1─4 青髪の少女
「えっ!? レイン君そんなこと言ったの?」
昼休み。教室は喧騒に満ちていて、アルスのそんな大きな声はさほど響かなかった。
いつもは食堂に向かう時間だが、今日はいつもとは事情が違った。アリアが一時限目以降、妙に不機嫌でいるため、レインはアルスに相談しに行ったのだ。
「え、俺そんなにおかしなこと言ったか? 別に何も考えなかったけど」
「そりゃアリアさんもショック受けるよ……。レイン君が他の女子に興味あるなんて言ったら、むしろショックを受けないはずがない」
「え?」
「……え?」
レインが首を傾げるとアルスもまた首を傾げる。
しばらくそのまま不思議な時間が流れた。
「えーと……うん、レイン君はもう少し周りを見たほうがいいかな。鈍感な男子は後ろから刺されるよ?」
「ちょっと待てそれどういうこと!?」
顔を戻したアルスが呆れた視線を向けながら放った意味深げな言葉に、レインは思わず叫んだ。
「……ええと、シャルレスさんについてだっけ? まあ、僕もそんなに知ってる訳じゃないんだけど」
「あ、スルーするんだ……」
「どんなことが知りたいの? 一から説明するのは難しいよ」
アルスはもはやレインが鈍感云々の話に戻る気はないようで、レインも追及は止めてそれに従う。無駄に突っ込めば返って自分が被害を受ける気がした。
シャルレスについてレインが知っていることは本当に少ない。何をするにしてもまずは会わなければ始まらないので、それについて聞くことにした。
「とりあえず、いつもどこにいるのか、とか? 会えないと話にならないしさ」
さすがに家、或いは寮について知っているとは思えないし、レインにそんなところまで押し掛ける勇気はない。だが、そのきっかけになり得る何かしらのヒントは得られる可能性がある。
そもそも学園に来ているのかが問題だ。もし来ていないならば会うことも困難になるのだが――とレインが考えていると、アルスは「ちょっと待ってて」と言うとアリアのところへ向かった。
いまだ机に突っ伏したままのアリアの肩を叩き、顔を上げたアリアと何か話をしている。指差したのはシャルレスの席の方だろうか。アリアもそちらを向き、少ししてからアルスに何かを伝えたようだ。
用事は終わったらしく、アルスが戻ってきた。
「今日はいるってさ。シャルレスさん」
席に座ると同時にアルスが告げた言葉にレインは再び首を捻る。
「は? いるって、どこに?」
見渡すが、それらしい人影は見当たらない。するとアルスは笑って言った。
「自分の席にだよ。つまり……そこに」
アルスが指差したのは――何もないように見えるシャルレスの席。
ますます意味が分からずレインが頭の上にクエスチョンマークを浮かべているのを見て、アルスはレインと同じようにそちらを見て言った。
「僕たちには見えないよ。彼女が持つ異能の効果でね」
「え……見えない……?」
見えない、とはどういうことか。
シャルレスは神器使いであるから、異能が使えることには何の不思議もない。だが、人一人を一切見えなくするというのは言葉で言うほど簡単なことではないのだ。
例えばレインが背中の鞘に対して行っているように魔法を使うとすれば、ましてや一日中完璧に隠蔽するとなれば、その難易度や消費魔素量は必然著しく高くなる。
ちなみにレインの場合は細い鞘なのでもともと消費が少ない上、ガトーレンに貸した護符で鞘から放たれる気配を消去することで、想像以上に魔素量は小さくなっている。もちろん最初に発動させるにはかなりの腕前が必要になるが、朝に発動させれば後はさして負担にならない。
果たしてシャルレスが持つのはどんな異能なのかとアルスに聞くと、返ってきた答えは想像にかすりもしない特異なものだった。
「“受心”、だったかな? 相手の気持ち……というか心理状態を読み取れる能力だったと思うよ。思考も簡単になら分かるから、下手な隠し事は出来ないんだって」
「へえ……。でもそれは俺たちが見えない理由にはならないんじゃ……?」
「シャルレスさんはその逆も出来るんだ。読み取るんじゃなくて、送信する。相手の思考や知覚状況に干渉して、そこに誰もいないように錯覚させるみたい」
「…………!」
そんなシャルレスの異能にレインは息を呑んだ。
つまりは精神干渉。根本的に意識レベルで感知させない究極の隠蔽だ。
「じゃあ、俺が朝見たのは…………シャルレスさんだったのか」
それを考えれば、レインが早朝に見たのはやはりシャルレスだったのだと推測出来る。
レインが教室に入りシャルレスを見た途端にその異能が行使されたのだろう。目で追えないほど高速で動いたのではなく、意識から逃れただけに過ぎなかったのだ。
「さっきはアリアさんにシャルレスさんがいるのかを聞きに行ったんだ。そしたら『涼しい顔して座ってるわよ』だってさ」
「……なるほど、アリアは“無属”が精神干渉を無効化するから見えるのか」
「うん」
シャルレスの異能を聞いて、ふとレインは考える。
対象の意識に干渉して感知されるのを防ぐ。それはどこかベルが持つ能力に似ているのではないかと。
もちろんシャルレスの異能“受心”を完全には理解していないため断言することは出来ないが、少なくとも他者の意識を操作するという点で二人の能力は似ている。もしかしたらシャルレスの異能を詳しく知ることで、ベルの不可解な能力への理解や対策が考えられるかもしれない。
「……何か、シャルレスさんとますます話してみたくなったな」
思ったことを素直に漏らしたレインの横でアルスはため息を吐いた。
「レイン君……それ、アリアさんの前で言わない方がいいよ」
「?」
当然ながら、レインがアルスの言葉の意味を察することはなかった。
***
午後の授業も終わり、放課後。昼休み以上に騒がしくなる教室で帰る支度をしながらレインはふとシャルレスの席を見た。
やはりそこには誰もいるようには見えない。タネが分かっているのに見えないということは、かなり強固な精神干渉が行われているのだろう。気合いや根性でどうにか出来るとは思えない。
だが、レインにはある秘策があった。
「レイン君、一緒に帰ろうよ」
と、レインが支度を終えて顔を上げると、そこにはアルスがいた。このところいつも一緒に帰っているため、今日も誘いに来たのだろう。
「あー……悪い、用事があるんだ。もしかしたらしばらく一緒には帰れないかもしれない」
シャルレスの席の方を視線だけで向くと、アルスもそれを察したらしい。少し残念そうな顔をしつつ了承してくれた。
「うん、分かった。じゃあアリアさんは?」
次いでアルスが声をかけたのはアリア。
神器使いとして、そしてレインの正体を知っている仲としてアルスとアリアは何かと接点が多い。都合が合うときはレインを含めた三人で帰ることも珍しくなく、場合によってはアリアとアルスだけで帰ることもある。
アリアも大分落ち着きを取り戻したようで、レインと会話こそしないもののいつも通りの雰囲気になっていた。だからこそアルスも声をかけたのだろうが、
「ごめん、私も無理。少しやりたいことがあって」
と、アリアも誘いを断った。
「……珍しいな」
レインは小さく漏らす。アリアは基本的にいつも早く帰っているのだが、今日は何か用事があるようだ。
「そうだ、アルス。もしやることないなら一緒に来てほしいんだけど、どう?」
「いいよ。僕は暇だけど……どこに?」
「第一闘技場。貸し切りの申請はしてあるから、準備が出来たら来て。じゃあ先に行ってる」
手早くそれだけを言うと、アリアはさっさと荷物をまとめて駆け足で教室を出ていった。まだ放課後になったばかりだというのに、余程時間が惜しいのだろうか。
「……珍しいね」
しばらくしてアルスもそう呟いた。主語が誰なのかは言うまでもない。
アリアが放課後に闘技場を使うのはかなり久しぶりな気がする。というのも、アルスやナガルとのごたごたで、アリアの修練にレインが付くことはしばらくなくなっていたため、わざわざ闘技場に行く必要がなかった――全力で神能を使うことのない一人での修練なら、ある程度のスペースさえあれば事足りる――のだ。休日に使っていた寮近くの庭でも充分だろう。アリアの性格を考えれば修練自体は欠かさずに行っていただろうが、闘技場を使っているとは思えない。
つまり今日闘技場を使うということは、それなりに本気で神器を扱うということで。
「何か怖いなあ…………」
と、アルスが及び腰になってしまうのも理解出来なくはなかった。
「じゃあね、レイン君」とアルスが教室を出るのを見送ってから、レインもまた自らの用事のために動き始める。
さしあたってはシャルレスに会う、可能なら会話することが目標だ。そのためには姿が見えないという障害を取り除かなければならない。だが策は既に考えてあった。
レインは胸ポケットを探る。手に当たったのは神能“虚無”を封じた護符。
ガトーレンに貸してから今までは、使用者の気配を消すことに特化した性能になっている。だが本来の持ち主であり“虚無”を操ることに長けたレインはその性能を変化させられるのだ。
元々この護符は迂闊に神器〈タナトス〉を使えない時に神能を代用する目的で作られたものである。レインが設定した一方面にしか能力を発揮出来ないが、利便性は充分に高い。
設定し直した護符の効果は「レイン自身への神能、異能の無効化」。これによりレインはアリアの異能“無属”とほぼ同じ効果を得る。
「よし……と、これで……」
シャルレスも見えるはず。そう思って教室を見渡すが――。
「…………あれ?」
――いない。シャルレスらしき人物がどこにもいない。
教室内にいるのは見知った顔だけであり、あの青い髪を持つ者は見当たらない。席にもその姿はなかった。
護符は確かにその力を発揮している。ここにいないとなればもう帰ってしまったのかとレインは慌てて教室を出た。
教室を出た先、廊下は人で賑わっていた。授業が終わってから少し経ち、今が下校する生徒たちがピークになる時間帯だ。もっと早めに確認していればと後悔してももう遅い。
見渡してみるが人が多すぎて奥までよく見えない。それでも何とか背伸びをしつつ左右を見回すと、
「…………! いた!」
かなり遠くにちらりと青い髪が見えた――気がした。
すぐにその生徒は階段へと曲がり見えなくなってしまう。だが、あの異質な空気は間違いない。この人で溢れた空間で不思議とそこだけが静寂に包まれているような感覚を覚えた。
ひたすらに息を潜めるかのように。或いは不可侵の障壁で覆われているかのように。誰をも寄せ付けず――否、誰にも察せられずただそこにいるだけ。
その空気感だけでレインは確信した。
「ちょ、待っ……」
――そして、そんなことを思っている暇はないことに気付き、レインは急いでその影を追った。
人の間をすり抜けながら何とか前へと進む。しかし不規則かつ流動的に動く生徒たちの間を走るのは困難を極め、レインが階段へとたどり着いた時には青い髪は見えなくなっていた。
だがまだそう離れてはいないはず。多少強引に生徒たちの間を縫って階段を下り、昇降口付近の廊下に出ると、案の定レインのクラスの下足箱から靴を取り出す青髪の少女がいた。
上の階で見たときからさほど距離は縮まっていない。突っかかりながらも走ったレインと同等の速度で彼女はここまで踏破してきたのだ。
「シャルレス……!」
敬称をつけることすら忘れ、レインはその名を呼んでいた。自分でもどうしてここまで彼女に固執しているのかは分からない。ミコトに頼まれたからというのももちろんあるのだろうが、彼女とは話しておかなければならないという奇妙な義務感がレインにはあった。
とはいえこの雑踏だ、それなりに距離もある少女に声が届くはずはない。はずはないのに――。
「…………」
少女は横目にレインを見た。
「…………ッ!」
その少女のあまりの異質さにレインは息を呑む。
決して嫌な感覚ではない。髪と同じく青い瞳は微かにではあるが確かに光を放ち、何者にも左右されないであろう自我を感じる。周りの空気感も普通とかけ離れているだけで負の感覚を連想させる訳ではない。
なのに、これは。
「シャルレス、お前は……!」
レインは叫ぶ。そこでシャルレスは初めて明確に感情を露にした。
マフラーの奥の口が動いた気がした。
「……あなたは、嫌い」
実際に聞こえたのではない。しかし彼女は確かにそう呟いたとレインは確信した。
それだけを言うと少女は一人だけ、周りの生徒など意に介さないように動き昇降口を出た。何故ああも滑らかに動けるのかと思うほどの不思議な動きで、するすると人の波に飲まれ、そして見えなくなった。
***
青髪の少女はただひたすらに歩いていた。
今日はあまり良い日ではない。何しろ自分の異能をどういう訳か無効化する輩が背後から追ってきているのだから。生きてきた年数は長くないが、こんな体験をしたのは初めてだ。
体に染み付いた異能を行使して他者の視界から外れる。厳密には外れるのではなく、あくまで認識出来ないようにしているだけだが、相手はそれにすら気付くことは出来ない。少女は“受心”によって自分が他者から認識されていることを感知出来るが、本来は他者に認識されることなど有り得ないのだ。
なのに久しく感じる、「自分は誰かに認識されている」というむず痒い感覚。肌がちりちりと燃え不快にさせる感覚。
厄介なことに、アリア以外にもこの異能を無視出来る存在が現れ、しかもそれが自分に興味を持ったようだ。
「……何で、私なんかに」
マフラーに顔を埋めながら、少女――シャルレスは小さく呟いた。
校舎を抜けてしばらく歩いたというのに、背後の男子生徒はいまだ執拗に追い続けてきている。確かアリアとの決闘に勝って編入を許された少年だったか。不定期に学園を休みがちなシャルレスではある――少年がアリアと決闘をしたという日も休んでいた――が、同じクラスであればさすがに名前くらいは把握している。
レイン。それが背後の黒髪の少年の名前。
シャルレスが今まさに不快を感じている相手。
だが、彼がどうやって“受心”を無効化しているのかは分からないが、恐らくアリアほど完全に防げている訳ではない。シャルレスを認識する時間にムラがあるのだ。
シャルレスが道を曲がるなど大きく動くと、ほんのわずかに認識が薄くなっている。常に異能を発動しているシャルレスに対してレインの阻害手段にはある程度の隙があるのだろう。そこさえ突けば振り切るのも難しくはないように思えた。
学園の敷地内からはとうに抜けている。辺りは既に複雑に路地が入り組む居住区の一角であり、少し脇に逸れればすぐに迷路状の細い道に入ることが出来る。
わざと目的地に真っ直ぐ向かう道を歩かずにいたシャルレスはここで初めてその脇道に入った。
同時にレインの認識が薄れる。その瞬間にシャルレスは異能を強め、レインによる無効化の虚をついて完全に認識を外した。
「…………ふぅ」
後は走るだけだ。レインがシャルレスを認識しないように物理的に距離を取って目的地へと向かう。
ただでさえ他人を近づけてはいけない場所であるため、レインの追跡をどうしても振り切っておかなければならなかったのだ。
滑らかすぎる動きで――もちろん他人には一切見えないが――駆けるシャルレスはマフラーを引き上げた。振り返ってもあの黒髪の少年の姿はない。
これほど複雑な路地だ、一度撒けば偶然出くわすことなど有り得ない。シャルレスは走るのを止め、また静かに歩き始めた。
神器使いであるシャルレスはこの程度の運動では息切れすらしないが、むしろ自分が誰かに興味――或いは疑惑を持たれているということに妙な息苦しさを感じる。不快感をすら覚える。興味を持っている誰かにだけではなく、そんな感情しか感じられない自分に対しても。とてもまともな人間とは思えない自分へも。
だがそう思うことを止めることなど出来た試しがない。彼に育てられてからは一度たりとも。きっとそこで自分は人間としての在り方を失った。
唯一の希望は、自分はたった一人に見てもらえていればいいのだと思える人に会えたこと。何も隠さなくていい人に出会えたこと。
だから、そんな希望を忘れずにシャルレスはその扉の前にシャルレスは立つ。路地の最奥、錆び付いて長らく使われた形跡のない扉の前に。
「ただいま、父さん」
一人呟いたシャルレスに。
『――おかえり、我が娘よ』
ひび割れてざらついた異質な声が応えを返した。




