3─1 暗躍する者
美しい満月が夜の闇を幻想的に装飾する頃。
神王国ゴルジオン王都、“オリュンポス”。皆が寝静まり誰もいないある路地を一人歩く男がいた。
いや、正確には男かも分からない。浮浪者のようなぼろぼろの外套を身に纏い、その顔は被ったフードで覆われているからだ。だが、微かに見える輪郭と吊り上がった口角の感じから、辛うじて男だろうと推測出来た。
音もなく男は歩く。動作が滑らかすぎてもはや地を滑っているようにすら見えるほどだ。この薄暗い中で誰かがこの男を見れば、外套も相まって幽霊の類のようにも思えただろう。
と、その時。男のフードをぽつりと水が叩いた。
雨だ。さして強くはない。満月には不思議なほど雲がかかっていないが、徐々に勢いを増した雨は夜の街をぼんやりと霞ませる。男が空を見上げると、ぽつりぽつりと冷たく心地よい水の粒が顔を叩いた。
男はさらに口角を吊り上げ、呟いた。
「いい夜だ……。お前も感じてるか? この雨を。さあ、もう一度始めようじゃないか。今度はどちらが勝つかな…………?」
誰に言う訳でもなく声は響く。ただその一言一言には、聞く者をただただ不安にさせる響きがあった。空から無差別に落ちてくるはずの雨粒ですら、男の近くにだけは極力落ちないようにしているとさえ思えた。
首を戻した男は不意に腕を上げ、とある一点を指差す。
「俺の駒は……そこにいる。せいぜい抗えよ、勇者サマ」
男の指先は、王都の中心に悠然と佇むゴルズ城に向けられていた。
***
「さすがに予想していなかったな。この事態は…………」
ゴルズ城――王の間。騎士たちを並べれば優に二、三百人は入りそうなほど広いが、今はたった二人だけが部屋の中にいた。
最奥の玉座に腰掛ける、神王ウルズ・エルド=レイヴン。
そしてその向かいに立つ少年、レイン。
「さっきの話……本当なのか? だとしたら、国が傾くほどの何かって…………」
レインは戸惑いを隠せないままに問う。数分前まではここにアルスもいたが、今は廊下に控えてもらっている。そのため口調は“漆黒の勇者”としてのそれだ。
神王は重々しく頷いた。
「間違いなく、これから始まるぞ。国を崩そうとする何者かの侵攻が」
神王の声には、珍しく憂慮の響きが含まれていた。
『――第一王子ラムルが何者かに殺された』
数分前、アルスと共に王の間に呼ばれたレインに告げられたのは、思わず耳を疑うような事実だった。
王位継承権第一位、端的に言えば最も王にふさわしい実力を持つとされていたラムル・エルド=レイヴンが殺されたと言うのだ。
『ラ……ラムル兄さん、が…………?』
アルスは、まるで信じられないという呟きを放って呆然としていた。余程ショックだったのだろう。或いは、あまりに突拍子がなさすぎて実感していないのか。
ラムル・エルド=レイヴンの噂は王国の内情に疎いレインでも聞いたことがあった。曰く実力、頭脳、人徳の全てにおいて優れ、次期神王は間違いなく彼だろうと言われるほどだったらしい。民からの信頼もあり、順当に行けば次期神王に最も近い男だったということだ。
『……い、一体誰が…………?』
アルスが少し震えた声で問う。レインも話を聞いて一番に思ったことだ。だが、それが分かっていれば神王がわざわざレインたちを呼んで話すとは思えない。
そして、やはりと言うべきか神王は首を横に振った。
『分からぬ。ただ、あのラムルを殺せるとなれば相当の手練だろう。他国の間者か、或いは…………』
言葉の続きを妙なところで切って、神王は顔を正面に――レインに向けて戻した。レインが不思議に思っていると、厳格な表情を浮かべて神王は言った。
『アルス、ここを出ていろ。レインに話がある』
「随分厄介だな。まさか内側から壊しに来るとは」
たった一人減っただけなのにやけに広く感じる部屋にレインの声が響く。持ち前の精神力で平然とはしているが、事態はかなり深刻だということをレインは理解していた。故に言葉に一切の偽りはない。
対する神王も「全くだ」と同意を示す。
「しかもそれだけではない。さらに厄介なのは……その事実が既に民に知られているということだ」
「…………え?」
続けて放たれた神王の言葉にレインは思わず聞き直してしまう。
「暗部に調べさせたが、王国の一部では既に噂が飛び交っている。王都にまで届くのも時間の問題だろう」
「……つまり……」
「ラムルを殺した何者か、もしくは何者からが意図的に情報を流したということだ。少々事情があってラムルは僻地にいてな。普通に考えて、自然に死体が発見されるとは思えん」
「僻地に? 第一王子なのに王都を離れてたのか」
神王が違和感のある事実をさりげなく話に混ぜたのをレインは聞き逃さなかった。恐らく神王からしてみれば聞かれたくなかったことなのだろうが、協力を約束しているレインは遠慮するつもりなどない。ずけずけと思ったままに聞く。
レインの鋭い指摘に神王は少しばかり沈黙したが、やがて深く息を吐くと言った。
「まあ、貴様には話しておかなければならないか……。だが、俺には神王として誓った盟約がある。伝えられるのはわずかだ」
「盟約……ね。まあいい。内容は?」
不可解な誓いにレインは訝しみながらも神王が言わんとするところを訊ねた。
神王はゆっくりと一語一語を噛み締めるように言った。
「アルスに秘められた力を知れ。そのための鍵は――ラムルが殺された場所にある」
途端に重くなった空気に、思わずレインは体を強張らせた。
アルスの力。そう聞いて真っ先にレインの脳に思い浮かんだのは、暗殺者を退けた直後の空を仰ぐアルスの姿だった。
「アルスに秘められた力…………。まさか、自分で自分が制御出来なくなるっていうあれか……? それがラムルが死んだ場所と何の関係があるんだ」
「その先は言えん。ただ、そこに辿り着きさえすれば意味は自ずと分かるだろうよ」
「…………」
盟約とやらがどんなものかは分からないが、神王は意味を教える気はないようだった。レインとしてはいささか不満ではあるものの、無理に聞く必要もない。嘘は吐いていないだろうし、信じる外ないだろう。
神王はレインからわずかに視線を外した。
「……恐らくアルスもラムルの死を探ろうとするだろう。あいつならばラムルがいた場所も知っているし、行こうとするかもしれん。だが、ラムルが殺されたということは王子全員が狙われている可能性がある」
神王が何を言いたいのか、今度はレインにもはっきりと分かった。
第一王子を殺した何者かの目的は私怨などの類ではないはずだ。そもそもラムルの居場所は分からない上に、王国でも上位に位置する実力を持つラムルを無理に殺しに行くとは考えづらい。
となるとやはり神王やレインが想定している通り、王子が死ぬことで国が傾くのを狙っているのだろう。
しかし、混乱に乗じて反乱を起こしたりするのは現神王がいる限りおよそ不可能だ。レインの目の前にいる男の力と権力はそれほど大きく、易々と崩れることはない。
つまり目的は――次代の王を消すこと。王子全員を殺してしまえば、新たな王は王の血を持たない者になるだろう。それはつまり長く神王国を支えてきた偉大な王の血が途絶えたことを意味し、民の不安も募る。そこでなら国を崩すことも困難ではないように思えた。
「……アルスが狙われている可能性もある。もし何かあれば…………」
「分かってるよ。どんな奴だろうとアルスに手は出させない」
神王を遮ってレインはきっぱりと言い切った。
神王の前での宣言は即ち、失敗することは許されない絶対の約束になると分かっていながら。それでもレインは言った。
神王はわずかに頭を下げた。
「……頼む」
「ん。それより、犯人について何か情報はないのか? 情報網は俺より断然広いだろ」
顔を上げた神王はレインの問いに厳しい表情になる。
「現時点では全くない。“千里眼”は範囲外だったのに加え、もとより僻地だったが故に目撃した者も見つかっていない。現場はラムルの死体以外そのままにしてあるが、直接的な手がかりはなさそうだ」
「本当にゼロからのスタートか……。骨が折れそうだな」
ため息を吐くレイン。しかし、策がない訳ではない。
相手が先に行動を起こした以上、先手を取られたのは確かだ。だが逆に言えばそれは相手が手の内を、ひいては目的を一つ晒したのと同じこと。特に今回の敵の目的は明確だし、この先の予測もある程度は出来よう。
もしそれでも状況が悪化するようなら、最悪はレインが隠し持つ切り札を切る。あまり取りたくない手ではあるが。
「じゃあ俺は帰るぞ。一度ゆっくり考えてみる」
神王が頷いたのを確認してレインは足を部屋の外に向けた。
しかしその時ふと、ある話を思い出した。
「なあ……。使用人を呼んで気絶させたって話、本当か?」
首だけで神王を向き問うと、神王は苦笑した。
「ああ、事実だ。アルスを蔑ろにしたと聞いて、どうにも許せなくてな」
……どうやらその理由は、端的に言えば子供を馬鹿にされた報復だったようだ。
「またアルスかよ…………。過保護も大概にしておけよ」
「子供もいないお前に何が分かる。親というのは往々にしてそういう風に出来ているのだ」
「はいはい…………」
適当に返事をしつつ、脳内で神王を“親バカ”と位置づけてレインは王の間を後にした。
***
城から帰る馬車の中、アルスはずっと無言のままだった。
無理もないだろう。しばらく会ってなかったとはいえ実の兄が亡くなったのだ。その心情は察するに余りある。
ナガルと違い、自分には最後に会った時まで優しかったとアルスは城内を歩きながら言っていた。皆に誇れる兄だと寂しげに言ったアルスの声は、いまだにレインの耳にも残っている。
昨夜から静かに降り続けている雨のせいで街道は濡れているが、馬車は滑る様子もなく快調に目的地――寮へと向かっていた。
今日はアルスも男子寮へと戻るようだ。明後日からは学園に行かなければならないし、城に残る理由もないとガトーレンが寮へ戻ることを勧めた。城に留まらせるのはアルスには酷だと思ったのだろう。
誰がその傷を癒せる訳でもない。一人で――自分で癒すしかないのだ。誰かが付いてあげなければならないのは傷付いた直後だけに過ぎず、最後は自分で乗り越えなければ、いずれどこかで傷は再び顔を出してくる。
レインも今はそっとしておこうと、神王から聞いたことは何も話さずにしておくつもりだった。
しかし。
「レイン君。僕、行ってみるよ」
窓の外の陰鬱な空を見ていたレインの耳に突然届いたのは、いつになく鋭いアルスの声だった。
少し驚きながらレインが視線を向けたアルスは。
「ラムル兄さんが殺された場所に。そして犯人を見つける」
「――」
まるであの時の静かな、しかし底知れない気配を秘めたアルスがいた。
声に迷いはなく瞳に曇りはなかった。相談ですらなく、決定したことをただ伝えるアルスを見て、レインは引き止めても無駄なことを悟る。いや、もはやその意思は、他人に邪魔させることを許さなかった。
「……多分お前も同じように狙われてる。迂闊に動けばどうなるか分からないぞ」
「相手から来るならむしろ好都合だよ。全て潰して捕まえるだけ」
レインの忠告もほぼ無視してアルスは言った。自身が狙われている恐怖でさえ感じたそぶりはない。
アルスの真っ直ぐな視線にレインは考える。
アルスが言っていることは確かに危険だ。狙われていると分かった上で僻地に向かうなど自殺行為に等しい。
しかし同時に、怒りと悲しみに正気を失った無策な作戦――という訳ではない。事実アルスが言ったことは、一つの策としてレインが考えていたことでもあった。
相手の情報は目的を除いてほぼなし。情報を持っていそうな人すらいない。顔どころかシルエットも分かっていないこの状態では、どう足掻いてもいずれ後ろから刺されることは明確だ。
ならば――無理矢理光の下に引きずり出すしかない。
アルスが目標であるならば、アルスが孤立した時こそ相手からすれば好機だ。ラムルを殺してしまったため、アルスの警護や犯人の捜索が本格的になる前に少しでも早く目標を達成したいはず。今アルスが一人で僻地に向かうのを見逃すはずはない。
言うなれば、アルスを餌にすることと同じだ。成功すれば獲物を釣り上げられ、失敗すればアルスを喰われる。
そこまで考えてから、レインは最終的に結論づけた。
「……分かった。俺は止めないよ」
アルスの心情は少なからず理解出来るし、止めさせることも不可能だろう。ならばアルスがやりたいようにやるのが一番よいとレインは判断した。
「――ただし俺と一緒に、ならな」
「え…………」
――もちろん神王との約束は守った上で、だが。
アルスは今日初めて、純粋に驚いた顔をした。
「だ、だめだよレイン君。どんな危ない人が狙ってるかも分からないんだし、そもそも勝てると決まった訳じゃ……」
「それならなおさら、お前を一人にする訳にはいかないだろ。心配するな。何かあっても逃げるくらいなら出来る」
「だ、だとしても…………!」
なおも食い下がるアルス。確かに、聖具使い程度であるレインが、ラムルを殺せるような何者かに勝てる道理はない。
レインも自分がアルスの状況だったらアルスと同じく反対するだろう。無駄な犠牲を出す必要はないのだ。しかしそれでもレインはアルスと共に行かなければならなかった。行く必要があった。
「――行かせてくれ。お前のためだけじゃない。俺も俺の目的のために、確かめなきゃないことがあるんだ」
いつもより真剣な声でレインは言った。
神王との約束のため。アルスを危険な目に会わせたくないという感情のため。それらはもちろんあるが、それ以上に。
――確かめるべきことがあると、レインの本能が叫んでいた。
ラムルの死という事実のみならず、この事態そのものを放置しておけば、いずれ手遅れになると理性と共に心が叫んでいた。
「だから行かせてくれ。頼む」
言葉の限りを尽くして、レインは頭を下げた。
「…………」
そんなレインの申し出にアルスはしばらく悩む。
――しかし、やがて。レインの真剣さに負けたのか、
「…………分かったよ。一緒に行こう」
呆れたように深く息を吐いて、アルスはレインの同行を許可した。
「悪い、無理言って。じゃあ早速だけどいつにする? 出来るだけ早い方が都合はいいけど…………」
決まるや否や、レインはすぐに計画を練り始める。対処は可能な限り早く、そして穏便な方がいい。遅くなればなるほど火種はやがて大きな炎となり、容易に手が出せなくなるものだ。
アルスもそれは分かっているようで、素直にレインに従った。
「ラムル兄さんがいたのは、王族しか知らない僻地の屋敷なんだ。この馬車で向かえばいいんだけど、さすがに明日は無理だね。でも明後日からは学園に行かなきゃない」
今日は土曜なので明日は休日、明後日は月曜で登校日となる。
だが、問題はさしてないとレインは思う。
「いや、学園はその気になれば休める。ミコトさ……学園長に頼めば多分大丈夫だろう。となると限界まで早く都合を合わせるとしてどれくらいだ?」
「二日もあれば。夜に出発すれば、屋敷には次の日の午前中にはつけるはず」
「じゃあ……やっぱり登校日の内だ。学園は休むしかないな」
「うん」
手早く予定を決めてレインたちはするべきことを考える。
屋敷についたとして何をするべきか。何を探すべきか。何を感じるべきか。自らが求めるものは何なのか。どうやってそれを達成すべきなのか。
思考は尽きない。アルスは犯人を見つけてどうするのか。そしてレインはその犯人をあぶり出すためにどう餌を仕掛けるかを各々考える。常人離れした集中力を最大限活用し、とり得る中で最善の一手を求め続け。
「…………よし。出発は四日後、水曜。学園を休むのは木曜だな。やるべきことは――決めたか?」
「うん。準備は僕がやっておくよ。じゃあ水曜の夜に、またここで」
アルスがそう言った直後に馬車は止まった。校門前についたのだ。
レインとアルス、二人の神騎士が察知能力を全開にして調べても、この客屋の中には特別何も仕掛けられていなかったことが分かった。それ故二人は安心して――もちろんそれでも限界まで警戒しつつ――話していたが、これからはそうは行かない。
ここを出た瞬間に、二人はあらゆる位置から監視されていると考えるべきだ。少なくともアルスは間違いなくそうなるだろう。二人で簡単に話すことは出来なくなる。
そんなことはわざわざ確認しなくても共に理解していた。だからこそ、お互いを信じて、己が成すべきことをなすだけだ。
「――やってやろうぜ」
「失敗する訳にはいかないね」
決して気負わず違和感なく。
二人は客屋を出て、小雨の中に飛び込んだ。




