3―2 砕くため
“四選魔”。それは太古の昔から存在する選ばれた四体の悪魔。高い知性と能力を持ち、古の大戦においても無数の戦果を上げた個体たちの総称。
人間の定めた枠組みでいえば絶位級に相当するが、もはやそのように区別する意味もないほど高位の存在である。神器使いをして相手取るのは困難であり、まして聖具使いでは、何十、何百といても足止めにもならないだろう。まさしく数を無意味化する存在と言える。
無論、シャルレスがそのことを知っているはずはない。しかしながら、眼前に立つ悪魔が放つ怖気が、雄弁にその危険度を物語っていた。
猛然と詰め寄るシャルレスを射通す視線。前方からの視線にもかかわらず、まるで全方位から観察されているように錯覚してしまうほどの圧。先程までよりも明確な悪意がシャルレスに向けられている。
正面からぶつかっても勝機はない。彼我の実力差から冷静に判断したシャルレスは、“受心”による認識改善でラヴァスの視界から消える。
「なるほど、やはりこれが“受心”だったのですか。しかし…………」
姿を消したシャルレスはラヴァスを通り過ぎ、振り向きざまに短剣を振るう。シャルレスを直接的に認識できないラヴァスにとっては不可避の一撃のはずだが――
「一度捉えてしまえばどうということはないですね」
シャルレスの方を見ることもなく、ラヴァスは背後の一撃を拳で払った。
「…………!」
ラヴァスが着用する黒いロンググローブは、“首獄狗種”の黒鎧毛をベースにラヴァスが自身の魔素を馴染ませて作った特殊なグローブだ。黒鎧毛の性質が強化され、衝撃を受けると瞬間的に剣の一撃を防げるほどの堅牢性を発揮する。その代償として、硬化時には繊維の滑らかさを失うために前腕を傷つけるが、高位の悪魔であるラヴァスにとってその程度は些事に過ぎない。
全身を覆うような防具には安易に応用できないものの、得物の代わりにラヴァスが愛用する代物だ。
姿を消したまま距離をとったシャルレスは再度攻撃を試みるが、どんな方向、角度からの攻撃もラヴァスには通用しない。視覚的には見えていなくとも、音や気配、魔素の動きからシャルレスの位置を特定しているのだ。
攻撃するばするほどその精度は高まる。幾度目かの衝突のとき、ついにシャルレスの攻撃とラヴァスの迎撃は完全に同調し、シャルレスは大きく吹き飛ばされるように後退した。
「…………っ」
「もう遅いですよ。いくら姿を消そうが、痕跡はいくらでも残っていますから」
それはつまり、ラヴァスの迎撃がシャルレスの一撃に完全に追いついたということ。姿が確認できていないにもかかわらず、シャルレスの攻撃のタイミングに合わせて完璧な迎撃を行ったということ。
“受心”の通用しない相手。この時点で、実質的にシャルレスの異能は無効化されたと言える。
「…………」
シャルレスは無謀な接近を控え、黙したまま距離を保った。“受心”は使っておらず、その姿はラヴァスの視界にも明確に映っている。
戦場にできた空白の時間。それを睥睨するラヴァスは、妖しい微笑を浮かべながらシャルレスの様子を観察していた。
ベルから与えられた情報により、ラヴァスはシャルレスの能力を事前に把握していた。認識改竄と聞けば確かに脅威と思える能力だが、その実は視覚のみに作用する不完全なもの。初めに位置を捉えておけば痕跡からいくらでも追跡できる。
他に警戒すべきは空気中の水分によって光の反射を操作し偽りの像を結ばせる〈蜃気楼〉程度。恐らくミカとともに屋敷を出たのはこの能力によって作られた虚像だったのだろう。風の吹く屋外であれだけの長時間虚像を結ばせるとは想定していなかったが、こちらも警戒さえしていれば、音や魔素の揺らぎから真贋の区別はつく。
今この瞬間にシャルレスが接近していても、ラヴァスには確実に見抜ける自信があった。特に魔素の揺らぎは隠蔽が難しい。体内に魔素を多く有する生物ほど、相互作用により大気中の魔素を揺らがせてしまうからだ。
目の前のシャルレスを過度に意識せず、姿ではなく形跡を追っていればシャルレスに遅れをとることはない。
ラヴァスは正確に現状を認識していた。
「どうしました? もう姿は隠さないのですか?」
挑発しながらも冷静にラヴァスは考える。
シャルレスも独力で自分に勝つことは困難であることを認めているはず。ゆえに接近は諦め、様子見を選んでいる。つまりシャルレスの目論見は時間稼ぎによる加勢――ミカの到着にある。
〈蜃気楼〉によって偽装されたシャルレスと違い、ミカが屋敷から離れていることは確認できている。ここまで戻って来るには最短でも十五分――否、不測の事態を見積もって十分。
残り十分でシャルレスを始末する。最悪の場合は始末を諦め逃亡する。
ミカがいない今が屋敷を離れる最大の好機。そしてシャルレスとの実力差を考えれば、十分以内に終わらせるのは決して難しくない。
可及的速やかに決着を付けるために、ラヴァスは揺さぶる。
おもむろにラヴァスは腕を上げた。
「…………!!」
瞬間的にラヴァスへと駆けたシャルレスはすんでのところで振り下ろされた腕を弾く。間に合わなければ、その拳はこの部屋ごと屋敷を破壊していただろう。
しかし、無理な相殺を試みたことで、シャルレスの体勢は致命的に崩れた。
「捕まえましたよ」
見ただけで悪寒が走るような笑みを浮かべたラヴァスの一撃がシャルレスの左脇腹を打ち据えた――ように見えたが。
「…………ッ」
「…………ん?」
ラヴァスの拳が捉えたのはシャルレスの左腕。瞬時に腕を畳み、腹部を守ったのだ。
しかしその一撃は無傷で防げるような威力ではなく、鈍い音とともに前腕の橈骨が砕けていた。
魔素があれば再生できるとはいえ、当然痛みは感じる。それでもシャルレスは硬直せず、瞬時に距離をとろうとしたが、ラヴァスはそれを許さない。
守らなくてよいのか? と言外に嘲るように、再びラヴァスが腕を振り上げる。
「……――」
それを見てしまえば、シャルレスが取れる選択肢は一つしかない。
ギィンッ! と鈍い音をたてて〈ミツハノメ〉がラヴァスの腕を弾いた。
結果として、至近距離でシャルレスはラヴァスに隙を晒す。
「はっ」
嗤うラヴァスの一撃はシャルレスの耳を掠め、皮膚を浅く裂いた。血が滲む傷は瞬く間に再生されるものの、それも無限ではない。空間の魔素量、そしてシャルレスの精神的な消耗により、いつか必ず限界はくる。
十分という制限時間の中でシャルレスを削り切れるか。ラヴァスは可能だと断ずる。なぜなら、シャルレスは守らなければならないのだから。
この屋敷を守るためには、シャルレスはラヴァスから離れられない。至近距離で、常にラヴァスの挙動に気を配らなければならない。
そしてそれは即ち、距離をとって認識改竄の後に不意を突く戦い方を捨てさせることに繋がる。
「ふんっ!」
華奢なその腕から繰り出されたとは思えないほどの膂力でシャルレスを攻め立てるラヴァス。取り回しに優れる短剣ではあるが、拳はさらに軽く速い。これだけの至近距離では、リーチの差もほとんど問題にならず、形勢は明確にラヴァスに傾いた。
既にシャルレスは異能を失い、得意としている戦法を封じられた状態だ。剣戟だけならば“四選魔”を圧倒できるほどの地力はない。むしろ、魔素再生があるとはいえ、ここまで持ちこたえていることが驚異的といえる。
しかしそれも時間の問題だろう。確実にシャルレスの傷は増え、再生する度に限界に近づいているのが分かる。
あとわずか。必要なのは最後に砕く一撃。
ラヴァスは自ら距離を取った。離れるわけにはいかないと追いすがるシャルレスを確認しながら、ラヴァスはその姿を変える――レインへと。
「!」
シャルレスは瞬時に反応し、斬りかかってきたラヴァスの一撃を受け止めた。
先程までの打撃ではなく、〈タナトス〉を模した剣による斬撃。長さも動作も異なる一撃だったが、シャルレスは動揺なく反応していた。
一度見た幻影に乱されるほどシャルレスの精神は未熟ではない。そしてこの剣に、レインが振るうときほどの鋭さはない。
崩れず適切な反応を取ったシャルレスに対し、ラヴァスは囁く。
「くふふ……姿形で動揺するほど初ではありませんか」
拳よりも攻撃範囲の広い剣による斬撃を警戒し、鍔迫り合いのまま耐えるシャルレス。ラヴァスの言葉には応じず、剣に加わる力だけを冷静に感じ取り、鍔迫り合いから抜け出されないように神経を尖らせている。
「では、この姿の種明かしでもしましょう。もちろん嘘などではなく、事実のみを話します」
耳に入ってくる言葉に価値はない。それでも無意識に情報を拾ってしまうのが人間の性だが、思考の切り分けはシャルレスの得意とするところだ。反応する必要もない。
「察してはいるでしょうが、この変身は私の特異体質である“秘憐”によるものです。少々特殊な能力ですが、この力の対象として貴女を指定しました。すると私の姿はこのように変化します。……では、“秘憐”は私をどのような姿に変化させるのか?」
ラヴァスの発言が真であることを“受心”がおおむね肯定している。能力の詳細は重要だが、ラヴァスに何か意図があるのは明確。真に受けてむざむざ策に嵌る意味はない。
いつものように、冷静に、慎重に、確実に、
「対象の――想い人の姿にです」
集中、して――
「……―――」
刹那、〈ミツハノメ〉に加わる力が捉えられなくなった。
〈タナトス〉に似た剣が消え、ラヴァスが元の姿に戻るのをはっきりと見ても、シャルレスは動けなかった。
「くふっ」
嗤い声が聞こえた。
左脇腹に、鈍く、重い衝撃を感じた。