4─2 真実
「ガトーレン……! ど……どうしてここに!?」
自らに背を向けて彼方を見据えるガトーレンに、思わずアルスはそう叫んでいた。
ガトーレンは王都のゴルズ城にいたはずだ。屋敷に調べに行くことは伝えていなかったし、そもそも会話をしていない。ガトーレンに迷惑を掛けたくないというアルスの配慮でもあったのだが、今目の前に立っているのは間違いなく、アルスの頼れる騎士ガトーレンだった。
アルスの声にガトーレンはわずかに振り向き、微笑んだ。
「昨晩、レイン様がゴルズ城にいらっしゃったのです」
「レイン君が?」
予想もしていなかった名にアルスは驚いた。まさかレインが自分に会う前に城へ寄っていようなどと思うはずもない。
しかしガトーレンは頷く。
「ええ。自分たちについて来て欲しいと。まさかとは思いましたが、ここまで予想されていたとは……全く、恐ろしい方です。それより、アルス様がご無事で何より」
「い、一体いつの間に……あんなに周りに気を張ってたのに……」
「ははは、アルス様に気取られず尾行するなど朝飯前……と言いたいところですが、実はレイン様にある物を頂きまして」
ガトーレンは胸のポケットから小さな札を取り出した。表面には複雑な紋様が描かれている。一見すればただの護符の類いのものにも見えるが、紋様を見る限りそんなものではないことは明白だ。
「とある神能の欠片が秘められた魔法具です。どうやら一時的に自身の気配を消去するものらしく、非常に助かりました」
「神能が……!? でもそんな魔法具、王都でも聞いたことが――」
魔法具とは一般的に、魔法を封じ込めた道具のことを指す。予め術式の基礎を確立、保持することで、必要時により簡便に魔法を行使するためのものだ。
だがガトーレンが持つそれは、もはや魔法具としての域を超えている。秘められた神能がどのようなものかは分からないが、神器の所有者ではないガトーレンが扱えるということは、部分的にとはいえ万人が神能を行使出来るということだ。そんな魔法具はかつて聞いたことがない。
「レイン様も詳しいことは教えて頂けませんでした。しかし私にとっては、アルス様さえお守り出来れば構わない。魔法具の仕組みなど些事に過ぎません。それより…………」
「…………ッ、ガトーレン!」
ガトーレンがそう言った時に、その背後で何かが揺らめくのをアルスは見た。振りかぶられているのは、先程アルス自身にも向けられていたであろう神器。
その一撃が、横殴りに容赦なくガトーレンを打ち据えた。
「うあっ…………!」
衝撃が伝わり、崩れた床の破片が突風に舞い上げられる。アルスの視界はそれらに塞がれたが、耳だけは音を捉えた。
「老害が自ら死にに来るとは思わなかった。後に整理する手間が省けてよかったぞ」
それは兄の声。アルスが嫌いながらも信じていた、王国側の人間だと思っていた者の声。
――いや、あくまでそう思いたかっただけなのかもしれない。アルスは確かに可能性の一つとして考えていたはずだ。王族以外は知らないはずの屋敷にいたラムルを誰が殺したのか。それはラムルに恨みを持つ者でも、諜報に長けた他国の間者でもなく――“もとより居場所を知っていた王族の人間”。
もはや疑いようもない。一連の凶行の犯人は。アルスとレインが追っていた敵とは。
「ナガル兄さん…………ッ!」
突風にも関わらず目を見開いたアルスの瞳には、かつてないほどに邪悪に笑うナガルの姿が映っていた。
「気付くのが遅かったな。全く、誰も彼も愚かな――」
しかし。
突風が収まり視界が開けた時、ナガルの左腕は切断された。
「―――あ?」
「……愚かなのは貴方の方ですよ」
聞こえたもう一つの声。
いつの間にか、アルスの横にガトーレンは立っていた。
その手には、アルスも数度しか見たことがない剣が握られていた。
「は……老害が最期を悟った大盤振る舞いか? そんな骨董品など持ち出して」
左腕からおびただしい量の血を流しながら、ナガルは平然と笑う。それを見て、ガトーレンはわずかに視線の温度を下げた。
ガトーレンが持つ剣の銘は滅魔剣。刀身には幾何学的な紋様が赤く彫られている。そう、魔法具と同類の剣である。
しかしこの剣に付与されているのは魔法ではない。紋様が剣に与えるのはとある性質。神器でなくともゴルズ城の宝物庫で神器と同様に保管されていたのだが、それはその性質が神器と同格、或いはそれ以上のためである。地下から発掘された、最古にして最強の魔法具とも言われる剣だ。
その剣が持つ性質とは――“魔素分解”。
「王子である貴方ならば知っているでしょう。この剣は触れた魔素を分解し消滅させる。魔素から構築される一切を破壊する、人類が造り出した対悪魔用武器の最高傑作です」
滅魔剣で触れた魔素は全て消滅する。固定や非活性状態にする訳ではなく、完全に分解するのだ。体が魔素から構成されている悪魔にとっては、触れるだけで体が斬られる――否、消される武器。
滅魔剣自体の斬れ味は聖具ですらない既存の剣と変わらないが、その威力は言うまでもない。魔素から構成されているものならば、どれだけ堅かろうがこの剣の前には紙同然となる。避けるためにはかすらせることすらさせず回避するか、魔素を介さない防御手段が必要だ。
「本来この滅魔剣は神器使いほどの人間にならば威力はないに等しい。ですがそれで容易に腕を斬られたということが示す事実は一つ」
ガトーレンはいっそ侮蔑するかのような視線をナガルに向けていた。
「…………っ! まさか、ナガル兄さんも――!」
アルスの声を不愉快だとでも言うようにナガルは持っていた剣を捨てる。神器と呼ばれ、絶大な威力を誇るはずの武器をナガルは捨てたのだ。
「……この剣はもはや不要だ。神の力など、今の俺にとっては全くの無意味。何故なら俺は……より素晴らしい力を手に入れたのだから」
言うや否や、切断されていた左腕が再生する。それは超高位の悪魔しか使えないはずの魔素再生。再生した左腕は途端に変質し、到底人のものとは思えない鋭い爪と硬質な外殻に包まれる。
「……そん、な。何で……兄さんが…………」
奇怪な再生能力も、異常な左腕も。そして何よりその顔に浮かぶ歪んだ笑みが、ナガルの正体を証明していた。
「……お気をしっかり持って下さい、アルス様。アレはもう人などではない。我らが敵――悪魔です」
ガトーレンの言葉に、ナガルは歪んだ笑みをさらに深めた。
「そうだ。俺は悪魔としての力を手に入れた、お前らの敵だ。そして同時に、お前らは俺の敵」
声自体が変わった訳ではないのに、アルスの耳にはそれがひどく嫌悪をもたらすものに思えた。純粋な害意、敵意、殺意に溢れた悪魔の声。普通の悪魔との差は、人語を流暢に扱うか否かでしかない。
目の前に立つ兄だった者は、今や人ですらない存在へと成り果てていた。
「昔はラムル様やアルス様にも劣らぬ素晴らしい王子だったはず。……そこまで墜ちましたか」
「黙れ、老害。貴様ごときが俺を語るな」
右腕をも鋭く変質させながらナガルはガトーレンへ強い殺意を孕んだ視線を向けた。辛うじて人の外見は保っているが、視線だけでも中身が別物であるのは明白だ。
しかしナガルはふと笑った。
「滅魔剣と言ったか。なるほど、それが俺にとっての脅威であることは認めよう。いくら俺といえど魔素ごと分解されてしまえば抗う術はない。――だが、それは剣が当たればのこと」
ナガルは一瞬でガトーレンとの距離を詰めた。
「老害に俺が捉えられるか?」
薙ぎ払われた右手。アルスでも追うのが精一杯な速度の一撃がガトーレンを襲う――。
「捉える必要などありません。……貴様が捉えられに来るだけだ」
――珍しく敵意をあらわにしたガトーレンの声とともに、ナガルの腕はガトーレンに激突した。
一度目と同様に突風と破片が舞う。まともに受ければ、多少の防御などあってないような威力に思えた。
しかし。
「…………何?」
血を流し傷ついているのは、ナガルの腕のみ。
ガトーレンは何事もなかったように立っている。
何が起こったのか――そうアルスが思う前に、予備動作すら省略されたナガルの二撃目がガトーレンに激突した。
しかし結果は変わらない。突風の後にあるのは腕から血を流すナガルと無傷のガトーレンだけだ。
「……腹立たしい。さっさと失せろ」
苛立ったナガルは凄まじい連撃を放った。どれもが致死に思えるほどの爪の一撃が間断なくガトーレンに注がれる。
一度退くしか凌ぐ道はない。アルスはそう思ったが、ガトーレンは一歩も動かず。
「――未熟な。立ち会いに焦りと苛立ちは禁物と習わなかったか?」
ガトーレンの腕が閃いた。
直後にナガルの腕から鮮血が吹き出した。
「…………ッ!」
弾くのでも、かわすのでもない。そもそもガトーレンは剣を持つ右腕以外を全く動かしていない。左手は後ろ手に腰に回し、足は一歩も動かさず、上体すら静止しているはずなのに、ナガルの爪がガトーレンを捉えることはない。
ガトーレンはナガルの超高速、超威力の攻撃を全て――受け流しているのだ。
それはまさしく修練の極み。
本来あの威力の攻撃を受け流すことはほぼ不可能だ。速度もそうだが、掠められただけでとてつもない衝撃が伝わってしまうため、攻撃を受けた剣を操る……ましてやその上で衝撃の方向を逸らすなど出来るはずがない。神器使いですら難しいと言わざるを得ないだろう。
しかし今ガトーレンかやっているのはまさにそれだ。しかも神器ですらない、魔素分解以外は並の武器と変わらない剣を扱って。
剣の特性上、相手の一撃に触れ、かつ自分が攻撃を受けなければ、悪魔の体の傷だけが増えていく。しかしそれはあくまで理論上の話であり、相手に攻撃を許している時点で普通は圧倒的不利だ。一度でも剣の操作を誤れば次の瞬間にガトーレンは致命傷を負うだろう。
その極限の状況下でガトーレンは全てを受け流すという業を成し遂げているのである。
「生意気な……! たかが人間の分際で…………!」
「人間とて元は獣、皮の下には牙を隠し持つ。悪魔であれば勝てるなどと驕らないことだ」
冷酷な表情のまま、ガトーレンは一切乱れることなく剣を振るう。
剣術を極めた先にある域。神器を持たずとも若かりし頃に「剣聖」とまで言われた騎士の腕は、今なお鈍ることはなかった。幾度とも知れず剣を振った経験を糧に、まるで剣を体の一部のように……否、体の一部として扱っていた。
ガトーレンの刃の前に、生半可な力は無意味だ。技術が伴っていないのならばなおさら。ただの腕力、ただの速さは、力量があって初めて活用出来るのだ。
「その程度で勝てると思っていたか? それとも優越感に浸って冷静な判断すら出来なくなったか。いずれにしろ、貴様を野放しにする訳にはいかない。ここで失せろ」
表情を崩すことなくガトーレンは言った。
ナガルの強すぎる自尊心を逆撫でするような言葉。途端、アルスの予想通りナガルは激昂する。
「黙れ……ッ! 調子に……乗るなあッ!」
連撃を中断し、左の爪を大きく引いた。極大の威力で受け流しをさせないつもりだろう。
しかしそれはガトーレンも予想済みだった。むしろこれを狙っていたのだ。
「……苛立ちは禁物と言ったはずだ。剣において、ための時間は最大の隙。自ら挑発に乗り無防備に晒すとは愚の骨頂」
その時、初めてガトーレンは受け流しの構えを解いた。ナガルに対して半身になり、剣を大きく引く。それは図らずもナガルと対称的な体勢。
剣の照準が合わせられているのは……ナガルの胸。心臓がある部位。
「何……っ」
「消えよ――愚かな悪魔よ!」
ほんの一瞬の静止の後、凄まじい速度の突きが放たれた。
光芒がナガルに激突した。
滅魔剣の性質は魔素分解。即ちそれは触れるだけで致命的な一撃を与える絶対の剣。悪魔であれば、如何に堅い外殻を持っていようと防御は不可能。
ナガルに激突した以上、致命傷を避ける術はないように思えた。
しかし。
「……焦ったのはどっちだ? 老害」
悪魔が阻めるはずない滅魔剣の切っ先は。
しかし、ナガルの掌に阻まれていた。
胸の寸前で、空いていた右手の掌に衝突し、防がれたのだ。
「……っ!?」
「戦場においてあらゆる可能性を考えろ……と我ら王子に説いたのは貴様だったか。自らがそれを体現しないとは、耄碌したな」
そのままナガルは滅魔剣を掴み、力を込めた。それだけで剣は儚く砕ける。刀身の紋様が傷付いたことで魔素分解の性質すら失い、滅魔剣はただの金属片と化した。
「……その掌は…………!」
ガトーレンは静かに表情を険しくする。
滅魔剣を砕いたナガルの右手。その掌は悪魔のものではなかった。悪魔の外殻とは違う光沢が右手全体を覆っていたのだ。まるで純銀のような、美しい光沢がそこにはあった。
「俺の体は元々人のもの。生憎この右腕だけは、長く握っていた神器の影響か魔素によって再構築されなくてな。煩わしいと思っていたが……こんなところで役に立つとは。――異能、“頑強”」
呟くと同時、ナガルの右腕はさらに光沢を増す。硬度が上がっているのだ。
ナガルの異能、“頑強”。自らの肉体を硬質化させる異能だ。
異能は特殊なものを除いて基本的に魔素を介さない。つまり、異能の結果は滅魔剣の性質には影響しない。ナガルの異能の場合もあくまで硬度を変化させるもののため、肉体が魔素であれば滅魔剣を防ぐことは出来なかったはずだ。
しかしナガルの右腕は、右腕だけは魔素で構築されていなかった。魔素分解は効果を成さず、物理法則により剣は防がれてしまったのだ。
「ふん…………死ね」
剣を失ったガトーレンを、躊躇うことなくナガルは打ち据えた。
「ぐあっ…………」
もはや防ぐ術はなかった。まるでそこらの塵のようにガトーレンは吹き飛ばされた。
壁に激突したのだろう、凄まじい轟音が響いた。致命的な一撃を受けてしまったことを確信させる音だった。
「さあ、次は貴様の番だ」
そう言うとナガルは、視線を移した。
その瞳に映るのはアルス。
「実を言うと俺が最も楽しみにしてたのはこの瞬間だ。この手で貴様を殺せると思うと嬉しさで狂ってしまいそうなほどだよ。出来損ないの分際で俺に楯突いた罰を与えよう」
体が動かない。剣を抜けない。思考がまとまらない。
アルスは完全に萎縮していた。
「く…………あ…………!」
何故。どうして。何でこんなことに。頭を埋め尽くすのは疑問と憤り。目の前に立つナガルに好き勝手をさせる訳にはいかないと分かっていながら、しかし体は動かない。
「………情けない、まさか動けないのか。出来損ないだとは思っていたが、ここまでの腑抜けだとは知らなかった」
分かっている。そんなことはもう分かりきっているのだ。自分が弱いことなどとうの昔に知っている。しかしだとしても、今だけは動かなければいけないのに。無駄だとしても、剣をとらなければいけないのに。
「正直この結末はがっかりだが……まあ、よかろう。最後の最後まで情けない、出来損ないの王子として――」
憎い。ナガルが憎い。だが、体が動かない。
自分は一体何のために、ここに――。
「――ラムルやガトーレンのように、意味なく死ね」
「―――」
その瞬間。
アルスの思考は全て吹き飛んだ。いや、ただ一つに収束した。
「……………………す」
「…………あ?」
刹那。
ナガルの右腕は弾け飛んだ。
「…………ッ!」
目を丸くしたナガルのすぐ目の前には。
「お前を……殺す…………っ!」
〈アポロン〉を手に、憎しみの光を目に宿したアルスが立っていた。




