3―1 ヘルビア・ドロニシティア
「では、今日からしばらくの間、ヘルビアにもこのクラスでの活動に参加してもらう。慣れないところもあるだろうが仲良くやってくれ」
ノルン教官から告げられた言葉に教室がざわめいている。
レインがこの教室で初めて紹介された時はシンと静まり返っていたはずの生徒たちが、興味と興奮と少しの猜疑心を抱いた眼差しで教壇の中央に立つ男を注視する。そこに立つのは、つい先日も目にした白髪の青年。
アリアやアルス、シャルレス、そしてレイン自身が、今しがたノルン教官が発した事実を上手く飲み込めずにいた。突然の出来事はあまりにも意外すぎて、理解するのに時間を要した。
「なんでヘルビア君が…………?」
アルスが小さく呟く。生徒たちのざわめきにかきけされたその一言が、まさしく四人の気持ちを代弁していた。
壇上の青年、ヘルビア・ドロニシティアは、何かを言うでもなく浅い礼だけをする。寡黙そうな印象そのままで挨拶等はしないらしい。
ノルン教官が、廊下側の壁に接する空席――昨日、急遽設置されたもの――を指差す。
「ヘルビアの席はあそこだ。一年次とは授業の形式も変わっているから、何かあればすぐに聞け。君たちも彼を助けてやるように」
やや時間を置いた生徒たちの返事をよそにヘルビアは淡々と教室を歩き、“王属騎士団”の純白の制服ではなく、学園の制服を靡かせながら自分の席へと着いた。
今日から、彼もまたこのクラスで共に過ごす級友となったのだ。
隣の女子生徒が萎縮してしまっているのは無理もないと言えよう。年齢としては大差なくとも、今のヘルビアは“王属騎士団”副団長という、選ばれた者にのみ与えられる肩書きを持っている。その権力はすさまじく、目の前で規則に反する行動をとる者がいた時に即座に抜剣できる懲戒権をすら有している。学園の生徒が持つ抵抗権――危険に対し武器を用いた受動的な自己防衛、反撃が許される――とは根本的に異なり、意図的に他者を攻撃できる権利を持つということだ。
もちろんそう頻繁に行使される権限ではないが、それだけの権利と実力を有しているということには変わりない。
「では、これでホームルームを終わる。校内戦に向け、気を引き締めて授業に臨め」
詳しい事情の説明もなく戸惑う生徒たちを無視するように、ノルン教官はさっさとホームルームを終わらせてしまった。委員長が慌てて号令をかけるが、いつもはテキパキと要領よくこなす彼も今日はもたついていた。
挨拶を終えるとノルン教官はすぐに教室を出ていってしまい、レインたちが何かを聞く隙はなかった。
一時限目の準備をする生徒のざわめきはやはりいつもより大きい。全員がどことなく教室後方から距離をとっているような気がする。幸いと言うべきか、レインはヘルビアとは真逆の教室後方窓側の席なので、直接会話したりすることはあまりなさそうだ。
アルスがレイン、アリア共同の長机に寄り、“受心”にてシャルレスが三人と接続する。最近は恒例となりつつある四人の談合状態だ。
「……どう思う? レイン君」
切り出したのはアルス。心なしかいつもより控え目な声なのは、ヘルビアに聞かれるのを警戒したためだろうか。
とはいえ、どうと聞かれてもレインに答えられることは少ない。ただ、一つだけ確実に言えるのは――
「この学園の誰か……それも多分、この教室の誰かに用があるんだろうな」
視線は一切ヘルビアに向けないままレインは答えた。
“騎王戦”、そしてそれに伴う校内戦が控えている今、学園は常時よりかなり慌ただしくなっている。いくら天下の”王属騎士団“といえども、そんな時期に無理矢理押しかけるほど無遠慮な振るまいは許されないだろう。ましてやその理由が「一個人の研修のため」など到底ミコトが許可するはずがない。
逆に言えば、今回ヘルビアがこの一時的な授業参加を許されたということは、この件にそれなりの事情が絡んでいるということだ。
明らかに不可解なタイミング。もう少し自然に話を進めることも可能だったように思えるが、そうしない訳があるのだろう。よほど急ぐ必要がある何かが。
「つまり、前にヘルビアと団長が授業を見に来たのはこのための視察だったってことね」
「そうなるな。……あるいは、視察のときに初めて気付いたか」
「? 何に?」
レインの迂遠な言い方にアルスが首を傾げる。
答えたのはシャルレス。
『レインの存在……とか』
「……! もしかして、あのときの質問は……!」
アルスが言う「あのとき」とは、三人でカイルに会うために騎士城を訪れたときのことだ。カイルに帰り際に聞かれた質問はいささか不自然だった。もっともカイルはそれでも真実が聞き出せると踏んでのことだったのだろう。事実、アルスにはあの状況で誤魔化すという選択肢は浮かばなかったのだ。
アルスたちに同行していなかったレインは不思議そうな顔をしていたが、アルスがかいつまんで説明すると、納得した様子で頷いた。
「なら……そういうことだろ。ヘルビアは俺に用があるってことだ」
「……でも、それってつまり――」
何かを言いかけてアルスが口をつぐむ。
「俺に用がある」とレインは平然と言うが、普通に考えて“王属騎士団”が一般生徒に用などあるはずがない。神器使いならまだしもレインはそこには該当しない――ことになっている――し、仮に前回の視察で目をつけたのだとしたら、こんなにまわりくどいことはせずに、シャルレスと同様にノルンを介してスカウトするはずだ。
だが現実にはそうしておらず、それらから考えられる理由はそう多くない。
例えば。
「――俺の正体に気付いてる、か」
ぽつりとレインは言った。
「…………」
アルスが口をつぐんだ先をはっきりと口にしたレイン。しかしその声音に緊張や不安といった感情は微塵も見出だせなかった。いつも通りかむしろそれ以上に落ち着いた声だった。
“漆黒の勇者”は王国を救った英雄として語られている。それだけをみれば正体が発覚したところで問題ないように思えるが、何故かレインは正体をひた隠しにしていた。そこには「目立ちたくない」、「自由でいたい」という理由も少なからずあるのだろうが、アルスには何か他に重要な理由があるように思えるのだ。
その理由はここで簡単に聞いてもいいものなのか――と、アルスが躊躇しているとき。
「今さらだけど、何でそんなに隠すのよ。褒賞なり栄誉なりもらえるのはあんたにとっても別に悪いことじゃないでしょ」
口を開いたのはアリアだった。
「アリアさ――」
「面倒な噂や勧誘も黙っていればいずれなくなるわ。そうすればわざわざ正体を隠して生きていく必要もなくなる。なのにこの数年、頑なに隠してきた理由は何なの?」
アルスが止めるのも無視してアリアはレインに問う。頬杖をついた顔は教室前方を向きながらも、視線だけはしっかりとレインを捉えていた。燃え上がる焔のような紅い瞳が。
そんな問いにレインは。
「…………いや、別に。そんな大層な理由なんてないよ」
アリアを――いや、アルスやシャルレスすら見ることもなく、どこか遠くを見つめながらレインは答えた。
いつもの飄飄とした態度ではない。芯がなく重みが感じられない言葉だった。
「…………そ。あんたがそうしたいなら別にいいわ」
それだけを言うとアリアは顔を窓――レインの反対側へと向けた。
その仕草は、無言でありながらこれ以上会話へ参加しないことを表していた。
「…………」
『…………』
途端、沈黙が満ちる。賑やかな教室の中で、この辺りだけが隔離されたように静寂に包まれていた。ひんやりとした悪寒のような何かがアルスの背を這いずり回った気がした。
「……とりあえず、放課後にミコトさんのところに行ってみるか。ヘルビアについて何か分かるかもしれない」
「……あ、うん、そうだね。今日の放課後は特別することもないし」
『私も行く』
レインの提案にアルス、シャルレスが同意した。神器使いであるアルスやシャルレスは教官に呼び出されることがままあるが、今日に関しては今のところ予定がない。
それはアリアも同じはずだ。そっぽを向いたようなアリアにアルスが聞くと。
「アリアさんは?」
「……修練に行くからいいわ。ヘルビアが何を企んでいようと私には関係ないし」
――そんなにべもない答えが返ってきた。
「関係ないって……でも、今までは――」
「いいよ、アルス。アリアだって忙しいんだ。それよりアルスたちこそいいのか? “王属騎士団”に入るなら少しの時間も惜しいだろ」
「……僕は大丈夫。それより、レイン君の方が気になるから」
『私も』
「ん、分かった。……ありがとな」
ふとアルスが時計を見ると、その長針は授業開始の一分前を示している。他の生徒たちも慌ただしく授業の準備をしていた。
アルスも急いでロッカーへ行き、必要な教科書を持って自分の席に向かった。アルスが席に着くと同時に残っていたもう一人の男子生徒が着席し、準備開始約三十秒前に全員が準備を終えた。
先程までの喧騒が嘘のように静まった教室は、容易に動くことさえ躊躇われる。しかしアルスはそんな密かな重圧をはねのけて、小さく右後ろを振り返った。
視線の先に座すヘルビアは、アリアとは違う暗い赤色の瞳を真っ直ぐに教卓へと向けていた。微動だにしないその姿はまるで彫刻のようだ。触れたら壊れる――否、壊されるような凄みを振りまいて、ヘルビアはただ静かにそこにいた。
一体何が目的なのか――アルスが声に出さずそう呟いたとき、一時限目の担当教官が教室に入ってきた。教官が教卓へ着くと共に号令がかかる。
揃った挨拶と礼をして着席した生徒たち。満足そうに小さく頷いた教官が授業を始める。
アルスは一度瞑目して、気持ちを切り替えてから、教官に指定されたページを開いた。
***
「聞きたいことがあります、ミコトさん」
放課後、学園長室にて。入室して開口一番にレインはそう話を切り出した。
最初の数回こそ緊張していたアルスだが、学園長室に入るのにもすっかり慣れてしまった。ミコトはいつものように書類と格闘していた手を止め――ることはせず、ちらりと視線だけでレインたちを見たあとに皮肉めいた口調で言った。
「私も聞きたいことがある。何故こんな時期に来た? 校内戦を控えた今、教官たちが忙しいことは分かっているだろう」
ほんの少しだけ、いつもよりも余裕がないようにアルスは感じた。余程忙しいのか、レインたちの反応を窺う様子もなく書類をさばいていく。どうやら「構っている暇がない」と伝えるために敢えて部屋に入れたらしい。
ミコトの神器〈クロノス〉が持つ神能“時操”は確かミコト自身の時の流れを自在に制御できる能力だったはずだ。使えば格段に作業速度は――あくまで外から見た視点では――上昇するだろうが、それを使うのは躊躇われるのだろう。神能はまさしく神から与えられし能力だ。決して個人の私利私欲のために使われるべきものではない。
そのことが分かっているからこそレインも無粋な提案をすることなく、黙ってミコトを見続けた。取り合う気はないと暗に主張するミコトに臆することなく、直立してただ待ち続ける。
十秒ほど経ってから、ミコトはレインの圧力に根負けしたのか、はたまた一段落着いたのか、ペンを置いて書類を脇にどけた。レインたちをじっと見たあとに、今回は可愛らしいため息を吐くことなく机上で指を組む。
ようやく話を聞くつもりになってくれたらしい。いつもの姿勢で無言でレインに用件を訊ねている。
その様は、こればかりは何度見ても慣れることができないほどの圧倒的な風格を兼ね備えており、目の前に座るこの人物が王国でも指折りの強者であるということを実感を伴って再認識させられる。別段猫背ではないアルスだが、背筋がぐっと伸びる感覚を覚えた。
一方で、いつもミコトの前では腰の低いレインが堂々とミコトに相対している。ミコトもレインの態度が違うことに気付いて余計な言葉は発していないのかもしれない。
常にはない独特な緊張感がそこにはあった。
「おおよそ察しはついていると思います。今日はヘルビアのことについて聞きに来ました」
「ふむ。ヘルビアの何を聞きたいと?」
間髪入れずにミコトはそう返す。まるでずっと前からそう言うことを決めていたかのような予定調和な会話だ。
これはきっと手順なのだ。レインが真に知りたいことをミコトに問うときに必要な儀式のようなもの。アルスはレインがこんなにも真面目にミコトに何かを聞く場面を見たことがなかった。だからこそ今、二人の関係性を垣間見た気がした。
レインにとってミコトは上位者。圧倒的で絶対的な相対関係として、レインがミコトを“上”としていることを。
「ヘルビアの目的について、です。校内戦を控え、教官たちが忙しい今、何故こんな時期に彼を学園に受け入れたのか、聞かせてください」
ミコトの言葉を反復したレインは鋭い眼光でミコトを睨み付けるかのように凝視した。普段の飄々とした雰囲気はどこにもなく、アルスは少しだけ違和感を覚える。何故かは分からないが、今のレインはいつもとどこか違う気がした。
ミコトはそんなレインの態度にもやはり動じずに答えた。
「その様子からするに、君にも心当たりがあるように思えるがな。それに……私が言うのも何だが、彼らにもこんな話をするのか?」
「え…………」
「…………っ」
ミコトが視線を向けたのはアルスとシャルレス。思わず小さな声を上げてしまったアルスは、どうにも言葉の意味を理解できずにレインを見る。
先ほどまで堂々とミコトを見据えていたレインは、苦い顔をして俯き逡巡しているようだった。そんな横顔を見るのは初めてだ。これまでのどんな敵と相対したときもこんな苦しそうな顔はしていなかった。
――そのときアルスはやっと理解する。この話がレインの過去に深く関係するものなのだということを。レインが明かすのを躊躇ってきた過去に絡むものなのだということを。
ちょうど同じときにシャルレスもそのことを理解したらしい。レインが決断を迷う中、シャルレスは迷うことなく判断した。
「私は帰る。レインが迷うなら、私はここにいるべきじゃない。……アルスは?」
質問の形をとっていながら、シャルレスの問いは実質的に誘いも同然だった。「帰ろう」と暗に言っているのはすぐに分かった。
「……うん、僕も帰るよ。また明日、レイン君」
レインの返事は待たず二人は歩き出す。振り返らずに扉の前に立ち、ミコトに礼をしてから学園長室を出た。
部屋の外に出た二人はもう一度扉に体を向ける。
この先は王国でも随一の保護魔法で覆われた部屋だ。物理的衝撃はもちろん、盗視盗聴その他一切の内部干渉を防ぐ。異能や神能を使っても突破するのは容易ではない。
レインがミコトに聞いているのは、そんな部屋の中でしか聞けないこと。そして、二人以外の誰にも――アルスやシャルレスにも明かせないことなのだ。
別におかしな話ではない。かつて“漆黒の勇者”と呼ばれ『大厄災』の危機を救った英雄ならば、他人には無闇に話せない重要な話の一つや二つあったとしても不思議ではないだろう。
ただ――やはり。
「寂しい、ね」
「……うん」
アルスの呟きにシャルレスも同意した。
何故か二人とも、寂しかった。
***
「良かったのか? 引き留めなくて。ここに来る時点でこうなることは分かっていたろうに」
「……俺には……まだ、できません。彼らを巻き込むなんてことは」
「……そうか。まあいいさ、焦る必要はない。それよりヘルビアのことだが、君にも分かるはずだ。何度か肌で感じたんだろう? 殺気を」
「…………」
「それが答えさ。彼は君を知っている。実に厄介なことだが」
「つまり、彼は…………」
「うん。彼は君を殺すつもりだ」




