epilogue 黒金の奏音
城から寮へと帰る馬車の中。
レインとアルスは向き合って座り、レインは窓から外の風景を、アルスは腰から外した〈アポロン〉の鞘を手に持って見つめていた。
時折路面から伝わる微弱な揺れはむしろ心地よい。外界と隔絶されたような客屋の中には、決して苦ではない沈黙が広がっていた。
何をせずとも満ち足りたような感覚に、レインはただ身を任せていた。
「ねえ、レイン君。神って本当にいると思う?」
その沈黙をそっとどこかへ押しやったのはアルス。レインは目だけでアルスの方を見ると、口数少なく答える。
「……いるんじゃないのか? そうじゃなかったら、その神器は何でここにあるんだよ」
次いでレインが視線を向けたのはアルスの手の中の〈アポロン〉。魔素の無茶な制御で痛め包帯を巻かれている右腕で撫でるように触る姿は、書庫へ向かう前の姿とは確かに違うように思える。
レインは問いに対して思っていたことを素直に答えたつもりだったが、アルスはふふっと笑った。
「……何だ?」
「ああ、ごめん。ガトーレンと似たようなこと言うから、つい」
「ガトーレンさんが?」
「小さい頃の話だよ。でも……うん、そうだね。僕も神はいると思う。いなかったらきっと僕は、こんなに前を向いていられなかった」
アルスの懐かしむような言葉にレインは首をひねった。
アルスは〈アポロン〉に触れながら静かに語る。
「〈アポロン〉が初めてだったんだ。何をやっても兄さんたちには敵わなくて、模擬戦すらやらせてもらえないくらい落ちこぼれだった僕と同じなんだって思えたのは」
「…………」
「兄さんたちは優しかったしガトーレンだって尽くしてくれた。神王も厳しくても僕を愛してくれてるのは分かってた。……でも、やっぱり僕とは違うんだって思ってたんだ。皆すごい人たちで、ただ王家に生まれただけの僕とは違う存在だってね。だからかな……城の宝物庫でしばらく使われずに置かれてた〈アポロン〉に何かを感じたんだよ」
アルスの脳裏に、初めて〈アポロン〉を目にした時の光景が蘇る。
薄暗い宝物庫の中でたった一つだけ違った、薄汚れた神器。埃がうっすらと積もり、誰の目にも長らく使われていないことが分かる剣から、しかしアルスは何かを感じ取った。この剣はきっと自分が持つべきなのだと、根拠などなくても確信した。
「それにさ。書庫で僕が神意の術式を使った時に開いた本からも、同じような感じがした。これは僕が触るべきなんだって、何でか感じたんだ。きっとこれが神のお告げみたいなものなんじゃないかって今は思える。神はいるんだよ」
「……なるほど。確かに有り得ない話じゃないかもな」
レインはほんの少し沈黙してからアルスを肯定した。
――有り得ない話ではない。いや、それどころか十分に考えられる可能性だ。あの場所はレインの記憶通りであれば、正しく神がいた場所に違いないのだから。
「なあ、アルス。お前は……もしもナガルが悪魔から戻れなかったとしたら、本当に殺せたか?」
全てを話せない罪悪感を紛らすように、レインはある質問をする。
アルスに問うのは覚悟と意思。どこかで一歩間違えていれば、十分有り得ていたかもしれない未来だ。現に戻れなくなってしまった人間もいる。これから新たに現れてしまう可能性だって。
もしかすれば、再び身近な人が悪魔と化してしまうかもしれない。その時アルスがどうするのか、どう出来るのかレインは聞きたくなったのだ。
「……どうだろうなあ。あの時はもう何が何だか分かんなくなってたし、今考えてみると殺せるとは断言出来ないかも。でも、やらなきゃないことだってあるって今回知ったから……最後は覚悟しないとね」
「身内だとしても、悪魔だから殺すのか?」
「悪魔だからじゃないよ。――殺さないと守れないからそうするんだ」
「…………!」
視線を〈アポロン〉から外し、真っ直ぐな目でレインを捉えたアルスの言葉は、レインの予想と違うものだった。
「『悪魔だから』なんて、理由にはならない。もちろん出来ることなら殺したくないし、助けたいよ。でもそれが出来なかったら、ましてや周りの人が傷付くなら、僕は僕の責任で殺す。殺さなきゃいけないんだ。……と、思うけど」
悪魔だから殺すのではない。守るために殺さなくてはならないのだ。未来の神王たる威厳を放ちながらそう言うアルスの姿は、レインにとって何故かやけに美しかった。思わず笑ってしまうほど清々しく、同時に自分が恥ずかしくなった。
自分の迷いなど捨て置けと、かつてレインは自分に言い聞かせていた。選んだ道の正誤は終わってからしか分からないのだから、例えどれほどの時間がかかろうと迷うなと、進み続けろと。
だが、今考えればことはもっと単純だったのだ。
「自分のことより他人を……か。そうだよな。こんな茨の道を選んだのは自分のためなんかじゃない。俺の迷いとかどうでもよかったんだ」
一人レインは呟く。
どうやらすっかり目標を見失っていたらしい。あの闇に覆われた夜から、あの雨の日から、さらにその前の戦の日から、レインはそのために生きてきたというのに。
――悪魔を滅し、守りたいものを守るために生きてきたのに。
今さら自分の迷いなど関係ない。そんなものはとうの昔に捨てたはずだ。
だからレインは。
「戦うんだ。やっと……アイツと」
アルスが首を捻る向かいで、レインは強い意思を取り戻した。かつて同じように決意した時から、はたして自分は変われたのだろうか。
答えは終わってみなければ分からない。だからこそ、最後に自分は変われたと言えるように。証明出来るように。
全力を尽くすだけだとレインは外を向きながら決意した。
昼過ぎの太陽が、ちょうど雲の隙間から覗いていた。




