3─2 二人
「ただいま─…………」
雨に濡れながら走ってようやく着いた女子寮の自室。城にいたのはせいぜい半日なのにまるで数日留まっていたような疲労が、部屋のドアを開けた途端にレインを襲った。
一刻も早くどこかに倒れこみたいという欲求を押さえ、ドアを後ろ手に閉める。
中は灯りもついておらず薄暗い。夕に近い時間帯なので外はわずかに暗くなってきていて、アリアがいるならば灯りをつけているはずだ。
「…………どっか出かけてんのか?」
比較的容易に推測出来る可能性に帰着したレインは、少し残念に思いながら部屋に上がった。一応、廊下脇の洗面所とを隔てるドアを警戒しながら歩き、居間に入る。
と。
「すぅ…………」
「…………あ」
微かに聞こえたのは規則正しい寝息。見れば、定位置である二段ベッドの下でアリアはすやすやと眠っていた。
一応、部屋に灯りをつけても寝やすいようにベッドカーテンは取り付けてあるのだが、アリアはそれをあまり好まない。部屋ごと灯りを消して寝ていたのだろう。
パーカーに短いパンツという部屋着感満載のラフな格好のせいで、かけられた毛布の隙間から太ももがわずかに覗いている。一瞬目が留まってしまうが、前回の愛剣騒動から同じ過ちは繰り返さないと心に誓っているレインはすぐに目を逸らした。
鍵も閉めないで不用心だとは思うが、この女子寮に不審者が入ることなどほとんど有り得ないのだ。せいぜい入学前のレインぐらいのものである。
灯りをつけるかとも思ったが、心地良さそうに眠るアリアを見てレインはスイッチに伸ばしかけた手を下ろした。
二段ベッドの上に上るのすら億劫でレインはそのまま居間に寝そべる。夕食の時間まではまだあるし、一眠りしても大丈夫だろう。目を閉じれば視界は完全に闇に包まれ、疲れから来る眠気がぼんやりと意識を霞ませていく。
あっという間に意識は底に沈んでいく。
五分と経たず微睡みに落ちたレインの閉じた瞼の裏に、不鮮明な映像が映し出される――。
神壁を破壊し流れ込む悪魔の大群。自分が立っているのはその神壁の上だろうか。
聞こえる悲鳴。吹き上がる炎。大きな破壊音が血の匂う空気を伝い、聞く者に絶望のみを与える。そんな光景が眼下に広がっていた。
映像は切り替わる。
自分がいるのは荒野。目の前に転がっているのは幾多の死体。光輪を頭に浮かべた者や純白の翼を背に生やした者の屍。もちろん人間のそれさえも。
それでもまだ残って立ち続ける抵抗者を確認し、自分の体は勝手に動く。既に手に握られていた純黒の剣――いや、剣の形をした鋭い非物質が立つ者の体を撫でるだけで、深い斬線が刻まれ血が宙に飛び散る。自分があまりに速すぎるためか、辺りの者を全て断ち切っても血の雫は落下し終えない。真っ赤な雫が宙に留まる光景は、不思議なほどに美しかった。
そして再び映像が切り替わる。
自分がいるのは白い石が積み重ねられて出来た城の中。目の前に立つのは茶髪で剛毅な顔をした青年。それが歪んだ笑みを浮かべて腰に吊った剣を抜こうとするのを見て、自分の体は勝手に動く。その腕を上から押さえ込み、抜くのを阻止する。
自分の方が力は強く、青年の腕はそれ以上動かなくなった。しかし途端にそこから黒い瘴気が溢れ出す。いや、腕だけでなく青年の体全体から放たれる瘴気は自分にもまとわりつき、何とも言えない不快な感覚に襲われる。
逃げ出そうとするが体が動かない。意思など無視するかのように自分はそこに居続ける。その耳元に青年は顔を近付け、ゆっくりと言った。
『顔を背けるな。お前は俺等と同じだろう?』
――。
「…………イン…………レイン?」
「――っ!?」
堪らず目を開けたレインの視界に飛び込んできたのは、白い照明の光と赤い髪の輝きだった。
「はあっ…………はあっ…………」
手足の感覚はなく、視界はわずかにぼやけている。目尻から何かが流れるのを感じてレインは気付いた。自分は泣いていたのだと。
浅い眠りの中で、情けなく涙を流していたのだ。
「…………大丈夫?」
そんなレインを心配そうに見るのは、同室で暮らす赤髪の少女アリア。その赤い瞳と視線が合って、ようやくレインは自室で微睡んでいたことを思い出す。
「はあ…………はあ…………」
――だが、それなら。何故自分は泣いていた?
嫌な夢を見た。それだけは確信出来たが、その内容は寸前まで見ていたにも関わらず思い出せない。部屋の照明から放たれる白い光が闇を吹き飛ばし、それと同時に悪夢の記憶さえどこかへ追い出してしまう。
「ねえ、レイン……。何かあったの…………?」
アリアの不安げな声でレインは我に帰った。
「あ、ああ、いや…………自分でも思い出せない。参ったな、はは……」
アリアを安心させようと精一杯の苦笑を浮かべて、レインはそれだけを口にした。なのにそんな声も掠れていて自分が情けなくなる。
嫌だ。何か分からないがとてつもなく嫌だ。
説明出来ない不快感がレインの体を蝕む。やろうとしていることを体が拒絶しているのだ。レインが成さなければならない目的から逃げているのだ。
静かに内面だけでレインは苦しんでいた。アリアには悟られまいと必死に押し殺すが、いつまで経っても苦しみは終わらない。或いはレインが目的を果たそうとすることを止めない限り、永遠に続くようにすら思えた。
ただただ息を落ち着かせようとするレイン。その頭を。
「…………何で苦しいのか私は分からない、けど……」
――ふいにアリアが撫でた。
「ぁ…………」
不安と優しさと慈悲と。それらがごちゃ混ぜになった手が、静かにレインの頭を撫でた。
髪越しでもその柔らかさが分かる。温もりと思いやりも。その手を通して純粋な心がレインに伝わってくる。
「…………大丈夫。大丈夫……」
温かな声と手がレインの不快感を浄化していく。じんわりと氷を解かすように、外側からゆっくりとレインの心を温める。
いつの間にか涙は乾き、手足の痺れはなくなっていた。強張っていた体からは力が抜け、心地よい虚脱感に包まれる。
「話して……って言っても言いたくないんでしょ? ずっと隠してきたんだろうし、だったらそれでもいい。でも……私はずっと隣にいるから」
「…………」
アリアは何も知らない。アルスと共にラムル殺しの犯人を捜すこともまだ知らないだろうし、レインの本当の正体と目的も知らないはずだ。
それなのに。レインの底など知らないのに、隣にいると言ってくれる。
レインにとって、隣はいつも空白だった。幼いころに唯一隣にいてくれた義姉を喪ってからたった一人で生きてきたつもりだ。
或いは自ら隣を空白にし続けたのかもしれない。そうしておけば、いつか真実を明かす時が来ても急に隣がいなくなることはないから。どうせいなくなるのならば最初からいない方がいいと強がってきたのだ。
短い間でもいい。誰かが隣にいてくれるなら、どれほど安心出来るだろうか。幾度となくレインは思った。だが、否定してきた。
でも――今は。
アリアに出会い、そして互いに約束したならば。
少しくらいはこの安心に浸っていたいとレインは思った。
「……悪い、心配かけた。…………ありがとうな」
ぎこちなくない笑顔で感謝を告げるとアリアもまた笑った。いつになく美しく可愛らしい笑顔に、レインの心はついに熱で満たされた。
「そろそろ飯の時間か……。食堂に……って、あれ…………?」
安心した途端に空腹を思い出し、レインは起き上がろうとする。だがその時、自分の頭の位置が少し高いことにようやく気付いた。
部屋に入ってそのまま床に寝そべったため、枕などは準備していなかったはずだ。そもそも枕とは質感が違う。柔らかいというより、張りがあるというか何というか。
正体を探るべく触ってみると――。
「ひゃっ!? い、いきなり触らないでよ!」
何故かアリアが顔を真っ赤にして叫んだ。手に伝わったのは仄かな熱とすべすべした肌触り。
「……ってか、これ、もしかして――」
肌触りというか……少女の肌そのものでは――。
「すすすすみませんでしたっ!!」
脳が推測を肯定すると同時、レインは“翔躍”使用時並の速さで跳ね起きた。
心臓がバクバクと脈打つ。まさかアリアの膝枕で寝ていたとは夢にも思わなかった。これは間違いなく痴漢案件――。
「……別に謝ることないわよ。…………わ、私がしたくてしたんだから」
「え…………え?」
――という不運な想像は、真っ赤な顔のアリアによって否定された。
「その……く、苦しそうだったからそうしただけ! 何かうなされてたし、床に汗がつくのは嫌だったの! それ以外に何か考えてた訳じゃないから!」
「え……じゃ、じゃあごめん、アリアの……その……汚しちゃって…………」
「っ! あ、汗ぐらい別に……ああ、もう何でもないわよ! シャワー浴びるから、先に食堂行ってて!」
言うなりアリアはさっさと着替えを持って洗面所へ行ってしまった。どうやら怒らせてしまったらしい。
まあ確かに考えてみれば、膝枕を無意識にさせるというのは有り得ないだろう。第一自分がそんな力を持っていたと思いたくない。アリアの言葉通り、アリアが自らしたと考えるのが妥当だ。
だが正直、自分から膝枕をしようとする意味が分からない。してもらった立場でこう言うのも何だが、なかなかに疲れるものなのではないだろうか。
「…………」
アリアがレインの頭を太ももに乗せる。その姿を想像しようとしたレインは、何故か体がゆだるような感覚を覚えた。初めての感覚だった。
もちろん恥ずかしい。でも同時に、自分のためにそこまでしてくれることがどこか嬉しくて――。
「……しょ、食堂行くか。腹も減ったし」
とてつもない気恥ずかしさに襲われたレインは、誰が聞いている訳でもないのに一人自分に言い聞かせるように呟いた。こんなに恥ずかしい思いを一人でしたのも、生まれて初めてだった。
微かな水音が聞こえてきた風呂場の横を通り、レインはそそくさと部屋を出ていくのだった。
***
レインが部屋を出るのと同じ頃、アリアもまた、風呂場であまりの恥ずかしさにもだえ苦しんでいた。
温めのシャワーを頭から浴びながら、脳内では直前までの出来事が勝手に再生されてしまう。自分の太ももの上で眠るレインの顔を思い出す度、何とも言えない気恥ずかしさで顔が火を吹きそうになる。
シャワーを浴びていなかったら恐らく熱で倒れてしまうだろう。そう思えるほどに。
そもそも何故自分はレインに膝枕をしてあげようなどと思ったのか。そこからして分からない。以前なら他人に――ましてや男にそんなことを考える訳はなかったのに。
長めの昼寝から起きた時、床にレインが寝転んでいたのは確かに驚いた。しかも苦しそうにうなされているのを見て心配したのも分かる。だが何故そこで膝枕をしようとしたのか。
再び顔が熱くなるのを感じてアリアはシャワーの温度を一段階下げた。途端に顔に感じる温度は低くなる。少しひんやりする程だが、今は逆にそれが心地良かった。
文字通り頭を冷やしてアリアは考える。
誤魔化してはいるが、アリア自身、どうしてレイン相手にこんな気持ちになるのかは薄々感じていた。というか悟っていた。あくまで認めたくなくて、必死に取り繕っているだけだ。
ずっと見ていてもらいたい。近くにいてほしい。叶うならばいっそ触れ合いたい。心の奥底にそんな感情があることをアリアは否定出来ない。つまり自分は。
レインを好――。
「…………っ」
アリアは頭をぶんぶん振って、雑念――と無理矢理位置付けた感情――を追い払った。
それでも体は正直で、意識した途端にレインの顔を思い浮かべてしまう。手はレインの黒い髪の感触を、そして直に触れていた太ももはその熱を思い出し、再び欲してしまう。ここまで素直だと、認めたくなくても認めざるを得ないというものだ。
自分は――好きかどうかはともかく――レインを意識しているのだろう。
現に、レインと同じ部屋で過ごしているとたまに思うことがある。
つまり――こんなに近くに男と女がいるのに、どうしてレインは“その気”にならないのかと。
もちろん男女の仲の最終的な行為に辿り着くとかそういう話ではないが、何というかこう、もう少し欲求の類いが表面化することはないのだろうか。
レインを見ていると、アリアの仕草に慌てることはあっても実際に自分から何かをしようとすることはない。事故が起こるのは大抵不可抗力の結果だ。あくまでも冷静というか冷めているというか。
或いは年頃の男子はそんなことしか考えていないという自分の知識こそが浅はかで愚かなのだろうか。さらに言えば、短絡的にこんなことを考えるのは自分だけなのだろうか。
「…………はぁ」
こんなことで自問自答している自分が情けなくなって、アリアはため息を吐いた。
かつて自分を救ってくれた勇者は、実は自分と同い年の少年だった。よく考えればこれも情けない話だ。
それでもアリアはその少年を追い求め、力をつけ、ついに再会した。それは間違いなく事実であり、情けなくなんかないことだろう。とてつもない幸運が重なった故の奇跡的な出会いだったのだとアリアは思う。
逆に言えばそんな相手を意識してしまうのは当然だ――ともアリアは言い訳として思うのだ。
――では、果たしてレインはどう思っているのか。
時折レインは、何だか自分と同い年とは思えないほどに暗く重い表情を見せることがある。まるで遥か昔から生きてきたように苦悩に満ちた表情は、見る度にアリアの心臓を締め付ける。
レインが何を抱えているのかは、およそ一月共に暮らしてきたアリアですら想像もつかない。いや、その程度では恐らく端を掠めることすら出来ないのだ。それだけ重く辛い何かを背負っているのだとアリアは確信している。
話してくれ――などと言える訳もない。レインが自分から明かさないのならば、即ち話す必要がないか話したくないことなのだろう。それを無理に聞くことほど酷いことをアリアはしたくなかった。
そういう意味では、レインはきっとアリアをそれほどの存在として見ていない。そんな事実がアリアを苦しめる。
「…………分かってるわよ。あいつに私を見てる暇はないことくらい。でも……」
だがそれなら。レインがアリアを意識していないと言うならば。
いつか、レインが勝手に意識してしまうほどの存在になればいい。全てを話してもいいと思えるほどの存在になればいい。
――お互いがお互いを本当に想い合う存在になればいい。
「…………よし!」
アリアはそう結論づけて、勢いよくノズルを捻ってシャワーを止め、ひとまずの決意を固めたのだった。




