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2―4 希憶

 ――あのとき、空はまるで作りものであるかのように青かったことを覚えている。


 こんなことすら些事であると言わんばかりの空を睨んだ。どこかから聞こえる鳥のさえずりに心はちっとも浮き足立たず、新鮮な朝の空気は毒を含んだ霧のように吸い心地が悪い。射し込む朝日は惨状を伝える媒体として残酷に目に届き、目を閉じても一度目にした光景は頭から離れない。

 もっとも当時はそんなことを意識している余裕もなかった。無意識に脳に刻まれたその記憶を後から再生して初めて、あの日もいつもと変わらない「日常」だったのだと思い知った。人がどうなろうが、世界は何とも思わないのだと。


 ゆっくりと視界が下がっていく。そこにある光景は既に知っている。何十、何百と見てきた映像は、こんな異能がなくても忘れることはできない。


 ――もう、いい。ここは見たくない。


 そう願うと、映像はぶつりと途切れた。真っ暗な視界は闇よりも深い深淵を感じさせる。ここには何もないとありありと分かる感覚はそう簡単に感じられるものではないだろう。ある日唐突に両親を喪ったりしない限りは。


 体の感覚がしっかりと現実に戻ってきたところで、ヘルビアは本体の目を開ける。


「…………」


 映るのは真っ白な天井。染み一つ見つからない、ヘルビアの自室の天井だ。


 閉められたカーテンの隙間から零れる橙色の光がおおよその時間を示してくれていた。四席会議を終えて自室に戻ってきてから〈追想リマインド〉に潜ったと考えれば妥当な頃合いだろう。元々ヘルビアは非番だったのだ。


 〈追想〉は過去の記憶を完全に再生し、そこに意識を没頭させることでまさしく追体験を実現する。それはつまり、一切色褪せない当時の事実そのものを全神経を集中させて見ることと同義だ。ましてやヘルビアにとって、一層狂おしいほどの激情をもたらすあの記憶を再生することは、大きく精神を消耗させる。

 一度見るごとに心は荒び、呼吸は浅くなり、心臓が早鐘を打つ。消耗自体には幾分か慣れたが、心に残った傷は少しも癒えていなかった。むしろ記憶を思い起こすたびに傷口を抉られるようで、恐らく一生克服することはないのだろうとヘルビアは思う。


 一度深く息を吐いて、額にじっとりと滲んでいた汗を手の甲で拭う。潜っていた時間そのものはさして長くなかったはずだが、緊張ゆえか喉がカラカラに渇いていた。

 心なしか重い体を起こしてベッド脇のサイドテーブルに置いておいたコップの水を口に含む。〈追想〉の後にこうなることは分かっているので、予め置いておいたのだ。少しずつ、口内の感覚を洗い流すように水を喉の奥へ持っていく。規則正しく、コクリ、コクリと鳴る自分の喉が潤っていくのを感じながら、ヘルビアは水を飲み終えた。


 副団長であるヘルビアの自室は他の騎士よりも広い。“王属騎士団”の私室にはベッドとテーブル、幾らかの家具が置かれており、火台コンロ水台シンクなどももとから設置されている。食事は食堂で行えるので、必要不可欠かと言われればそうでもないのだが、こうした食堂に行くまでもないことを済ませるためには便利であり、文句を言うつもりはない。

 ヘルビアはコップを軽くゆすいで近くのフックに逆さに引っかけると、ちらっと時刻を確認した。まだ六時前、夕食には早すぎる。


「…………」


 少し考えたあと、ヘルビアはベッドの横に置かれていた神器を手に自室を出た。


  ***


 ヘルビアが向かった先は別棟にある修練場。〈フローライト〉にある闘技場と同じ規模の舞台リングが五つもある広い建造物だ。それぞれの舞台は金属を遥かに凌ぐ強度を誇る魔鉄ストレイル製の壁で仕切られており、ちょっとやそっとの衝撃では傷一つ付かないようになっている。もっともその壁ですら半年に一度は交換しなければならないほど苛烈な修練が行われるのだが。


 その中の一つ、誰も使っていない舞台に上がったヘルビアは、軽く体をほぐしたあとに、いつもの通り基本の型の確認から修練を始めた。


 今でこそ「新星」などと評され騎士団内で一目置かれるヘルビアだが、彼はいわゆる天才ではなかった。幼少期は身体能力や思考能力は人並みかそれ以下であり、もともと辺境の村出身である彼が剣を握る経験など皆無だったため、特別剣の扱いに慣れている訳でもなかったのだ。村で暮らしていた頃の彼の手にあったのは鍬か鎌程度で、そも他者を害するための武器を握ったことさえなかった。

 いや、平均的に劣るというよりはむしろ、ただ一点――精神力において他と一線を画していたと言うべきか。身一つで王都に辿り着き、王都の中心地から離れた貧民街スラムに住み着くことで命を繋いだ。まともに食事することさえできない劣悪な環境下で、同じく貧民街にいたかつての騎士から剣を教わり、錆び付いたガラクタ同然の剣を毎日振り続けた。


 それだけ過酷な状況にありながらもヘルビアが剣を捨てることはなく、その胸に宿る消えない炎を糧にただただ力を磨いた。武器を持つことへの抵抗などあの頃のヘルビアにはなかったのだ。復讐を果たす日を、いつかあの男を殺す日を夢見て、ヘルビアは毎日を過ごした。


 そしてついに――ヘルビアはカイルに出会った。


「…………ふっ!」


 型を確認し終えたヘルビアは次に素振りへと移る。上段から真っ直ぐに斬り下ろすという単純な動作だが、基本ゆえに反復量の差が出る部分だ。角度が真下であればあるほど威力を効率的に伝えることができ、かつ速度が出るために相手からすれば防ぎにくい剣撃となる。


 体に染み付いた動きを反復しながら、これほど恵まれた環境で剣の腕を磨けるのは、間違いなくカイルがいてくれたからなのだとヘルビアは思う。


 あれはまさしく僥倖と呼ぶべきものだったのだろう。あの日、近隣で起きた事故の調査のために貧民街を訪れたカイルは、薄汚れた身なりの少年を見た瞬間に、一目で少年の芯――奥底に眠る激情を見抜いたらしい。自らの身をも犠牲にしてなお燃え盛ろうとする炎を目の当たりにして、その上でカイルは彼を騎士団に誘い入れ、満足な生活と教養、そして何より剣の技術を与えたのだ。


 そこからのヘルビアの成長は凄まじかった。絶え間ない反復によって培われた基礎をもとに技術を得たことで、その剣の腕は飛躍的に上達していくことになる。カイルから譲渡された神器に認められ、〈フローライト〉の入学試験を首席で突破し、ついに“王属騎士団”への正式な入団を許可されて今に至っている。


 また、彼が副団長と認められるのは、剣の技術が優れていることのみならず、状況判断が正確であることゆえでもある。

 もともと、団長や副団長に求められるのは長としての適性だ。個人として強いだけでは不十分で、団員の精神的支柱となれる冷静さ、突発的な状況への対応力、統率力なども必要となる。自負と矜持を持つ個々人をとりまとめ、不測の事態が起こったときにどう動けるかがもっとも重視される部分だ。


 その点においてヘルビアは優秀だった。幸か不幸か、神器を得るとともに目覚めた異能“希憶メモリー”が彼の思考をより明確に、冷静にすることを可能にしたのだ。〈追想〉を使えるというだけに留まらず、日常的な“希憶”の行使に慣れることで、一度見た映像を瞬時に理解する把握能力を強化することにつながったのである。

 こうしてヘルビアは、入団から一年足らずで副団長へと昇格し、「新星」と呼ばれるまでになったのだ。


 全ては復讐のために。脳裏に刻み込まれたあの男をこの手で殺すために。


「…………ッ!」


 瞬間、ヘルビアは実力の一端を解放する。強く剣を握りしめ――一閃。

 神器使いでも反応するのがやっとの剣撃が恐ろしい速度で宙を駆け、離れた魔鉄製の壁に直撃する。


「…………またやってしまったか」


 ヘルビアが姿勢を戻したときに発された後悔の言葉以外には音はしなかった。


 ――射線上の舞台さえ抉りながら、斬撃は壁を容易く貫通していたのだ。


 幸いにも壁そのものが倒壊することはなく、斬撃が命中した部分だけに残線が刻まれている状態だ。超高速の剣速だからこそできる芸当である。半端な速度では斬撃自体が鋭利な線状に収束せず、壁に阻まれて轟音を放つ結果となる。


 もっともヘルビアにとってはこの程度のことは日常茶飯事で、最近、騎士団の経理部の頭を悩ませる要因の一つとなっている。倒壊していないとはいえ強度を考えれば取り替えざるを得ないだろう。

 そもそも“王属騎士団”副団長級の神騎士ディバインが修練を行うにはこの設備でもまだ不十分なのだ。立ち合って試合などやろうものなら会場自体が吹き飛びかねない。もし彼らが実力の全てを発揮するのならば、さらに大きく、かつ十数人がかりの障壁魔法を張った会場でなければ耐えられないように思われた。


 時として、突出した力は迂闊に行使することさえできなくなる。

 ヘルビアは自身が既にその段階にいることを知らない。常に冷静でいるようでいて、しかし自分を冷静に見つめることをしない。彼の瞳は常に前を、あの黒い背を見据えているのだから。


 心に燃える修羅の炎が彼自身を変質させていることを、彼は知らない。


「…………あと、百」


 しばらく沈黙したのちに、ポツリと呟いて、ヘルビアは再び素振りを始めた。


  ***


『――という訳で、しばらくの間、ヘルビアを学園の授業に参加させていただきたい。意志と実力を兼ね備えた優れた騎士とはいえ彼もまだ十七の青年だ、同年代の騎士たちと関わることも彼の成長に繋がるでしょう。それに、近々校内戦も行われるはずです。クラスの生徒たちにもいい刺激になるのでは?』


 神騎士学園〈フローライト〉、学園長室。

 大きな執務机には見合わない小さな椅子にちょこんと腰かけたミコトの脳裏に直接響くような声。通信相手はカイル・ジークフェルトだ。


 校章による通話ではなく、〈天声リベレーション〉という技術が用いられている。神器を介してその持ち主との意思疎通を可能にするもので、神器に宿る神と自らを一体化――つまり〈顕神デュオライズ〉を経験したことがある者ならば誰でも使用することができる。もっとも、そもそも〈顕神〉が高等技術ゆえに〈天声〉を扱える者が少ないのは言うまでもない。

 一度見た神器とならばいつでも通信路チャンネルを繋ぐことができるために利便性は高い。神器さえ持っていれば――そこが一番の難題ではあるが――連絡できるというのが大きな強みで、例えばミコトは現神王ウルズや他の神騎士学園の学園長らとの通信路を持っている。相手が〈天声〉を使えずとも、神器を保持しているのであれば一方的な連絡も可能だ。


 ミコトは先程カイルからの〈天声〉を受け、こうして応答しているという訳である。


『――なるほど。ヘルビアについてはひとまず理解した。もっともらしい理由もあることだし、こちらにも拒否する理由はない』


 瞑目しているミコトは迂遠な返答でカイルに応じた。直接感じられる訳ではないが、神器の向こうでカイルが不敵に笑ったのが分かった。


『何やら言いたいことがありそうですね。何かご不満でもあるのですか?』


 つくづく食えない相手だ、とミコトは〈天声〉に乗せてしまわないように並列して思考する。カイルとてあの言い方ではミコトが不審に思うのは分かっているだろうに、それを取り繕う様子もない。それはつまり、不審に思ってもどうしようもできないことまで分かっているからだ。むしろ下手に拒否しようものなら、それなりの情報をカイルに与えてしまうことになる。


 だがミコトもカイルの強かさにいいようにやられてしまうほど愚かではない。相手のペースに乗ってやる義理はないと言外に含めて答えた。


『別に不満など何もないさ。ただ、何故今なのかと疑問に思っただけだ。今までにもヘルビアを学園に戻してやる機会はあっただろう』

『ヘルビアは優秀でしたから、ついこちらとしても任務をこなしてもらいたいと思ってしまいまして。かといって、副団長になることが決まってからは彼も忙しそうでしたからね。ここまで機を逃してしまいました。本来であればもう少し早く相談すべきだったのでしょうが……』


 淀むことなく返ってくるそれらしい理由をミコトは鼻で笑った。


『はっ、ご託はいい。――レインが目的だろう』


 ミコトの瞳は淡く発光している。過去と未来を視る異能、“視知アンノウン”だ。

 四席会議の様子を視たミコトの言葉はカイルを動揺させるには至らなかった。そもそもカイルはミコトの異能を知っている。だというのにそれへの対処をしていない時点で、カイルの真の目的がレインとは他にあることは明白だった。


『……その言い方からするに、レイン君が“漆黒の勇者”であることは間違いないとみてよさそうですね。第一声から彼と“漆黒の勇者”との繋がりを否定しないということはそういうことでしょう』

『それに関しては何も言わないでおこう。存分に探ればいいさ。ヘルビアを使ってな』


 カイルの推測にミコトは否定も肯定もしなかった。最初からカイルは心中ではレインを“漆黒の勇者”と断定しており、取り繕っても無駄だからだ。


 一方でカイルが興味を持ったのはミコトの返答。ミコトがレインの正体を知っていたことについて。四席会議でも話した予測どおり、やはりどこかでミコトはレインと繋がっており――


『言っておくが、レインを調べたところで私の素性は一切割れないぞ。お前が一番知りたいのはそこだろう?』


『……――何のことですか?』


 そこでわずかにカイルの返答が遅れた。もちろんミコトがその間隙に気付かないはずはない。


『私はレインのことを知っているがレインは私のことを知らない。お前が私の真実に辿り着く術は今はどこにもないよ。神王からも聞いただろう、時が来れば私は自ら全てを話す。その時まで待つことだな』

『…………』


 明確に沈黙したカイル。それは目的を容易く看破された驚きからか、それとも目論見が破れたことへの失望からか。少なくとも先程よりは一段低い声が響いた。


『……なぜ今真実を語れないのでしょうか。それで信用しろなど、到底できるはずもない。先日、王国内に悪魔デモンが潜伏していたことを考えれば、あなたが悪魔の間者である可能性すら否定できないのですよ?』

『ああ、そうだな』

『私には王国を守る責務がある。そのためには万全を尽くす所存です。全てをなげうってでも王に仕え、支えるために私はいるのです。あなたを疑うのは当然でしょう』

『ああ、そうだな』

『……だというのにあなたは…………!』


 生返事をするミコトにカイルが少しばかり気勢を荒らげる。


 だが、ミコトは動じずに答えた。


『一つだけ言うことがあるとすれば、私が全てを明かせば――王国はおろか、この世界そのものが奪われるぞ』


『は…………?』


 珍しくカイルが呆けた様子を見せる。王国が、世界が奪われる・・・・とはどういう意味かと。


『今この世界の安寧はそれだけ脆く危機的な状態にある。私たちにできるのは力をつけることだけだ。綱渡りも同然のこの猶予期間の内に、悪魔に対抗しうるだけの力をな』

『…………』


 カイルは何も言うことができなかった。いや、むしろ言うべきでないと判断した。この世界が抱える構造を何も知らないらしい自分が発した言葉には一切の重みがないと知っていた。

 もちろんミコトが適当なでまかせを言っている可能性も否定はできない。しかし、そこまで無策で愚鈍な人物でないことはカイルも理解している。ここでそう口にする以上、何かしらの理由があるはずなのだ。


 口を閉じたカイルがこれ以上何かを言う気配がないことを確認してからミコトは事務的に告げた。


『ヘルビアの件は学園長の権限で了承しよう。教官や生徒たちには私から伝えておく。来週から、ということでよろしいだろうか?』

『……ええ、お願いします』

『了解した。資料等は後日送付するからヘルビアに渡してくれ。それで、他に何か用件は?』


 カイル自身、聞いてみたいことは山ほどあったが、それは今することではない。もう一度情報を整理する必要があることを理解してカイルは体裁上の感謝の言葉を述べた。


『いえ、何も。ヘルビアの受け入れへのご承諾に感謝します』

『構わないよ。何かあれば私から連絡することがあるかもしれない。そのときはよろしく頼む』

『もちろんです。――では、これで』


 通話特有のプツリという断絶音はなく〈天声〉は途切れる。同時に、ミコトが腰に吊っていた神器〈クロノス〉が微かに放っていた輝きが失われた。


 瞼を開けると机上には書類の山が積み重なっていた。カイルとの通信中に、学園長の補佐官であるノルンが持ってきていたものだ。少々げんなりとしながらもミコトは上から数枚を手に取り検分を始める。“騎王戦”とそれに伴う校内戦についての書類が主なようだ。


 すっかり慣れた様子で紙面に目を走らせながらも、ミコトの脳裏にはカイルの言葉がよぎっていた。


「王国を守る責務、か…………」


 彼はきっと本心からそう言っているのだろう。そんなことは容易に分かった。だからこそ、ミコトという不確定要素を取り除いておきたいという思惑も理解できる。自分自身が障壁となっていることを誰よりもミコトは自覚している。


 それでも明かす訳にはいかないのだ。カイルが王国の安寧を願うのと同じように、ミコトもまた王国を案じているのだから。


 今はこうするのが最適だとミコトは確信する。自分にできるのはそれだけだ。そして最後は、彼らが――


「…………」


 何気なく手にした校内戦の出場者一覧に記された名前を、ミコトは無言で見つめていた。

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