2─3 ガトーレンの目的
ふかふかと柔らかい上質な絨毯の上をレインは歩く。前を行くのは、豪華な、しかし落ち着いた礼服を着こなすアルスだ。
一歩進む度に外套の裾がはためき、なんとも言えない美しさを感じる。気品ある存在だけが放つ、一種の幻惑魔法のような雰囲気に、レインは完全に没していた。
――何で俺がこんなところに。
内心で嘆くレインを包むのは純粋な沈黙。
驚くほど広いはずのゴルズ城。しかしその敷地内は、驚くほどに音がしない。今レインが歩いている回廊ですら何の音もしないのだ。
人がいないという訳ではない。先程から既に何人かの仕事婦に会っているし、ふと横を見れば丁寧に整えられた庭の中の道を文官と思われる者たちが歩いている。城全体を見れば何十、何百という人がいるはずだ。だというのに一切の音はしない。
不気味というよりも、神聖な空気がこの一帯を包んでいた。
「アルス……ここって、いつもこんななのか?」
空気に飲まれるように、レインは小さな声で前を歩くアルスに聞いた。アルスは少し振り向きながら答える。
「うん、大体こんな感じだね。むしろ、これでもまだ騒がしいくらいだよ。レイン君に関心があるのかも」
「これで騒がしいってどういうことだよ……。俺に関心があるって、城の人たちがか? そんなに来客が珍しい訳ないだろうに」
「あはは、違うよ。気になってるのは、この城にいる神々たちがってこと。空気がざわめいてるもの」
アルスは笑いながら言った。その言葉に疑問を持ったレインは少しだけ声の大きさを戻して呟く。
「神々ねえ…………」
見回してみても、当然何かがいるようには思えない。壁を形作る石たちは無機質な白で、どこかひんやりとした印象をレインに与えた。或いは石から感じる冷気もまた、神聖に思える空気の一因なのだろうか。
無意識に疑いが混じったレインの声を聞いたアルスは、レインの言葉を訂正させることはしないで話す。
「この国を造り上げた初代神王オリガ・エルド=レイヴンは神々に愛された人間だったんだって。彼が辺りの地域を統一してゴルジオンを造ることが出来たのは、彼を親しく思う神々が助けたからとも言われてる。現にここの宝物庫には数十本の神器があるし、神々がいても不思議じゃないと思うんだ」
そう話すアルスの顔には、何かを懐かしがるような表情が浮かんでいた。
「それにさ、何か感じない? 見えなくても、神がここにいるんだって僕には分かる気がする。説明は出来ないけどね」
「へえ……。俺には分からないけど、やっぱりお前も初代神王の血を受け継いでるのかもな」
レインはもう一度辺りを見回したが、やはり何かがいるようには思えない。神どころか、人以外の何かがいる気配すら感じない。
それでも、アルスがそう言うのならそうなのだろう。
アルスは自分にはない何かを持っていると理解しているレインにとって、アルスの言葉を否定する理由などなかった。
相も変わらず静かな回廊を歩いていくと、右手に大きな扉が現れた。重装甲をまとい槍を持つ騎士二人が門番をしている。
城内であるのにここまで厳重に警備しているということは、よほど重要な部屋なのだろう。レインはまさかここが目的地かとわずかに身構えたが、アルスは歩くのを止めない。そのままレインも、まるで石像のように微動だにしない彼らの前を通過した。
またしばらく歩くと同じような扉と同じような騎士たちが現れる。どうやらこの辺りは重要な部屋が多いところのようだ。またしても止まらずに部屋の前を通り過ぎた時、アルスは言った。
「そろそろガトーレンの部屋に着くよ、レイン君」
「…………ん」
唐突に言われた言葉にレインは一瞬驚く。やはり目的地もこの辺りだったらしい。
「傍付きの騎士たちの部屋がこの辺りなんだ。基本的に傍付きは部屋にいることになってるし、ガトーレンは部屋で待ってるって言ってたから、急な用事さえ出来てなければいると思う」
アルスは平然としているが、レインの心臓は途端に速く脈を打ち始める。自分でも怖がりすぎだと思うのだが、意識して治せるものでないから厄介だ。
「一応礼儀にだけは気をつけて。ガトーレンは優しいから大丈夫かもしれないけど、騎士たちの中にはあまりよく思わない人もいるし、守るに越したことはないから」
「ん…………。何とか頑張るよ」
必死に落ち着かせようとした心臓はアルスの言葉に再びかき回された。もはや悪意があるようにしか思えないが、本人は至って真面目に言っているのだろう。逆に言えば、アルスの言葉は事実であるということだ。
……そう意識するとまたしても体が重くなるが、気合いで何とかする。今まで数々の死線をくぐり抜けて来たのだ。今回だって何とかなるだろう。
そんな希望的観測を胸に歩くこと数分。
アルスは大きな扉の前で止まった。どうやらここがガトーレンの部屋らしい。
最後にアルスは軽くこちらを向いて頷いた。それに励まされたレインは強張る手を使って紹介状を胸から出す。アルスに事前に言われていた通り、折れないように丁寧に取り出して紋章と書面を門番に向ける。
扉の横でこちらを見ていた門番は紹介状を見ると小さく頷き、槍の石突で床を叩いた。思いの外低い音が大きく響き、部屋の主に来客を伝える。
「行こう」
呟いたアルスは堂々と扉に近づくと、二回ノックした。すぐに応えがあり、高いとも低いとも言えない声が聞こえる。ガトーレンだろう。
返答を確認したアルスは躊躇することなく扉を開けた。
「失礼します」
「し、失礼します」
先に部屋に入ったアルスに続いて、レインも部屋に足を踏み入れる。直後に背後で扉が閉まる音がした。
――中は思っていたよりも広い。〈フローライト〉の学園長室とほぼ同じぐらいだろうか。ただ、硝子が嵌められた天井はこちらの方が断然高い。光が射し込み、部屋全体がどこか神々しく輝く。
また、ここには何というか余計な装飾がなかった。壁に絵画の類いは一切なく、ましてや彫刻や置物などは見当たらない。絨毯すら敷かれず、石が剥出しになっている。
あるのは客人用と思われる大きなテーブルと、最奥に存在する執務机のみ。部屋の構造上の問題か窓はなく、天井の硝子越しの光のみが照明替わりとなっていた。
その執務机で書類を見ていた人物が顔をこちらに向けた。
「こんにちは。お待ちしていましたよ、アルス様。そしてレイン様」
「いえ、こちらこそ待たせてすみません、ガトーレン」
――神王国ゴルジオン第三王子傍付騎士、ダレン・ガトーレン。アルスの傍付騎士を務める男だ。
柔和そうな表情を浮かべた彼は椅子から立ち上がり、アルスとレインの方へ歩み寄った。
顔には決して薄くはないしわが刻まれ、髪は半分ほどが白くなっているが、所作に老いは一切感じられない。腰に吊った剣は聖具だろうか。だが、ガトーレンから放たれる底知れない気配は神器使いと遜色ない。一度剣を抜けば悪魔ですら容易に屠るだろうと簡単に予測出来た。
「わざわざ来て頂いてありがとうございます、レイン様。どうしても確認しておきたいことが御座いまして」
「あ、ええ。こちらこそ呼んでもらえて光栄です」
どうやら部屋には彼以外誰もいないようだ。優しそうな雰囲気に少し安心しながらアルスに言われた通りの返答をすると、ガトーレンは言った。
「申し訳ありませんが、時間もないので本題に入らせて頂きます。単刀直入に申しますと、レイン様の剣の腕前を見せてほしいのです」
「え?」
ガトーレンの一言にレインは驚く。
「剣の腕前? 一体どうしてそんな…………」
予想していなかった――と言えば嘘になるが、いくら何でも有り得ないだろうと思っていた質問だった。たかが学園の生徒であるレインの実力をわざわざ見る必要があるはずはないと思っていたからだ。
しかしそれでもなおそう聞くということは、レインをただの生徒だと見ていないことになる。
正体を確かめるためか、或いは既に正体についての確信は得ていて、実力を見たいのか。
「かねがねアルス様からあなたの話を伺っておりました。聖具使いでありながら神器使いとも互角に渡り合ったとか。アルス様に仕える者として、ご友人であるレイン様の剣にも興味があるのです」
表情を崩さないままにガトーレンは言う。そこに言葉以外の意味はないように思えるが、油断ならない相手だということも確かだ。
ゆっくりと不安がせり上がってくる。単なる緊張とは違う嫌な感覚に陥る。それでも悟られてはいけないとレインは平静を装ったまま考えた。
いずれにしろ素直に受け入れる訳にはいかない。立場の差はあれどレインは客人としての扱いだ。断れば無理に誘うこともないだろう。
「すみません、生憎ですが今は剣もなく…………」
慎重に、レインは戦えないということを示した。本当は今もレインの背に剣は吊ってあるのだが、隠蔽魔法は確実に効果を発揮している。初対面の相手、しかも学生が隠蔽魔法を使っているとは疑わないだろうとレインは考えたのだ。
しかし、ガトーレンは。
「そうですか……、それは仕方ありませんね。では、せっかく来てくださったのですから、謁見に行く前に座ってお話でも」
そう言ってレインたちをテーブルへ促しつつ、思い付いたように振り返った。
「そうそう、一応ですが、所持物の確認をさせてもらいます。城内ですので万が一のために」
「…………え? しかし、城に入る時に門番に確認してもらいましたが……」
ひやりと、レインの背を悪寒が走った。アルスがさりげなく取り繕うように言うと、ガトーレンは微笑む。
「念のためですよ。門番も優秀な隠蔽魔法を使われれば看破出来ない可能性もありますから」
「…………!」
今度こそレインは確実に悟った。
ガトーレンは、レインが剣を隠していることを知っている。
一体いつ気付いたのか。少なくともこの部屋に来てからの短時間で気付けるはずがない。となるとさらに前になるが、会ったのは今日が初めて――。
「…………まさか」
――いや、違う。正確には会ってはいないが、お互いのことを知った時があった。
そう――数日前に、王都へアルスとともに出かけた時。アルスを尾行していたガトーレンとレインは、その時に初めてお互いを知った。
あれだけ遠く離れたところから確認しただけでレインの隠蔽魔法を看破することの難易度は言うまでもない。だというのに、ガトーレンは間違いなくそれを成し遂げていた。
「失礼します。〈魔法解除〉」
「…………っ」
パキン、とガトーレンの指が鳴らされ、レインが行使していた隠蔽魔法が解除される。背に吊っていた剣の鞘が明らかになった。
「……おや? レイン様の背中にあるのは剣ですか……?」
まるで偶然見つけてしまったようにガトーレンは言った。隠蔽魔法が使われていると確信したから〈魔法解除〉を使ったはずだが、いまだにこやかな表情はそう指摘させることを許さない。
「ち、違いますガトーレン。これは――」
アルスが何とかやり過ごそうとするが、相手が素直に諦めるとは思えない。
そんなレインの予想通りガトーレンは首を振った。
「アルス様のご友人とはいえ、城内へ隠して武器を持ち込むことを許すことは出来かねます。衛兵ではあてにならないでしょうし、私が直々に罰を加えなければなりません。――覚悟は出来ているでしょうね」
にこやかな表情のまま、先程までの優しい気配を消したガトーレンを見て、レインは全てが仕組まれていたことを悟った。レインがどう逃げようと、ガトーレンと必ず剣を交わることになるように準備は整っていたのだ。
つまり、それだけレインは危険視されている。知っておかなければならない“何か”だと認識されている。
「心苦しくはありますが……愚かな自分を恨んで下さい」
別段怒るでも、蔑むでもなく、ただ冷ややかな視線をレインに向けたガトーレンはついに動いた。静かに重心を移動させ、手を腰の柄に持っていき。音もなく異常なほど滑らかな動作で。
「覚悟」
一瞬でレインとの距離を詰めた。剣は既に抜かれている。
「レイン君…………!」
ガトーレンが右から左へ寸分の狂いもなくレインの首を刈ろうとする。アルスの悲痛な声も聞こえた。
常人には一瞬と呼ぶほかない時間で、しかしレインは。
「…………ちっ」
レインの右腕が霞んだ。
刹那。
――ガトーレンの剣が止まった。
レインの首に半ば突きつけるような位置でガトーレンは動きを止めた。顔には厳格な表情とほんの少しの驚きがあった。
「ふむ…………」
視線の先にあるのは、ガトーレンの手首に添えられたレインの剣。
もしこのままレインの首を刈ろうと腕を動かせば、首を刈るより先にガトーレンの手首が斬り落とされていた。レインは自ら攻撃することはなく、しかしガトーレンの攻撃は無効化しようとしたのだ。
「…………」
しばらくガトーレンは静止していた。
反射的にガトーレンの行動に対応し、見事なまでに正確な罠を仕掛ける技量。それはまさに神器使いに並ぶほどの戦闘感覚そのもの。
だからこそ。
「……さすが……と言うべきでしょうね」
ガトーレンはゆっくりと剣を下ろし、
「……降参です、レイン様。ご無礼をお詫び申し上げます」
最上級の礼によってレインへの謝意を示した。
「…………え? あ、ああ……えーと…………?」
敵意と害意しか向けられないと思っていたレインは、ガトーレンの唐突な謝罪に驚く。そも国に仕える騎士がただの学生に最上級の礼をするなど有り得ないのだ。本来ならばそれは神王や貴族、一握りの実力者にのみ向けられるもののはず。
「貴方の実力は確かだということが分かりました。しかし、そのことを確かめるためとはいえ貴方を騙し、唐突な攻撃行為をしたことは深くお詫びします。本当に申し訳ありませんでした」
「あ、い、いえ、そんなことは……。薄々気付いてましたし…………」
深々と礼をするガトーレンにレインは慌てた。
やはりガトーレンの突然の豹変ぶりは、あくまでレインの実力を知るための演技だったということ。
アルスが安心したようにため息を吐いた。
「はー、びっくりした。あまり驚かせないで下さい。本気でレイン君を斬るつもりかと思いました」
アルスの言葉に、ようやく頭を上げたガトーレンは微笑む。
「アルス様が認めたお方です、もとより悪意がないことは知っていましたよ。しかし、剣の実力だけはどうしても知りたかったので、少し強引なやり方になってしまいました」
はははと軽やかにガトーレンは笑うが、レインは苦笑するしかない。何しろガトーレンからは一切の邪気も殺意も――躊躇すらも感じなかった。波一つない水面の如く静かな剣が、ともすれば敵意剥出しの剣よりもレインにとっては恐ろしかった。
「殺すつもりはありませんでしたが、もしあれに反応出来ないようなら……この先、城に呼ぶことはなかったでしょうね」
「……? この先って、目的は俺の剣の実力を見ることだったんじゃ…………?」
ガトーレンが何気なく放った一言にレインは首を傾げる。攻撃を仕掛けられた時点の予想では、正体を知るためにレインの力を見ることがガトーレンの目的だと思っていたのだ。
故に一度力を見せてしまえば二度と来ることはないだろうと思っていたのだが、どうやら違うらしい。
ガトーレンはレインを見て、微笑みから真剣な表情になった。
「いえ、今日この城にレイン様をお呼びした目的は他にあります。先程実力を見させて頂き、レイン様は十分な力をお持ちだと判断いたしました」
レインが、そしてアルスさえも、ガトーレンが言いたいことを理解出来ないでいると。
ガトーレンは言った。
「これよりレイン様には、神王に謁見を行って頂きます」




