5─3 “漆黒の勇者”
「はぁ……はぁ…………」
アリアは地面に突き立てた〈ヘスティア〉を支えに、辛うじて倒れることなく立っていた。
焔が大地を覆ってからどれだけ経っただろうか。いまだに立ち上る蒸気のせいで確認は出来ないが、辺りは“神之焔”による熱で何もかもが消えているはずだ。逃げることすら出来ない絶対の一撃の前に、耐えることなど不可能。
だが――。
「……くっ」
アリアは感じた。
――翼獣魔種の強大な覇気を。
アリア自身は〈ヘスティア〉の炎熱操作の力で熱を遮断出来るため、神能によるダメージは受けていない。しかし、直前にくらった一撃のダメージが大きすぎた。大技の行使も相まって今にも倒れてしまいそうだ。
だが、翼獣魔種もあれだけの威力の攻撃をまともに受けたはず。例え生きていたとしても勝ちの目はある――とアリアが思った時。
「ヨモヤアレダケノ威力ヲ持ツ技ヲ使エルトハナ。驚イタゾ」
狂気がかったような金切り声が聞こえた。
そこにダメージを受けた色は無い。
「…………っ!?」
――嘘だ。そんなことが有り得るはずがない。
アリアが思わず叫び出しそうになった時、一陣の風が吹き、残存していた蒸気を吹き飛ばした。
そこにいたのは。
「そん、な…………」
――障壁を展開し、悠然と立つ翼獣魔種。
いや、翼獣魔種だけではない。障壁は広く辺りを包み、数十体の下位級の悪魔をすら守っていた。
つまり、アリアの最後の一撃で消すことが出来たのは、辛うじて障壁に収まりきらなかった数体の悪魔のみ。
しかしおかしい。今この状況で魔法は使えないはず。
「……!」
そう思った時、アリアは違和感を感じた。いや、違う。むしろ慣れ親しんだ感覚と言った方が適切か。
魔素が動いていたのだ。
さっきまで動きを止めていた魔素が静かに辺りを漂っている。もちろん目視することは出来ないが、確かにアリアには感じとれた。
何故――。困惑するアリアに翼獣魔種は障壁を解いて歪に嗤う。
「脆弱ナ人間ヨ。抗ウナ、全テヲ受ケ入レロ。モハヤソノ忌々シイ神能サエ使エナイダロウ」
「…………っ! いえ、今ならまだ――」
停止しかけていた思考を瞬時に起動させ、アリアは集中した。
想像するのは当然〈焔球〉だ。体は限界寸前だが、神能と違い外部のエネルギーをリソースとする魔法ならばまだ耐えられる。魔素さえ動けば魔法は使えるはず。
活発な魔素たちがアリアに力を貸そうと寄って来る。
「愚カダ。全ク以テ愚カデ憐レナ生物ヨ」
しかしその時、翼獣魔種は吐き捨てるように言うと、前傾していた上体を思いきり仰け反った。
空気を吸って――。
「グボルアアアァァァアアァァアアア!!!」
――凄まじい叫び声を放った。
不快な金切り声が空気中を渡った途端。
ピシッ、と魔素が固定された。
「―――ッ!」
ようやくアリアは魔素が動かなくなった原因を知る。
「“特異体質”か…………っ!」
特異体質。それは悪魔が持つ超常の力。
神騎士が持つ異能に似たその力は、時に人間には理解出来ないような現象ですら再現する。個体が強ければ強いほど持つ特異体質も強いとされ、必ずしも全ての個体が持つ訳ではないが、上位の存在ほど持っている確率は高い。
翼獣魔種の級は上位級。もし特異体質を持っていたならば、どれだけ危険なものであってもおかしくはない。
アリアも留意はしていたが相手が悪すぎた。魔素を固定する特異体質などどうやって防ぐというのか。
集まりつつあった魔素も虚しく動きを止め、アリアに力を貸すことなく効果を失う。同時に、無理をしてきた代償がアリアの体を襲った。
「っ!! く……ま、まだ……戦え……!」
以前と同じ激しい頭痛。体全体も鈍く痛み、立っているだけで限界だ。剣を振り回すことなど出来ようはずもない。
「フン、モハヤ動クコトスラ叶ウマイ。人間ヨ。何故貴様ラハソウ醜ク抗ウノダ。アノ時ノヨウナ奇跡ハモウ起コラナイ」
アリアの耳に、翼獣魔種の声が届く。
「あの……時…………?」
「『大厄災』ト貴様ラガ呼ブモノダ。我ガ同胞ガ、貴様ラ人間ドモヲ随分ト殺シタト聞イタ」
――『大厄災』。
翼獣魔種が放った言葉を聞いて、アリアの記憶が蘇る。
赤い闇。
炎に照らされて、道端に捨てられたような、人の形をした何かが浮かび上がる。抉れた石畳の道や、崩れて半壊した建物も見える。
その中で自分は――。
体が冷たくなっていく。あの時と同じなのかと絶望が心に忍び寄ってくる。呼吸が浅くなっていく。
「今度コソ我ラガ勝ツ。貴様ノ死ヲ以テ、今再ビ始メヨウ。『大厄災』ヲ」
翼獣魔種はいつの間にかアリアの前に立っていた。
――また、なのか。
そう言えばあの時も、自分の前に立ったのは翼獣魔種だった。同じように、今度こそ自分は殺されるのか。
一体自分はどう成長出来たのだろう。
助けてくれた“彼”を見て、追い付こうと努力してきたのではなかったのか。
あの寂しげな少年を何としてでも自分が助けてあげようと、強く誓ったはずではなかったのか。
誓った目標を為し得るために、力を付けてきたのではなかったのか。
散々足掻いて、もがいて、結果が――これか。
同じ相手を目の前に、やはり何もすることは出来ず。
願ったはずの目標を、叶えるどころか一歩目すら踏み出せず。
ついには心すら、諦めようとしている。
「我ガ楽ニシテヤル。案ズルナ、イズレ我ハ奴ヲモ殺ソウ――」
翼獣魔種は腕を振りかぶりながら言った。
「――“漆黒の勇者”ヲモ」
刹那。
アリアの意識は、その言葉によって引き止められた。
“漆黒の勇者”を――殺す?
それは、アリアが想っていた勇者。
いつか助けたいと、救いたいと思っていた、アリアの勇者。
彼のように――それだけを思ってアリアは強くなった。
彼を殺すなど。
そんなことはさせない。させたくない。
それだけは――。
「私、は――」
死にたくない。
まだ何も出来ていないのだ。“漆黒の勇者”を助けるどころか、会うことすらも。ましてや共に戦うことなんて。
アリアが願うのはただ一つ。
「私は、“漆黒の勇者”を…………」
しかし最後に翼獣魔種は呟いた。
「…………不愉快ダ。死ネ」
腕が、降り下ろされた。
「私は―――っ」
――私に、もっと力があれば。
そう思った時にふと、あの少年の顔が浮かんだ。
彼ならばこんな場面だろうと笑って全てを跳ね返すのだろうか。逆境などものともせず、自分が望むように。
アリアの目に、涙が浮かんだ。
――私は……もう……。
――お願い……助けて…………レイン……っ。
その時。
ガキイイィィン! と、金属音が響いた。
「ム…………?」
攻撃が防がれた。目の前で起こった事実に、翼獣魔種は訝しげな声を上げる。
自らの腕の先にあったのは白い剣。
それを持つのは、一人の少年。
アリアの前に、翼獣魔種を阻むように立ったのは。
「悪い、遅くなった」
「え…………?」
――あの少年、レインだった。
***
赤い闇が国を覆った日。『大厄災』と呼ばれる日。
レインは“力”を解き放った。
許されざるものであることを知りながら、それでも国を守るために。
あの時の選択が間違っていたとは思わない。しかし、レインが解き放ったのはやはり許されざるものだったのだ。
守るために使おうと誓ったはずなのに、もたらしたのは破滅だった。
レインに出来たのは、破滅をより大きい破滅で消しただけ。それを守るとは言わないだろう。黒をより黒い黒で塗り潰そうと、所詮は黒なのだ。
決して白が加わることはない。
“力”はレインに戦う術を与え、同時に人としての何かを奪い去った。
いや、或いはもとから欠如していたのかもしれない。レインが持つ“力”とはそういうものだ。
故にレインは“力”を使いたくはない。
けれどそれでも――。
――“ただ黙って見ていることだけは出来なかった”。
彼女が必死で戦う姿を見て。命を失うことも恐れず前を見続ける彼女を放っておく訳にはいかなかった。
もう一度、人としての何かを失ってしまうかもしれない。もう二度と、帰ることは出来ないかもしれない。彼女と笑いあうことも出来なくなるのかもしれない。
――しかし、だとしても。
彼女だけは、死なせたくない。
――私は……もう……。
――お願い……助けて…………レイン……っ。
聞こえた声にレインは答える。
――ああ。そのために、俺はここに来た。
そしてレインは、腕を降り下ろした翼獣魔種の前に自らの身を投じた。
***
「え…………?」
呆然と、アリアは呟いた。
目の前にいるのは確かにあの少年だ。細い体も、飄々とした声も、見間違える訳がない。
しかし転移魔法も使えない今、〈フローライト〉からここに来る術はないはずだ。馬車を使っても丸一日はかかる道のりを、自らの足だけで――?
だが、一瞬の疑問を呑み込んでアリアは言った。
「何で……来たの…………!」
レインの実力を知らない訳ではない。むしろ自分よりも上であるとアリアは思っている。しかし、いくらレインとて、この状況を打破出来るはずがない。ただの無駄死にだ。
それてもレインは動じず答える。
「聞こえた気がしたからな。“助けて”って。だったら……黙って見てられる訳ないだろ」
「―――ッ」
レインの言葉に、ついにアリアの目から涙がこぼれた。
しかし、涼しいように言葉を返すレインだが、その腕に凄まじい圧力がかかっていることは疑いようも無い。翼獣魔種の膂力は人間の比ではなく、受け止める白い剣が軋む。
「何者ダ? 貴様モ神器無シデ我ニ歯向カウ気カ」
「ぐっ…………」
途端に圧力は増し、レインの膝が折れた。限界を迎えかけているのか、剣もギシッ、ギシッ、と音を立て始める。
「邪魔ダ。ソコノ女ヲ殺シテ、戦ヲ始メナケレバナラン。“漆黒の勇者”モ今度コソ我ガ殺シテヤルノダ」
容赦なく翼獣魔種はさらに力を加えていく。あまりの膂力に刀身も少しずつ刃こぼれしているのか、刃が細かく崩れかけている。
神器でもない武器が上位級の攻撃に耐えられるはずがないのだ。あのままでは、もうすぐ剣自体が折れてしまう。
「レイン……もういいから……早く、早く逃げて…………!」
振り絞るようにアリアは言った。
本当に望んでいる訳ではない。本心ではずっと最後までここにいてほしい。しかしこのままでは、間違いなくレインまで死んでしまう。せめて犠牲は自分だけに――。
「お願い……あんたまで死なせたくない…………っ!」
――しかしレインは。
「…………嫌だ。俺だって、お前を死なせたくない。そのためにここに来たんだ」
「…………っ!!」
あくまで、戦い続ける道を選ぶ。
レインの声に迷いは一片も無かった。
「……理解ニ苦シムゾ、人間。何故自ラ死ノウトスル? 勝チ目ガ無イノハ明確ダ。力ヲ持タナイ脆弱ナ貴様ガ何故我ニ歯向カウ」
ピキ、ピキと剣が悲鳴を上げた。決定的な瞬間までもう時間は長くない。
絶望のみが残る状況で、レインは呟いた。
「力を持たない…………か」
そんなことはとうの昔に知っている。自分に立派な力など無い。持っていたのは、歪で醜い悪魔のような力だ。“勇者”には全く似合わない薄汚れた力。
幾度となく“勇者”になろうとして、幾度となく過ちを犯した。自分に失望するほどにだ。きっと今回も、間違っているのだろう。
しかしそれでも、守れるものがあるのなら。
自分が何かを失っても、ちっぽけな手で守れるものがあるのなら。何度でもこの身を捧げよう。喜んでこの身を差し出そう。
「……一つ忠告しておくぞ。お前は“漆黒の勇者”には絶対に勝てない。万に一つの可能性すら無い」
「…………ナニ?」
極低温まで下がったレインの声に翼獣魔種は訝る。
「例え魔素を固定する特異体質を持っていようと、例えどんな大軍勢を引き連れてこようと、傷を付けることすら出来ない。無様に死ぬだけだ。お前如きが勝てると思うな」
「…………ッ!」
レインの挑発のような物言いに、ついに翼獣魔種は激昂した。
「……戯レ言ヲ。良カロウ、ソンナニ殺サレタイノナラ――貴様カラ殺シテヤル!」
途端、翼獣魔種の力が膨れ上がった。有り得ないほどの力がレインを殺そうと唸る。
「レイン…………っ」
もうこれ以上見たくない。アリアは俯き、涙を流した。落ちた涙が、地面に染みをつくった。
自分のせいで。自分が全てを引き起こした。自分には……。
「アリア」
――その時、レインの優しげな声が聞こえた。
「ありがとな、こんな奴のために」
「…………?」
意味の分からない言葉に、アリアは思わず顔を上げる。
「思い出したんだ、お前のこと。あの時、確かに俺はお前を見た」
翼獣魔種の圧倒的な力の前に、剣が壊れ始めた。刀身がボロボロに崩れ、ヒビが剣全体に――。
「え…………?」
――いや。
違う。あれは刃先が毀れているのではない。崩れたように見えた剣の下に見えるのは…………黒い刀身。
「だから俺はお前を守るよ。お前が俺を助けるって言うんなら、俺だってお前を助ける。貸し借り無しだ」
そう、その剣の白はメッキと同じ。
本性を隠しておくための偽りの外装。少しでも美しく、体裁良く見せるための見せかけの姿。
しかし隠されているのは決して貧しい鉄ではなく、むしろ何物にも劣らない力を纏った、剣の本当の姿だ。
「…………滅べ、人間風情ガ!」
ピキリと。
ついに翼獣魔種の膂力に、剣に致命的な傷が生まれた――ように見えた。
しかしレインは。
――笑った。
「目覚めろ……神器〈タナトス〉」
辺りが黒い光に包まれる。
それは正しく、忌むべき力の具現。
そして、光がおさまった時。
剣が、真の姿を顕す。
「あれ、は…………」
レインが持つのは、黒。
全てが漆黒に染まった、美しくも凶悪な……神器。
「黒い……神器…………?」
それを持つのは、アリアの知る限りこの世界でただ一人。
「異能――“翔躍”」
「―――ッ!?」
レインが呟いた時、翼獣魔種は既に大きく飛び退さっていた。
感じたことのない恐怖故に、本能的に体が動いたのだ。あのまま留まっていれば、間違いなく死んでいた――と、思った時。
剣を寸前まで割らんとしていた腕が、肩口から散り散りに斬り裂かれた。
「……グバアッ!?」
突如半身を襲った痛みと、それ以上に有り得ないはずの事態に翼獣魔種は叫んだ。
「今……何ヲ……!?」
問題は攻撃を受けたことではない。翼獣魔種が、レインの一切を全く捉えられなかったことだ。
何をしたのか、それどころか何が起きたのかさえ分からない。悪魔の中でも上位である自分が、一挙動さえ追えない。
眼前で示された事実がどういうことか、理解出来ない翼獣魔種では無かった。
わずかに焦燥を感じた翼獣魔種の目に、少年の姿が映った。
「レイン…………? まさか…………」
黒い神器と、今のたった一瞬の不可解な現象。それを見てなお、アリアは事実を信じられなかった。理性が明らかだと騒いでも、心が認めていなかった。
茫然とするアリアに、レインは何も答えない。
しかしわずかに首を回してアリアを見た。アリアも、レインの瞳だけを見た。
それは――あの時と全く同じ瞳だった。
悲しげで寂しげな。
まるで夜空のような、黒い瞳――。
神器を携えたレインは、“力”を解き放つ。
「〈制限解除・祖〉」
レインの姿が一瞬にして闇に包まれた。どこか幻想的な、深い混沌の闇に。
――やがて闇は晴れる。そこにいたのは。
身に纏うのは黒いコートと凄まじい覇気。
放たれるのは死の気配。
その姿を見間違えるはずがない。今度こそアリアは確信する。
「――“漆黒の勇者”…………」
そこにいたのは、紛うことなきアリアの勇者だった。
言葉を失うアリアに、レインは短く告げる。
「待ってろ。すぐに終わらせる」
アリアが何かを言い返す前に、レインの姿はかき消えた。




