1─2 初体験
「レイン君、ちょっといい?」
昼休み――。教室が騒がしくなってきたころ、食堂に向かおうとしていたレインに話しかけたのはアルスだった。
「ん? ああ、別にいいけどどうした?」
レインは足を止めアルスを見た。するとアルスはどこか遠慮するように、様子を窺いながら聞く。
「えーと、その……頼みがあるんだけど…………」
「頼み?」
平然とした態度を装い聞き返しながら、レインはほんの少しだけアルスから目を逸らす。
もとより中性的な顔立ちのアルスだ。わずかに頬を染めつつ上目遣いにこちらを見られると、レインとしても何となくどぎまぎしてしまう。なんというか、男子らしさが皆無なのだ。
――いや、男、だよな?
レインが思わずアルスの性別から疑ってしまっていることなど露知らず、アルスはようやく何かを言う覚悟を固めたようだ。
深く息を吸って――。
「ぼ、僕の初めての相手をお願いします!」
「…………は?」
レインの口からは、そんな間抜けな声しか出なかった。
***
「レイン君……本当に良かったの? 僕なんかと…………」
「ああ。お前となら後悔なんてしないよ」
「っ…………ありがとう。何か、恥ずかしいね」
「恥ずかしがることないだろ。だって――」
十分後――。二人は第一闘技場の舞台の上にいた。
「僕、対人戦はやったことがないんだよね。悪魔相手なら何回かあるんだけど」
「――うん、初めての相手ってそういうことなんだから。別にやましいことなんてないし」
レインは数分前の自分をふっ、と自嘲しながら〈魔法解除〉によって、背の白い鞘を可視化した。勢いよく剣を抜き、頼もしい重みを腕に感じる。
『は、初めての相手って一体どういう…………?』
『えと、僕、対人戦をやったことがないんだ。だからどうせやるなら初めては強い人がいいなって思って。レイン君ならきっと強いと思ったんだけど……駄目、かな?』
『…………あ、ああ、初めての相手ってそういうことか! そうだよな、アルスは男だもんな! いやあ、びっくりした!』
『……レイン君? 僕が男って何のこと…………?』
数分前にこんな会話があったことをレインは覚えていない。いや、思い出したくない、の方が適切だろう。何と勘違いしていたのかアルスにバレたら、レインは死ぬしかない。むしろ今猛烈に死にたい。
自分の失態を思い出してうじうじと悩むレインの前で、アルスもまた自らの得物――神器を解き放った。
「神の調べを奏でし神器よ。汝の力を我が手に宿せ。気高き旋律と理想の音色で、あらゆる邪を浄化せよ。神臨――神器〈アポロン〉」
抜き放たれた神器。眩い閃光が辺りを一瞬白く染め、わずかの後に姿が露になる。
姿を見せた剣に、レインは先程の失態など忘れて息を呑んだ。
長剣――いや、細剣のように細く長い。斬撃というよりも貫くことを目的としているようで、側面の刃にこそあまり鋭さはないが、その分先端の一点には恐ろしいほどの輝きがある。触れただけでも貫かれてしまうかもしれない。
そして、アリアの神器〈ヘスティア〉同様に放たれる凄まじい覇気と威圧感。何ともいえない独特な空気が辺りを包んだ。
「…………やっぱり本物だな。神器使いの中でも」
〈アポロン〉というらしい神器を持つアルスを見て、レインは自分の勘は正しかったと認識する。
アルスは間違いなく強者だ。あれほどの覇気を放つ神器〈アポロン〉を手にしても、一切心に乱れがない。
つまりアルスも、アリアと同様に完全に神器を制御しているということ。
しかしアルスは。
「……僕なんてまだまだだよ。アリアさんや他の神器使いの人たちと比べれば全然ね…………」
少し俯くように自らの手に収まる〈アポロン〉を見つつ、アルスは小さく呟いた。
「…………? ま、いいや、さっさと始めようぜ。時間も限られてる」
「あ、うん、そうだね。じゃあ……………」
アルスの口調の弱さに疑問を抱きながら、レインはアルスを促した。
アルスが神器を構えるのを見てから自分も剣を構える。
アリアとの幾度とない修練のおかげで、神器使いには少しの油断でさえ致命的なミスになることを学んだ。もちろん侮っている訳ではないのだが、途中のふとした安堵や、集中が途切れた瞬間に、一瞬にして戦況は覆る。
それを防ぐためには、最初から常に集中していなければならない。故にレインはアルスに対する一切の先入観を捨て、純粋に気持ちを切り替えた。
レインの変化に気付いたのか、アルスも気を引き締め、
「…………行くよ!」
アルスの声と共に試合は始まった。
同時にアルスはレインに向かって走り出す。聖具使いでは反応するのも難しい速度で、あっという間にレインとの距離を詰めていく。
だが、まだアリアの方が速い。必然レインにとっては反応しやすい速さであるということだ。
距離を詰めて突きの体勢に入り、剣を引いたアルスに合わせ、レインが迎撃に集中した――その瞬間。
――ふいにアルスが消えた。
「…………!?」
辛うじてレインが捉えたのは、真横に回り込んだアルス。
「――くッ!」
反射的に反らしたレインの上体の上を〈アポロン〉が凄まじい速さで通過した。風切り音すらしないほど滑らかな突きは、当たれば貫通は免れないだろう。
思わぬ一撃に冷や汗をかきながらレインは一度距離を取る。しかし時間を置かず追随してきたアルスは、やはりレインの前で急にかき消えた。
直後に今度は逆側から襲い来る〈アポロン〉を紙一重でかわしつつ、レインは今までに感じたことのない感覚を味わっていた。
全くタイミングが掴めない。アルスが攻守を切り替わる瞬間を追えない。
アルスの戦い方は今までの相手と根本的に違う。何故かは分からないが、とてつもなく戦いづらいのだ。
このままではまずいとアルスに向き直り、今度は自分から打って出るレイン。
しかしアルスは一瞬で距離をとって攻撃をかわすと、再びレインの前に現れ鋭い突きを放ってくる。
止まったように見えた次の瞬間には、消えて見えるほどに速く移動する。いや、直前のゆっくりとした動作との速度差が大きすぎて、目がついていかないのだ。
前にいるかと思えばいつの間にかレインの後ろへ。下がったと思えばその数瞬後には目の前に。レインは、まさしくアルスに翻弄されていた。
背後に回り込まれ、何とか食らいつこうと振り向いたレインの前で――アルスは既に剣を引き絞っていた。
「――はあああっ!」
「――ッ」
繰り出されたのは剣撃の嵐。一撃一撃には重さこそないものの、それを補ってあまりある鋭さがあった。触れただけで体を貫くであろう突きがレインを襲う。
「くあっ…………!」
タイミングも狙いも見事なまでにばらけた突きを、辛うじてレインは防ぐ。
突きの狙いが点であるため、普通の斬撃と違って横から弾きすることが難しいのだ。先程までのような単発の攻撃ならまだよかっただろうものの、こうして連撃を繰り出されると、いくらレインとて全てを弾くことは出来ない。
最低限の動作でかわし、或いは何とか軌道を逸らし、レインはアルスの連撃を凌ぐ。
同時にじっくりと、途中で生まれるはずのわずかな間隙を待った。剣を構え直すための猶予であれば、アルスも動きが鈍るはず。
「…………すごいね、レイン君! でも、まだ…………っ」
「…………!」
レインの予測は正しかった。十数発目で剣撃がわずかに止まり、アルスが大技のためか剣を引き戻す。待ち望んだ好機に、レインはここぞとばかりに力を込め――全力の斬り下ろしを放った。
攻撃のために一度剣を戻したアルスは反応出来ない――はずだったが。
「…………かかったねっ!」
「――!?」
キイイイイン! と甲高い音がした。
すぐには振ることの出来ないはずの〈アポロン〉が閃き、レインの剣の腹を正確に弾いたのだ。
力はあまり加わっていなかったが、レインは真下に叩きつけるように力を込めていたが故に、横からの力に弱かった。剣の照準がアルスから外れる。
「な――!?」
あの状態から反射的に出来る業ではない。つまり。
剣撃の中断自体が――フェイク。
ここまで狙ってレインを誘うように敢えて空隙をつくった、ということ。それ以外に考えられない。
アルスの目論見が成功したということは、即ちレインがアルスの思惑通りに動いたことを表す。確実に攻撃を当てるための、布石とも言える動きに嵌まった。
「まずい――」
「せああああっ!!」
弾いたレインの剣の逆側に回り込んだアルス。がら空きとなったレインの右腹を狙い、今日一番の速度の突きが放たれた――。
「……させるかっ!」
その直後、鈍い音とともに、跳ね返るように回転したレインの剣が〈アポロン〉を叩いた。
「……!? そんな――くッ」
真下に向かうはずの剣を身体能力を以て制御し、無理矢理迎撃したのだ。互いに相反した力が加わり、アルスは抗わず飛び退るが、レインはその場で中腰のまま耐えた。飛べる体勢ではなかった。
手に伝わる凄まじい衝撃に顔をしかめつつ、レインは立ち上がる。
「痛ーっ……。何とか間に合ったか……」
手首を回して怪我がないことを確認し、剣を構え直す。
そんなレインを見ながら、アルスは言った。
「……やっぱりすごいね…………。思ってた以上だよ」
「どうも。とは言っても、お前もなかなかだけどな。――そんな戦い方をしてきた奴は初めてだ」
対するレインも、思った通りのことを言った。ようやくアルスの戦い方が理解出来てきたのだ。
アルスの戦い方は、一般的な剣撃によるものではない。
普通であれば剣を使う者は、レインやアリアがそうであるように攻撃と防御の両方に剣を使う。剣で攻撃し、剣で防ぐのが、最も基本的で戦いやすいスタイルだ。
しかしアルスの場合、剣を防御に使うことはほとんどない。
そもそも細剣という剣の種類自体が珍しく、聖具でも細剣型のものをレインは見たことがない。どうしても耐久力の点で劣るため、武器の消耗が激しい防御に使うのには適していないのだ。それ故あまり剣使いには好まれず、使う者がいない。
そんな細剣を使うアルスは、剣で防ぐという選択肢を捨て、自らの足による特殊な走法で攻撃をかわす。
単純に速いというよりも――“軽い”。速度の変化が激しく、動くタイミングが分からないのだ。
どうやって身につけたのかは分からないが、恐らく体の重心を制御することであの独特な動きを再現しているのだろう。
同時に、本来攻撃をかわすための走法が自らの攻撃にも生かされている。
まるで軽やかに踊る蝶のように。また或いは、激しく飛び狂う蜂のように。
一瞬で加速したと思えば次の一瞬で有り得ないような減速をし、一定の速度に落ち着くことがない。攻撃しようにも行動の予測が非常に難しく、防ぐのはアリアの剣よりも厳しいかもしれない。
緩やかな動きと瞬発的な加速に減速という完成されたスタイルは、やはりアルスが本物であることを示していた。
「違うよ……これじゃ駄目なんだ。僕はもっと…………」
しかしアルスはレインの評価など聞いていないかのように呟く。
「僕はもっと……強くならなきゃ!」
次の瞬間に、レインの目の前にアルスはいた。
「…………ッ!」
――速い。純粋な速度だけを見ても、レイン自身と遜色ない。
「はっ!」
アルスは鋭い突きを放った。レインも反応が遅れながらも防ごうとするが、斬撃と違って弾きは出来ない。
やむなく身を捻ってかわすが、そうしている内にアルスは一度離れ反撃することすら叶わない。
強い。アルスは間違いなく、それこそアリアにだって劣らないほどに強い。たった数分でもそれだけは言えた。
しかし――。
「はあっ!」
「っ…………?」
何故か感じる――違和感。
レインはアルスの剣を避けずに敢えて下から弾きあげた。多少危険な選択ではあったが剣を弾くことに成功し、アルスの体勢が崩れる。
わずかな隙を逃さず、レインは再び全力の斬り下ろしを放った。
「……くっ!」
次の瞬間、ガキン! という音とともにレインの剣は止まった。アルスがすんでのところで〈アポロン〉を制御し、剣の軌道に割り込ませたのだ。
「はあっ…………!!」
「くっ…………」
鍔迫り合いになるが、純粋な力ではやはりレインに分がある。アルスがあらんかぎりの力を込めても、やがてじりじりとレインの剣が下がり始めた。
このままなら勝てる――と、レインが思った時。
苦悶の表情で必死の抵抗をしつつ、アルスは歯を食い縛った。
「駄目なんだ……このままじゃ……僕は…………っ!」
「――!」
アルスの言葉に、ようやくレインは違和感の正体を知った。
――その瞬間にアルスは抗う力を全て抜いていた。
「なっ…………!?」
アルスは身を引いてわずかに離れる。
さっきまでの反発が消え、レインは前へつんのめり、体勢が崩れた。これでは剣を振ろうにもアルスが見えない。窮地を察した時には既に遅かった。
アルスが〈アポロン〉を引くのが分かった。猶予はもう――ない。
「……はあああっ!」
「…………!」
レインは――。
「――まだだ」
キン、と澄んだ音がした。
音の発生源は〈アポロン〉とレインの剣の接触点。
「え――」
目の前で起きた現象にアルスは絶句する。
――瞬いたレインの剣が〈アポロン〉を弾いた。
体勢は崩れたまま、アルスを見ることもなくレインは突きの狙いを予測したのだ。
「なん――」
「なんとなく、かな」
アルスが目を見開いた時には既に、レインはアルスの首元に剣を突きつけていた。
「…………っ!」
アルスでも反応出来ないほどの刹那の切り返し。いや、渾身の一撃を弾かれた今、レインの剣を回避する術はもとよりアルスにはなかった。
まるで時間が止まったかのように、場は一瞬で静まった。
「……こ、降参します…………」
剣を突きつけられ動きを止めたまま、アルスはそれだけを呟いた。
***
「やっぱり勝てなかったかあ……。最初は押してると思ってたんだけどな…………」
長いようで短かった試合を終え、闘技場から学園へ帰る道すがら、アルスは一人そうぼやいた。
いつの間にか昼休みは残り数分となっている。そのため、二人はぎりぎりまで粘ることなく学園へ戻ることを選んだ。ノルン教官の説教だけはなんとしても避けなければいけなかったのだ。前回の経験から、ノルン教官の説教の破壊力の凄まじさは身に染みて知っていた。
闘技場を早く出たおかげで、特に急いで戻る必要もない。軽く汗をかいた体を休めるように、二人はゆっくりと歩いていた。
アルスのぼやきにレインは頷く。
「確かに最初は厳しかったな。あのスタイルにいきなり対応するのはかなり難しいだろ」
「あ……そう言えば、何でレイン君は僕が最後に狙ってたところが分かったの?」
「…………」
アルスの質問にどう答えるか、レインは一瞬だけ迷う。
それでもレインは首を捻りながら答えた。
「んー……何でっていうか……さっきも言ったけど、何となくかな。お前が狙ってるところが、規則的に思えたんだ」
「……え?」
「やっぱり自覚してなかったか。多分狙いを散らしてるつもりだったろうけど、実際はパターンがあったんだよ。ま、あくまで勘だったけどさ」
「…………そう、だったんだ」
アルスは少し俯くと自嘲するように小さく笑った。
「やっぱり駄目だね、僕は。この国の王子だっていうのにこんな体たらくだなんて……」
「…………アルス」
一人言のように、或いは自分を侮蔑するかのようにアルスは呟く。その姿はレインにも見覚えがあるものだった。
そう――あの時の自分自身だ、と。
「アルス。俺がお前の剣を防げた理由がもう一つある」
「え…………」
だからこそレインは言うことを決める。余計なことかもしれないとは分かっていたが、黙っておくことは出来なかった。
「お前の剣には芯がなかった。確かに速いし鋭いけど、意志も願いも籠ってない。それじゃ……貫けるものも貫けない」
「…………」
「お前の剣じゃ、他の神器使いには並べないよ」
「っ…………」
レインの、或いは強すぎる言葉にアルスは唇を噛みしめた。
レインも、さすがに言い過ぎかもしれないということは自覚していた。だが、敢えて言わなければならないと決断したのだ。
何故ならアルスの剣には――まだまだ進化する可能性が秘められていたから。
試合が終わった直後、レインはアルスの不調に気付いていた。
突きや走法自体には確かに熟練の技術というか、慣れが感じられた。「自分は弱い」と卑下していても、アルスは神器使いだ。それなりの経験や修練を積んでいるだろうし、何の迷いもなかったように思える。
そもそも体というのは、一度動いてしまえば案外勝手に動くものだ。自らの体を制御する時は、頭で考えた理屈よりも経験などによる反射の面が大きい。つまり頭で考えなくても、自然と体は動いてくれるのだ。アルスもその点については何の問題もなかったようにレインは感じた。
違和感を感じたのはそこではなく――「頭を使う部分」だ。
例えば突きを打ち込む時に狙う位置。
相手の体勢や傷の負い方など、場に応じて臨機応変に考えなければならない。こればかりは、「こういう時にどこを狙うべきなのか」という定石こそ経験で手に入れられても、体が勝手にやってくれることはない。思考が必要なのだ。
アルスはその点で、完全に試合に集中することが出来ていなかった。
最後にレインが弾いた突きも、丁寧に照準を吟味さえしていれば、弾かれることなく勝負を決めていただろう。
試合中のアルスは、どこか心が飛んでいた。それはまるで、嫌なことから目を背けて、何も考えないようにしているような。
アルス自身の本来の素質は、十分すぎるほど優れている。もし完全に集中することが出来れば、剣は数段上の高みに上るだろう。そう確信したからこそ、レインは例え強い口調になってしまったとしても、言うことを決意したのだ。
「多分、お前はすごい奴だよ。本気になれば、俺も勝てたか分からない」
「本気になれば…………? 僕はさっき手を抜いてなんか……」
「自覚してないだけだ。目の前の相手に集中しきれてないんだよ」
アルスが集中出来ない理由には心当たりがある。それも、朝にちょうどアリアから聞かされたことだ。
他人が口を挟むことではないのかもしれない。それも王族同士の関係に関することだ。アルスだって、余計な口出しはされたくないと思っているかもしれない。
それでも、アルスが強くなりたいと思うのなら、とレインは言った。
「…………何か悩んでるのか? ……家のことで」
「…………」
アルスはしばらくの間、沈黙した。俯いた顔はレインからは見えない。
しかしやがて。
「……やっぱり敵わないなあ…………」
アルスは顔を上げると、そう呟いて苦笑した。
レインの予想は当たっていたようだ。
だが、答えをアルスがすぐに言うことはなかった。
かわりに、
「……次の休日って暇?」
そんなことをアルスは聞いた。
「…………は?」
どこかで似たような体験をした感覚に襲われながら、レインは間抜けな声を出した。




