1─4 絶対に
――勝った。
眼前の焔の海を見て、アリアは確信した。
いくらレインとて〈竜頭雫焔〉にまともに飲み込まれて無事なはずがない。それを回避する暇も与えなかった。九つの竜頭は、あらゆる方向から獲物を喰らうのだ。死角などなく、レインの超人的な反応と異常な速度を以てしてもかわせるはずがない。
だが。
アリアは確信すると同時に感じとってもいた。
レインはまだ諦めていない。
「まだ……抗うの?」
伝わってくるのは確かな感触。
〈ヘスティア〉の神能“神之焔”は、究極の炎熱操作を可能とする能力だ。対象は〈ヘスティア〉自らが創り出す焔のみならず自然界の炎にまで及ぶ。神器の使用者は、完全にこの世の焔を掌握出来るようになるのだ。
しかし“神之焔”を以てしても、確かに阻まれている。アリアが制御しているはずの焔で唯一飲み込めない。
そう――あの、レインがいたはずの場所は。
「――〈魔障壁〉」
静かな声に、竜頭たちが不可視の力を受けて弾き返された。
立っていたのはレイン。その周りを半透明の障壁が覆っていた。
「……さすがね」
――防御魔法。あれだけの魔法能力を持つレインが、神騎士ならば誰もが覚える基礎的な魔法を使えない訳がない。
しかし〈竜頭雫焔〉をすら完全に遮断してのける堅さを持つとは。なおかつ無詠唱で。
普通なら有り得ない。だがレインに「普通」が通用しないことは、既に身をもって知っている。
だからこそ、素直にレインを称賛しながらもアリアは呟いた。
「でもね。まだ終わってないのよ」
障壁に弾かれ形を崩した竜頭たちが、再び揺らめく――。
***
「……ふうーっ」
レインは障壁の中で深く息を吐く。
〈竜頭雫焔〉を防げたのは正直運が良かった。わずかでも障壁の展開が遅れていたら、今ごろは間違いなく丸焦げだっただろう。
自らの運と神に感謝しつつ、レインは息を整える。やむを得なかったとはいえ、あの威力に耐えうる〈魔障壁〉を展開するのにかなりの体力を持っていかれた。集中力はさらにだ。いくらレインと言えども、外傷がないだけで内面的には満身創痍に近い。
――だがアリアも、消耗の度合いは似たようなもののはず。なのに、あの状態で神能まで使うとは。
神能を使用することは、神器を扱うこと以上に体力を消耗する。そのため、体力が既に底をついているのであれば本来は神能が使えなくなる。体が無意識に力を抑制するからだ。
しかし、尋常ではない精神力を持つ者であれば、稀に体の抑止力をすら抑えつけることが可能になる。結果、体力の限界を超えて神能を使うことも出来るのだ。
今アリアがやったのはまさにそれだ。いくら神器使いでも、アリアほどの精神力を持つ者などほとんどいないだろう。アリアの才能と、とてつもない努力の証だ。
だが、対価も確かに存在する。
今でこそアリアは大丈夫そうだが、いつ何が起こるか分からない。早く片をつけなければ。
レインは障壁を解いてアリアを見据える。
アリアの周りで揺らめく焔が不気味なほど美しい。今なお凄まじい負荷がかかっているはずだが、辛さを全く感じさせずにアリアは立っていた。心なしか、余裕があるようにすら見える。
――いや、気のせいに違いない。既にアリアに余力は残されていないはず。勝負を決める切り札だったのだろう〈竜頭雫焔〉も消えた。後はアリアに剣を突きつけるだけ。幸いレインにはまだ体力が残っている。
なのに――何故か一歩を踏み出せない。
もう障害は何もない。だが、本能がレインに訴えてくる。行っちゃだめだ、行くな、と。
しかし時間もないのだ。待っていれば、それこそ何を仕掛けられるか分からない。今が、今だけが最後のチャンス――。
「…………――っ」
――レインは、走り出した。反応すらさせない、何も出来ないほどの一瞬で勝負を決めるために。
その時だった。
レインは見る。アリアが焔の中で微笑んだのを。
ジュワッと、何かが焦げる音がした。
――感じたのは、熱と激痛。次の瞬間には感覚すら消え失せた。
崩れて消えたと思っていた竜頭の内の一体が、今まさに走りだそうとしたレインの左腕を喰らったのだ。
「……ッ!? が、ああ……ッ!!」
反射的にレインは足を止め、思いきり後ろへ飛んだ。
途端にレインがもといた地点に別の竜頭たちが群がり、辺りを焔の海へと変える。レインの反応が辛うじて彼を救った。
「……ッ!」
同時に、剣を振って腕に噛みつく竜頭の首を落とす。
手応えはない。だが、首を落とすと竜頭は霧のように形を崩した。腕に噛みついていた牙も消え、黒焦げになった服と、ところどころから覗くひどい火傷を負った肌が見えた。
「ぐっ……〈治癒〉……っ!」
着地を待たずに治癒魔法を行使。淡い緑色の光がレインの左腕を包み、痛みを和らげる。
しかし所詮は応急処置程度の魔法だ。完全に傷を治した訳ではなく、痛みすらまだ十分残っている。
長い滞空時間を終えて着地したレインは、魔法を使ってなお痛々しい傷を庇うように半身でアリアを見た。
眼前には、再び首をもたげる九つの竜頭がいた。
「はあっ……はあっ……。な、何で……」
「〈竜頭雫焔〉は焔よ。例え障壁で弾こうと、剣で斬ろうと、物理攻撃なら大半は無効化するわ。何度でもね」
「――ッ」
――つまり、策はもう仕掛けられていたということ。
障壁で弾いた〈竜頭雫焔〉は実際は崩れていなかった。いや、崩れたことには崩れたがあくまで一瞬で、再生も可能だったのだろう。だが敢えて再生しないことで、レインに〈竜頭雫焔〉は消えたと錯覚させたのだ。
そしてレインが意識から〈竜頭雫焔〉を遠ざけた瞬間を突いて再び顕現させた、という訳だ。
レインのこめかみに思わず冷や汗が流れる。凄まじい負荷に耐えながら、なおかつこんな策まで仕掛てくるとは――。
「さあ、思う存分暴れなさい。〈竜頭雫焔〉!!」
「……!!」
アリアの号令に竜頭たちは猛り、次々にレインに襲いかかる。
それはまさに焔の乱舞。美しく猛々しい竜の姿をとった焔が瞬く間にレインを囲う。大きく開いた顎でレインの全てを喰らわんと殺到する。
「くあっ……ッ」
レインは襲いかかる竜頭を紙一重でかわす。――が、相手は焔だ。剣と違って、例え直撃しなくとも高熱がレインを灼く。微かに触れただけで服など燃え尽き灰と化した。服の下の白い肌すら赤く、黒く染めていく。
剣を振ろうとも、虚しく焔を通過するだけだった。わずかに断絶した竜頭はすぐさま揺らめいて再生する。いくら剣を振っても、竜頭が弱る様子はない。
「確かにあなたは強かったわ。けど、もう終わり」
レインに、アリアの声が響いた。
息づかいは荒く、苦しいのが痛いほど分かる。アリアもまた、死力を尽くして戦っているのだ。
「例えあなたがどれだけ強くても、私は負ける訳にはいかない。私は誓ったの。誰にも負けないほど強くなって、守りたい人を守るって」
「―――」
ゆっくりと紡がれる言葉に、しかしレインはいつしか熱さを忘れていた。半ば無意識に最低限の焔を避け剣を振るう。痛みすら、どこかへ消えた。
何故なら――。
「だから私は負けない。もういい加減、諦め――」
「嫌だ」
アリアの言葉を遮ったのは、レインの短い声。
「俺だって、負ける訳にはいかない。俺だって誓った。あの時、絶対に守り抜くって。何も失わずに守れるようになるって」
――何故なら、アリアの思いはレインと全く同じだったから。
レインがあの時思ったことと、全く同じだったから。
「絶対にそうなってみせる。そのために――ここにきた」
レインが剣を構えた。剣を限界まで引き、足を開いて深く腰を下ろす。
何をする気か、アリアには分からなかった。だが、もはや〈竜頭雫焔〉を止める手段などあるはずがない。
「そのまま喰らい尽くせ、〈竜頭雫焔〉!」
動きを止めたレインに、竜頭たちが降り注ぐ――。
「神剣技――〈一閃薙ぎ〉!!」
一閃。
神速の速さで辺りを薙いだレインの剣が、周囲を囲っていた竜頭全てを絶ち斬った。
千切れていく竜頭たち。だが、再生は行われない。
「……!? 何故――」
有り得ない現象にアリアは驚く。物理攻撃である剣の一撃で〈竜頭雫焔〉が斬られるはずがない。だがならば一体――。
反射的にレインの剣を見て、アリアは理由を知る。
「――〈付与〉:《蒼水》」
レインの剣が纏っていたのは、水。
それもただの水ではない。高威力の魔法に使われる、最高級の水属性素因だ。
本来は、魔法でしか使われることのないエネルギーにすぎない素因。しかし剣に纏わせることで、レインは剣に魔法の属性を宿らせたのだ。魔法の相殺を魔法で行えるように、焔である〈竜頭雫焔〉を水属性のエネルギーで相殺した。
「―――」
アリアは絶句した。
まさか、土壇場でこんなことを――。
「はあッ……はあッ……」
満身創痍で荒く息を吐くレインを見ながら、アリアは悟った。
――本気、なんだ。
せいぜい自分くらいだろうと思っていた。誰にも負けない、なんて荒唐無稽な願いを、全力で、本気で叶えようとする愚か者は。
けれど違う。レインも同じだった。彼もまた、譲れぬ何かを持っていたのだ。
「……はあ……。すごいなあ……」
――自分ではきっと、彼に勝つことは出来ない。
アリアは空を見上げた。
言いたくはなかった。今までの信念がなくなってしまうようで、それこそ死んでも言いたくはなかった言葉。しかし、レインが相手だった今は言うしかない。言わなければならない。
多分これが――彼にとって、そして自分にとっての最善だから。
「審判……私は降――」
降参します、と。
しかし、アリアが自らの負けを認めようとしたとき。
ドクン、と体が震えた。
「……え?」
力が入らない。いや、力は入っているはずなのに、感覚がない。自分の意思で立っているのではなく、何かに無理矢理立たされているような――。
そして。
〈ヘスティア〉から、凄まじい閃光が放たれた。
***
「あ……あああああっ!!」
満身創痍で荒く息を吐いていたレインに突如聞こえてきたのは、さっきまで理性を保っていたはずのアリアの叫び声だった。
「何なのよ……これッ……!!」
アリアの体が、いや、腕が勝手に持ち上がる。アリア自身は制動しようとしているのに、止まらないのか。
腕の先にあるのは、神器〈ヘスティア〉。
赤き剣は、今や刀身の赤さを数倍に増していた。剣のところどころには複雑な幾何学模様が浮かび、不快な高音を上げつつ震えている。
「――ッ、早く剣を捨てろ!」
今起こっている現象に気付いたレインは体の痛みを忘れて叫んだ。
だが。
「体が……体が、動かない……っ!!」
アリアの言葉は、レインの予想を超えて最悪の事態であることを告げていた。
あれは――神器の“壊放”だ。
神器には、もとから膨大な力が秘められている。神器使いは精神力と体力を以て神器を制御し、秘められた力を操ることで、普通では有り得ない力を行使するのだ。
しかし、あまりにも長時間神器を使用したり、戦闘時の消耗によって体力や精神力を失うと、神器の力を制御しきれなくなることがある。結果、神器の膨大なエネルギーが溢れだし神器は使用者の意図に従わずに暴走を始める。これが“壊放”だ。
壊放初期なら剣を放り捨てることで神器の活性がなくなるために大きな犠牲は出ないが、機会を逃すと体の自由すら効かなくなる。制御不可能な神器が周りに被害を及ぼし、最悪の場合、神器の使用者までもが力の暴走に耐えられず死んでしまうことすら有り得るのだ。
「――くそっ」
毒づきながらレインは駆け寄ろうとするが――。
「だめ……っ、〈ヘスティア〉……!!」
レインの接近より早く、〈ヘスティア〉は力を解き放った。
辺りに残っていた焔が、真の支配者のもとに集まっていく。
有無を言わさず、絶対的な支配力を行使して〈ヘスティア〉は焔を従える。焔の頂点に位置する姿は、まるで神のごとき威厳を放っていた。
究極の炎熱操作――“神之焔”の真の威力は、レインの予想を遥かに超えていた。
〈ヘスティア〉の剣先に浮かぶのは、巨大な焔球。
燃え盛る焔球は、間違いなく人を一人飲み込めるほどの大きさだった。
新しく誕生したもう一つの太陽は、既に限界まで膨れ上がっている。あれが直撃して耐えられるものはいない。根拠などないが、断言出来た。
爆発すれば、自分たちだけでなく、恐らくこの辺り一帯が吹き飛ぶだろう――と。
「〈ヘスティア〉……お願い、だから……ッ」
悲痛なアリアの願いすら無視して、〈ヘスティア〉は動く。
握られたアリアの腕ごと、ゆっくりと。
「お願い……っ」
アリアにはもう、これが自分の手に負えることでないことは分かっていた。
しかし、叫ばずにはいられなかった。黙っていれば、学園が、生徒が――レインまでもが、消えてしまう。それだけは絶対に嫌だった。
なのに無情にも、相棒であったはずの〈ヘスティア〉はアリアの願いを聞いてくれない。
自分が悪いのは分かっている。最後の最後まで足掻くことなく降参していれば、こんなことにはならなかった。そもそも変な意地を張ってレインと試合などしなければ、こんなことにはならなかった。
けれど。
――こんなに楽しかった試合をした相手を、傷つけたくはない。
――初めてそう思えた相手を、失いたくはない。
だから、アリアは叫ぶ。
自分のせいだと分かっていても。
我が儘な考え方だとしても。
例え後でこの身がどうなろうと――。
「お願い……誰か、助けて――」
『心配すんな。絶対に助ける。何があろうと、絶対に』
「……え?」
誰かの声が聞こえた気がして――直後、アリアの腕が降り下ろされた。
焔球が、レインに向けて放たれた。
***
「学園長、早く避難を! いくら我々でも神器の壊放時の攻撃を防ぐ術はありません!」
観客席で、ミコトの補佐官である教官が叫ぶ。
既に一般生徒たちは避難を開始している。だが、学園長だけは頑固として席を立とうとはしなかった。
「ああ、私のことは心配しなくていい。君たちだけでも早く避難しろ」
「何を仰っているのですか!? あれが爆発すれば、ここも――」
「大丈夫だよ。爆発などしない。仮に爆発しても、私は何とかなるだろう」
「し、しかし……」
「言っただろう? 彼は負けないよ。私にも、彼が負ける姿が全く視えないんだ」
ミコトは瑠璃色の瞳でレインとアリアを見ながら微笑んだ。
無言でミコトは昔の記憶を思い出す。彼と初めて出会った時、ミコトはレインに何かを感じたのだ。言葉で言い表すことの出来ない予感を。
「私は彼を信じる。何故なら……」
その時ついに〈ヘスティア〉の焔球が、レインに向けて放たれた。
逃げることは出来ない。例えどこに逃げようが、あの焔球が地に着いた途端に爆ぜ、全てを吹き飛ばすだろう。そもそも、レインに逃げる気などあるはずがない。
現に、レインは一歩も動かなかった。
わずかにうつ向いて、剣を再び構える。
少しだけ半身になり、剣を引き。
最後に短く。
「目覚めろ――」
――直後、焔球はレインに直撃した。
―――!!
凄まじい熱風と爆音が、舞台の中心から放たれた。
音も、光も、熱も、もはや感じていることすら分からないほどに暴れ狂った。
純粋な破壊のエネルギーの奔流が辺りを埋め尽くした。
それらが闘技場ごと破壊する――。
「…………え……?」
――ということはなかった。
感じたのは、突風とわずかな熱だけ。
舞台に近い客席でも、教官が生徒を守るために張った障壁が破られることはなかった。もし焔球が爆発したのなら、その程度で済むはずがない。
ならば。
教官は舞台を見た。立ち上る煙を、どこかから吹いた風が吹き飛ばす。そこにいたのは。
「馬鹿な……」
茫然とした呟きだけが教官の口から漏れ出た。
ミコトは微笑みを崩さないまま、言った。
「彼は――真の強者だからな」
レインは舞台の中央に、無傷で立っていた。
***
「何で……あなたは……」
アリアは小さく呟くことしか出来なかった。
焔球をどう防いだのかは分からない。だが、レインは確かに全てを救ってみせた。宣言通り、何も失わずに。
今なお〈ヘスティア〉は壊放を続けている。再び焔を生み出し、破壊しようと動く。しかしもう、そんなことは心配するに値しないとアリアは確信出来た。
何故なら、レインが向かってきているから。
アリアまでの距離を全力で駆ける姿に、最初に会った時の軟弱さはとても見えない。迷いすらない足どりはもはや別人だ。
〈ヘスティア〉が察知して〈竜頭雫焔〉を顕現させる。燃える竜頭がレインに向かうが、レインは全く意に介さず走りながら剣を構えた。蒼い光が白い剣を覆い、一閃。
それだけで、竜頭は紙のように真っ二つに斬れ、形を失う。
キイィィィン! と、まるで不快に思っているかのような甲高い音が〈ヘスティア〉から漏れる。
再び焔を集めて――。
「……させるか」
しかしその前に、レインはついにアリアのもとへ辿り着いた。
「…………っ!」
アリアの瞳を見て、レインはわずかに笑った。
「待ってろ。今、終わらせる」
それでもなおレインに抵抗するように、〈ヘスティア〉はアリアに背き、自身を高く掲げさせた。
「くっ!? だめっ……もう……っ!」
「いや……それでいい」
聞こえた声は、試合前とはまるで違う、覚悟の宿ったレインの声だった。
既に剣は大きく引かれていた。
「神剣技――〈天穿撃〉」
放たれたのは、美しく鋭い突き。
攻撃の本体を見ることすら敵わない、神速の一撃。目に映るのは数瞬後の残像だけだ。
超高速でありながらも狙いすまされた突きが、〈ヘスティア〉の腹を捉えた。
ギイイイイイ!! と鈍い音が鳴り響く。レインの力と〈ヘスティア〉の抵抗が拮抗し、震えながらも静止する。
「ぐっ……おあああ……っ」
キイィィィン!!
――だが、徐々に。
「負けてたまるか……っ。もう二度と、失わない……そう決めたんだ……!」
徐々に、レインが押していく。
少しずつ、〈ヘスティア〉が傾いていく。
「あんな思いは……もう、したくない!!」
レインの叫びと同時、〈ヘスティア〉が抵抗を弱めた。
あらん限りの声でレインはもう一度叫び――。
「う……おあああああ!!」
――最後の力を込めたレインの剣が、〈ヘスティア〉を完全に押しきった。
キイィィィン……と、耐えられなくなった〈ヘスティア〉が、アリアの手から抜け、背後に落ちる。神器使いの手を離れた〈ヘスティア〉は途端に活性を失い、辺りの焔が消え失せた。
〈ヘスティア〉自身からも幾何学模様が消え、いつもの鮮やかな赤へと戻った。
壊放が、解除されたのだ。
「はあ……っ、はあ……っ」
レインはしばらく、剣を振り切ったままの姿勢で静止していた。
――アリアのすぐ前で。
「…………」
もう少しで顔が触れそうなほど近くにレインがいる。そう思った瞬間に、アリアの頬はわずかに染まった。
だが。
「……あ、れ……?」
ぐらりと、徐々に視界が傾いていく。いや、違う。自分が倒れていっているのか。
体力と精神力の酷使、極度の緊張からの解放に、ついに体が耐えられなくなったのだ。緩やかに倒れていくのは分かるが、これでは受け身すら――と思った時、レインが消え、背に確かな力を感じた。
「はは……大丈夫か?」
空を仰ぐ体勢になりながら、アリアの視界にレインの顔が映った。
レインが背後から、アリアを支えたのだ。
まだアリアの足は地面に着いているため、俗に言う“お姫様抱っこ”とやらにはなっていない。しかしそれでも十分に気恥ずかしい体勢であることに変わりはなく。
「……見れば分かるでしょ。全然大丈夫じゃないわよ」
アリアは顔を横に向けて、レインを直視しないようにしながら愛想なく答えた。自覚出来るほどに頬は紅かった。
「そうだな。俺もだ。正直、立ってられるのが不思議なくらいだよ」
微笑みながら言うレインに、アリアは小さく呟く。
「…………ありがと」
「ん? なに?」
「っ……、だ、だから…………助けて、くれて…………あ、ありがと」
素直に誰かに礼を言うのは、随分と久しぶりな気がした。恥ずかしさと、悔しさと、心地好さを感じて、アリアはますます紅くなる。
そんなアリアを見ているはずのレインは、小さく、しかし確かに笑った。
「ああ。まあ、『絶対助ける』なんて大見得切っちゃったからな」
「……助けられなかったらどうするつもりだったのよ」
「そんなこと考えてなかった。無我夢中に、がむしゃらに、助けるんだってことしか考えてなかったよ」
一切の迷いもなく神器の壊放に抗ったと、レインは言う。屈託のない笑顔はレインの言葉が事実だと証明していた。思わずアリアもつられて笑ってしまう。
「……うん、すごいよ、あなたは。あなたなら、私も認める。この学園に入学することを」
アリアは舞台の外に避難していた審判に顔を向け、静かに言った。
「審判、私は負けました。――降参します」
アリアの降参を聞いた審判はさすがの落ち着きようで舞台の上に戻り、大きく宣言した。
「試合終了! アリアの降参により、勝者……レイン!」
一瞬の静寂。それはさながら嵐の前の静けさ。
――途端に、凄まじい歓声と拍手が観客から湧き上がった。
学園全体から送られる大歓声は、しばらく止む気配はなさそうだった。
「ごめん、レイン。話したいことはまだまだあるけど……、限界みたい。また後で……ね……」
激闘を繰り広げた両者に惜しみ無い声援と拍手が送られる中、アリアは静かに目を閉じた。安堵と共に気を失ったのだろう。
レインは小さく「ああ」と呟いてから、アリアの体をそっと舞台に下ろした。見れば、最初は傷一つなかったはずの舞台もボロボロだ。直すのは大変だろうな、と他人事のように思いながら、周りの教官を呼ぶ。
アリアが彼らに丁寧に運ばれるのを確認してから、自らも舞台を下りた。
力なく二、三歩進んで――。
「俺も……疲れた、な……」
――ドサッと、その場に倒れた。
心地よい拍手と声援を聞きながら、レインも微睡むように気を失った。