。
「…………」
再び沈黙が満ちた。
普段のアリアからは想像もつかないくらいに今のアリアは大人しい。もちろん理由に心当たりがない訳ではないのだが、ここまで萎れるとは思えなかった。
原因は――恐らく今の状態にある。別に特別な関係でもない二人が一緒に暮らすなど、土台無理な話なのだ。明日になったらまた改めてミコトに申し出をするべきだろう。
アリアの方を窺うのは止めて、レインは天井……ではなく上段のベッドの底面を向き、目を瞑った。
だが休む前に、ふとさっきの疑問を聞いてみようと思った。仮に二人で暮らすことを止めるなら、聞いておくべきだろうと思ったからだ。
「なあ……本当に俺と一緒にここに住むのか?」
もしかしたら返事は返って来ないかもしれない、と思いつつもレインは聞いた。聞かなければならない気がした。
「いくら何でも厳しいだろ? なんなら俺は学園長に頼んで別の部屋を……」
しかしレインが代替案を言いかけた時、ベッドの上に投げ出されたレインの右腕の裾が軽く引っ張られた。
不思議に思いレインがそちらを向くと、アリアが裾を引っ張っていた。
「…………いい。レインと、一緒でも……」
「え…………」
思いがけない一言にレインは驚く。自分の耳を疑い、もう一度聞き直す。
「ほ、本当にか? 男と一緒なんだぞ?」
アリアはますます顔を赤くしながらも、レインの問いに小さな声で答えた。
「っ…………い、いい。…………レインなら……」
弱々しい声ではあったが、アリアの言葉に拒絶はない。少なくともレインはそう感じた。
あまりに弱すぎて後半に何と言ったかは分からなかったが、ここまで言い張るのなら、これ以上聞いても答えは同じだと思った。
「そ、そうか…………」
レインとしては、ミコトにも言ったように不都合はない。強いて言うとすれば、アリアが自分と一緒にいていいのかどうかだったが、答えがこれであるならば拒む理由はないだろう。
アリアの答えに驚きつつ上を向こうとすると、再び裾が引っ張られた。
「レインこそ……その……わ、私と一緒でいいの…………?」
今にも消え入りそうな声に、レインはもう一度驚く。てっきり自分の意思など気にしていないと思っていたのに。
しかし、それに対する答えは既に決まりきっていたことだった。
「もちろん。…………お前なら、な」
アリアと逆の方向に寝返りを打ちつつ言った最後の言葉がアリアに聞こえたかは分からない。けれどそれは、偽りないレインの本心だ。もし相手がアリアでなかったら、レインはきっと自分から断っていただろう。
アリアだから、良かったのだ。
――理由こそ分からないが、それでいいだろう。深く考える必要もない。
自分でも理解出来ない感情を感じながらレインはそっと目を閉じた。見えなくても、最後にアリアがくすっと笑ったことだけは、レインにも感じることが出来た。
レインが意識を手放す瞬間に、誰かが頭をそっと撫でた気がした。
拙作をご覧頂きありがとうございます! 活動報告でも一度書いたのですが、投稿は毎週日曜日、9時ごろとなっております。しばらくは(ストックが切れるまでは)そのペースで投稿していきたいと思うので、よろしくお願いします!