3─4 作戦、開始
レインが馬車から降りた先の地面はわずかに湿っていた。
それもそのはず、視線を上げれば目の前には鬱蒼と木々が立ち並ぶ森があるのだから。足元には確かな緑が芽生え、ほどよく水を蓄えているのだ。
木の枝葉が日光を遮っており、森の中は薄暗い。気温も少し低そうだ。まだ森に足を踏み入れた訳ではないのに肌にはひんやりとした冷気を感じる。
「この森の奥に屋敷があるんだ。かなり深い森だからはぐれないようにしてね。初めて入る人が迂闊に一人になれば、帰れなくなることもあるから」
同じく馬車から降りたアルスは腰の鞘を直してから言った。「ああ」と返事をして、レインも一度背に吊った不可視の鞘を触る。
ここから先は何が起こるか分からないため、常に気を張らなければならない緊張状態のままで進む必要がある。かなりの負担だが、そこまでしてなお十分でないのが現状だ。出来るだけの警戒はしておくことに越したことはない。
気持ちを落ち着けるように、レインは一度大きく息を吐いて目を閉じた。そのまま今度は息を吸い込んで、余計な感情が消えていくのを確認してからレインは目を開ける。
――アルスを守る。そして……俺がやるべきことを…………。
自分の目的を改めて認識し、レインは神経を研ぎ澄ませた。
アルスを見て共に頷く。
「……行こう」
アルスの先導で、レインも森に足を踏み入れた。
***
森の中は外から見ていた以上に涼しく暗かった。だがアルスとレインは話すことなく、淡々と歩を進める。
王族の人間は生まれつき神の気配、そしてその対極にある悪魔の気配を察知する能力を持つ。遥か昔、初代神王であるオリガ・エルド=レイヴンが人類で初めて神器を扱った時――即ち神に認められた時に授かったその能力は、何十代と続く王族に今もなお受け継がれているのだ。
そして、王族の中でも特にアルスはその能力に優れていた。研ぎ澄まされた感覚も相まって、目印も何もない森の中であろうと、神の気配を放つ屋敷に向かって迷うことなく進むことが出来る。屋敷自体は幼い頃に一度訪れた程度だが、これだけ強大な気配を見失うことはない。
屋敷を訪れた時の記憶は曖昧だ。幼かったこともあるし、何より印象的なことが何もなかったのだ。少なくとも外見は、別荘のようにも見える至って平凡な屋敷だったはず。特に何かがあった記憶はない。
だが、今考えてみればどうしてあの屋敷に連れて行かれたのかが分かる気がする。恐らくあの屋敷にはアルスがいずれ知るべき何かが隠されていたのだ。ラムルはそれに関わって屋敷にいたのだろう。
ならばこそ、まして失敗は出来ない。ラムルの死の意味を知ることなく事件を終わらせてしまえば、何よりもラムルが報われないとアルスは思った。
そのためにも、襲撃で撤退するなどということは絶対に避けたいが――。
「…………」
森の中は相変わらず静かだ。聞こえるのは薄暗い緑の中を駆ける二人の音だけ。何もいない――どころか何かが起こる気配すらない。
「……不気味なくらい静かだね…………」
黙っていると静けさに呑まれてしまいそうで、アルスは同意を求めるべく思ったことを口に出した。
だが、返事はない。
「……? レイン君?」
不思議に思って横を見ると、レインは走りながらも前ではないどこかを見ていた。余程何かに集中しているのか、アルスの声が耳に入っていないらしい。
改めて声をかけると、レインは弾かれたようにアルスを見た。
「あ、わ、悪い。少し考えてた」
申し訳ないと謝るレインにアルスは首を振る。
「ううん、別にそれは構わないけど……どうかした?」
「ん……俺は、ここに…………いや、何でもない。多分勘違いだ。自分で集中しろとか言っといてこれじゃ、話にならないな」
レインは小さく苦笑した。アルスも同調して笑うが、内心ではレインの様子を気にかけていた。
この前ナガルに会った直後のレインを思い出す。あの時のレインはアルスが見たことのないレインだった。思わず怖気立ってしまうほどの覇気は、アルスといえど初めて体験するほど――それこそ神王をすら越えるのではないかと思えるほどのものだった。
レインをそこまで駆り立てるのは何か。アルスがそう思うのは当然だろう。
「ねえ、レイン君…………」
しかし、思い切ってアルスが理由を問おうとした時。
「…………来た」
レインが静かに呟いた。
途端にアルスも感じとった。場に漂った異様な空気を。
「…………!」
アルスはレインと同時に足を止めて気配を探る。隠蔽した状態での不意打ちを警戒したが、どうやら敵方はそのつもりではないらしい。
聞こえたのは全方向からの足音。
いつの間にか、アルスたちは囲まれていたのだ。
「っ――、いつの間に……!」
「焦るな、今は状況を把握することだけを考えろ。囲まれるぐらいは想定内だ」
「…………うん」
一瞬で冷静になったレインに諭され、アルスは気持ちを落ち着ける。
今すべきは驚くことではなく、生き延びるため、勝つための術を考えることだ。
アルスが正面に身構えた時に、足音の正体は姿を表す。
「アル……ス…………殺す……」
「え…………?」
森の暗がりから現れたのは二十人ほどの男たち。
服装も体格もばらばらで、どこにも統一性がない。しかし逆にその姿がアルスの記憶を蘇らせた。
「何で……あの時の賊たちが…………?」
先頭を歩く大柄な男を見れば間違えるはずがない。彼らは、アルスがレインと王都に出かけた帰りに襲ってきた連中だった。まさか彼らが黒幕……と考えて、すぐに否定する。ラムルがあの程度の連中に殺される可能性などない。
そもそも今は剣すら持っていないのだ。ただの人間が素手で、全力の神器使いに勝てる訳がない。森の中という地形の影響を考えたとしても、たかが二十人ほどでは何も出来ないだろう。足止めもほとんど不可能だろし、何故現れたのか――。
「アルス…………殺……す」
「―――」
だが、その時アルスは感じる。
男たちから放たれる――不気味な雰囲気。とても人間が放つとは思えない空気が場を包んでいたのだ。
アルスの脳裏に、ある一つの推測が生まれる。
直後にアルスはそれを有り得ないと否定しようとした。しかし彼らの姿がアルスの推測を少しずつ確かなものにしていく。
虚ろげな視線。覚束ない足どり。背を丸めて腕をだらしなく下げながら歩く姿。それはまるで――。
「嘘だ……。この感覚……彼らは……」
「悪魔だ」
アルスの推測を肯定したのは隣にいたレイン。
「…………っ!」
あの怖気立つほどの覇気を纏ったレインがそこにいた。
「悪魔……? だって、彼らは人間…………」
「悪魔になったんだ。いや……された」
レインが何を言っているのか、アルスにはほとんど理解出来なかった。だが確信を持って言えるのは――目の前の男たちが放つ雰囲気は、人よりも悪魔としてのそれに近い、ということ。
体にまとわりついてくるような、不気味な重さを持った空気というか。上手く説明することは出来ないが、アルスが生まれた時から持つ感覚は、それを放つ者を悪魔と判断していた。
そしてその本能と結び付いた感覚はもう一つの事実をアルスに告げる。
“あの時とは桁違いだ”と。或いは“油断すれば殺される”と。
以前はとるに足らない程度の力しかなかった。しかし今の彼らは比べものにならないだろう。悪魔の基準で言えば、間違いなく中位級以上。二十人もいれば、神器使いといえど余裕はない。
「アルス、お前は先に行け」
その時横から聞こえたのはレインの声。
「え…………」
底知れぬ気配を秘めた静かな声が、アルスに逃げろと告げたのだ。
「この数だ、二人一緒に突破するのは厳しい。お前に反応するみたいだから、覇気で中心に引き付けてくれれば俺がなんとかする。合図したら走れ」
いつもとは違う有無を言わせない口調に、アルスは思わず頷いた。拒否しても無駄だと、直感的に現状を理解していた。
いつから。どこから。どうして。様々な疑問を押し殺し、アルスは覇気を解放する。
悪魔のごとき空気を中和するように、アルスを中心として聖なる覇気が放たれた。
「ぐあ……は、は……アル……ス…………」
もはや人語ではない音が彼らの口から漏れ出ていた。レインの言葉通り、アルスに反応するようだ。それにしたがってゆっくりと、そして徐々に加速しながら駆け寄ってくる。
「アル……ス……アルス…………殺……すゥ!!」
ほぼ全速力になり、アルスとレインを囲む円が、眼前に出来上がった時。
「アルス――上だ」
レインの合図。その意味を察したアルスは即座に行動に移す。
即ち――全力で駆けてくる男たちの頭上。
唯一包囲されていない空間をアルスは飛んだ。
男たちが反応し、宙を飛ぶアルスを見上げる。すぐには勢いを殺せないものの、異常な反応で反転してアルスを追おうとするのがアルスにも分かった。いまだ滞空したままのアルスとの差はほとんどない――。
その時だった。
「――止まれ、悪魔ども」
ゾクリと。
アルスの肌を撫でたのは覇気。
アルスと男たちの覇気で満ちた場を全て黒一色に染め上げるがごとき強大な、レインの覇気だった。
「――ッ!?」
「ぐ…………」
「があ…………?」
一瞬で場を包んだレインの覇気は悪魔たちの動きを止める。直後に何とか転ぶことなく着地したアルスが振り向くと。
「〈束縛障壁〉」
レインが呟いた直後に、レインもろとも男たちを閉じ込める巨大な立方体の障壁が展開された。不可視の壁はようやく立ち直り動き始めた男たちの進路を塞ぐ。
「三十秒……いや、一分はここで食い止める。お前だけで屋敷まで向かえ」
二十人もの中位級とともに、狭い閉鎖空間に自らを置いたレインはそう言った。その時間は果たして「一分後には自分も逃げる」なのか「一分間は生きてみせる」なのか。アルスは一瞬躊躇したが、前者であると信じた。
「……分かった!」
余計な言葉は付け足さず、それだけをアルスは叫んだ。レインが頷くのを見て走り出した直後に、男たちの敵意を孕んだ叫び声が聞こえた。
「…………レイン君は負けない」
レインが負けるとは思えない。いや、負けるはずがない。何故なら、自分などよりずっと強いのだから。
男たちに背を向けた自分に言い聞かせるように、アルスはレインを信じながら走った。
目指すべき屋敷はもう、そこまで遠くなかった。
***
「皮肉なもんだな。お前らを見てここを思い出すなんて…………」
悪魔と化した男たちに囲まれながら、その中心に立つレインは静かに呟く。
今では遥か昔の記憶だが、確かにレインはここに来たことがある。あの時はこんな森はなかったはずだ。しかし、遠くから感じる聖なる気配が何よりも当時のことを思い出させる。
障壁を突破することは不可能だと察したのか男たちはレインの方に向き直った。目には怒りと苛立ちの光が見え、常人ならそう射竦められただけで動けなくなるほどの威圧感だが。
レインは気負う様子もなくゆっくりと自分の手を見る。
「同じ……じゃないな、やっぱり。俺はお前らとすら違う……」
一人呟くレインに男たちはついに我慢の限界を迎えた。
「う……があああああ!」
全方位から遅い来る男たち。頭上は障壁で塞がれており、逃げることは出来ない。そもそも、飛び越えたところで状況が変わらないことは明白だった。
もとよりレインには逃げる気も、ましてやここで死ぬ気もない。
「ごめんな。もう俺にはお前らは救えない。だからせめて――」
男たちがもはや人のものではない鋭い爪の生えた腕をレインに突き立てようとした瞬間。
レインが不可視の鞘から剣を抜いたと同時、男たちの間を黒い風が駆け抜けた。
「が…………?」
いつの間にか包囲を抜け出していたレイン。いつも通りの姿だが周りにはかすかに黒の残滓が揺らめき、手に持っていたのは刀身の半分が黒に染まった剣だった。
刹那。
男たちの胸に一様に穴が開き、赤い球体――かつて心臓と呼ばれていた物体が宙に舞った。
悪魔化した今では“核”と呼ばれる、悪魔において最重要とされる部位。体内にエネルギー源である魔素を供給するための人間の心臓に該当する器官だ。
人間と違うのは、核がエネルギー供給だけでなく身体構築にも大きく関わっていること。悪魔の体は主に変質化した魔素で出来ているため、その魔素をも供給している核がなくなれば悪魔は身体を維持出来ず――自壊する。
「――許せよ」
レインは振り返ることもなく右手を閃かせた。放たれた衝撃が宙を駆け。
儚い音とともに、一つ残らず核を破砕した。
「ぐあ…………!」
「があああ…………っ?」
魔素の供給を失った悪魔の体は自壊する。悲しげな断末魔の叫びを上げながら男たちは崩れるようにその身体を消滅させた。
死体どころか痕跡すら残さずに消えた者に無言で祈りながらレインは聖なる気配のする方を見る。恐らくそちらには男たちが悪魔と化してしまった元凶が、或いはその跡があるはず。
体が熱くなる感覚を覚え、知らず剣を握る手に力が入っていた。爪が自分の肉に食い込むのを自覚しながら、それでもそうすることを抑えられなかった。
「今度こそ…………今度こそお前の思い通りにはさせない……!」
思い出すのはかつてこの国を覆った災い。いや、さらに昔のあの雨の日から。遡ればレインがこの地を訪れる理由となった戦から、レインの敵は決まっているのだ。運命によって位置付けられたかのように強く、レインとその敵は結び付いている。
二度も過ちを繰り返した。だが今度は違う。三度目を許す訳にはいかない。
そう、レインが溢れる怒りのままに走り出そうとした時――。
「やはりあなたでしたか。“漆黒の勇者”の正体は」
「…………!」
唐突に聞こえた声にレインは足を止め、振り返った。
そこに予想通りの人物が立っているのを見てレインは息を吐く。
「…………ええ。ありがとうございます、来てくれたんですね」
レインの視線の先――そこにはガトーレンが立っていた。




