1─3 神王国ゴルジオン第三王子、アルス・エルド=レイヴンの休日
神王国ゴルジオン王都。
正式名称を“オリュンポス”という街は、しかしその名で呼ばれることはほとんどない。オリュンポスという名前自体が、神の存在する場所、聖地としての意味を持つため、神器として神の恩恵を受けている王国の人間はその単語を口にすることをあまりよしとしないのだ。
特に正式名称で呼ぶことが禁止されている訳ではないのだが、人間としての心理が憚らせると言えばいいだろうか。
街の中心には神王が住まう王城――ゴルズ城が街を睥睨するかのように高く聳える。そこからおよそ放射状に広がる街はやがて円型の壁“王壁”によって遮られ、壁を越えればそこは既に王都と呼ばれる場所ではなくなる。端的に言えば、王族以外の貴族たちが直接的な統治権を持つ土地となる訳だ。
王国の領土全体を囲む神壁に、その中点同士を結び十字に交差する大街道。街道の交差地点を中心に円を描く王壁に囲まれたわずかな場所だけが王都と呼ばれる。
面積だけならば王国全体の数十分の一、しかし重要度で言えば王国全体の大半を占める街こそが、神王国ゴルジオンの王都、“オリュンポス”なのだ。
そしてレインは今、王都のおよそ中央に位置する広場に立っていた。
辺りに視界を遮るものはほとんどなく、振り返れば王城も見える。オブジェや銅像等も多いため、王都での待ち合わせにはもってこいの場所だった。
レインも、そんな目的のためにここに来た一人である。
〈フローライト〉では、一週間の内二日、土曜と日曜を休日としている。
そしてその日曜の翌日から月曜、火曜、水曜、木曜、金曜が登校日。翌日は土曜で休日となる。この休日と平日のサイクルは国全体でおおよそ同じであり、土曜である今日は日曜に次いで外出する人が多い日だ。王都ともなればそれはますます顕著で、この広場にもかなりの人数がいた。
「そろそろか…………」
レインは時計を見ることもなく、正確な体内時計によって大体の時間を推し測った。彼の性格上、遅れるということはないはずだ。
「あ、おーい、レイン君!」
と、レインが予想した瞬間に、レインの待ち人の声がした。
少し辺りを見渡すと、正面に、こちらに走ってくるアルスが見えた。
レインも手を上げて応える。
「はあ、はあ……。ごめん、待たせちゃった? 時間通り来たつもりだったんだけど……」
「や、むしろ約束の時間より十分早い。俺が二十分早かっただけだ」
「何でそんなに早いの……」
レインの言葉にアルスは苦笑しつつ、それでも息を整えると今度はいつものようにはにかんだ。
「じゃ、約束よりは早いけど行こっか。楽しみだね!」
「ん……お、おう」
完全な不意打ちの笑顔に、レインは一瞬戸惑った。
正直、今目の前にいるアルスが女子だと言われても、何も知らない人ならば普通に信じてしまいそうなほど――この表現を男に使っていいものなのかは分からないが――アルスは可愛らしかった。
当然いつもの制服姿ではない。
季節が初夏ということもあり、少し露出が多めの服装だ。
上はただのパーカーだが腕はまくられており、何より胸元のファスナーは大きく開けられていた。下にかなりラフなシャツが見え、形のいい鎖骨が露出している。さすがに胸のシルエットはないが、かえってそれがある種の危険な魅力を放っているように思えた。
加えてパンツはさらに露出が多い。太もものかなり上の部分までが見え、思わずレインも目を逸らしてしまうほどの破壊力を秘めていた。ずっと見てしまうと、もう目を離せなくなるという予感を感じるほどだった。
全体としてはボーイッシュな――実際に男子ではあるのだが――服装が、アルスの男とは思えない華奢な印象をさらに強くしていた。
……まあ、腰に吊った神器〈アポロン〉がかなりの違和感を醸し出してはいるのだが。
「? どうしたの、レイン君」
「ああ、いや、何でもない。行こう」
数歩先に歩いていたアルス。振り向いて言われた言葉に平静を装って答えてから、レインも歩き始めた。
***
『……次の休日って暇?』
『…………は?』
五日前、レインはアルスとの試合の後に突如そんなことを聞かれた。
『ちょっと付き合ってほしいんだ。王都に用があって』
『あ、ああ……それはいいけど、お前…………』
『分かってるよ。付き合ってくれたら、僕が悩んでることも話す。だから……お願い』
『…………分かった』
そんな約束をして、二人は話を終えた。
それから今日まで、レインはアルスと話らしい話をしなかった。軽く挨拶ぐらいはするものの、わざわざ掘り返すようなことはしたくなかったと言うべきか。二人とも、話は王都で、と決めていたのだ。
だからこそレインには一抹の不安もあった。アルスに自然に振る舞えるのかが分からなかったのだ。
だが、そんな危惧は杞憂だったと言っていいだろう。レインの横を歩くアルスには、不自然さは欠片もなかった。むしろどこか嬉しそうにすら見える姿に、レインは安心した。
「で、今日はどんな予定なんだ? 用事があるんだろ?」
「…………」
ひとまず広場を離れ、特に商業が盛んな一帯に向かう。歩きながらのレインの問いに、アルスは喋り辛そうに言った。
「あー、えーとね……。正直に言うと、もう用事は終わったようなものなんだよね」
「え、じゃあ何で俺を……」
「ち、違うよ! その、僕の用事って言うのは……レイン君と一緒に遊ぶことだったんだ」
「…………へ?」
アルスが言った言葉にレインは驚く。というか、耳を疑った。
「も、もちろん悩みを話すのは本当だよ! 多分王都にいれば来るはずだし……」
「……? 何でそんな……」
アルスの言葉自体に違和感を感じたレインだったが、それには触れず理由を問う。するとアルスはほんのわずかに辺りを見回してからさりげなくレインに近付いて、小さく言った。
「……騎士に監視されてるんだ、僕。学園の中ならいいんだけど、最近は外に出る度にね……」
「ああ……色々危険だからか。城の人も心配して――」
恐らくアルスの身を案じてのことなんだろう――と、レインは思った。
しかし。
「いや、違くて。僕が友だちいないんじゃないかって、心配なんだって」
「は?」
レインの推測にアルスが返したのは、思わず聞き直したくなるような答えだった。
「ゴルジオンの王子には、それぞれ一人ずつ専属の傍付き騎士がつけられるんだ。僕にもガトーレンっていう小さい頃からお世話になってきた騎士がいるんだけど……。会うと必ず『学園で寂しくないか』って聞いてくるんだよ。しかも尾行してくるし」
「……なるほど」
思わぬ答えにレインは一瞬戸惑った。が、そぶりは見せず一応頷いておく。
「だからこの機会だし、誰かと遊んでるのを見せてあげれば尾行もやめてくれるんじゃないかな、と思って。何か、利用しちゃったみたいでごめん」
「ああ、いや、それなら全然構わないけど……」
――今もどこかで、そのガトーレンさんは見ているんだろうか……。心配なだけなんだろうけど何か怖いなあ…………。
レインが、視線はそのままで半ば無意識に辺りの気配を探ると、かなり離れた位置に一人だけ並々ならぬ覇気を放つ誰かを察知した。直接見ることなど出来ないが、間違いなくこの人だろう。
「…………」
思わず頬がひきつりそうになるのをこらえる。
あまり気にしすぎるのも良くないと思い、レインは背後の人物のことを忘れることにした。そうでもしないと、今日一日を楽しめない気がした。
「……まあいいか。じゃあさっさと行こうぜ。予定は?」
「あ……うん! えーと、まずはね…………」
アルスも傍付き騎士の尾行には慣れてしまっているのか、別段違和感がある様子もなく歩いていた。やっぱり人って適応するんだなあという何とも言えない微妙な感慨を感じながら、レインも横に並んで歩く。
アルスによれば、最初の目的地は服屋のようだ。正直男二人で遊ぶ時に行くところではないような気もしたが、アルスが行きたいというなら拒む理由もない。
何より、傍から見れば今のレインたちを男二人と考える者はなかなかいないだろう。レイン自身そろそろ服を新調しなければ、と思っていたところでもある。久しぶりに行くのも悪くないかもしれない。
「ま、せっかくの休日だ。楽しもうぜ」
「うん!」
隣のアルスの弾けるような笑顔こそが、自身の連日の疲れを最も癒しているようにレインは感じた。
***
「ほえー……。ここが服屋……?」
「まあ、どちらかと言えば仕立て屋かな。出来合いの服も一応は売ってあるけど、頼むのはほとんど自分専用の特注品だし」
アルスの道案内で着いたのは、辺りの店より少し大きめの建物だった。黒を基調にしたやや暗めの装飾が、かえって上品な感じを漂わせる。
端的に言えば、高そうだろうな、と思ってしまう店だった。
商業が特に栄え、日用品から嗜好品まで買うものには困らない王都の中心部。その中でもとりわけ王城に近いこの辺り一角は、俗に「貴族の域」と呼ばれる。
理由は単純で、売られているものが高級なものばかりなのだ。居住区となっている地域もあるのだが、ゴルジオンの中では最も住むのが難しい地域であり、逆にここに住む者はほとんどが貴族、そして一握りの成功者であるということだ。
通りを歩く者は皆、見るからに上質な服や装飾品に身を包んでいる。レインも外を歩いても恥ずかしくない格好で来たつもりだったが、まさかこんなところへ来るとは思っていなかった。どう見ても自分だけがこの場に馴染んでいない。
服装のラフさで言えばアルスもレインと遜色ないはずなのだが、しぐさや気品という点で、アルスはこの雰囲気に馴染めているのだ。顔が幼い分、良家のお坊っちゃま、というかお嬢様のような感覚である。
「やっぱお前……すごいな」
ふと漏れた感想に、アルスはじっとりとした目でレインを見る。
「……今レイン君、すっごい失礼なこと考えてたでしょ」
「い、いやいや全然? 素直に褒めただけですよ」
アルスの勘の良さにヒヤリとさせられるが、顔に出さずにレインは言葉を返した。アルスは「まあいいけど、どうせちんちくりんだし」と愚痴のように言いつつも、追及はやめたようだ。
そのまま、躊躇うことなく店に入ろうとする。
「え、ちょ、心の準備が……」
――というかお金の準備が……、とレインが二の足を踏んでいると、アルスは振り返って笑った。
「別に怖がる心配なんてないよ。絶対何か買わなきゃない訳じゃないし、もし買うならお金は僕が出すから」
「え……い、いや、でも…………」
いくら何でも女の子――役の男の子――に支払わせるのは男として許せない。しかしだからと言って自分で買おうにも、正直所持金が足りるかすら怪しい。
レインが究極の選択に逡巡していると、アルスは焦れたようにレインの手を掴んだ。
「ほら、行くよ!」
「あ、ちょっと待って、まだ――」
そしてレインは、局所的に物価の狂った世界へと足を踏み入れた…………。
***
「貴族の域」を出てしばらく歩いた先にある、一軒のカフェ。屋外席のテーブルに顎をつけて、ぐったりとしながらレインは呟いた。
「つ、疲れた…………」
先ほどの服屋――正確には仕立て屋――は凄まじかった。入って一番近くにあったコートの値段を見て、心臓が飛び出るかと思ったほどだ。一着だけでレインの財布の中身は全て消え、それでもなお足りないほどの金額だった。
「せっかく来たんだから何か買えば良かったのに。本当に良かったの?」
「ああ……。俺にはあんな服、着られないよ……」
結局、今回レインは何も買わなかった。アルスが払ってくれようとしたが固辞したのだ。あまりに申し訳ないし、第一買ったとしても、恐ろしくて普通に着られる気がしない。身の丈に合った服を買うべきだとレインは堅く心に刻んだ。
ちなみにアルスは小さなハンカチを買っていた。丁寧にラッピングしてもらっていたところから察するに、誰かに贈るのだろうか。
「そのハンカチ、誰に贈るんだ? 親とかか?」
テーブルの上に置かれた小さな箱を見ながらレインは聞いた。アルスは飲んでいた紅茶を置いて答える。
「いや、ガトーレンにね。行き過ぎなところもあるけど、それでもお世話になってるから」
小箱を見るアルスの顔は、いつも以上に優しい顔だった。
ガトーレンに心から感謝しているのだろう。レインにもそれは分かった。
いつの間にか、ガトーレンの気配は消えていた。アルスがレインといるところを見て安心したのか、アルスたちが店にいる間に帰ったのだろう。ならばそのプレゼントも、ちょっとしたサプライズになるということだ。
「喜んでくれるといいな。最近、父さ……神王からの義務的な連絡以外、まともに話すこともなかったから」
ぽつりと呟いたアルスに、レインは勝手に答えた。
「……喜ぶだろ、きっと。お前からならな」
――尾行するほど気にかけてるアルスからのプレゼントで喜ばない訳がない。
そう思ったが、あえてレインは言わなかった。
何より、アルスにそんなことを言う必要はなかった。
「……うん。そうだよね」
優しい表情のままアルスは呟く。
そこまで深く思いあえる存在がいるアルスを、羨ましいとすらレインは思った。
「……さて、じゃあ休憩も済んだし、行こっか! まだまだ時間はあるしね!」
「ほーい……。次はあんまり高くないところがいいな……」
「大丈夫大丈夫、夜ご飯以外はそんな高くないから!」
「つまり夜は高級料理店ってことだよね!? お前が高いって言うことは絶対高いよね!?」
「気にしないで! 奢りだから!」
「気にするんだよ俺だって男なんだから!」
――こうしてレインは、再び胃に負担をかけるような店へと連れ込まれるのだった……。




