3─2 少年は常に悩む
月曜の授業には、レインはいつにもまして身が入らなかった。
あの日から、あの氷の前に立つシャルレスの顔と声が頭を離れない。レインが見てきた中で、あれほど悲しくなさそうな悲しみはきっとなかった。シャルレスに心があったならば、涙は流れていたのだろうか。堪えきれない嗚咽が響いていたのだろうか。
『もう全て手遅れだから』とシャルレスは言った。それが示すものが何なのかははっきりと分からない。しかし断言出来るのは、放っておくことだけは絶対にしてはいけないということだ。このままにしておけば、きっと何かが壊れる。
「……放っておける訳、ないよな……。でも……」
ただ――だとしても、レインの思考はまとまらない。シャルレスを救うべきだと、支えるべきだということは分かっている。彼女はきっと悪ではないのだから。あの告白はシャルレスの心の現れだ。似た苦しみを持つレインには分かる。シャルレスは苦しんでいるのだと。
しかし、ならばどうするというのか。シャルレスは今日学園には来ていない。いや、あれだけのことを晒した後だ、今後も来るとは思えない。本人と話すなんてことは到底無理だ。
いつもならこういう時にはミコトに相談するのだが、ミコトもまた、ここしばらく学園には来ていない。シャルレスの言葉とそれの関連性を疑うのはさすがに勘繰りすぎだろうか。しかし何となく、ミコトがいればシャルレスはあんなことを言わなかった気がする。あの全てを見通しているような学園長がその事実を知っているのかは分からないが、いずれにしろシャルレスがミコトの前でそんな話をしたがるとは考えにくい。
そんなことを考えれば考えるほどミコトの不在が怪しく思えてくる。学園の最後の守護者でもあるミコトは迂闊にここを離れられないはずなのだ。生徒たちに何も伝えられないのは情報の拡散を防ぐためだろうが――。
「――イン。レイン。ちょっと、レイン!」
「はっ?」
はっと我に帰ったレインの前に立っていたのはアリア。辺りを見回せば級友たちは既に帰る準備をしている。いつの間にかホームルームが終わっていたらしい。
「あ……悪い。考え事してて」
「でしょうね、授業の時もそうだったもの。何かあったの……って聞くのは無粋か。シャルレスのことでしょ?」
「……ああ。何があったのか、何を考えてるのか、全部教えてもらった。このままじゃ駄目だ。何もしなきゃ――シャルレスは救えない」
「…………」
レインが最後に見たシャルレスの瞳には静かな決意の色があった。見間違えるはずがない。あれは――全てを犠牲にしてでも何かを成そうとする者の瞳だ。
『大厄災』が起こる前に何度も鏡の前で見ていた、誰かの瞳だ。
「きっとシャルレスは苦しんでるはずだ。でも……正直、迷ってる。俺は今、何をするべきなのか――」
「へえ、珍しいわね」
「は?」
言葉を遮ったアリアにレインは呆けた声を出した。
「あんたが迷ってるところは何回も見てるけど、それを直接言ったのは珍しいってこと。いつも一人で何とかしてこようとしてきたのに。だいぶ参ってるみたいね」
「…………」
思えば確かにそうだったかもしれないとレインは自嘲した。勝手に首を突っ込んでここまで悩んでいれば世話はない。あげく他人にまでそれを漏らしてしまうとは。
敢えて言うとすれば、自分は動揺しているのだろう。起こった事象が理解の範囲を越えているというのではなく、それがあまりにもどこかで見たことのある話だったから。おこがましいようにも思えるが、彼女が置かれた状況をレインは恐らく誰よりも正しく把握している。
「はあ……つくづく情けないな……」
「別に情けなくなんてないよ、レイン君。……まあ、僕に言われても気休めにはならないかもだけど」
アリアの横に立ったのはアルス。
「シャルレスさんが何を話したのかは分からないけど、少なくともシャルレスさんはレイン君ならいいと思ったから話したんだ。レイン君でさえ戸惑うくらい大きいものをね。多分、それってすごいことなんだと思うよ? だったらなおさら、どうするかは君が決めなきゃ」
「アルス……」
どこまでも真っ直ぐなアルスの瞳を見てから、レインは一度視線を机に落とした。
幾度となく繰り返した自問自答は既に袋小路と化していた。後戻りは出来ないし、先に進むこともままならない。レイン自身が正しいと思うことを選択し続けたどり着いたのがここだ。シャルレスのこと。悪魔のこと。ゴルジオンのこと。人間のこと。自分のこと。それら全ての確かなことを突き詰めてなお、答えは定まっていない。
シャルレスは善なのか、悪なのか。助けるべきか、助けるべきではないのか。それ以前に、自分はこのことに関わることを許されるのか、許されないのか――。
いくら悩んでもそれらの結論など出るはずもない。どれだけ探しても正答例は見つからず、感情ばかりがぐるぐると同じところを回り続ける。
――だが、それでいい。答えが定まっていなくともレインは存在出来る。進むことも戻ることもせず、「保留」という停滞を選択することは出来る。袋小路の中に、ただいることだけで、レインは猶予を得る。
「……うん。やっぱり俺はしたいことをする。自分がすべきだと思うことをするよ」
袋小路を破る確実な得物を手に入れるまで待ち続ける。レインに出来ることを黙々とこなしながら。
それが、今回のレインの答え……いや、答えへの道筋だ。
「……それでいいんじゃない? 人に決められたってどうせ納得しないんだから」
「うん。それが一番レイン君らしいよ」
二人の賛同を得てレインは小さく笑った。
とりあえずもがく。何が出来るか分からなくても、シャルレスを救うことを唯一の目的にあがき続ける。
袋小路を破るのか、諦めるのかは手にした得物で決めるだけだ。
「よし、じゃあ俺は……いや、二人ともついてきてくれるか? 多分俺だけじゃ間に合わないから」
「……いいの? 勝手に私たちまで。シャルレスが信じたのはあんただけでしょ」
アリアはほんのすこし目を伏せた。アルスもまた遠慮するような笑みを浮かべる。
「僕たちは嫌われてると思うよ。悪魔討伐の時とかに、最初はアリアさんを仲立ちにして話そうとしてたんだけど……その度に、嫌な思いをさせちゃってたんだと思う」
「ま……そうでしょうね」
珍しくしおれたアリアを見て、レインはアリアたちが自分と同じ気持ちであることを知った。ずっと気にかけていたのだ。恐らく、初めて会ったときからずっと。
「なるほど……だからか」
――そして、その思いはシャルレスにもしっかり伝わっていたのだと確信した。
レインは胸ポケットを漁ると、そこに入っていた紙切れを取り出した。机の上に開いて乗せると、そこには。
「……! これ……シャルレスが……?」
――「アリアとアルスにも全て伝えて。これが多分、最後だから」と、達筆で短い文だけが書かれていた。
「シャルレスは二人にも感謝してたんじゃないのか。表面上はどうであれ」
「…………」
シャルレスの実家――実験室と言うべきか――を出るときに居間の机の上にこれが置いてあることに気づいたのだ。ただの義理でシャルレスがこんなことをするとは思えない。彼女は本当に二人に感謝していたのだろう。
「これ……もらってもいい?」
アリアは紙片を取るとそう聞いた。レインが頷き、アルスもまた静かに笑って許可すると、アリアはそれを丁寧に折り畳みポケットに入れた。
一度ポケットの上から優しく触り、目を閉じる。しばらくして目を開けたあと、アリアは言った。
「さあ、やるわよ。シャルレスを助けるために」
いつにもまして気持ちのこもった宣言にレインとアルスは頷いた。
「それで、どこに行くつもりなの? シャルレスに何があったのかも説明して欲しいんだけど」
「シャルレスのことは行きながら話す。とにかく情報が欲しいから……アルス、今って城に神王はいるか? それかガトーレンさんでもいい。俺らを通してくれる人がいれば……」
「特に大きな公務もないし、二人ともいると思うよ。城に行くつもり?」
レインは頷き、一人言のように呟いた。
「ああ。それに……あの人が身内をほっといてどこかにいなくなるはずがない。俺らの動きを予測してるとすれば、きっとこれが正解だ」
「?」
レインの呟きに、アリアとアルスは首を捻ることしか出来なかった。
***
「いよいよだな。我らが悲願が果たされるまで、もはやさして長くはあるまい」
ぼろぼろのローブを纏った老人は、不気味な液体で満たされた半透明のカプセル型の容器の前で満足げに呟く。
時折その中の「何か」から気泡が生まれコポコポと上に昇っていく。最後の調整が終わりつつある今、小さく丸まった状態のそれの大きさは人の頭ほどになっていた。全体的に見れば人型に見えるが、頭部と思われる部位が体の大半を占めており、体を包む鱗のような甲殻が、それが人とはかけ離れた存在であることを示している。
男の横に立つのはシャルレス。表情なく目の前の奇怪な物体を眺める少女の瞳は暗く蒼い。
「直接見るのは初めて。これは……何?」
そんなシャルレスの質問に男は嬉しそうに答えた。
「対神騎士用に強化された儂の最高傑作だよ。人間を素体にして魔素を取り込ませた場合、兵器として完成する可能性はかなり低くなってしまう。だから高濃度の魔素にも耐えられるよう、下位級の悪魔そのものを素体に使ったのだ。ゆっくり、ゆっくりと魔素を行き届かせ、体が壊れないように強化する最適の度合いを見つけるのに果たして何年かかったことか」
「それじゃ、知能は――」
「ああ、あくまで下位級程度しか持ち合わせておらん。この容器の中で体を一時的に劣化させ眠らせておかなければ、有り余った力で儂らすら殺そうとするだろう。身体能力だけなら上位級も鼻で笑える次元にまで達しておるはずだ」
シャルレスはぐるりと辺りを見回す。そんな化け物がこの部屋に十数体。確かな強さは分からなくとも、恐らく神器使いを以てして一体を相手に出来るかどうかだろう。
「これだけの強さであれば問題ない。まずはこいつらを使って〈フローライト〉を落とす」
男の言葉にシャルレスは身じろぎ一つしなかった。
「お前のおかげでミコトは今学園にいない。であれば、残った教官や生徒の実力を考慮しても十分制圧可能だ。制圧に成功すれば学園の機器を使ってこいつらをさらに量産し、国中に放つ。『大厄災』の再演だ。それも今度は一体一体が上位級の大軍勢のな」
声量こそ抑えてはいたが、男の声からはその喜びがありありと感じられた。国を――いや、人間を大量虐殺出来ることに男はこれ以上ない興奮を覚えているのだ。
「お父さんは、どうして人間を殺そうとするの?」
そんな男に向かってシャルレスはぽつりと聞いた。けして深い意味はなく、ただ単に疑問に思ったことを聞いただけのような響きだった。
「どうして……か。そうだな、お前には話していなかったか」
男は少し視線を上げ、どこかの虚空を見るように壁を見つめた。その目に映るのは果たしてどんな光景なのか。
しばらく沈黙した後、男はゆっくりと語り始めた。
「はるか昔……儂がまだ名もない悪魔だった頃に、大きな戦が起こった。全ての世界を巻き込むその大戦の最中に、儂はある方から名を頂いたのだ。名によって力を得た儂は、我ら悪魔軍の主力であるその方のおかげでこうして大戦を生き抜くことが出来た……」
シャルレスも初めて聞く男の昔話はあまりにも唐突で、理解することは敵わない。しかし男は既にシャルレスに聞かせようとしているようには思えなかった。どうして自分はここにいるのかと、かつての自分まで遡り、そして一歩ずつ記憶を辿るように男は話す。
「儂はその方に憧れ、命をも捧げると誓った。だがその方は……憎き神々と人間の手によって殺されたのだ。それを知った時儂は決めた。例えどれほどの時間が経とうと、必ず奴らを滅ぼすのだと。あの方の仇をとるのだと」
「…………」
憎しみをあらわにした男の目は、今までシャルレスも見たことがないほどに鋭く残酷な光を宿している。何をしても男が止まることはないと確信出来るほど光は強かった。故に、シャルレスが何かを言うことはなかった。
「……まあ、儂の昔話などどうでもよい。お前にはまだ重要な役割が残っておる。作戦は予定通り明後日に行うから、それまでは体を休めておけ。あのミコトをも殺した腕だ、信頼しておるぞ」
男は踵を返すと、最後にシャルレスの肩をポンポンと叩いてから部屋を出ていった。閉じた扉によって、部屋にはシャルレス一人が残された。
シャルレスは何も言わず容器の中の存在を見る。
「…………あなたも、私と同じ。使い捨ての駒」
シャルレスが小さく呟いた時、またコポリと気泡が生まれた。




