5─2 災厄、そして
少し時間は前後する。
***
目の前で起こっている、アリアの鬼神の如き戦いぶりに、一人の男子生徒がゆっくりと立ち上がった。
「なあ……俺たち、何のためにここに来たんだ……?」
男子生徒の問いに答えられる者はいない。否、答える者はいない。答えは知っているが、言うことが出来ない。
今の体たらくで、どうしてそんなことが言えようか。悪魔の大軍に怯え、結局アリア一人に頼っているこの状況で。
しかし男子生徒は言う。
「悪魔を倒すためだ。国を守るためだ。……違うか?」
全くもってその通りだ。否定する者はいない。……だが、肯定して立ち上がる者もいない。
「俺は行くぞ。アリアさんに言ったからな。もう任せっ放しにしないって」
「な……ま、待って! 君が行っても……」
剣を地面から引き抜き、悪魔たちの大軍に歩き始めようとした男子生徒を一人の女子生徒が止めた。
言い切らなくても、何を言おうとしているのかは理解出来る。もちろん男子生徒も自覚していた。
「ああ、俺じゃ何の役にも立たないのは分かってる。でもだからって、ただここで見てるのか? 武器があって、動ける体があって……仲間が一人で戦ってるっていうのに。お前らはあれを見ても、何も感じないのかよ?」
「…………っ」
「確かに弱いさ、俺たちは。アリアさんの足下にも及ばないぐらい。もしかしたら俺が行かなくてもアリアさんが悪魔を全部倒してくれるかもしれない――」
そんな希望を願った。いや、今も願っているところはある。しかし。
「――そう思ってて、結局前は失敗したんだろうが」
「…………!」
男子生徒の言葉に、生徒たちは全員が息を呑んだ。
「あれはアリアさんの失敗じゃない。任せっきりにしてた俺たちの失敗だ。……それなのにアリアさんは自分のせいだって言い張って、今一人で戦ってる」
男子生徒の目には、いまだ目の前で繰り広げられている戦いが映っている。たった一人で何十という数の悪魔を相手に、なおかつ一方的に屠っていく少女の姿が。彼女は今、どんな思いで戦っているのだろうか。
アリアが何を思っているのか、少しだけでも分かるからこそ、男子生徒は立ち上がったのだ。
「どのみち、悪魔たちがいつこっちに狙いを変えるかも分からないしな。どう考えてもアリアさんの弱点は俺たちなんだから」
それだけを言って、男子生徒は歩き始めた。
一歩歩くごとに戦闘音は大きく、激しくなる。“神之焔”の爆裂音や、悪魔たちの叫び声も聞こえる。すぐさっきまで自分もその中にいたはずだが、一人ではこんなに心細いものなのか。
――それなのに、あの人は。
場違いなのは分かっていた。あの数の悪魔を前に、神器使いでない自分が何を出来るかなど高が知れている。死ぬ可能性だって十分あるだろう。
正直に言って死ぬのは怖いし、手も少し震えている。我ながら情けないが、所詮自分などそんなものだ。
それでもこのままアリア一人に任せておくのは、何よりも自分が嫌だった。ならば、少しでも悪魔の注意を引き付け、例え死んだとしてもアリアの役に立ちたい。認めてもらいたいとかではなく、純粋に、それが無力な自分のすべきことなのだろうと理解していたからだった。
もう戦場はすぐそこだ。あと少し近付いて大声でも上げれば、数体は自分に気付くだろう。その後は――。
「…………ふぅ」
大きく息を吐いて、男子生徒は思考を止めた。
後のことは、後で考えればよい。それよりも、早く思考を止めないと、もうこれ以上進めなくなる気がした。
「…………よし」
一呼吸置いて覚悟を決めた男子生徒が進もうとした時。
「待てよ」
ポン、と肩に手が置かれた。
降り向けばそこには、さっきまで座り込んでいたはずの仲間たちがいた。
「え……? な、何で…………」
男子生徒の呟きに、手を置いた男子生徒は決まり悪そうに笑いながら答える。
「言わせるなよ。俺たちだって自分が情けなくてしょうがないんだ」
どうやら全員同じ気持ちだったようだ。どこか申し訳無さそうに立つ姿には、後悔が見える。
しかし皆の瞳に宿るのは確かな決意。男子生徒と同じく、騎士としての務めを果たそうとする者の瞳。
ちょうどその時。
「ん、おい、見ろよ。お前の予想通りだ」
見れば、悪魔たちは大きく横に広がり、こちらを真っ直ぐ捉えている。狙いを変更したのだろう。どう頑張っても勝てないアリアではなく、比較的弱く殺しやすい自分たちへと。
直後、悪魔たちは予想通りアリアに見向きもせずこちらに向けて走ってきた。横幅があるためにアリアでも抑えきれない。すぐに何体かはアリアの横をすり抜け、猛然とこちらに向かってくる。
しかしもう一人ではないのだ。ならばまだやり方もあるというもの。
何より、先程までの恐怖は既に消えている。
男子生徒は、剣を掲げて叫んだ。
「行くぞ、皆! アリアさんだけに任せるな!」
「「おう!!」」
頼もしい声を受けながら、男子生徒は邪人種の攻撃を剣で受け止める。
「ギシャアアアアア!!」
「はあああああ!!」
鈍い金属音が響き、衝撃が腕に伝わる。
尋常ではない悪魔の力に負けそうになるが、それでも決して挫けない。逃げるのはもう十分だ。
自分は――騎士なのだから。
負けるものか。ここで退いてどうする。自分たちは――守るためにいるのだ。
自身を鼓舞して男子生徒は剣を振るう。
「もうビビんなよ! 俺たちも戦うんだ!」
「剣使える奴は前に来い! 魔法メインの奴は下がって出来ることを探せ!」
「無理はしないでよ! 出来る範囲で!」
次々に仲間も戦列に加わる。剣を持たず戦えない生徒を後ろにして守るように、小さく密着して戦陣を組むのだ。これによって、悪魔数体を一人で相手取るという最悪の状況を避けることが出来る。
そしてその時、
「…………皆!」
悪魔たちの背後で凄まじい爆裂音が聞こえた。アリアが反転し、悪魔たちを挟みこんだのだ。
想定通り、自分たちは辛うじてアリアの神能に巻き込まれない位置にいる。これならば――。
「よし、行ける!」
「頑張れ、あと少しだ! 押せえ!」
浮き足立つ悪魔たちに前後から激しい攻撃が加わる。特にアリアの勢いは凄まじく、十数人で戦う生徒たちと同じ……いや、それ以上のペースで悪魔を屠っていく。
もう負けない。負けてはならない。諦めることなんてもっての他だ。そんな義務も、皆と一緒ならば簡単に思えた。
ならばこそ――。
アリアに負けてはいられないと、男子生徒は目の前の一体を屠るべく、剣を振り上げた。
――俺だって、まだこんなものじゃないんだ! このまま……勝つ!
「うおおおおお」
ドンッ!
その時だった。
突然、悪魔たちの中央から土埃が上がった。いや違う。何かが着地したのだ。突然の出来事に、男子生徒だけでなく悪魔たちも動きを止めた。
戦場に不気味な静寂が広がった。
しかしやがて。
「え…………?」
土埃の中から、自らが潰した悪魔を無視するかのように、一体の悪魔が現れた。
その瞬間。
「―――ッ」
ゾクリと、恐怖が騎士たちを包んだ。
今まで戦っていた邪人種や邪犬種よりは少し大きいだろうか。とはいえまだ見上げるほど巨大という訳ではない。だというのに、放っている覇気は他の悪魔とまるで比にならない。
辛うじて二足歩行をしてはいるが、上体がわずかに前傾し、異常に長く細い腕が地面すれすれに下ろされている。背からは翼が生え、頭はまるで爬虫類、或いは髑髏のようだ。落ち窪んだ眼窩の下には血走った眼球が嵌まっている。
まさしく恐怖そのもの。
災厄の化身。
「翼獣魔種…………?」
一人の女子生徒が掠れた声で呟いた。
その推測は正しかった。だがそれは同時に、恐るべき脅威が現れたことを示す。
翼獣魔種。高い知能と身体能力を持つ、悪魔の中でも高位の存在。その力は、たった一体で下位級五十体以上に匹敵する中位級を、さらに五十体集めたものに匹敵するという……上位級。
単純計算で、下位級二千体以上と同程度の力。
騎士たちは、目の前の事実に完全に打ちのめされた。
翼獣魔種が、騎士たちの方を向き、歩き始めた。
近付いてくる恐怖……否、死。確定した絶望に抗えるものは――。
「…………もう無――」
しかし。
「ああああああああああああッ!!」
翼獣魔種の背後から。
「〈絶焔剣〉ッ!!」
アリアが、燃え盛る剣を翼獣魔種へと叩きつけた。
赤き一撃はまさに、死への抵抗。
死んでたまるかという意志の顕れ。
アリアの神能“神之焔”を剣に一点集中させた、間違いなく最大級の威力の一撃。凄まじい土埃と蒸気が立ち上る。
「……アリアさん! やっ…………!」
だが。
視界を遮るものが無くなった時、騎士たちは目にする。
――アリアの〈ヘスティア〉を骨ばった左手で掴み。
平然と立つ悪魔の姿を。
「………………ぇ」
翼獣魔種が軽く左手を返すと、〈ヘスティア〉と共にアリアも簡単に宙を舞い――。
「死ネ、愚カ者ヨ」
抵抗出来ないアリアの無防備な腹を、再び返された左手が打ち据え、致命的な威力の衝撃を与えた。
一瞬でアリアは吹き飛ばされ、遠く離れた地面に叩きつけられた。
アリアは――動かなくなった。
「…………っ、アリアさん!!」
騎士の一人が駆け寄ろうとするが、周りの悪魔が道を阻む。翼獣魔種も既にアリアへの興味は失ったのか、生徒たちの方に歩き始めていた。
不気味にゆっくりと歩く姿は、何よりも死を象徴しているようだった。
「久シイナ、人間」
歩きながら悪魔は話す。
人語を喋ることが出来るというのは、それ相応の知能を持つということだ。即ち強さも普通の悪魔の比ではないことを示す。
「相変ワラズ煩イ存在ダ。力ヲ持タナイ者ガ何故抗ウ。アノ時モ今モ。所詮ハ無駄ナコトダ。大人シク受ケ入レロ」
どこか狂ったように聞こえる言葉に、騎士たちの心はゆっくりと折られていく。抗うことが如何に無駄かを実感させられるように。
下位級ですらやっとのことだった。それなのに、上位級を相手に出来ることなどあるはずもない。等しく無意味に殺されるだけだ。
そんな事実が否定出来ない。
だが、
「黙れよ、化け物」
一人だけまだ諦めない者がいた。
あの男子生徒だ。彼だけは、翼獣魔種を真っ直ぐ見つめ、剣を構えている。
「何でだと? んなの簡単だろ。負けたくないからだ」
「……ホウ。神器モ持タヌ分際デ、我ニ抗ウカ」
「抗うさ。それしか出来ないからな」
口では啖呵を切りつつも、内心では恐怖一色だ。剣を握る手は震え、足に力が入らない。こうして立っていられるのが不思議なくらいだ。
それでも彼は決めたのだ。決して挫けないと。例え絶望しかなくとも、諦めないと。
「フン、ナラバ――」
男子生徒には捉えられない動きで、翼獣魔種は距離を詰めた。ようやく接近に気付いた時にはもう遅い。
翼獣魔種の腕が振りかぶられ――。
「死ネ」
「ひ…………」
しかしその時。
「ム?」
翼獣魔種の足下に陣が浮かび上がった。
魔法ではない。これは……。
「チッ」
舌打ちをして、やむ無く悪魔は男子生徒から距離を取った。直後その陣から爆焔が吹き上がる。
突然の出来事に男子生徒は茫然としていた。
だが、吹き上がった焔には見覚えがある。
「死ニ損ナイガ。無駄ニシブトイ所モ変ワッテイナイ」
悪魔が、男子生徒が振り向いた先には。
「はぁ……はぁ……まだ死んでないわよ。私はまだ……死ねない」
剣を地面に突き立てつつ、腹を押さえながら立つアリアがいた。
痛みに耐えつつ、アリアは改めて状況を確認する。
戦場に残るのは上位級の翼獣魔種、加えて下位級の悪魔が約三十体。恐らくこの翼獣魔種こそが指揮個体だったのだろう。後方で身を潜めていたのだ。
対してこちらの戦力は強化聖具を持つ騎士たちが十数人。しかし、まともに戦える者は既にいないだろう。消耗のこともそうだが、相手が下位級だけならまだしも上位級となると、一撃で致命傷になる可能性がある。それだけは絶対に避けたかった。
唯一の神器使いである自分もほぼ瀕死の状態。辛うじて立ててはいるが、いつ倒れるかも分からない。骨も二、三本折れているだろう。
それでも彼らは立ち上がってくれた。今まで戦ってくれた。
それだけで十分だ。これ以上、無謀な戦いに巻き込む訳にはいかない。
「ア、アリアさ……」
「総員退却! 速やかに王国内へと撤退し、救援を呼べ!」
「…………!?」
敢えて強い口調でアリアは言った。
「な、何を……」
「私に従って! これは命令よ!」
現場の指揮権は戦場で最も強い者にある。この場合、指揮権を持つのはアリアだ。今まで一度も行使したことは無いが、今だけは何としても撤退させなければならなかった。
「皆が撤退すれば私もすぐに退く! だから早く!」
「でも…………!」
アリアの言葉は即ち、自身が殿となって敵を食い止めるということを示す。残ったこの数の悪魔を、たった一人で。
それでも、アリアにはそうしなければならない理由があった。
「大丈夫、策はある。撤退中の指示はあなたに任せるわ! 一刻も早く撤退を!」
それでも彼は動こうとはしなかった。心の中で葛藤しているのが分かる。
そんな彼に、アリアは言った。
「私のことは気にしないで! 私は何よりも……皆が死ぬところを見たくない! 全部守って見せるから!」
「―――」
やがて、彼は――。
「……撤退! 総員退却だ! 後方の奴から王国に向かえ!」
――そんな決断を下した。
男子生徒の命令に、戸惑いながら生徒たちは走り始めた。一様にアリアのことを見てから王国に向かっていく。
普段、騎士たちが王国内に戻る時は転移魔法を使って神壁の上に戻るのだが、神壁には商人等を通すための大門もある。そこからなら、魔法が使えない今でも戻れるだろう。
あとは救援を待つだけだが……正直それは望み薄だ。王国に戻っても、上位級を相手に出来る者はほとんどいないだろう。到底間に合うとは思えない。
だからこそアリアは、ここで全ての決着を付けようとしていた。
「面白イ。貴様ノ策トヤラニ乗ッテヤロウ。ドウスルツモリダ?」
予想通り翼獣魔種は、配下の悪魔たちに生徒を追わせることはしなかった。皆を逃がすためのアリアの目論見は成功したのだ。
後は、全てを懸けて策を行使するだけだ。
「言われなくても見せてあげるわよ……〈不死鳥檻〉」
アリアは地面に突き立てていた〈ヘスティア〉を抜き、高く掲げた。
途端にアリアを中心として、地面一面に悪魔を全て包囲するほどの陣が展開される。
そして次の瞬間――。
ボウッ! と陣の外枠をなぞるように、焔が吹き上がった。アリアごと悪魔を囲い、高く昇った焔は天井で閉じる。
〈不死鳥籠〉を進化させた、アリアの広範囲束縛陣だ。
「フ、何カト思ヘバ足止メカ。コンナモノ、術者デアル貴様ヲ殺セバスグニ消エル」
翼獣魔種の言葉は事実だ。このまま足止めをしようとも、アリアが死ねば神能は解除され、悪魔たちは再び解き放たれる。
その後、いまだ撤退している生徒たちを殺しに行くだろう。
しかしそんなことはさせない。
これは、そのための策なのだから。
「ええ……そうね。けど、言ったでしょう? 私はまだ……死ねないのよ!」
笑って、アリアは本当の術式を発動する。
檻とは罪人を世に出さぬように束縛するもの。
〈不死鳥檻〉も同じだ。悪魔という世に放ってはいけない存在を閉じ込めておくための陣。しかし同時にこの檻は――。
「燃え尽きなさい。逃げることも許されない束縛の中で、己の罪を悔いながら――」
――最期を告げる処刑具とも成り得る。
「…………マサカ」
翼獣魔種が空を仰いだ。そこは先程まで、完全に閉じた天蓋があったはずの空間。
しかし今、天蓋はわずかに綻んでいた。
そして。
「――〈断罪〉」
アリアが掲げていた〈ヘスティア〉を、思いきり地面に突き刺した、その瞬間。
檻が――焔が、形を崩した。
ドロリと、まるで粘性のある液体のように。崩壊は天から始まり、焔はゆっくりと落下してくる。
無論、横には逃げられない。いまだ形を保つ焔が周り全てを囲っているからだ。
「―――」
逃げ場などない絶対の一撃。焔は悪魔の外殻など無視して全てを灰にする。
「配下もろとも消えなさい。翼獣魔種」
アリアがさらに深く剣を突き刺し。
神の力を体現した灼熱が、全てを飲み込んだ




