5─4 “神の子”
――“神の子”の力は強大で、時にその力は使用者をも飲み込まんとする。力が目覚める前は言わずもがな、目覚めた後ですら――いや、むしろその時にこそ、力は手のつけられない悪鬼となる。
そも“神の子”の所以は人には過ぎた力。強大すぎる力を聖と出来るか、或いは邪と化すかは持つ者の心の有り様次第だ。歴代の“神の子”の中でも、王位を譲った後に精神を飲み込まれ、哀しき獣に成り果てた者もいる。そのようなことだけはあってはいけない――。
“神の子”について得られている情報は現在でも決して多くはない。神に与えられた力――聞こえは良いが、その実は得体の知れない未知の力でもある。大広間最奥の書にも記されているように、本来人の身には過ぎた大きすぎる力は、時に人間自身に危害を与える。
それを防ぐには、“神の子”の力を十分に制御出来る精神力が必要だ。荒ぶる力を抑え込み、欲に溺れることのない強靭な意思が。自らを律する心を失った時、人は堕ちる。名誉でも財産でも地位でも、肥大化した野心はいずれ身を滅ぼす。
だからこそ、“神の子”は強く自分を保たねばならない。一時の感情に流されず、大局を見て判断し、常に行動を省みなければいけない。それが世界を変える力を与えられた“神の子”の義務と責任だ。
故に、酷であろうとは思いつつもナガルは言った。
「俺を、見捨てろ。それが、お前が“神の子”たるかを見極める最後の試練だ」
思ってもいなかった言葉にアルスの目が驚きに見開かれる。
「な……何を…………」
呆然としたように呟かれる言葉は、ナガルの胸にも強い痛みを与えた。ナガルにとってアルスは愛すべき血の繋がった弟だ。幼い頃からずっと隣にいたアルスの喜びはナガルの喜びであり、アルスの悲しみはナガルの悲しみでもある。もう一人の兄弟であるラムルももちろん愛していたが、ナガルがラムルに抱いていたのは優れた人物への尊敬の念と同等のものだった。ラムルはあまり弱い面を人に見せなかったため、そういった部分では、ナガルはアルスをより親しく思っていた。
成長してもそれは変わらない。どこか頼りなさげなアルスはナガルからすればまだ未熟者で、可愛い弟なのだ。そんなアルスの悲しみは、ともすれば自分のこと以上にナガルを苦しめる。
だが――いや、だからこそ。アルスには強くなってほしい。選ばれた力を持って生まれたアルスは、自分とは違う存在なのだから。アルスが強くなるためならば、ナガルは自分の全てを捧げてもいいとすら思えた。
「……アルス、お前は……はぁっ、優しすぎる。いつも全てを得られると思うな。何かを為すために……何か、を犠牲にしなければならない時もある…………が、はぁ!」
体中を駆け巡る激痛に耐えながら、ナガルは途切れ途切れに語った。これは罰だ。心を律することが出来ず、禁忌に足を踏み入れてしまった自分への罰なのだ。慕ってくれていたアルスを虐げ、あろうことか尊敬していたはずの兄、ラムルさえもをこの手にかけてしまった自分への罰なのだ。そして、これでもなお足らない。ナガルが犯した罪はこの程度で贖われるものではない。
「だから……殺せ! 俺はもう、償いきれない罪を犯した……っ! どうせ、生きていられないなら……ここで、お前に見守られて死にたい!」
声と共に込み上げて来た血塊を吐き出す。もはや血量さえ足らないのだろう、視界が霞み始めた。ほとんど朧気な景色の中で、アルスが泣いているのだけははっきりと捉えられた。
「兄さん……兄さん…………っ」
「早く……手を、離せ……。俺のために、お前が……自分を犠牲にする必要はない」
今なおアルスの手はナガルの体に魔素を送ろうとしていた。見ずとも触っただけで分かる手首の細さは、とても伸び盛りの男のものとは思えない。
よくこの腕であれだけの剣を、と密かに成長を喜びながら、ナガルは焦点の合わない視線を何とかアルスに向け、言った。
「――強くなれ、アルス。どんなことがあろうと、真っ直ぐに前を見て進め。お前の金の輝きに、俯く姿は似合わないだろ……?」
「―――」
アルスの手が震える。雫が、感覚も確かではないナガルの肌に落ちる。何故か感じる心地よさにナガルは笑った。
最期を悟ったせいか、激痛は幾分か和らいでいる。或いは痛みを感じる感覚さえおかしくなったのか。いずれにしろ幸いだと、ナガルは首を回して額から大粒の汗を流す漆黒を身に纏った少年へと声をかけた。
「もう大丈夫だ、レイン。術式を止めてくれ」
「……! で、でもまだ……!」
「いいんだ。こんな俺を救ってくれたこと、心から感謝する。しかし、俺のことより、アルスのことを頼まれてくれないか」
「え……?」
「見ての通りまだまだ未熟だが、アルスはいずれ国を背負う奴だ。信頼出来るお前に、アルスを任せたい。……強くしてやってくれ。王になるに相応しいと誰もが認めるように」
口調は穏やかで、これ以上なく優しかった。ナガルの覚悟を悟ったのか、レインは俯き、唇を噛み締めながら手を離した。
「……任せろ。アルスは強くなる。……絶対にな」
「はは……お前のような友人がいて良かった。では……アルスは頼んだぞ」
レインが辛うじて食い止めていた魔素の暴走が激しさを増し、ナガルはわずかに顔をしかめた。だが、これで憂いはない。剣と拳を交えた頼れる者にアルスを任せられたのだ。この命が尽きても心配は不要だろう。
ナガルは最後にぽろぽろと大粒の涙をこぼすアルスに言った。
「……お前には散々迷惑をかけた。本当にすまない、アルス。だがこれだけは言わせてくれ。お前は…………いつまでも、俺の誇りだ」
「―――っ!」
涙で一杯の目を見開いたアルスの手を、ナガルは最期の力を振り絞って自らの腕から離した。それで全ての力を使い果たし、ナガルの腕は力なく横たえられた。
何者の邪魔もなくなった魔素が体内で暴れ狂う。それを、何か嫌なものが体内で蠢いているとしか感じられなくなったナガルは自嘲した。罪人にはちょうどいい、無様な最期だ。自らを死へと至らしめる痛みすら感じられず、ただただ不快なまま死ぬ。
後悔がないとは言わない。犯した罪は決して消えることはなく、いつまでも――それこそ死んでからもナガルにつきまとうだろう。そこまでしてなお足りることなど有り得ない。
しかしだとしても、アルスだけはこの手にかけることはなかった。弟だけは守ることが出来た。兄として、最後の最後だけは務めを果たせた。ならばこれ以上言うことはない。
「俺は……どうしようもなく愚かだった。力に呑まれ、取り返しのつかないことをした。だから……こんな情けない兄と同じ道を、絶対に辿るな、弟よ…………」
最後にそれだけを言い残し、ナガルはゆっくりと目を閉じた。
鼓動はついに戻ることはなかった。
***
「…………」
目を閉じたナガルの横で、アルスは俯いていた。
床には小さな水滴。握りしめられた拳は小さく震えていた。
救えなかった。ここまでしてなお、たった一人の命を救うことさえ出来なかった。そんな思いだけが次から次へと溢れ出す。アルスの心を押し潰していく。
自分は一体何を願った? ナガルを救いたいと、救うと願ったはずではなかったか。何かが起こってしまった兄を、かつてのような兄に戻してやりたいと心の底から願い、望み、力を尽くしたのではなかったか。
そのために皆の力を得て、挙げ句――結局は兄を失った。何も手にすることは出来なかった。全てこの手からこぼれ落ちた。
「何が……“神の子”だ…………!」
神に選ばれた? 奇跡に愛された? 違う。これはそんな夢のような力ではない。“神の子”は現実を突きつけるための力だ。例えどれほどの強さを得ても出来ないことはあるのだと、お前の限界はここなのだと何よりも明白な根拠を以て示す冷酷な力だ。
目を背けるな。前を向け。兄の死を見届けろ。現実を見ろ。
脳裏に響くのはそんな声。
お前は王になる、だから現実を見据えろ。いつ何時でも冷静であれ。非情であれ。兄の死などさっさと飲み込め。消化しろ。
神が呟くのはそんな言葉。
「僕は…………ッ!」
アルスは思う。もし神の言葉が正しいのならば。兄の死ですら「些事」とするのが王なのだとしたら。
「王になんて……なりたくない……ッ」
如何に国を統べる権力を手に入れられようと、如何に絶大な富を得られようと関係ない。アルスが思い描く王はそんなものではないのだから。
ナガルとの戦闘の最中でガトーレンは「大事なのは『アルス』なのだ」と語った。自分がしたいことだけを考えればよいのだと、やりたいことをやればいいのだと。
またレインは「他人のことを考える必要はない」と語った。周りは二の次で自分が第一でいいのだと、偉そうに命令してもよいのだと。
アルスは二人の言葉を信じたい。きっとそれが、アルスに欠けていた何かだから。為すべきことを為すために必要だった欠片だから。得るために、助けるために、失わないために――守るために不可欠なものだから。
だから、アルスは最後に望む。
「僕は……したいことをするんだ。やりたいことをやるんだ。王になんてなれなくてもいい。だから――!」
“神の子”などいらない。こんな力は捨てたって構わない。でもそれと引き換えにたった一つだけ、ある願いを。自分に“神の子”を得られる可能性が一片でもあったのなら。神に選ばれる要素が一つでもあったのなら。
アルスは〈アポロン〉に触れた。
「神様……僕に兄さんを助ける力を――!!」
瞬間。
辺りに迸ったのは閃光。
「……え…………?」
光が収まった時、アルスの目の前には一冊の本が浮いていた。先程まで宙を漂っていた純白の本の内の一冊がそこに現れたのだ。
これが一体何なのかなど分からない。それでも、何か触れなくてはならないような気がして、アルスはゆっくりとそれに手を伸ばした。恐る恐る伸ばされた手が本に触れた途端、勢いよく本が開いた。
そこにあるのは寸前までは全く読めなかった文字。アルスが知る由はないが、今までただの一度も解読されることはなかった遥か古代の文字のはずが。
「何……で…………」
読めるのではない。見えている単語の意味も読み方も相変わらずさっぱり分からない。だが何故か理解出来る。内容が頭に入ってくる。
アルスが本に書かれた真意を理解すると同時、猛烈な速度で本の頁がめくられていく。もはや文字を確認している暇もないが、それでも内容だけは、意図だけは伝わってくる。脳内に直接情報を埋め込まれるように理解出来る。
やがて本の頁が全てめくられ閉じられた時、アルスの手には神々しい光が宿っていた。
本が示していたのはある術式。しかし、それがどんな現象をもたらすのかはアルスにも分からない。ただただ膨大な情報量を詰め込まれ、頭がガンガンする。
それでも、不思議とやるべきことは分かっていた。この手の輝きが何のためにあるのかだけは、はっきりと。
それに従って、アルスは手をナガルの胸に当てた。
呟くのは、脳内に流れ込んだ最後の詠唱。
「神意……〈再創造〉」
再び閃光が辺りを白く染めた。
アルスの手から放たれる光は奇跡を創る神の息吹。大広間を満たしていた莫大な魔素全てと引き換えに、世の理でさえ覆す刹那の業。
「これ……は……」
アルスの横にいたレインでさえもが目を疑った。大広間中の有り得ないほどの量の魔素が、アルスに……その手に注がれていく。どんなに魔素制御に長けた者でも成し得ないだろう術式に、レインは言葉を失った。
それはアルスの命令を神が受諾した証。アルスの偽りない覚悟を神が認め授けた、本来なら神でしか扱えないはずの術式。神々の加護と、この大広間全てという莫大な魔素を以てしてやっと再現出来る奇跡の業。
眩い閃光は、魔素の減少に比例するように弱くなり、そしてついに消えた。大広間中の魔素が冗談のようになくなり、アルスは深く息を吐いた。
辺りに何も変化はない。術式が成功したのかどうかも不明だ。意味も分からぬまま、ただ術式を詠唱しただけでしかない。
それでも――。
「あ…………!」
――その時、奇跡は起こる。
アルスの手に伝わったのは確かな鼓動。ナガルの体が、胸が、心臓が刻む、生命の証明。
ナガルは――ゆっくりと目を開けた。
「……? 俺は……何故…………」
声が聞こえた時、アルスはもう我慢出来ず。
「兄さんっ!」
涙混じりの歓声と共に、ナガルを抱きしめた。
ナガルの不思議そうな声と、アルスが泣きながら上げる歓声だけが、大広間に響いていた。
***
「……まさか、解かれるとはな」
王都オリュンポスの路地裏に佇む一人の男。外套を纏いフードを被ったその男は何かに気付いたようにぽつりと呟いた。
男が感じたのは自らが行使した術式が解除された気配。例えどれほど距離があろうと関係なく、確かな実感を持って男はそれを感じたのだ。
「神意を使ったか。面白い、あの傲慢な神共が力を認めるとは……中々楽しめそうだ」
それだけを呟いて、男は路地のさらに奥へと足を向けた。
三日月のような笑みを浮かべながら、男の姿は暗がりへと消えていった。




