4─3 悪魔と王子
自分が何をしたのか。今のアルスは、そんなことすら意識になかった。
考えるのは、剣を振るうことと攻撃をかわすことのみ。それ以外の一切は意味を持たない。ただ、唯一結果として望むのは、目の前の悪魔が地に倒れること。
何も考えられない、否、考える気もない。まるで自分が自分でなくなったかのように、体は自発的に動く。
「はああああああッ!」
自分に向かう爪の一切を叩き落とす。滅魔剣とは違い、武器としての格は〈アポロン〉の方が数段上だ。多少の無理をしても剣は願いに応えてくれる。致命傷になりうる攻撃だけを防ぎ、掠める程度の爪は無視して今度はナガルへと剣を振るう。
「神能“鳴奏”――〈超共鳴〉!」
超常の力がはたらき、〈アポロン〉は目では捉えられない速度で振動する。剣は、体の中心部への攻撃は避けようと翳したナガルの腕に直撃し、諸共に振動、相手を破壊した。
舌打ちをしつつ一度退がろうとするナガル。もちろんアルスがそれを許すはずはなく、重心を制御する独特の歩法で瞬く間に距離を詰めた。
そのまま、得意の連撃へと繋げる。
「……はああッ!」
放たれる容赦のない剣撃。傍から見れば一撃に見えるかも知れないが、その実は十数撃に上る刹那の地獄だ。一度でも受け損ねれば次撃以下を回避するのは不可能。だが〈超共鳴〉が発動している今の状態ではただ受けることすらままならない。
「なめるな!」
しかし、ナガルは叫ぶとその剣を思いきり掴んだ。振動が腕を破壊するまでのわずかな時間で、その膂力を以てして剣の照準そのものを狂わせる。当然直後に腕は爆ぜたが、続く連撃全てを体に受けるよりはずっといいと判断したのだ。
思わぬ形で剣が不安定になり、アルスの体勢がわずかに崩れる。しかしナガルは追撃しようとはせず一度距離をとった。残存していたわずかな人間としての理性が、無理に攻撃を仕掛けても無駄なことを悟らせた。
剣と爪はしばしの沈黙を余儀なくされた。
「ははっ、やはり最後にお前をとっておいて正解だった。これは殺しがいがありそうだ。ラムルもなかなか楽しめたが、奴には少しばかり加減があったからな。殺すのならば全力を示すべきだ」
実の兄ラムルを殺したナガル。だが、そこには何の罪悪感もないように見えた。情けをかけようとしてくれたラムルをも嘲笑するような、残酷な笑みがそこにはあった。
ちりっと脳内の炎が弾ける。だが、それを暴走させる前にアルスは一つ質問をした。
「…………どうしてこんなことをした」
今までの行い全てに対しての問い。以前は厳しくも優しかったはずのナガルが、何故国を倒すなどということを考えるようになったのか。アルスはそれだけを知りたかったのだ。
「……そういえば貴様とまともにやりあうのはこれが初めてか。そう思うと感慨深い……」
「質問に答えろッ!」
アルスの腕が閃き、ナガルの頬を何かが掠めた。
〈虚空の弾〉。“鳴奏”によって放たれた不可視の弾丸。
物質の振動で発生するのは何も音だけではない。より根本的なもの……そう、熱が生まれるのだ。
当然その振動数は音を奏でようとする時とは比にならないが、〈アポロン〉は短時間であれば、高温を生み出すほどの振動をおこすことも可能だ。
〈アポロン〉付近の空気を一瞬だけ極大振動させることで高温を生み出す。それは周囲との温度差をも生み、振動は温度差へ、温度差は気圧差へと直結する。即ち、局地的な「風」が発生するのだ。後はそれを剣で制御し放つだけ。
普通に剣撃を飛ばす時と違うのは、〈虚空の弾〉の照準は点であるということ。どちらも実体が風である点は同じだが、その違いは防ぎやすさと気付かれやすさに顕著に表れる。細剣の突きを弾くことが難しいように防御が困難なのだ。また、そもそも〈虚空の弾〉が放たれたこと、それがどこに向かっているのかを察知するのは非常に難しい。
ナガルは反応出来なかったのか、或いは反応しても無視したのか、微動だにしなかった。〈虚空の弾〉が掠めた頬からはわずかに血が流れたが、即座に魔素再生により修復される。傷など気にする素振りも見せず、ぽつりと呟いた。
「理由、か…………。そうだな、簡単に言えば――邪魔だった」
「―――」
――ああ、聞いたのが間違いだった。
アルスは動いた。もうこれ以上、対話など無意味だと判断した。
一瞬で詰め寄り剣を振るう。身に迫る攻撃と自分を阻む防御を全て破砕し、ナガルを捉えようとする。
「他の王子など、俺にとっては邪魔でしかなかった。俺が王になるためには、貴様らは消えなければなかった。だから消した。それ以外に何の理由もない」
わずかな隙を突いてナガルは周りを障壁で覆った。〈魔障壁〉だ。魔法にも精通していたナガルの障壁は堅く、アルスの剣を三度弾く。
しかしアルスとて諦めるはずもない。思いきり剣を引き、
「〈超共鳴〉ッ!」
気迫のこもった鋭い突きが〈魔障壁〉を破壊した。
「ちっ……」
破砕された障壁の粒子がナガルの視界をふさぐ。しかし、何とか体勢を立て直そうとした瞬間に右脚の膝から下が爆ぜた。
アルスが視界の陰からピンポイントで貫いたのだ。
「……――ッ」
どうすることも出来ずナガルは膝から崩れた。転倒だけは避けたが、見上げた時には顔のすぐ前に〈アポロン〉が突きつけられていた。
「……終わりだ。どう逃げようと、その前に〈アポロン〉がお前を貫く」
悪魔であろうと頭は重要な器官だ。低能な下位級程度であれば、頭を破壊されても時間をかけて核が修復出来る可能性があるが、知能を持つ個体にとって脳への損傷は命取りとなる。魔素再生の効果で死なないとは言え、失われた情報を再生出来ない可能性があるのだ。
ましてや人間の体が基幹になっているナガルには、脳への一撃は核へ与える一撃と同等と言えるだろう。
動いた瞬間にアルスの腕は動く。そこに躊躇がない以上、ナガルが逃げ切るのは不可能だ。
「……はは、ははははははは!」
そんな状況で――ナガルは突然笑いだした。
〈アポロン〉がわずかに距離を詰める。間隔はもはや握りこぶし一つほどもないだろう。それでもナガルは顔を歪ににやつかせたままだった。
「……強いな。これではさしもの俺も手に余る。大したことはないと思っていたが、やはりお前は選ばれた者なのだろう」
突然ナガルの口から発せられたのはアルスへの賛辞。常にアルスを罵倒してきたナガルと同一だとは思えない変わりように、アルスは警戒を強める。
「……お前は王になるためには僕たちが邪魔だったと言ったな。何故だ? 昔はそんな野望は持っていなかったはずだ。王になるべきは俺ではないとさえ言っていただろう」
最後の最後に、冷静になったアルスはもう一度対話を試みた。この状況ではナガルは逃げられないと判断し、残った一縷の望み――ナガルの改心を願ったのだ。殺して終わらせるのではなく、可能性がある限り良い結末を追い続ける、人間としての矜恃が為した行為だった。
「はは、確かにそうだ……。王になるなど、あの時、あの男に会うまでは気にしていなかった…………」
「あの男……?」
不可解な言葉にアルスは眉をひそめる。
しかし、その時同時にナガルの目が血走った。
「だが気付いたのだ。俺は王子、王になるべき存在だと。他の者を殺してでも、俺が王になるべきなのだと!」
「…………っ」
――まずい。
そう直感で判断したアルスはもはや躊躇しなかった。がら空きの頭へ向け、〈超共鳴〉を発動させた〈アポロン〉を突きだした。
ナガルはいまだ動き出していない。間違いなく必中、そして〈超共鳴〉状態の〈アポロン〉を防御する術はないはずだ。どうあろうとナガルが死を避けることは出来ない。
ナガルは死ぬ――。
ガキン!
「―――っ!?」
――聞こえたのは金属音。
〈アポロン〉が全てを破砕する音ではなく、〈アポロン〉を以てして貫けない物質が存在することを表す音。
アルスは目を見開く。〈アポロン〉の切っ先は、ナガルの頭のすぐ前で赤黒い障壁に阻まれていた。限界寸前まで振動しているにも関わらず、その障壁が破砕される気配は微塵もない。
「生憎俺は選ばれた存在ではなかった。だが幸運にも、こうして力を得たのだ。ならば王に成らずして何に成る……!」
膨れ上がるナガルの邪悪な覇気。ここから一撃で倒すのは不可能だとアルスが飛び退ると、ナガルはとうに再生した右脚も使い立ち上がった。その体は〈アポロン〉を阻んだ障壁と同様に徐々に赤黒く変化していく。
――特異体質。恐らく”頑強“と同系統の硬化能力だろう。しかしその堅さは”頑強“など比にならない上、自分の体だけでなく障壁等も硬化出来るらしい。
「俺は貴様が憎い。貴様の力が憎い。お前が背負う運命が憎い」
うわ言のように呟くナガルは、もはや人の姿をしていなかった。
手足の爪は先程より大きく鋭く、金属質な輝きを放っている。確かめなくとも硬化が桁違いだということは分かった。恐らく神器と打ち合っても刃こぼれ一つしないだろう。〈アポロン〉すらものともせずに耐え抜いた障壁の硬度を鑑みれば、〈超共鳴〉でも傷をつけられるか分からない。
爪だけでなく、体全体が赤黒く変色した外殻に覆われる。容易に剣が通る部位はなさそうだった。皮膚までもが硬化し、不気味な光沢を放つ。
――そこにいたのは悪魔。人の名残などせいぜい二足歩行であるところぐらいか。頬には奇妙な紋様が浮き上がり、目の光は人間の理性をとうに失っていた。
その口角が動く。
「俺がこうなったのはお前のせいだ。お前の力のせいだ。お前が俺の前に現れたからだ」
人とは恐らく構造すら違うだろう口が不思議なほど明瞭に発音した後。
――アルスは吹き飛ばされていた。
「ぐあっ…………!」
瞬間的に距離を詰めたナガルの一撃がアルスを襲ったのだ。辛うじて反応し、体への直撃は防いだが、威力を殺しきれない。
――速い。誇張なく、今までの倍以上に。
吹き飛ばされながらもアルスは巧みに体勢を整え、床に剣を突き立てて減速させる。どうにか壁に激突する前に体は止まったが、顔を上げればすぐそこにナガルがいた。
「ガアッ!」
振るわれた爪。捌ききる余裕はなかった。
致命傷だけは避けようと構えた〈アポロン〉により体の中心へのダメージは防げたが、それをすり抜けた数発の爪がアルスの手足を抉った。爆発的な衝撃と共に今度こそアルスは壁に激突する。
「かは…………ッ!」
手足の自由を失い、受け身すら取れない。まともに本棚へとぶつかった衝撃で内臓にも傷を負ったか、アルスはわずかに吐血した。そのまま無様に地に倒れる。
「く……あ…………」
――体が動かない。〈アポロン〉だけは離さずにすんだが、握力はほとんどない。左足に至っては感覚すら失いかけていた。
激痛を通り越して何も感じられない中、アルスの耳に何かが近付いてくる音が届く。
「何故だ。何故貴様が選ばれたのだ。神はどうして貴様を選んだのだ」
不気味に呟きながらゆっくりと歩いてくる――ナガル。
それはまさしく悪魔と言う他ない強さだった。もとよりアルスでも勝てなかっただろうナガルが悪魔としての力を手に入れたのだ、ちょっとやそっとの変化でアルスが勝てる訳がなかった。むしろ善戦したと言うべきだろう。
目の前のナガルは悪魔の基準で言えば間違いなく上位級、その中でもかなりの高位に位置するはずだ。アルスの不在時に“北”の神壁付近に現れたという翼獣魔種よりも上だろう。真の悪魔と化したナガルの強さはそれほどだ。
ここで野放しにすれば、それほどの脅威が国の中に存在することになる。これならば或いは現神王の死を待たずとも国を落とせるかとしれない。
そんなことを許せるはずがない。歯を食い縛ってアルスは立ち上がろうとするが、如何せん傷が大きすぎる。立ち上がるどころか膝を着くことすらままならない。
「俺はお前を超えた。この力で俺は新しい王となろう」
その時、遂にナガルはアルスの目の前に現れた。
「―――っ」
立ち上がらなければ。脳がやたらとそう喚きたてるが、しかし体は一向に応える素振りを見せない。応えたくとも応えられる状態ではないのだ。
痛みなどいくらでも耐えられるが、それ以前に手足は一切の命令を受け付けない。
首だけを上げたアルスの前で、ナガルは爪を振りかぶった。
悪魔と化したことでその巨躯を増したナガルに光が遮られ、アルスの視界は暗くなった。背後の壁は先程の激突で崩れたために光を放たない。神の気配は目前のナガルの邪気に飲み込まれ、一切感じ取れなかった。
――神の加護もまた消えたように思えた。
「あ――」
ここで、自分は、死ぬ。
否定しなければいけない推測は、しかし今のアルスにはもはや確定事項も同然だった。叫ぶ気力すらなかった。
振りかぶられたナガルの爪は邪悪な瘴気を纏い。
「――死ね」
宣告と共にナガルの爪が振るわれ。
「ごめん、みんな…………」
――轟音が響いた。
今日幾度目かの轟音はこれまでで最も大きく、その衝撃の強さを物語る。並の武器では、衝撃を受けて形を留めておくことさえも難しいだろう。ましてや生身で受けたならば即死は免れない――。
「…………え?」
――と、アルスは認識した。
「……“翔躍”。間に合って良かった」
聞こえたのは安堵の混じった声。
アルスが俯いていた顔を上げると、そこにいたのは。
「黒い……神器使い…………?」
黒。纏うもの持つものが全て黒の少年。辛うじてナガルの爪を防いでいる剣に始まり、果ては自身の髪までも漆黒の、どこかで見たことがあるような不思議な少年。
「でも……その声は……!」
そして声にもまた聞き覚えがあった。間違えるはずはない。だが、声の主と今見ている姿との違和感が拭えない。
何故ならその声の主は、強くとも白い聖具を持った友人で。
何故ならその姿はまるで彼の英雄で。
「そうか……貴様が正体だったのか。通りで俺が押し負ける訳だ……!」
渾身の力を込めているのだろう、爪が細かく震える。しかしそれでも、剣は一切の傾きを許さないどころか、いつでも押し返せるようにすら思えた。
「生憎と、あの時よりも単純な力は強いぞ。少なくともお前に負けることはないくらいにな」
飄々と剣を持つ少年は言葉を返す。本心で言っているのかは分からないが、そんな挑発にナガルは顔を歪めた。邪悪な覇気が膨れ上がっていく。
「ほざけ……! 貴様、名を何と言ったか……ああ、思い出した!」
おぞましい覇気を全開で放ちながら、ナガルは我慢の限界だというように激しい怒りと殺意に目を滾らせた。
「“漆黒の勇者”――レイン! 約束通り、俺が貴様を殺す!」
「―――」
――レインと。アルスの前に立つのはレインだとナガルは言った。
アルスは茫然と呟く。
「……そん、な。だって君は――」
「悪い、この辺り一帯に結界を張るのに手間取って遅くなった。でも生きててくれて良かったよ。お前が死んだら、神王に会わせる顔がない」
少年は振り向く。ようやく見えたその顔は、やはりアルスの理性が叫ぶ通りで。
「……レイン君…………!!」
アルスの声にレインは頷き、微笑んだ。
「少し休んでろ。こいつは俺が相手する」
「……うん!」
力強いレインの言葉を聞いて、アルスが大きく頷いた直後。
「よそ見とはいい度胸だ! 後悔させてやる!」
自分が無視されていることに怒り、身を震わせたナガルが大きく腕を引いた。あの体勢から力を溜めて繰り出される一撃が防ごうとして防げるものでないことを、アルスは身を以て知っている。
レインとてそれは分かるだろう。しかし黒髪の少年は一歩も退くことなく、むしろ剣を握る力を強めた。
一瞬の空白が過ぎ、ナガルの爪に秘められた破壊力が最大限まで高められた時。
「……吹き飛べェ!!」
ナガルの渾身の一撃が放たれた。
そして、それとほぼ同時。
「――お前がな」
レインの腕が閃いた直後に。
ナガルは、壁に埋まっていた。
「ぐふ…………ッ?」
「―――ッ!?」
瞬間、アルスの体を戦慄が走る。
刹那の出来事。その全てを捉えたとは言い難い。だが今のは間違いなく。
――全力のナガルの一撃を、レインは完全に上回った。
爪を避けた訳でも受け流した訳でもない。そも、あの一瞬にあの剣の持ち方でそんなことは出来なかったはずだ。そして横から打撃を加えたとすれば、ナガルが真後ろに吹き飛ぶはずがない。
つまり、レインは。
ナガルの爪を迎撃し、その勢いで吹き飛ばした。
相反なナガルの膂力に真正面から打ち克った。
これが――国を救った英雄の力。
「悪いが加減はしない。俺を殺したいなら、殺されるつもりでくるんだな」
どす黒い血を吐きつつようやく壁から抜け出したナガルに向けて、レインは平然と言い放った。
「レイン…………!!」
憎しみと怒りを自らの糧とするナガルの中で、何かが変化したことは、ナガル自身全く知ることはなかった。




