4─3 そして彼女は声を聞く
「魔法は万能かもしれない。ただしそれは魔素という前提条件があってこそ。今のあなたに何かをすることは出来ない」
水を操る神能”蒼淵“によって造られた厚い氷の牢獄、〈氷零牢獄〉により外部との繋がりを断たれた男。牢獄の内部に魔素の供給が行われることはなく、故にこの状況下ではいかなる魔法をも使うことは出来ない。それは魔法を得意とする男にとっては致命的と言えるほどの危機であるはずだ。
しかし――男は笑った。
「魔法は万能……。そうだ、魔法ほど優れた力は存在しない。特異体質も異能も、果ては神能でさえ、どんな力でも魔法を介せば説明がつく。違いなど、どこから代価を引き寄せるかだけに過ぎん。魔法系体を完全に理解すれば再現出来ない現象などない」
「…………?」
男の独白にシャルレスは眉を潜める。何故なら男が言っていることが指し示す事実はただ一つ。
「教えてやろう。儂の特異体質は現象を魔法系体的に直接理解する力。つまり――」
男は〈氷零牢獄〉に触れる。物理的攻撃力はほぼ零に等しいはずの男には削ることさえままならないはずのそれを。
「――〈瞬間融解〉」
発動したのは、神能”蒼淵“の力。
強固な氷の牢獄は一瞬で蒸発した。
「…………!?」
「理解するだけであればさして意味はない。だが儂の魔法能力と知識を以てすれば再現することも容易。これが儂の特異体質――”模倣“」
ゆっくりと、男は牢獄を抜け出た。
「――ッ!」
瞬間、直感的にシャルレスは理解した。あの男を野放しにしてはならない、もう一度縛り付けておかなければならない。でなければ――自分は死ぬ。
「……っ、〈瞬間造形〉!」
一帯に忍ばせておいた氷の内、男の足元の氷を融解。男の足がぬかるんだ土にわずかに沈むと同時に凝固させる。しかし、
「無駄だ。〈瞬間融解〉」
全く問題ない様子で男は再び”蒼淵“を発動、氷は瞬く間に消え失せた。
男が”蒼淵“を使う過程に違和感は一切ない。長くこの力を使ってきたシャルレスと同等の速度、正確さで男は水を操っていた。
「儂に”慣れ“などという感覚は必要ない。どう操ればいいのかは、全て最初から……現象を目にしたその時から知っている」
シャルレスの戸惑いを窺い知ったかのような男の言葉。
今の男に”蒼淵“は全く効果を成さない。唯一、男を上回れる可能性があった〈ミツハノメ〉の力すら通用しなくなった今、自分に勝機はない。シャルレスはそう悟ってしまった。
そしてそれが、シャルレスを激しく動揺させた。
「やはりまだ若いな……。全て見えたぞ?」
「……ぁ」
――〈無感心〉が効果を失い、シャルレスの姿があらわになる。
シャルレスが何かをする暇は与えられず。
「〈射通す光〉」
無詠唱で魔素を呼び寄せた男が生み出した光球。恐ろしいほど滑らかに魔素が集中し、そこから一条の光線が放たれた。
照準はシャルレスの頭。
刹那の動揺からシャルレスは反応が遅れ――。
「…………ッ!」
――光線がまさに頭を貫通する寸前で、何とかシャルレスは頭を捻り、絶対的な威力を持つであろうそれをかわした。
しかし。
「そういえばこんな使い方もあったか。〈全射氷鏡〉」
光線が向かうのは、氷で出来た湾曲鏡。元から反射するつもりであったかのように設置された仕掛け。
跳ね返された光線は、シャルレスの右腕を正確に貫いた。
「…………うぐっ……!」
体を走る激痛。だが次の瞬間、その傷口では魔素再生が起こり傷を癒す。
シャルレスの体に備わる悪魔としての力は、もともと人間としての体を強制的に造り変えたものであるため、シャルレスの意思とは独立して動く。男の術式による異常な魔素濃度の高さも相まって、人の指ほどの小さな貫通痕はすぐに塞がった。
「ふん……さあ、魔素は十分に用意してやったぞ。どこまで耐えられるか、頑張ってみろ」
歯を食い縛るシャルレスに対して、歪な笑みを浮かべながら男は無言の詠唱を始めた。
***
「……………………」
「……………………」
戦場は、すっかり音を失っていた。
辺りの家屋はほとんどが倒壊し、無傷なものは一つとしてない。石畳の道はところどころが抉れ無惨な有り様だ。日を遮っていた建物がなくなったことで、戦場となる前よりは少しばかり明るく感じる。
その中に立つのはただ一体。
アムとイムが“同一化”で融合した悪魔――アイム。
そしてそれと対峙していたはずの二人は、散乱する瓦礫の中に埋もれていた。
「……死んだ? 死ん、だ?」
言語さえ本当に理解しているのか分からないアイムの声だけが響く。いや、響くというよりも、空気がそこにいるのを避けたがって震えているようにも思えた。それぐらい圧倒的な威圧感と違和感をアイムは放っている。
「……………………」
瓦礫に埋もれながら横たわるアリア。自らの血に濡れた髪でその瞳は見えない。身体中は傷だらけで、呼吸しか出来ないのが現状だった。
純粋な力は時に「技」を圧倒する。どんな小細工も通用しない絶対的な力というものが世の中には存在する。積み重ねてきた努力も、犠牲も、全てを無に還してしまうような力は、きっと何よりも理不尽で――しかし、正しい。
少なくとも、ただ無駄死にする命よりは大きな意味を持つ。
アイムを相手にアリアとアルスは何も出来なかった。その速さと力に全て打ち砕かれた。神能も二人がかりの連携も、強固な肉体と二つの頭を持つ悪魔には一切通用しなかったのだ。それどころか防御すらままならず、こうして死を待つだけの身となっていた。
知能や理性を失っただろうアイムとて「標的を確実に殺す」という点では無能ではない。今は静かにしていてもやがて二人を探し始めるだろう。アルスがどこにいるのかはアリアには分からないが、いずれどちらかが見つかり殺されるのは目に見えている。
「…………怖い」
血の味を感じながらアリアはアイムに聞こえないほど小さくそう呟いた。
――怖い。このままでは殺されるという確信はやはり何よりも怖い。誰かに助けを求めたい。あの黒髪の少年が颯爽と現れる未来を望みたい。
しかしそれは許されない。何故なら、自分でその未来を断ち切ったのだから。
「怖い……怖、い……」
翼獣魔種と対峙した時も感じた恐怖。敵うはずのない脅威を前に体が冷たくなっていく感覚。脳が思考を止めてしまう実感。
怖い。確かに怖い。だが。
――『大厄災』の日は恐怖を感じることもなかった。
今思えばあれは安堵ですらあったのかもしれない。もう苦しまなくていい、無為に生きていく必要はなくなるのだ、という。
しかし本当は、それこそ真に恐ろしい感覚だったのだ。生にしがみつくことを忘れた、諦めた、つまりは人どころか生物であることを止めた者の感覚。
それに比べれば、今は。
死を怖いと思える。自分が死ぬことで悲しんでくれる人がいる。自分が死ぬことで救えない人がいる。自分が死ぬことで会えない人がいる。
――死にたくないと思える理由がある。
「ああ…………そうか」
体の奥底から沸き上がってくるこの感じははたして何なのか。体験したことのない熱さ。勇気でもヤケになったのでもない。どこまでも体は熱いのに、止まりかけていた思考は再び活性化し、どこまでも冴え渡っていく。
瓦礫を押しのけてゆらりとアリアは立ち上がった。
気のせいだろうか、痛みはさほど感じない。傷は塞がっていないし治癒魔法を使っている訳でもない。だが痛くない。恐らく動ける。
ちょうど同じくして、アルスもまたゆっくりと立ち上がった。いつもは眩しいほどの金髪は赤黒い血で台無しだ。制服もぼろぼろ、足にはほとんど力が入っていない。でも、その瞳は――。
「……うん。今なのよね」
――死んでいない。それはきっと、自分も。
アリアは直感した。これが最後の鍵なのだと。
「生きて、る? 早く……死ね!」
アイムがアリアの前に立つ。振り上げられた腕は二本。最大級の一撃がアリアを木端微塵にするのはほぼ確定事項。防御などあってないようなもの。
全てを破砕する力がアリアに向けて放たれた。
しかし、刹那。
アリアの耳に聞こえた、“何者か”の詠唱。
アリアはそれをただ繰り返す。
「我が身に顕れよ、焔と共に。〈顕神〉」
神王の視界を埋め尽くしたのはすさまじい土煙。そして轟音が耳に響く。
「……決まったな」
そっと目を閉じて神王はそう言った。
『決まった? 終わったのか?』
いまだ繋がったままの個人回線からはレインの声。珍しく動揺した様子のレインに神王は静かに告げた。
「ああ、趨勢は決した。――貴様らの勝ちだ」
『え…………?』
「目覚めたぞ。あの少女はついに……神に認められた」
再び開けられた神王の視界には。
燃え盛る焔が映っていた。
「…………んぉ?」
アイムが訝しげな声を上げる。
おかしい。自分の攻撃は全てを破壊するはず。なのに何故か――。
「かた、い」
――振り下ろせない。剣が何かに阻まれている。
「んお……? …………あ」
土煙が収まって初めて、アイムはそれに気付いた。
自分の二振りの剣を阻んでいるのは、小さな人間のたった一本の神器だということを。
「ありがとう〈ヘスティア〉。私を認めてくれて」
次いで感じたのは――悪寒。
アイムが本能的に剣を退くのは既に遅すぎた。
「〈絶焔剣〉」
目の前に立ち上った大きな焔。それが消えた時。
アイムの二本の腕は、肘から先がなくなっていた。
「…………――っ!?」
瞬間、アイムの本能が告げる。
逃げろ、あれは人間ではない、と。
恥や誇りといった理性的感情を持たないアイムはすぐさま行動に移った。四本の足を巧みに使い、瞬きをする頃にはアリアの攻撃範囲から逃れている。もちろん足を止めることはなく、出来るだけ遠くへ――。
「〈極共鳴〉」
――アイムの視界の下で幾度かの瞬きの直後、アイムはバランスを崩し思いきり前のめりに転倒した。大質量故の巨大な運動エネルギーはおよそ三秒もの間の地面との摩擦でやっと相殺される。
足には、四本とも大きな穴が開いていた。
「ぐう……ォ!」
何とか再生を終えた腕を四本使い上体を持ち上げる。その目は怒りに血走っていた。
そこに映ったのはアリアとアルス。
しかし先程までとは姿が違う。アリアは赤く神々しい籠手と装飾冠。アルスは前髪がかきあげられ、金の瞳がより荒々しく輝いている。
そして共に、手にした神器が桁違いの覇気を放っていた。
その力の名を〈顕神〉。神器に宿る神を身を以て体現する、神器使いの奥義。
修得出来るのは選ばれし神器使いの中でも限られた者のみ。神を信じ、神器を信じて剣を振った者だけが辿り着ける境地の一つ。
「最後の鍵は生への執着……。なるほど、一人の修練だけじゃ力を抑えられない訳ね」
「久しぶりだよ、この感覚。今なら全てを貫ける」
〈顕神〉に至るまでの過程はアリアとアルスでは異なる。アリアが愚直に剣を振り続けることで神に認めてもらったのに対し、アルスは“神の子”としての力で神に認めさせた。
いずれにしろ、今の二人は先程までとはもはや別物だ。
「ぐう……あァああアアあァ!!」
足の修復を終えたアイムは咆哮した。それは怒り故か恐怖故か、辺り一帯を破壊し尽くすかのような衝撃がビリビリと放たれ、
「コあァアアああ!」
アイムが立ったのはアルスの目の前。二本の剣は振りかぶられていた。
「シャアッ――」
「〈極大共鳴〉」
ズン、と。剣が振り下ろされるより早く、アイムの腹から〈アポロン〉が生え。
「カッ…………」
〈アポロン〉が急激に振動を始め、直後。
弾けるようにアイムの腹に大穴が開いた。
「……ゴァッ」
どす黒い血を吐き、よたよたと後退るアイム。魔素再生が始まり何とか傷痕が塞がった途端に、飛び上がったアリアの鋭い一撃が首を狙う。
「……はああっ!」
「ッ、グガァ!」
すんでのところで相殺が間に合い、大きな金属音が響く。だがアリアは止まらない。空中に留まったわずかな時間で十を越える剣撃が放たれた。
「ダッ!」
その悉くをアイムは防ぐ。真正面からの攻撃であれば対処は難しくない。しかし。
滞空時間を終えアリアが着地――した次の瞬間にはアリアはアイムの真後ろに回り込み、飛び上がっていた。
「…………がッ!?」
速いという次元ではない。まるで時間ごとずらされたかのような高速移動に、アイムのもう一方の首が対応する。
しかし、そこにいたはずのアリアはもはやそこにはいない。
「…………!?」
「ここよ」
アリアの声は真下から。
「〈撃上華焔〉」
〈魔障壁〉に包んだ“神之焔”。限界まで蓄えられ内包されたエネルギーは、枷が外れた瞬間に牙をむく。
チリッ、と。特大の火花が散り。
――想像を越える大爆発を生み出した。
「ギャあァああアアあぁ!?」
アムやイムより堅く重いはずのアイム。その半身が爆ぜ、上半身が真上に吹き飛ぶ。
高さにして大人三人分は優にあろうかというほどに浮かび上がった巨体。飛翔の頂点に達し、速度が零になった時。
そこにはアリアがいた。
アイムのさらに上にアリアは跳躍していた。
「アルス!」
真下――つまりアイムめがけて剣を引き絞りながらアリアは叫んだ。答えるのはアリアとアイムを結ぶ直線上の地表で目を閉じたアルス。
「僕まで巻き込まないでよ! ――〈可聴世界〉」
そしてアルスは〈可聴世界〉でアリアの位置を確認して剣を上へ。振動制御の能力が真価を発揮し、真上へとのびる空気の振動による一本道をつくりだした。道はアイムを貫通し、アリアの元へと届く。それはさながらアイムを串刺しにするかのように。
ついに、〈ヘスティア〉が焔を纏った。
「純粋な力は……純粋な力でねじ伏せる。神能“神之焔”、〈絶焔剣〉」
アイムとはまだ距離がある。普通の突きでは届くはずのない一撃を。
「負ける訳にはいかないからね。神能“鳴奏”、〈響き渡る道〉」
アルスが整えた振動の道に打ち込み。
「「――合技、〈深紅の鎮魂曲〉」」
――焔が、道を駆け巡った。
空中から地表へと、アイムを貫通する焔柱。体の内側から焼かれる……否、融かされる感覚は、恐らくそうそう味わえるものではない。
「ガアアアアアアアアアアアッッ!!」
「「ああああああああああああッッ!!」」
焔柱はアルスの直前で二手に別れ横へ逃げていく。アルスの道の制御とアリアの焔の制御があって出来る芸当だ。
アイムの叫びに二人は容赦せず力を注ぎ込む。ここで決めなければいけない。決めなければ、勝てない。勝てなければ、救えない。
二人の神器使いのありったけが込められた合技はついに完全に調和した。
「「ああああああああああああッ!!」」
アルスの道が広がり。アリアの火力が爆発的に増え。
焔柱は、辺り全てを巻き込む特大の半球へと進化し。
全てを巻き込んで、爆発した。




