1─2 あの赤い夜に
「……どういうことだ?」
ミコトはレインを瑠璃色の瞳で見据えつつ問うた。
「そのままの意味です。あの日あの場所に俺がいなければ、『大厄災』は起こり得なかった」
対してレインも、目を逸らすことなく答えた。たかが視線であろうとも、ここで逃げることだけはしてはいけないと思った。
「俺はあの日――」
レインが回顧して語るのは、今まで誰にも伝えられることはなかった『大厄災』の真実――。
***
――国は静かな闇に包まれていた。
神壁の上に立つレインの目に映るのは圧倒的な闇。公領である王国の外はいわずもがな、王国内部でもほとんどは純粋な漆黒に包まれ、村などの細部を見ることは敵わない。遙か遠くの王壁に囲まれた土地と比較的大きな街だけが微かに光を放っていた。
見上げればあるのは細い三日月の姿だけで、およそ光源と呼べるものは近くにはなかった。暗闇に馴れた目で辛うじて捉えられるのは自身の体と隣に立つ男のみ。
長い外套に身を包んだその男は呟く。
『いい夜だ。多少静かすぎるが、これからのことを考えれば都合がいい』
フードを被っている男の名はベル。レインがこの数年間教えを乞うてきた師匠でもある。まだ十五にも満たないレインからすれば背丈はずっと高く、いつも見上げるように少し視線を上げなければ、顔の輪郭を見ることも出来ない。
なおかつそこまでしてもフードを深く被っているため、表情はほとんど見えない。時折口元が覗く程度で、大抵ベルの口元は横一文字に引き結ばれていた。
顔をろくに見たことがあっただろうかと今更ながらに思いながら、レインは表情の見えない師匠に聞いた。
『……本当に今日、終わるのか』
『ああ。心配するな。今までのお前の努力を無駄にはしない』
ベルは落ち着いた口調でそう答えた。声の質は若い男のそれだが、同時に、まるで永い時を生きてきたかのような重みが含まれている。
不気味と言われれば否定は出来ない。怪しいと言われれば頷かざるを得ない。しかし何故かレインは言い様のない信頼感をベルに感じていた。
『私に従っていれば問題はない。お前が抱いてきた思いはついにここで実を結ぶ』
言うと、ベルは右手をゆっくりと眼下に広がる公領へと伸ばした。下に向けられた手のひらから、闇の中でも分かるほどの邪気が溢れ出す。
『…………』
レインはその様子を黙って見ていた。具体的に何をするつもりなのかはほとんど予想がつかない。だが直前のベルの言葉……レインの思いを叶えるという宣言を信じるのならば、ベルは。
――悪魔を滅ぼすつもりだ。
何故ならレインの望みはただ一つ、悪魔を滅ぼすことなのだから。
あの雨の日からレインはそれだけを考え生きてきた。全ての元凶である悪魔を滅する。いつか悪魔を滅ぼせるほどの力を手に入れる。あの日成りきることが出来なかった勇者になる。
そんな信念がレインを突き動かし、力を与えてきたのだ。
『俺が生物を操る力を持っていることは知っているな? 今からその力で辺りの悪魔に指示を出す。人間を操るのは簡単にはいかないだろうが、単純な本能のみに従う悪魔ならば可能だろう』
『指示……とは何だ?』
『自死だ。自ら死ぬために動くように命じる。抵抗も回避もさせるつもりはない』
ベルの手のひらから溢れる邪気は一層強くなっていた。滾々と湧く清水のように禍々しい闇は広がっていく。いつの間にかベルの腕はほとんど闇に包まれていた。
ベルの力は、間近で長く見てきたレインでもいまだ正確に把握出来ていない。
生物を操るという強力な能力ではあるが、そもそもそれが異能なのか神能なのかも分からないのだ。いや、詳しい素性すら不明であるベルのことを考えればそれ以外の能力である可能性も十分に考えられる。
こうして考えてみると、レインは今までベルの全力を見たことがないことに気付いた。神器の扱い方を詳しく知っているにしては神器を使っているのを見たこともないし、レインと立ち合う時の気配はいつも薄い。だというのに、修練中は常に死に物狂いであるレインをいとも簡単にあしらう。
底が知れない男。それが、レインがベルに抱く印象だった。
『……可能なのか? 悪魔を滅ぼすなんて』
普段何を考えているのかはさっぱり分からなくとも、強さという一点においてレインはベルを信頼している。しかし、だとしても悪魔を簡単に滅ぼせるとはとても思えなかった。
というのも、単純に悪魔の数が膨大だからだ。基本的にこの世界のどこにでも存在する悪魔であるが、いくらベルの力が強力とはいえ全世界の悪魔を操作出来るとは考えられない。ゴルジオンの周囲程度ならまだしも滅ぼすほどには至らないだろう。
それに、悪魔が今後発生しないという確証もない。
前提として、悪魔の発生原因が分かっていないのが現状だ。人類の手がいまだ届いていない遙か北の大陸――“未知大陸”に原因があるというのが最も有力な説だが、北上すればするほど悪魔の密度が増す――故に”未知大陸“に原因があると推測されている――ために、詳しい調査は出来ていない。
神王国ゴルジオンは人が暮らす国家としては最北に位置し、それ故悪魔に対する対策が進歩しているのだが、それを以てしてなお調査に向かうには足りないのである。また、”未知大陸“に向かうには当然大洋を越えなければならず、問題は多い。
抜本的な策がなければ悪魔を滅ぼすなど夢のまた夢だ。
レインの問いに、ベルは少し沈黙してから答えた。
『……可能かと聞かれれば可能だ。だが、私一人の力では難しい』
『…………?』
レインが首を捻ると、ベルは顔をレインに向けた。相変わらず表情は見えない。
『悪魔の発生原因は”未知大陸“にある。厳密にはさらにその最奥に悪魔を生み出す意思を持った”扉“が存在し、それが開け放たれると同時、悪魔がこの世界に現れる』
『……何だと? 何でそんなことを知っている?』
『一度訪れたことがあるからだ。あまり見たいと思える風景ではなかったがな』
平然とベルはそう言った。
”未知大陸“の到達に成功したという話は少なくとも公式な記録としては存在しないはずだ。つまり、国レベルの支援を受けた神騎士達ですら困難なことをベルはたった一人で成し遂げたことになる。
しかしレインは、わずかに驚きこそすれベルの言葉が真実かどうかを疑う気にはならなかった。そんなことをもやりかねない絶対的な力がベルにはある。故にレインが聞き返すことはなかった。
『悪魔を滅ぼすにはまず悪魔の供給源を絶たなければならない。ただの物質は操れないが、意思を持った物質なら話は別だ。今も生み出され続けているだろう悪魔もろとも”扉“を破壊する。――そこでお前の力が必要だ』
邪気が溢れ出す右手はそのままに、ベルは左手でレインを指差す。
『ここから”未知大陸“まで俺の力を飛ばすのは不可能だ。だがお前の異能――”翔躍“があれば、力を増幅して十分な距離を飛ばせる』
『……何?』
そこで初めてレインは呆けた声を上げた。
レインの異能”翔躍“は確かに力を飛躍的に増幅する能力だ。威力、方向の二つに作用し、非常識なまでの速度や攻撃力を生み出す。
が、第一に”翔躍“が出来るのは、基本的に自らにかかる物理的なエネルギーの増幅のみだ。外部からのエネルギーを操作することも不可能とは言わないが大きい制限があり、ましてや物理ですらないであろうベルの能力を増幅出来るとは思えない。
『”翔躍“でお前の力を操作することなんて無理だ。試したことがないし、操作の仕方も見当がつかない』
正直に言えば神器〈タナトス〉の神能である”虚無“については試してみたこともある。だが結果は語るまでもなかった。物理的なエネルギーを操作するのと非物理的な力を操作するのでは、あまりにもイメージが違いすぎるのだ。
だが、レインの反対に対してベルが提案したのは思いも寄らない案だった。
『お前が操作する必要はない。私が自分で操作する』
「な……!?」
ベルの声に呼応するかのように、レインに向けられたベルの左手からも邪気が漏れだした。
不気味に粘度を持った霧のようなそれは紐状に伸びて、レインの頭の上で毛糸のように絡まった。不定形な上、直接触れていないはずなのに、しっかりとした圧と表現出来ない重みを頭上に感じる。
『師としてお前を見てきたが、おおよそ”翔躍“については理解した。私はこの力でお前を操り、”翔躍“を使わせる。お前も知らない”翔躍“の力を引き出してな』
『…………っ』
レインは絶句した。
とても可能とは思えない――と、常識的には思うはずだ。
他人の力を使うどころか、力の持ち主ですら引き出せない真の能力を解放するなど、出来るはずがない。いや、有り得てはならない。
しかし今のレインはベルを否定出来なかった。ベルが”未知大陸“に到達したことがあると聞いた時と同じように――やりかねないと理解してしまった。
『……だが、無理にお前を操作するのはさすがに気が引ける。後のためにも消耗は抑えておきたいのが本心だ。お前さえ同意してくれれば無駄な力の消費もないのだが』
レインにとってはこの体勢に持ち込まれた時点で抗う術はない。レインの意識に関わらず無理に操作することも或いは可能だろう。
しかしベルがそうすることはなかった。それは師としての情けか、効率を優先した結果か。
つまり、操作を拒もうとしているレインの意に反して操作するのは大きく力を消耗するのだろう。対して同意しているものを操作する分にはあまり力を消耗しない。後者を望むのは当然のことだった。
『悪いようにはしないと約束しよう。お前がこの数年間、何のために努力してきたのかは誰よりも分かっている。お前の望みを叶えるために私は力を尽くすのだ』
ベルの表情は読み取れない。頭上の邪気はレインを拘束するかのようにのしかかっている。反抗すれば、いや、しようとした途端にレインが操作されるのは明らかだ。
『何故私のもとに来たのかを思い出せ。いつか胸に刻んだはずの怨念を忘れるな。また同じ過ちを繰り返すのか』
自分は何のために来たのだったか――そう悩んだことなど一時たりともなかった。常にレインの根幹にあったのは、あの雨の日の光景。自分への憤り。悪魔への怨念。
そうだ。自分は悪魔を滅するためにここに来た。
迷った時間はさして長くなかった。
『……構わない。”翔躍“だろうが何だろうが、好きに使え』
そう言って、レインは目を瞑った。
『……助かるよ。ではさっさと終わらせよう』
ベルが言うと同時、邪気が頭にまとわりついてくるのが分かった。意外と痛みや不快感はない。ただ何かが頭の中を這いずり回るような感覚だけがあった。
そして、その何かが頭の中の最奥に辿り着いたと思った途端、意識が唐突に薄れ始めた。瞼で視界を遮られていたことによる真っ暗な世界は白い霧に覆われ始め、体の感覚が消えていく。立っているかどうかも定かではない意識下で、辛うじて自分の手が動いていることだけは分かった。
それを最後に、レインの意識は刹那の闇へと落ちた。
『終わったぞ』
レインがはっと目を開けたのは、体感で一眠りし終えた頃だった。
しかし風景は相変わらずほとんどが黒に覆われている。星を見上げてみても、位置はこの神壁の上に来た時からほとんど変わっていない。
何も変わらない、とても静かな夜だった。
『終わった……のか?』
『ああ。これで大丈夫だ。私に出来ることは全て終わった』
ベルがフードを外す。それでも夜の闇に隠されて表情は見えない。しかし声だけは、いつもより心なしか弾んでいるように思えた。
『後はお前の頑張り次第だ。努力してきた成果を発揮出来ればいいな』
『…………?』
ベルの不可解な言葉をレインは訝しむ。悪魔が滅んだのならば今からレインがすることなどない。頑張り次第とはどういう意味なのか……と疑問に思った時だった。
レインの鋭敏な感覚がある違和感を捉えた。
遙か遠くから聞こえてくる大勢の足音。それに紛れている翼のはためく音。意味の分からない猛り声。静かだからこそ聞こえるそんな音たちを。
嫌な感覚。胸がざわつく。これ以上ない不安がレインを襲う。
それでも無視する訳にはいかず、レインは音のする方向――北を向いた。
『は…………? 何だ、あれ…………』
暗闇でよくは見えない。しかし逆に言えば、本来この闇の中では何も見えるはずがないのだ。
だというのに。
遠くにいるのは黒。夜の闇に同化するようなそれらは、暗闇に慣れた目でようやく捉えられた。巨大だからこそ見えた。
『悪魔…………?』
――それは悪魔の大軍。数は万を下らないほどの大軍勢だった。
有り得ない。付近一帯の悪魔はベルの操作によって死に絶えたはず。仮に生き残っていたとしても、こうも一直線にゴルジオンに向かってくる訳はない――。
そんな疑問を抱いて、レインは懇願するような目でベルを見た。レインを騙した訳ではないと、何かの手違いだと言ってほしかった。
そんなレインにベルは。
『ああ、言っていなかったか。私が悪魔に命じたのはたった一つ――”ここに来い“ということだけだ。お前のお陰でかなりの範囲の悪魔を呼び寄せられたよ』
――お前の推測通りだとレインに告げた。
『死ぬために動く……つまり、お前に殺されるために辺りの悪魔たちはこの国めがけて来る。悪魔たちを滅ぼしたいんだろう? 好きなだけ屠るといい。まあ、取りこぼした悪魔がこの国にどんな被害をもたらすのかは知らないがな』
今度は心なしか程度ではなかった。明確にベルは弾んだ声でそう言った。レインどころか国自体が滅亡の危機にあるこの事態を楽しんでいた。
悪魔の軍勢は確実に近付いてきている。猶予はもうない。
『よくやったよ、お前は。私ですらここまでは想定していなかった。思い通り……いや、それ以上の結果だ』
ベルは本当に嬉しそうに呟く。それを見てレインは何故ベルが不気味なのかを悟った。
分からないのだ。素性どころか、何のために動いているのか、何を求めて生きているのかさえも。およそ人として考えられる範囲内に、ベルの行動原理は存在しない。
そう、ベルの思考は例えば悪魔としてのそれに近い。純粋に人間を殺そうとする――逆に言えば、何故そうしようとするのかが一切分からない行動原理。
『なん……で…………』
茫然としてレインはそれだけを聞いた。それ以外にも聞くべきことはあっただろうが、それしか聞けなかった。
理解不能と恐れに震えるレインの問い。
その響きに、ベルの口元が初めて歪んだ。
『何でだと? お前が望んだことを叶えてやっただけじゃないか。いや、正確にはその機会か』
嘲るような口調と共にベルの口元はいつしか三日月を描いていた。酷薄そうな、愉快に満ちたような笑みは、レインが初めて見るベルの感情の表れ。
口から上が一切見えずとも、レインにはベルが浮かべる表情が手に取るように分かった。
『俺の……望み…………?』
悪魔を滅する。それが出来るだけの力を手に入れる。あの日成れなかった勇者になる。
それがレインの望み――。
『舞台は用意してやったぞ。さあ――“勇者”になってみろよ、レイン』
――そんな幻想は、ベルの言葉に打ち砕かれた。
違う。
違う違う違う。
そんなものではない。レインが望んだ勇者はこんなものではない。
レインが絶望すると共に轟音が響いた。神壁に達した悪魔が大門を破ったのだ。
悪魔がゴルジオンの中へ雪崩れ込む。地を走るものは我先にと門を潜り抜け、空を飛べるものはレインの頭上を越えて侵略を始める。かつてなかったであろう規模の悪魔がゴルジオンを蹂躙していく。
悪魔は地を走る種であろうと馬を遥かに越える速度で駆ける。体力の面でも他の生物を圧倒し、知能が低いことを除けば悪魔の散開速度は人間の軍隊を簡単に凌駕する。一日あれば、神王国内のほぼ全体に行き届くだろう。
神壁に近い村や集落で次々と炎が上がっていった。悪魔の襲撃を受けたのだ。かがり火のようにも見えるそれらは着実に数を増やし、暗闇を赤く染め上げる。悪魔がどこまで侵攻したのかを明確に示す印でもあった。
聞こえるのは悲鳴と、怒号にも思える悪魔の叫び。何の意味も成さない、本能から振り絞られるそれらは、これだけ離れているというのにはっきりと伝わってきた。
ヒャハハハハハハハハ! という狂った笑い声がすぐ横からする。もうレインがそちらを見ることはなかった。しばらく茫然としていると不意に笑い声は止まり、一切の気配が失せた。
『…………』
自分のせいだという後悔は飽和を迎えている。あの時ベルに同意しなければ、そもそもここに来なければ、さらに言えばあの雨の日にベルについていかなければ、こうはならなかった。自分のことだけに囚われて、ベルの思惑を見抜けなかった。
――なら、せめて。
レインは何も言わず立ち上がった。涙は出ない。涙を流すような感情は昔に捨て去った。泣きたくとも泣くことは出来ないし、許されない。
背中の鞘から神器〈タナトス〉を抜き放つ。暗闇に溶ける漆黒の刀身がわずかな光を反射してぎらりと輝く。そこに映った自分の顔には、生気と言うべきものがさっぱり見当たらなかった。
構わず一歩を踏み出す。二歩、三歩、四歩目で踏むものがなくなった。まだ残っていたもう片方の足で体を一押しして、神壁から真下に落下していく。
直立したまま綺麗に落下する途中で闇がレインの体を覆った。暗闇に紛れる――或いは暗闇から切り離されたように黒い衣装に身を包んだレインは無造作に剣を振りかぶり。
『滅べ』
丁度真下の地面にいた邪人種に、全体重と落下の威力を乗せた剣を叩きつけた。
バンッ! と爆発じみた音と共に邪人種は微塵も残らず消滅し、数瞬遅れて地面が叩きつけられた〈タナトス〉を中心に円状に陥没した。
『…………』
顔に浴びた黒い返り血を拭って膝立ちの状態からゆらりと立ち上がったレイン。異様な雰囲気を放ちながら空を見上げた直後、その姿はかき消えた。
手当たり次第に悪魔を屠る。誰にも捉えられない速度で辺りの悪魔は霧散していく。時折聞こえる切断音と黒い出血だけがその時のレインの場所を伝えていた。
永遠とも思える鏖殺の跡は、やがて王都へと繋がっていく。
そして後にこの鏖殺の主はその姿から”漆黒の勇者“と呼ばれることになる。
これが誰にも語られたことはなかった『大厄災』の真実――。




