1―1 平穏と不穏
キーン、コーン、カーン、コーン…………と荘厳な鐘の音が鳴り響く神騎士学園〈フローライト〉の教室。一時限目の終了を告げるゆったりとした音色が、授業の最後の教官への挨拶を終えた生徒たちの心を弛緩させた。
「あー……月曜の一時限目って何でこんなに長いんだ…………」
教室後方の席でぐだりと上体を机に放り出した黒髪の少年。どんよりとした黒い瞳がその精神的疲労を如実に表している。
少年の名はレイン。かつての『大厄災』において数多の悪魔を屠った“漆黒の勇者”の正体であり、神器〈タナトス〉を操る、王国内でも数少ない神器使い。
……なのだが、今の姿からはとてもそう思えるような凄みはなく。逆に言えばそれゆえに『大厄災』から五年が経つ今もなお、レインが“漆黒の勇者”であることがバレていないのかもしれない。
「ふあ…………あれ、授業っていつ終わったのよ……?」
そんなレインと入れ替わるように机から体を起こし、寝ぼけ眼をこするのは赤髪の少女。いつもは鋭すぎるほどの凄絶な気配を放っている彼女は、どうにも朝に弱い。特に休日明けの月曜は一段とその傾向が強く、今日も遅刻すれすれで教室に滑り込んでいた。
彼女はアリア。神器〈ヘスティア〉を持つ神器使いにしてレインも認めるほどの才媛。さきの街区内悪魔討伐作戦においては神器使いの奥義〈顕神〉をも行使して悪魔を倒したほどの実力者。ちなみに女子寮の一室でレインと共に暮らしていることは他人――ごく一部の関係者を除く――には知られていない。
「お前……まさかずっと寝てたのか?」
「隣の私に疑問形で聞くってことはあんただって寝てたんでしょ。お互い様よ」
「俺は最初は起きてたし。明らかにお前より寝てた時間は短いはずだろ」
「いずれにしろ寝たなら同罪よ。威張れる権利なんかないわ」
「威張ってなんかないですから!」
「明らかに威張ってるでしょ!」
「あはは、朝から元気だなぁ、二人とも」
初等学校生並みの口喧嘩をするレインとアリアの机に、教科書類を持ったまま歩いてきたのは、金の輝きを振りまく小柄な少年。
神王国ゴルジオン王子、アルス。王の血を引く直系の王族であり、神器〈アポロン〉を使いこなす神器使い。アリアと同じく〈顕神〉を使える高みにまで昇った選ばれし者だ。眩いほどの金髪と金の瞳は、王族の中でも一握り、十数代に一人しか現れない“神の子”である証。初代神王オリガ・エルド=レイヴンの血を強く宿す彼は、人の身でありながら神をさえ従える器を持つ。
「元気どころかくたくただよ。いくら起こしても起きないし、挙げ句寝ぼけたままベッドに引きずり込もうとしてくるし」
「な…………!?」
突然そんなことを言い出すレインにアリアが途端に慌て始めた。会話が他人に聞かれていればレインとアリアが共に暮らしていることが一瞬でバレるだろうが、幸いにも周りの生徒は各々の友人と話したり授業の準備をしていたりで、レインたちの会話に耳を傾ける者は一人も――
『その話、詳しく聞かせて』
「…………あっ」
――いや、一人だけいた。レインもすっかり失念していた。そしてやっと今、自分が不用意に情報を晒してしまったことを悟った。
レインの視界中央、数列前の席に座る女子生徒。盛りは過ぎたとはいえまだまだ涼しくなったとは言えないこの時期に、室内にも関わらずマフラーを首に巻くその少女は、一見すると前を向いたままで、こちらのことなど気にも留めていないように思える。
しかしそれは間違いだ。彼女――シャルレスは異能“受心”にて他者の思考を読み取り、同時に他者の思考に情報を送ったり認識を改竄することができる。いや、あるいはそんな力を使わずとも、この距離であれば、レインたちの会話を聞き取ることなどシャルレスには容易いことなのかもしれない。
神器〈ミツハノメ〉を得物とするシャルレスもまた〈顕現〉を実現した強者だ。異能を駆使した隠密行動、そして幼い頃は暗殺者として過ごしてきた経験から繰り出される剣はレインをして容易に防ぐことを許さない。加えてその体には半分悪魔の血が流れており、外見にそぐわない強靭な身体能力を持つ。
『レインとアリアは一緒に暮らしてるの?』
「え、えーとだな……」
最近はよく話すようになった間柄だ。特にレインはシャルレスを窮地から救って以来、以前より態度が柔らかくなったように感じていたが、確かにシャルレスにこの話はしていなかった。
とは言っても別に敵対している訳でもなく、普通に話せばそれで済む……とレインは思ったが。
――さっきの声、何か怖気が走る感覚だったんだよな…………と、レインは思ってしまったのだ。
自分は学習能力がない訳でも人の気持ちを察せられない鈍感人間でもない、とレインは思っている。それでもアルス曰く「レイン君は意気地のない臆病な主人公みたいな人だよね」と割と深く傷ついてしまう辛辣な評価を得ているが、レインだってそれなりに経験を積んできた。その上で磨かれた思考が、考えなしにシャルレスの疑問を肯定することを躊躇わせたのだ。
まともに答えれば死にかねない。そんな本能的な恐怖をすら感じてしまったのだから。
ゆえに、慎重に言葉を選んでレインは脳内で答えた。
『シャルレスには……ほら、あんまり関係ないことだろ? だからさ、もっと他の建設的な情報交換を』
『分かった、ミコトに聞いてみる。ついでに今のレインの言葉も伝えておく』
『ちょっと待って!?』
ぞわっ、と今度こそ明確な死の気配がレインを包んだ。
ミコトとは、この神騎士学園〈フローライト〉の学園長を務める少女――のような外見の年齢不詳の女性だ。その戦闘能力は未知数。つい先日、神器〈クロノス〉の神能“時操”と異能“視知”をわずかに解放されただけで瞬く間に制圧されたことは記憶に新しい。あのときはシャルレスの機転のきいた作戦で辛くも目標は達成できたが、レイン一人であれば、そしてミコトが本気であれば勝利は絶望的だっただろう。
そんなミコトだが、身内、特にシャルレスには甘い節がある。シャルレスを悲しませよう者がいるのなら、どこからでも飛んできて容赦なく制裁を加えそうなほどに。しかもなまじそれを可能にしかねない強力な異能があるから質が悪い。
それをいいことに、シャルレスはレインを支配しつつある。最近やたらと死の危険を感じるのはそのせいだと、レインは改めて気付いた。
『分かった! 話す、話すからミコトさんにだけはどうか…………』
甲斐性のない男のようなみっともない懇願をしてレインがアリアと共に暮らすことになった事情を説明すると、シャルレスは。
『……そ。なら私も一緒に住む。ミコトに伝えておくから』
『何で!? ちょっと待って、何で!?』
思わず二回叫ぶレイン。回避したと思った危機が再び訪れたことに向けられた感情ではあったが、それ以上にそんなことをミコトに伝えれば多分――
『ふむ、夜はシャルレスと共に寝ると。……よし、死刑だ』
『……って言われそうなんだよなって思ったからやめてって言ったのに! そもそもミコトさんは毎度のことながら唐突に俺の言動に介入するのは何でなんですかね!?』
いつの間にか会話に参加しているミコト。校章による通信への無断介入にシャルレスの異能への割り込みと、実に何でもありの手でレインを苦しめる。特にシャルレスとの交流が多くなるにつれてその頻度は増していた。
『はは、お前が人の道から外れないように導いてやるために決まっているだろう。思春期の男子ほど危険なものはないからな。しかも周りにシャルレスのような美少女がいればちょっとした爆発物くらいの危険度はあるだろう』
『偏見がひどい……。別にそんなつもりは微塵もないですし』
『まさかお前はシャルレスが魅力的でないと言うのか』
『じゃあどう答えればいいんですか教えてくださいよ!』
あまりにも理不尽な言い分にレインがまたしても叫ぶ。
――なお、この間、脳内の会話に参加していないアリアとアルスはレインに起こっていることを経験から察してため息を吐いていた。
『だいたい、そんなつもりはないと言いつつもこの前はさりげなくシャルレスを汚そうとしていただろうが。言い逃れはさせんぞ』
『っ、そ、それはその……場の雰囲気もあってというか……』
レインとしてもその件はあまり思い出したくない。ミコトを捕らえるための作戦にレイン自身がまんまと騙され、危うくシャルレスの唇を奪ってしまうところだった。
『……二人ともやめて。もういいから』
途端、傍観の姿勢を貫いていたシャルレスから制止の声がかかる。余程あの出来事が不快だったのか、その口調はいつもよりほんの少し荒々しい。
『……ふふ、そうか。まあ少し癪ではあるが認めてやるさ』
『何で嬉しそうなんですか……。ってか、認めるって何を……?』
『レインは知らないままでいい。ミコトも黙って』
『……はい』
『分かったよ。私は仕事に戻る。君たちも勉学に励むように』
ぴしゃりと言われ、レインとしては黙るしかない。ひとまず満足したのか、ミコトは介入を終えたようだ。
はー……とすっかり慣れてしまったため息を吐きつつ、レインは意識を現実に引き戻した。
「あ、終わった?」
「ああ。聞いてくれよ、シャルレスが……」
「別に聞かなくていいわよ。だいたい察しはついてるし」
「……そうすか」
すげなく却下されてレインは一人どうしようもない孤独感を味わっていた。
そのとき。
キーン、コーン、カーン、コーン…………。
「うわ、鳴っちゃった。急がないと」
学園内に響き渡ったチャイムは二時限目の開始を知らせるもの。まだ教科書の片付けを終えていなかったアルスがあたふたと廊下のロッカーへと駆けていく。
二時限目は神代史の授業だったはず。レインは予め机の中に午前中の教科に必要なものを入れてあるので、その中の神代史の教科書を取り出す。アリアも同様にそこそこ厚い冊子を机上に置いた。
それから少ししてぱたぱたとアルスが戻ってきた。何とか教官が来るまでには間に合ったようで、一人遅れて着席する。
……が、それから一分近く経過しても担当の教官は現れない。
「……? 珍しいな」
教官の遅刻という滅多にない事態にレインは訝しむ。
悪魔という強大な外敵に晒されているこの世界において、神騎士学園は王国の存亡を決めると言っても過言ではない神騎士を育成する場所だ。当然その教官陣は王国内外から選りすぐられた人材であり、学園で教鞭を取る傍ら、それぞれが特殊な用件を受けて仕事をしていることも多い。ゆえに急な派遣要請や出張などが入ることも往々にしてあるらしい。
そのため学園では時間割がかなり流動的になっている。一応基本的な時間割が決められてはいるが、一日に一つか二つは授業内容が変更になることがほとんどだ。
しかしそんな多忙を極めるのであろう教官方が遅れることは今まで一度か二度ほどしかなかった。恐らくは授業内容と時程を割り振る担当教官が事前に完璧な時間割を組んでいるからだ。学校側は半日単位で各教官のスケジュールを把握していると前にどこかで聞いたことがある。それをもとに一日ごとの時間割を作成しているのだ。
今日はどこかで情報が混線したのだろう。そう思ったレインが机上に突っ伏そうとしたのと同時に。
「すまない、遅くなった。授業を始めよう」
現れたのはこのクラスの担任教官であるノルン。急いできたのだろうに微塵も隙を見せない彼女は、しかし神代史の担当ではない。生徒たちが頭に疑問符を浮かべる中、一瞬遅れて起立の号令がかかった。
全員で立ちあがり、礼をして着席。ノルンは小さく頷くと、手に持っていた雑多な資料類を教卓に置くことなく話し始めた。
「突然ですまないが、本日の二時限目は急遽予定を変更し、戦闘実技の授業を行うことになった。詳しい説明は校庭でする。全員武装を整えた上ですぐに集合するように」
ノルンはそれだけを言うと、すぐに踵を返し教室を出ていってしまった。余程急いでいるのか、いつにもまして端的な指示に、生徒も戸惑っているようだ。
「いきなり何だ……? 今までこんなことなかったよな」
レインの問いに隣のアリアも頷く。
「ただの時間割変更じゃなさそうね。ま、ここで待ってる理由はないし、さっさと行くわよ」
もともと度胸のあるアリアはさして驚く様子もなく席を立つ。アルス、そして静かに後ろに近付いてきたシャルレスも共に、レインは教室を出た。レインは背に、アリアたち三人は腰に得物を吊っており、準備は万端だ。
単なる――というにはあまりにも特殊だが、これも授業変更に過ぎない。珍しくどこかで情報が食い違った結果起こった偶発的な出来事のはずだ。危機感を抱くにはあまりにも些細なことだろう。
「…………」
いつもよりほんの少し強く床を擦りながら、レインは校庭へと向かった。




