2─5 悪意
「レイン君、大丈夫!?」
王の間から出てきたレインに一番にかけられたのは、アルスのそんな声だった。
「な、なんだよ急に。大丈夫だって、何もされてない」
アルスの勢いに思わずたじろぎながらレインは答える。
別に数分間、神王と二人で話しただけだ。そこまで心配になるほどのことだろうか。神王が貴族でもない者と話すのはあまりない、いや皆無と言っていいほどなのかもしれないが、だとしてもそこまで慌てることではないだろうとレインは思う。
しかしアルスはレインが考えていることなど気にせず近づくと顔を寄せて、さらに密着しながらレインを見つめる。
「本当に? 本当に何もされてない? どこかおかしくなってない?」
「近……っ。か、仮にも一緒にいたのはお前の父親だぞ……。何もされてないしどこもおかしくなってないよ」
かつてないほどに顔が近く、レインは反射的に顔を背けた。胸に置かれたアルスの手からほんの少し預けられた体重は、アルスの華奢な体つきをよく表していて、驚くほどに軽い。アルスが父親の頑強さを譲り受けなかったのは、レインからすればまさに僥倖だった。
「ならいいけど…………」
レインが何とか理性を制御して答えると、アルスは一応は納得したように息を吐いて離れる。
辺りを見ればあのガトーレンすらこちらを心配しているようだった。鎧を着こんだ騎士たちにおいては、顔が見えなくても緊張しているのが分かる。
どうしてそこまで……と不思議に思ったレインだったが、何よりも今はここを離れたい。全てを見通す神王が近くにいるということが何となく不快だったのだ。疑問はひとまず置いて、とりあえず用事は済んだのだからこれ以上城に留まる理由はないだろうと、アルスに帰る旨を告げた。
別に神王という人物自体は嫌いな訳ではない。むしろ好ましい部類に入るだろうが、“漆黒の勇者”ということが知られた今だけは距離を置きたかった。
“千里眼”がある限りは余程離れなければ意味はないが、少なくとも城からは出たいと思ったのだ。
するとアルスは、
「じゃあ、僕も帰るよ。しばらくは城でやらなきゃないことは特にないし。ですよね? ガトーレン」
「ええ、大丈夫ですよ」
アルスもレインと共に帰ることを決めたようだ。ガトーレンの確認も得たアルスはレインの横に立つ。
レインは最後にガトーレンを向いて礼をした。
「今日はありがとうございました。おかげでいい体験が出来ました」
多少の皮肉を込めながら、それでも正直に思ったことを言ったレイン。それを見たガトーレンは相変わらずの微笑みを顔に浮かべながら言った。
「レイン様にそう言って頂けると幸いです。こちらこそ無理矢理お呼び立てした上に失礼を致しまして申し訳ありませんでした。次に来られる際には正式にお迎えしますよ」
「はは、機会があれば是非お願いします。じゃあ、今日はこれで」
「ええ。本日はありがとうございました」
さほど気負わずに会話を終えて、レインは向き直った。案内役のアルスは一度レインを見てから歩き出す。
その後ろについて、レインも歩き出した。
――帰ろう。考えるべきことはいくらでもある。
こうして、レインの人生初となる神王への謁見は無事――正体がバレたことを除けば――終わったのである。
***
「ふいー、疲れたな…………」
来た道を逆に歩く最中、レインは一人深い息を吐いて呟いた。
周りの白い石たちは来た時と寸分違わぬ冷気のようなものを放っている。まるで、世界が滅びようとこの城だけは、石たちだけは壊れずに残っているのではないかと思えるほど神聖な空気が漂っていた。透明だが確かに重みを感じる気配が、ゆっくりと脳を落ち着かせる。
アルスの言う神とやらは今もなお騒がしいのだろうか。それとも自分の正体を知って興味を失っただろうか。
もし神がいたとしたら後者ならばいいなと、レインはそんなことを思った。
アルスはレインに同調して笑った。
「確かに大変だったね。ガトーレンがレイン君に斬りかかったところから、僕までずっと緊張しっぱなしだったよ」
あはは、と言葉の割には楽しそうに笑って言うアルスに、レインはふと先程の疑問を思い出した。
「なあ……さっき皆、何であんなに心配してたんだ?」
「さっき……? って、ああ、レイン君が神王と話した時のこと?」
レインが頷くと、アルスは笑うのを止めて少し真剣な顔になった。
「前に使用人の内の一人で、レイン君みたいに神王に呼ばれて、二人きりで話すことになった人がいたんだけどね…………」
「へえ、俺だけじゃなかったのか」
どうやら自分以外にもあの緊張を味わった者がいると聞いて、レインはその誰かに心の中で同情した。普通に生きていればまず体験することのない緊張だろう。いや、使用人ならば案外平気だったりするのだろうか。
神王に呼ばれた理由は気になるところだが、そこは聞かずにレインは笑って先を促した。
「で? まさか死にかけて出てきたとか?」
「うん」
「はは、だよな。さすがにそれは有り得な……え?」
――今、「うん」って言った?
アルスの肯定にレインは耳を疑う。
「死にかけっていうか、ほぼ無傷だけど気絶した状態で運び出されたよ。中で何があったのかは分からないけど」
「……………………嘘だろ?」
「事実だって」
真顔のままアルスが答えるのを見て、レインはアルスの話が嘘ではないことを悟った。
そもそもアルスはこんなことで人をからかったり騙したりはしない。どこにも偽りはないのだとアルスの瞳が語っていた。
「…………何で?」
「分からない。神王は僕には教えてくれなかったんだ。ガトーレンなら知ってるかもしれないけど、聞いてもはぐらかされたし」
「…………」
もし――もし返答を間違えていたら自分もそうなっていたのだろうかと、レインは体を震わせた。
覇気だけでも分かる。神王は恐らく化け物だ。こんな自分が言うのも何だが、人の域を超えた存在だろうと本能が叫んでいる。正面戦闘になれば逃げられるかすら怪しい。
自分は幸運だったのだとレインは震えながら改めて思った。
「なあ、ちなみにその使用人さんってその後……」
しかし、毅然として歩くアルスにレインがそう聞こうとしたその時。
「あ…………」
アルスが小さく声を漏らした。
その視線の先には、回廊を向こうから歩いてくる青年。
途端にアルスの体が堅くなったのがレインにも分かった。歩く動作はぎこちないものになり、目線がわずかに下げられる。それはそう、まるで――あの青年とは会いたくなかったと後悔するように。
思わずレインは口を閉じ、静かに歩いた。アルスが出来るだけ目立たないようにしようとしたのを察したのだ。
しかし、すれ違う寸前で相手はアルスに気付いたようだった。
「ん……アルスか。何故お前がここにいる?」
身を包むのはアルスやレインよりもさらに豪華な衣装。体格がよく、神王に似たものを感じる。見れば茶髪や剛毅そうな表情も、どこか神王を思い出させた。
そしてその低い声は、初めて会うレインにも分かるほど、不快感と嫌悪に満ちていた。
「…………久しぶりですね、ナガル兄さん」
声を振り絞るようにアルスは小さく挨拶した。
第三王子であるアルスが兄さんと呼ぶ。つまり彼もまた王子なのだろう。レインが聞いたことのある第一王子の名はラムルなので、恐らく第二王子ということになる。
神王国ゴルジオン第二王子、ナガル・エルド=レイヴン。アルスをして敵わないと言わしめる、アルスの兄。
しかし兄であるはずのナガルは、弟であるアルスに向けて言い放った。
「黙れ。出来損ないが気安く俺の名を呼ぶな」
「出来損ない」。それはつい先日も聞いた言葉だった。だが、赤の他人に言われるのと親族に言われるのでは言葉の重みがまるで違う。確かな隔絶と不快感を含んだ一言がやけに回廊に響いた。
アルスはもともと小さい体をさらに小さくするように縮こまった。
「すみません…………」
「ふん。それより何故お前がここにいると聞いたはずだ。答えろ」
「あ、それは……ガトーレンに呼ばれた彼を案内するために…………」
「…………どうも」
レインは一歩前に出て軽く礼をする。
アルスは申し訳なさそうにレインを見ていた。巻き込んでしまって悪いと思っているのだろう。レインは気にするなと首を振る。
ナガルは不愉快そうにレインを見た。
「王族と接する時の礼儀すら知らない愚民か。こんな者を城に呼ぶとは、あの老害も何を考えているのか分からんな」
あまりにも不遜な言い様に、レインは苛立つ。自分が貶められたことにではなく、アルスを出来損ないと言うに留まらずガトーレンを老害と言い捨てたことに。
どうやらナガルはアルスだけでなくアルスに関わる者全てを毛嫌いしているようだ。傲慢な態度は腹立たしいが、下手に抵抗すると面倒だということは分かった。
しかし、アルスは。
「ガトーレンは…………」
「…………あ?」
「ガトーレンは、老害なんかじゃありません」
弱々しいながらも断固とした口調で、それだけは言い切った。
自分のことならまだしも、ガトーレンを悪く言われたのには我慢ならなかったのだろう。アルスは拳を密かに、しかし強く握り締めていた。レインにもその気持ちは痛いほど分かる。
だがナガルはそんな感情を察することもなく、一目で分かるほどに怒りを募らせた。
「出来損ない風情が俺に楯突くだと……? それがどういうことか分かっているんだろうな……?」
ナガルはそう吐き捨て、静かな怒りを露わにしたまま手を腰に吊った剣の柄へ伸ばした。鞘の装飾からでも分かるが、それは間違いなく神器だ。
アルス自身が敵わないと言う相手。抜かれれば抗うのは恐らく不可能。殺すとはいかなくても、怒りに満ちたナガルが何もしない訳がない。
剣の抜き様に斬られるだろうと、思わずアルスは目を瞑った。
刹那。
「アルスも――出来損ないなんかじゃないですよ」
音もなく動いたレインが、ナガルが柄を握った腕を押さえた。
その一点を中心に、ドンッ! と風が吹き荒れ、三人の衣装をはためかせた。
「何…………?」
ナガルが剣を抜こうとした力とそれを押さえたレインの力が相反し――レインがナガルの力を上回ったのだ。ナガルの腕は柄を握ったまま静止した。
少しだけ――ほんの少しだけ我慢の限界を越えたレインが力を解き放っただけだ。
“翔躍”。エネルギーを飛躍的に上昇させるレインの異能を以てして、ナガルの膂力を完全に押さえ込んだのである。
静かに覇気を放ちながらそのままの体勢でレインは言う。
「失礼ですけど、あなたに言われるほどアルスは落ちぶれてない。ガトーレンさんだって同じです。あなたは確かに偉いかもしれないけど、それが全てじゃありません」
「…………!」
全力で抜こうとしても、ナガルの腕はぴくりとも動かない。だというのになおも涼しい表情のままのレインを見て、ナガルも剣を抜くことは無理だと悟ったようだ。
ナガルが力を抜いたのを感じてレインも異能を解く。するとナガルは乱暴にレインの手を振り払い、じろりとレインを睨んだ。
「神王もいらっしゃることだ、今は許してやろう。だが……次はないぞ。貴様の名は」
「レイン。レイン・フォークス」
レインが答えると、ナガルは声を出さずに呟いた。
――次に会ったときは殺す。覚悟しておけ。
それだけを言い残してナガルはすれ違い、回廊を歩いていった。
嵐が止んだ直後のような静けさが辺りを包んだ。
残された二人はしばらく無言だったが、やがてアルスはおずおずと謝った。
「レイン君……その、ごめん」
「いや、いい」
アルスが頭を下げようとするのをやめさせ、レインは首を振る。
「お前が謝ることじゃない。俺が勝手にやっただけだ」
「…………っ!?」
レインの言葉に嘘は一つもない。ましてやアルスに対する不服など微塵もない。しかしその声は――アルスが思わず怖気立つほどに冷たいものだった。
「アルス。ナガルは昔からあんなだったのか?」
「え……う、ううん。小さい頃は今のラムル兄さんと同じように優しかったよ。でも、だいたい半年ぐらい前から、急にあんな風になって…………」
「半年前……」
強張るアルスを他所にレインは思案する。
レインの怒りが向くのはナガル――ですらなく、ナガルから感じた覇気の正体。
触れた瞬間に微かに感じたそれは、巧妙に隠されてはいたものの、レインの目を欺けなかった。内奥に静かに秘められていたのだ。普通に接する分には誰も気付くことは出来ないだろう。
間違いない。あれは――。
「……レ、レイン君?」
「…………あ、ああ」
アルスの心配そうな声でレインは我に帰った。途端にレインが纏っていた零点下の気配は消え、少しだけアルスは安心する。
「悪い、少しな。でももう大丈夫だ。帰ろう」
「うん……。でも――」
「俺のことは気にするな。闇討ちぐらいは用心しておくさ。それよりお前も、何されるか分からないんだから気を付けろよ」
「…………うん、ありがとう」
レインの様子はいつもと変わらない。笑顔も、声も、感じる全てがいつもと変わらない。
アルスが先導して歩き出すとレインはその横に並んだ。アルスがちらりと窺った時のレインの横顔も、何一つ変わらないように見えた。
――ならば。
――ならばあの瞬間の、殺気とすら言える気配は何だったのか。
一人心に生まれた疑問の答えをアルスが知ることはなかった




