5─1 与えられる救済
「特異体質“模倣”――“影”」
背後の影から伸びた黒い剣がシャルレスの腹を貫いた。
「…………ぁ」
それは限界を超えて戦っていたシャルレスの集中の糸を断つには十分過ぎた。
〈顕神〉が解け、シャルレスは地に倒れた。
黒い剣はシャルレスから引き抜かれ、直後細かい粒子となって消えた。影から伸びる根本は靄のようにゆらめきながら、刀身は確かな固さと冷たさがある物体だった。
魔法にしてはあまりに異質すぎる。つまりこれは。
「光栄に思え。偉大なる我が父の特異体質をその身に受けられたことを。滅多に使わないことにしていたのだが、お前が儂にこれを引き出させるとは予想もしていなかったぞ」
――特異体質。影を操る……というよりも変形させる能力だろうか。
いずれにしても、シャルレスにとって致命的な一撃であったことにかわりはなく。
「ぅ……ぁ…………」
精神に蓄積された負荷はとうに限界を超えている。故に魔素再生の効果は芳しくなく、傷が完全に塞がらない。
のたうち回る力すら残されていないシャルレスの前に男は立った。
「“影”」
再び木陰から影が伸び、今度は手の形になってシャルレスの両腕を掴む。そのままシャルレスの体を持ち上げ、ちょうど上体だけが起き上がった状態で影は止まった。
まだ処置し終わっていない傷口が傷む。制服は血で真っ赤に染まっていた。半ば死にかけた状態のシャルレスに男は言う。
「さてどうするか……。〈顕神〉まで手に入れたとなれば殺してしまうのも勿体ないな。……おお、そうだ!」
芝居がかった仕草で手を打ち。
恐ろしく歪な笑みを浮かべて男は言った。
「――もう一度、悪魔にしてしまおう」
「……――!?」
シャルレスが閉じかけられた瞳を見開く。声にならない叫びが掠れた吐息となって漏れでた。
悪魔になる。それはつまり。
「つまり――儂の血を取り込ませるということだよ」
「―――」
男の言葉がシャルレスの予測の正しさを証明した。
予測が間違っているという可能性を全否定した。
途端に甦るのは、あの日、地下の薄暗い部屋に友人たちと共に閉じ込められた記憶。
何も分からないままに手足を鎖でベッドに固定され、身動きがとれなくなった。不安でどうにかなりそうで、頭だけ横を向いて友人の顔を見ようとした瞬間、その友人のかつて聞いたことがない悲鳴が思いきり部屋に反響した。驚きと戸惑いと何より大きな恐怖で首さえ動かなくなった時に右の鎖骨の辺りにビリッ、と痛みが走り、そして――。
「ぁ……ぁ……!」
あの体験が一気にフラッシュバックする。苦痛が、悲鳴が、恐怖が、血が、絶望が。
シャルレスの精神を一方的に蝕んでいく。
「ふふ、いい反応だ。心配するな、今のお前に生還を望む者などいない。安心して人であることをやめろ」
影がシャルレスをさらに引き上げ、足までをも掴み固定する。乱暴な扱いに腹の傷が少し開くが、男はにやにやとした笑みを浮かべたまま気にするそぶりもない。
「確か……この辺りか? 〈殺到する光〉」
滑らかに生まれた光球から放たれた光線がシャルレスの右の鎖骨の辺りを直撃する。意図的に大きく威力を制限されたそれらがシャルレスを貫通することはなく、制服を焼き切ってその肌をあらわにした。
およそ十年経った今も消えない痕がさらけ出される。
「いい装飾じゃないかシャルレス。致命傷にはならずとも可能な限り早く脳に血が届くように工夫して狙ったんだ。下手をすれば末端の組織に魔素が定着するかもしれなかったからな」
実に楽しそうに、害意など微塵もなさそうに男は言った。
痛みと恐怖に体を支配されながらシャルレスはようやく確信する。男に慈悲の精神など毛ほどもない。少なくとも人間とそれに与する存在に対して情けという概念は持ち合わせていないのだと。
いかに苦しませるか。いかに辱しめるか。男が考えていることはそれだけ。
それほどまでに人間に強い恨みを抱いているのだ。
「だがなあ、あの時は魔素濃度の低い下位級の血を使ったんだが、儂のはあまりに濃すぎるかもしれん。まあ頑張ってくれ。上手くいけば今度こそ――人間としての理性は吹き飛ぶだろうから」
ドクンとシャルレスの心臓が震えた。
自分の心臓が脈打っているのが自覚出来る。腹と鎖骨辺りから血がゆっくりと流れ出ているのが感じられる。体が芯から冷たくなっていく。血量不足故ではなく、恐怖と緊張に押しつぶされて。
ここまで来たというのに。悪魔の体としての呪縛から抜け出して、〈ミツハノメ〉にも認められ、〈顕神〉という新たな力さえ手に入れたのに。
あと一歩というところで、自分はまた逆戻りの道に迷い混んでしまうのか。
「アムやイムにであれば勝てていたかもしれん。しかしお前は儂には絶対に勝てんのだよ。お前はどこまでいっても孤独なのだから」
「…………!」
シャルレスは息をのんだ。
「『お前の気持ちは分かる』。『今まで苦しかっただろう』。聞こえのいい言葉はいくらでもある。だが問おう、それは本当にか、と。悪魔の体になってしまったお前の気持ちを真に理解出来るのか、と」
男の言葉がシャルレスの精神を一つ一つ壊していく。今までシャルレスが頼ってきたものが、縋ってきたものが、本当は単なる偽物だったのではないかと思い始める。そんなはずはないという心の叫びは圧倒的な絶望に塗りつぶされる。
「……だがその点で言えば、儂は違う。儂には悪魔の気持ちが分かる。人間ではない者としての存在理由を儂ならば与えられる」
――そんな時差し伸べられた救いの言葉。
理解してもらえる。その響きは、シャルレスにとって何よりも甘美な響きを持っていた。
「自分は他人とは違う」という、言葉にすればたったそれだけのことが、シャルレスの全てを変えた。
触れることが出来なかった。笑うことが出来なかった。話すことが出来なかった。伝えることが出来なかった。信じることが出来なかった。
今思えば、シャルレスは何よりも人と同じことに憧れていたのかもしれない。自分には必要のない絆創膏をポケットに入れ、ミコトに勧められたというだけで学園に行き、ミコトと一緒の家で暮らした。
だが、どれだけ誤魔化そうとしてもふとした時に気付く。自分は他人とは違う存在なのだと。本当の意味でここに混じり合うことは不可能であると。それは例えば魔素再生が無意識に発動した時であり、また或いは鏡に映る自分の上半身を見た時だったりした。
「私の気持ちを……理解してもらえる……?」
「ああ、そうだ。約束しよう。儂はいつまでもお前の父親であり続ける」
シャルレスの視界が霞み始める。男が顔に浮かべる笑みが、まるで慈悲を与える神の笑みに見えた。
「だから安心して儂を受け入れろ。少し痛むが、それさえ乗り越えればお前は真に救われるのだ」
思考が拡散する。頭が真っ白になっていく。声がぼんやりとして聞こえる。見える色が薄くなっていく。
「お願い……私を……――」
シャルレスは。
「――悪魔に―――」
そして男は。
愉悦を堪えきれないように、にやあっと笑った。
「分かったよ、シャルレス。待っていろ……今儂がお前を救ってやろう」
影が男の腕を螺旋状に這い、鋭く硬質化した先端で手首を浅く切り裂いた。溢れ出たどす黒い血液が腕を伝って影までをも濡らしていく。魔素再生を制御し、傷口の再生を防いで血液だけを供給し続けることで、影は血で十分に染まった。
「さあ……存分に苦しめ」
その影が、シャルレスの右鎖骨めがけて宙を滑るように打ち出された。
男の血を含んだ針が、いや槍が伸びてくる。あれが身に刺さった時シャルレスは終わる。死に絶えるか、意識ごと吹き飛んで生き永らえるか、いずれにしろシャルレスとして生きることはなくなるだろう。そのことに対して感慨を抱いている余裕はもはやシャルレスにはなかった。
だが何となく思った。自分はどうしてこうなってしまったのだろうと。もっと単純に言えば、どうして人間のままいられなかったのだろうと。
次に見るのは色彩豊かな景色がいいなと思いながら、シャルレスは静かに目を瞑った。
そして――。
――ガキンと、何か固いもの同士がぶつかる音がした。
鎖骨だろうか。それにしては何の衝撃も、痛みさえもない。そこまで自分の感覚はおかしくなっていたのかとシャルレスは暗い視界の中思う。
「諦めるな」
聞こえた声はあの男のものではない。――では一体誰なのか。
目を開けたシャルレスの視界に飛び込んだのは、学園の制服。
「まだ、何一つ終わってない」
肩ほどまでの長めの黒髪をなびかせ、シャルレスに背を向けて。
レインがそこに立っていた。
「〈魔障壁・阻〉」
大きめの障壁がシャルレスごと巻き込んで外界との繋がりを断つ。障壁によって絶たれた影は霧散し、シャルレスは地面に倒れた。
「ぐっ……」
痛みに呻くシャルレスの体を柔らかな緑色が包む。レインの治癒魔法だ。痛みが和らぎ、傷がゆっくりと回復していく。
予期していない闖入者に、笑みを消して男が聞いた。
「……何者だ? 学園の生徒か。何故ここに来た」
「アムが、お前がシャルレスを殺そうとしてる……つまり一緒にいるってことを伝えてくれた。なら、シャルレスが来るのはここしかないだろ」
影を障壁で防ぎつつレインは淡々と語る。しかしその姿はどことなく、以前シャルレスが会ったときとは違うように感じた。
まるで、何かを必死に押さえ込んでいるような。
「面倒だな……。もろとも悪魔と化せ」
血を含んだ影が障壁を上下左右から攻め立てる。だが障壁は激しい音を立てつつも揺るがない。異常とも言えるレインの魔素制御の成せる業だ。
男はそれにあからさまに機嫌を悪くした。笑みどころか額に皺を浮かべ、
「……滅べと言っている!」
〈殺到する光〉、〈射通す光〉、〈貫く氷砲〉。周りの魔素を使い尽くさんほどの勢いで障壁に光が叩き込まれる。
「ぐ…………!」
障壁の堅さは言うまでもない。だが男の攻撃はそれをすら上回る。
障壁が破れるのは時間の問題に思えた。
「……何で……」
レインが歯を食い縛って障壁を制御する後ろでシャルレスがぽつりと呟いた。
「何で……助けるの…………」
「頼まれたからだ」
答えを期待していた訳ではない。しかしレインは間髪入れずに答えを返す。
「私に……人として生きてる理由はない。だったら、悪魔の方が――」
「お前がどう思ってるかは分からないけど言っておくぞ。誰だって、本当に一人で孤独なんてことはないんだ。少なくともお前には味方してくれる人が一人はいる」
「――…………」
レインが示しているのが誰なのかはすぐに分かった。いや、死にかけている時もずっと脳裏に浮かんでいた。あの小さな、しかしシャルレスにとってはとても大きな彼女だけは、味方だと信じられた。
だが、今は。
「……私を真に理解してくれる人なんていない。だって、ミコトは悪魔じゃないから」
自分と同じ存在なんてきっといない。理解してくれる存在など現れない。シャルレスにとってその事実は、死の宣告と同等のものだった。
「私は一人――」
「――なら、何でミコトさんのことを考えてるんだ?」
レインがそう言った瞬間、シャルレスの思考が止まった。
「本当に一人だと思うならそんなことは考えない。……分かってるんだろ? お前は信じたいんだ。ミコトさんは味方だって思いたいから考えるんだ」
「―――」
レインの言葉にシャルレスは何も言えなかった。
致死の威力を持つ光が次々に障壁に激突する。いつ光が二人に降り注いでもおかしくない状況で、シャルレスはかわりに呟いた。
「何で……何で私を迷わせるの…………」
ぽろりと、何かがシャルレスの頬を伝った。
「信じたいよ……。でも、私と他の人は絶対に違う。どこかで折り合えない部分が絶対にある。だったら、信じるなんて出来るはずない……!」
シャルレスがそう言った瞬間に障壁が儚い音を立てて砕けた。男がその隙を見逃すはずはなく、一際太い光線がレインの右腕の肩口を貫いた。
「…………ッ、〈魔障壁・阻〉ッ!」
だが、レインは歯を食い縛って左腕を前に出し、再度障壁を展開する。右腕はぶらんと垂れ下がったまま動かない。貫かれた部位からするに、神経ごと切れているのかもしれない。
シャルレスは思わず下を向いた。
「もういい……もういいから! 私を助ける理由なんてないの! 私は悪魔で、人とは違――」
「――うるせえ!!」
レインの怒号がシャルレスを遮った。
「人とか悪魔とかどうでもいい! 大体、誰かを助けるのに理由なんかいらないだろうが!」
「…………!」
「信じるとか信じられないとか、そんなことは後で考えろ! 生きるために足掻け! どんな手を使ってでも生き延びろって言ってるんだ! お前は――もう一度ミコトさんに会いたいんじゃないのか!」
「…………ッ」
シャルレスは息をのむ。涙が地面に落ちる。
「……人とは違う。ああ、俺もお前の気持ちは分かるよ」
しかしそんなレインの言葉に、シャルレスの体が熱くなった。
一体どの口がそんなことを言えるのか。何を以てしてそう言えるのか。悪魔の気持ちなんて、人間に分かるはずがないのに。
シャルレスは叫んでいた。
「あなたに……あなたに何が――」
「分かるさ。俺も同じだからな」
返ってきたのは、シャルレスが予想もしていなかった答え。
思わず顔を上げたシャルレスの目には、完全に再生したレインの右腕。
この障壁に囲まれた空間内の魔素量は決して多くない。障壁の維持とシャルレスに付与された治癒魔法のことを考えれば、新たに、それも瞬時に傷を塞ぐような高難度の術式を行使するのは難しい。
もしこの状況下で傷を再生するとすれば、それは究極に効率的な方法……つまり、魔素を直接肉体に変化させる以外になく。そしてそんなことを可能にする術をシャルレスは一つしか知らない。
「……お前が本当に人間のことを見限って、悪魔になるしかないと思うなら、俺は止めない。今すぐにでも障壁を解いてここを退く。その上で人間と対立するつもりなら全力でお前を斬る」
再生した右腕で障壁を押し返しながら、レインはぽつりぽつりと語る。それは残酷なようでありながら、しかし誰よりもシャルレスを対等な存在として見た決断だ。妥協や情けや哀れみなどを一切含まない、自分とお前は同じ存在であると暗に主張する意思に他ならない。
「――けど。もしもお前が人間にもう一度希望を持つなら。もう一度人間として生きたいならそう言え。俺はどちらでもお前の意思を叶える」
――信じていいのだろうか。
シャルレスはそう思う。
幾度となく信じたいと思い、けれど出来なかった。いつだって視線を気にして密かに生きてきた。やりたいことは我慢し、考えたことは全て心の奥に押し留めた。それが、自分の義務であり守らなければならない決まりのように思えた。
でも。彼なら。あるいは彼女なら、認めてくれるのだろうか。シャルレスがシャルレスであることを肯定してくれるのだろうか。シャルレスがしたいことをしていいと言ってくれるのだろうか。
「さっきから言ってるだろ。お前が望む方を選べばいいんだよ」
―――。
シャルレスの目から、再び何かが溢れた。
「…………けて……」
「あ?」
声が掠れる。みっともなく嗚咽がこぼれる。泣き顔はきっと情けない。
それでも言うのだ。シャルレスの意思を、告げるために。
「――助けて……!」
振り絞った声はやはりどこか掠れていた。息も途切れ途切れの情けない声。けれどレインには届いたようだ。
ほとんど見えない少年の顔の口元は、わずかに緩んでいたように見えた。
「――当たり前だ。俺は……そのためにここに来た」
パァン! と障壁が壊れる。だがそれは光に耐えかねたのではない。レインが自ら解いたのだ。
迫り来る無数の光。どれか一つでもまともに受ければ致命的な傷を負うそれらを。
「目覚めろ〈タナトス〉。神能、“虚無”」
いつの間にか漆黒の剣が握られていた右腕が閃き、光は全て闇へと呑まれた。
「―――!?」
男がわずかに目を見開く。詠唱が止まり、一時の静寂を得た空間にレインの声は響いた。
「覚悟しろ。お前はここで終わる」
途端、ぞわっと場を走ったのは悪寒。
シャルレスはレインの違和感を察する。ずっと押さえ込んでいたのはこれだ。
圧倒的な覇気。そして……殺意。
「さあ……始めよう」
レインの口元はわずかに緩み。
瞳には、いつもの光のかわりに、ぎらついた殺意が宿っていた。




