5─4 絶対的強者
翼獣魔種の目がレインを捉えた。
黒を纏った姿を見て間違うはずはない。
あれこそが。
「マサカ貴様ガ――」
しかしその瞬間、レインの姿が消えた。
「――ッ!!」
途端に感じた恐怖。翼獣魔種は思考を止め、反射的に身構えた。既に余裕は消え失せていた。
前に現れた瞬間に叩く、と体に力を入れて――。
「…………遅い」
がら空きの背後に、レインは現れた。
「…………ッ!?」
見えない。何も捉えられない。動くための予備動作すら察知出来ない。
「…………はあっ!」
気勢のこもった声と共に、レインの神器〈タナトス〉が翼獣魔種を貫いた。下位級の数倍は堅いはずの外殻でさえものともせず、貫通したのだ。
「……ガハッ…………!」
貫通した傷口からどす黒い血が流れる。おびただしい量の出血が、傷の深さを物語っていた。
レインは流血をまるで意に介さず剣を引き抜いた。
「カ……ハァ…………ッ!」
片腕を失い、腹には貫通するほどの傷。既に戦える体ではない。翼獣魔種はがくりと膝をついた。
「ハァ……ッ、ハァ…………ッ! 何故、貴様如キガ……コンナ力ヲ…………!!」
血の混じった呻きを漏らす翼獣魔種を見下ろすレインの視線は、これまでに無いほど冷たい。無慈悲な――否、何の感情も持たないような、そこらの塵に向けられる視線。
「有リ得ン……我ガ……我ガ……!」
「黙れ。まだ戦えるだろ。時間稼ぎは無駄だ」
「―――ッ」
全てを知っているようなレインの口調に翼獣魔種は絶句した。
しかし、
「ソウカ……、貴様モ我ラ悪魔ヲ知ルモノダッタナ……。ナラバ尚更、生キテ返ス訳ニハ行カン!!」
刹那。
翼獣魔種を光が包んだ。
「ちっ…………」
舌打ちをしつつレインは退がった直後、
「死ネ!」
光が収まった時、翼獣魔種には傷一つ残っていなかった。再び万全になった体でレインを殺そうと迫る。
魔素再生。悪魔の中でも高位の存在にしか許されない術。
周りの魔素を吸収して自らの傷を癒す力だ。魔素に触れさえすれば強制的にはたらくために、魔素が固定されていようと何の問題も無い。
或いはこの翼獣魔種が持つ特異体質は、魔素を固定するのではなく魔素自体の動きを操れるものなのかもしれないとレインは推測する。それならば、異常な魔素再生の早さも頷ける話だ。
しかし、だとしても。
――関係無い。
切り裂こうと迫ってくる翼獣魔種の鋭利な爪。それでもレインは慌てることなくほんの一瞬で――。
「……!? グバアッ!?」
――爪も腕も、全てをもう一度粉々に斬り刻む。
微塵となって散る腕。激痛に襲われながら翼獣魔種は、
「……グルアッ!!」
右腕を犠牲にしつつ、レインの死角から長い左腕で腹を狙った。気付いたレインは、無理に抗わず剣で受ける。
「……フンッ!」
「…………!」
重い音が響き、翼獣魔種の強靭な体の膂力によって、剣ごとレインは吹き飛ばされた。
とはいえ剣による防御は完璧だ。レイン自体にはまともにダメージは入っておらず、空中で逆さになりながらもその顔に焦りは無い。
だがその時。
「現レヨ、我ガ軍勢! 〈悪魔の軍兵〉!」
魔素の固定を解いた翼獣魔種が叫んだ。途端に、レインが吹き飛ばされ着地するであろう地点に、巨大な陣が浮かび上がる。
転移魔法――。レインのそんな予想は正しかった。
一瞬強く光った後に悪魔たちが現れる。数にして五十体は下らないだろう。さらに、中にはちらほらと一際巨大な悪魔も見られる。
巨人種と呼ばれる悪魔だ。級は下位級ではなく中位級であり、決して侮っていい相手ではない。
「悪魔ニ飲ミ込マレテ死ヌガイイ、“漆黒の勇者”ヨ」
空中に吹き飛ばされたレインに出来ることはない。着地と共に悪魔の波に飲まれ死ぬ――翼獣魔種はそう考えているのだろう。
だが。
「異能――“翔躍”」
顔色一つ変えずに、レインは力を解き放つ。
刹那。
何も見えない。何もしていないはずのレインの先で。
五十超の悪魔の軍隊は、一瞬で壊滅した。
「―――ッ」
翼獣魔種の腕と同じように塵も残らず。正しく完膚なきまでに全ての悪魔は消滅していた。
まるで地に降り立つ悪魔のように、レインは着地した。
「何ダ……何ナノダ、ソノ“力”ハ!」
レインが持つ異能、“翔躍”。
それはまさに悪魔の如き力。
「覚悟しろ。お前に俺は映らない」
またしても一瞬にして翼獣魔種の前に現れたレインは、次の瞬間――にも満たない時間で無数の斬線を刻む。
「…………ッ!!」
レインの異能、“翔躍”。
それは、あらゆるエネルギーを増大させる能力。
動いた時のエネルギーを増大させることで非常識的なまでの速さを生み出し、攻撃時のエネルギーを増大させることで圧倒的な破壊力を生み出す。故にその姿を見ることは叶わず、如何なる装甲を以てしても攻撃を防ぐことは不可能。
それこそが、“漆黒の勇者”の本当の力。
「化ケ物ガ…………ッ」
血の混じった声で翼獣魔種は憎らしげに言った。
「悪魔のお前と同じにされるのは心外だな――とは言わないよ。自分でもそう思うしな」
化け物。そう、正しく自分は化け物なのだろう。力だけを持ち、それ以外は何も持たない凶暴で愚かな魔獣と同じだ。どう間違えても、決して“勇者”などではない。
しかし獣でも、守りたいものがあれば戦うはずだ。
守るべきものが己なのか子どもなのか、或いは狩り場なのかは分からない。だが、レインに限って言えば、それはきっと――。
「……でも、そうだとしても俺は戦う。あいつらを守るために」
アリアたちを、学園の皆を守るために戦うと、レインは決めたのだ。
「フンッ……下ラン。肝心ナ所デ、ヤハリ貴様ハ狂ッテイル。ソノ“力”ガアレバ、ドンナ物デアロウト手ニ入レルコトガ出来ルダロウ。何故自ラノ欲望ニ従ワン」
ぼろぼろの体で翼獣魔種は吐き捨てるように言った。レインは表情を変えずに返す。
「奪っても何も楽しくなんかない。それに……そんなのはもう十分なんだ」
レインは自らの手に収まる〈タナトス〉を見ながら言った。
その瞳には、先程までにはない少しの後悔が垣間見えた。
「ヤハリ化ケ物ダナ、貴様ハ。悪魔ジミタ力ヲ持チ、シカシ悪魔ノヨウニハ生キラレン。人デモ悪魔デモナイ歪ナ存在ヨ」
「言われなくても分かってるさ。この剣を手にした時から、人でなくなる覚悟は出来てる。……いや、もう人なんかじゃないんだ、俺は」
どこか悲しくレインは言った。翼獣魔種は何も言わず、再び魔素再生によって体を再構築する。
魔素再生とは魔素を使って回復する力。即ちその限界は周りの魔素が全て尽きる時まで、もしくは術者の精神が限界を迎える時だが、どちらもすぐには期待出来ないだろう。
或いは――。
「グルアアアアアッ!!」
視界の端で自らに迫る翼獣魔種を捉えつつ、レインは意識を離れた位置に座る少女に向けた。
***
「……………………」
アリアはただ無言で、眼前で戦いを繰り広げる少年を見つめていた。
『大厄災』で幾らともしれない悪魔を屠った伝説の神騎士、“漆黒の勇者”。黒い神器を持ち、黒い姿であること以外全てが謎に包まれていた英雄。そして、アリアが追い求めていた勇者。
もはや疑いようが無かった。あの少年こそが“漆黒の勇者”の正体だったのだ。
黒い衣に身を包み、黒い神器を持って戦う彼は――美しかった。
もちろんアリアといえど“翔躍”によって真価を発揮した瞬間のレインは捉えられない。しかしそれでも、平常時の剣の構え方、足の運び方、重心を置く位置など、戦闘における所作においてレインに間違いは一つもない。洗練された動きが、何よりも雄弁に彼の実力を語っていた。
彼はあの極致に達するまで果たしてどれだけ剣を振ったのだろうか。少なくとも自分の比ではないことだけは、アリアにも確信出来た。
そんなレインの姿を見ているアリアの頬を、いつしか涙が伝っていた。
死を覚悟していた時の涙ではない。言うなればそれは、悔恨の涙だ。
並べない。
自分は決してレインの横には並べないと、そんなことも確信してしまったからだった。
例えば今戦闘に加わって自分に何が出来るだろうか。
もしそうすれば、まず間違いなくレインの足手まといになってしまうだけだろう、とアリアは判断する。
アリアとレインにはそれだけの差があるのだ。
「……………………」
こんな体たらくでどうして言えるというのか。自分がレインを助けるなどと。
唇を噛み締めて、アリアが下を向こうとしたその時。
ちらりと、レインがアリアを見た。
「…………っ!?」
レインが何を言った訳でもない。しかしアリアには、何故かレインの意図が明確に分かった。
“全力の一撃を翼獣魔種にぶつけろ”
レインはそうアリアに伝えたのだ。
しかし――。
「無理だよ……。私じゃ…………」
出来ない。アリアが全力を出そうと、翼獣魔種の障壁によってほぼ無効化されてしまうのはもう分かっている。何をやっても無駄だと、アリアは気付いてしまっていた。
自分がここにいる意味はないのだと、知ってしまっていた。
「私に出来ることなんて、何も――」
『ある。絶対に』
それでも、遮るように聞こえたのはレインの声だった。
「―――」
言葉を失ったアリアに、レインの、少し無機質だがいつものように温かい声が届く。
『俺の力だけじゃ、多分翼獣魔種は倒せない。お前だけでも倒せなかった。けど、二人なら出来る』
どうして声が届くのかとか、そんなことは関係なかった。レインの声を、ただただアリアは聞いていた。
『出来ないことを一人でしようとするな。俺は俺の出来ることを、お前はお前に出来ることをやれ。俺には……お前が必要なんだ』
わずかな間の後にレインは。
『“漆黒の勇者”を、俺を助けてくれ、アリア』
「―――っ」
今もなおレインは激しい戦いを繰り広げている。
その中に飛び込んで何かが出来る自信はない。自分だけでは、何も出来ない。
けれど。
もし一人ではないのなら。
彼と一緒ならば――。
「…………ん!」
涙を拭い、上を向いて。
アリアはもう一度立ち上がった。
***
「……そろそろ終わりだな」
一人、翼獣魔種と戦うレインはぽつりと呟いた。
目の前に立つ翼獣魔種の体は魔素再生によって常に無傷の状態まで修復される。しかし傷の回復に反比例するように、翼獣魔種自体の体力は目に見えて落ちていた。
「グッ…………ハア……ハア……!」
魔素再生の限界は何も魔素が無くなった時だけではない。行使する度に一定の体力を使うため、使用者の体力が底をつけば必然回復は出来なくなる。
いまや翼獣魔種に最初の頃のような力は残されていなかった。
「諦めろ。今のお前じゃ俺には勝てない」
呼吸するかのように自然に剣を振るいながらレインは言った。翼獣魔種の体に、再び無数の斬線が走る。
「ガフッ……マ……マダ、ダ!」
血を吐きながら翼獣魔種は魔素再生を行使する。が、それが体を修復するより早く、翼獣魔種は後ろによろめいた。
辛うじて倒れはしなかったが、レインによる斬傷は癒えていない。
「ハァ……ハァ…………ナン、ダト……?」
それを見た翼獣魔種は、腕を力なく下げ、俯く。
「ハハ……モウ、限界カ」
「ああ。もうお前は魔素再生すら使えない。足掻くのはやめて、降参しろ」
「降参……? フ、ソンナコトヲシテ……何ニナル。モハヤ……我ニ、諦メルトイウ選択肢ハ無イ」
翼獣魔種は顔を上げた。落ち窪んだ眼窩の奥に、揺らぐ炎があるようだった。正しく執念と言うべき意思だろう。
「認メヨウ。我ハ貴様ニハ勝テン――」
言うと、翼獣魔種は細い腕を高く挙げた。そこに宿るのは転移魔法の輝き。
「ちっ。まだ悪足掻きを……」
レインが現れるであろう大量の悪魔たちを警戒し、身構えた時。
翼獣魔種はにやりと歪な笑いを浮かべた。
「――ダガ、アチラハドウカナ?」
行使された転移魔法。陣は、レインの足元には起こらなかった。
光ったのはレインの背後。そう――アリアがいる場所。
「―――ッ」
「ハハハ! 大切ナ仲間トヤラダケデモ……死ネェッ!」
転移した大量の悪魔たちの甲高い声が戦場に響き渡った。
――アリア。お前は……。
レインが振り返るよりも早く、悪魔たちがアリアを――。
「神能“神之焔”――〈滅焔陣〉」
――ゴウッ! と、突如レインの背後で凄まじい勢いの焔柱が上がった。
「ナッ―――!? バ、馬鹿ナ!」
翼獣魔種が驚いたように叫ぶ。
対称に、レインはまるで驚くことなく、微笑みながら振り返った。
「――簡単に折れるかよ、あいつが」
レインの目に映った少女は。
赤く長い絹のような美しい髪をなびかせて。
決意の宿った赤い瞳を輝かせて。
何であろうと貫く、少女の具現のような赤い神器を手に。
「行くわよ、レイン。全力で」
――アリアは、燃え盛るような覇気を放ちながら立っていた。
アリアのたった一言の確認にレインは頷く。
「俺のことは気にするな。お前はお前の全力をただぶつけろ」
「――分かった」
短く返事をし、アリアは神器〈ヘスティア〉を高く掲げた。
「ナ、何故ダ! 貴様ハモウ戦ウ気力ナド……!」
有り得ないというように叫ぶ翼獣魔種。レインは静かに言う。
「あの程度で諦める奴じゃないからな。あいつはいつか俺と並ぶ……いや、俺を超える存在だ」
その時。
レインと翼獣魔種ごと囲む、特大の陣が地に浮かんだ。
「――〈不死鳥檻〉」
アリアの詠唱と同時に、陣から猛然と焔が吹き上がった。高く上った焔は天で閉じ、何者も逃さない絶対の檻が完成する。
「コレハサッキノ!? クッ、〈魔障……」
「させるかよ」
障壁を展開しようとした翼獣魔種の前にレインは音もなく現れ、敢えて“翔躍”を使うことなく翼獣魔種に斬りかかった。
「グアッ……!? 貴様、何ノツモリダ!」
翼獣魔種は当然腕で迎撃する。が、レインはそこで押し切ることはせず、腕と剣での鍔迫り合いのような体勢に持ち込んだ。強固な外殻に覆われた腕は、ただ剣で押す程度では斬れることはない。
「魔素再生の乱発で薄くなった魔素に、術者の体力の消費……。これ以上魔法を使うなら、かなりの集中が必要だろ。少なくとも俺がこうしてる間は魔法も使えないはずだ」
「ナ…………!」
レインはより一層の力で翼獣魔種を押す。翼獣魔種も倒れないために力を加えなければならないが、こんな状況では他に集中を割く余裕などない。
「貴様……我ゴト道連レニスル気カ!?」
「さあな。ただいずれにしろ……お前は死ぬ」
レインが呟いた時、ついにアリアは術式を組み終えた。
アリアの視線がちらりと振り向いたレインとぶつかり、レインはただ頷いた。アリアはどこかまだ迷うように、しかし決意して最後の詠唱を終える。
「――〈断罪〉」
天高くそびえていた檻が、ついに崩れる。
ゆっくり、ゆっくりと。やがて速く。
――神の怒り。正にその具現と化した焔が――。
「ヤメ―――」
翼獣魔種の悲痛な叫びごと、焔は一切を飲み込んだ。




