2―4 開戦
最初にそれに気付いたのはノッグズ邸正門を見張る守衛だった。
夜の闇に紛れるようにフードを深く被り、ゆっくりと正門へ歩み寄る何者か。あまりに不自然なその姿に、守衛は警戒心を強める。
「どなた様でしょうか。ここから先、許可なく通すことはできませんが」
「…………」
何者かは、守衛の声かけを無視して守衛小屋を通過。止まることなく正門へと歩を進める。
その時点で守衛は小屋を出て、何者かの前に立った。
「繰り返します。ここから先は、どなたであろうと許可なく通すことはできません。これ以上進むのならば抜剣します」
警告と共に鞘へ手を添える守衛。しかし、それでもなお何者かは止まることなく歩き続ける。
指示に背く反抗的な態度は、敵対者とみなすには十分な根拠だ。警告に従い、守衛が剣のグリップを握った。
その彼我の距離が、長剣の間合いに入った瞬間。
「……主に背くか。痴れ者が」
「…………!?」
何者かが呟くと同時、守衛の視界に剣閃が走り――
「――ご自身の騎士団員を手にかけるおつもりですか?」
その剣閃を遮ったのは紫紺の長髪。
――剣と剣がぶつかる硬質な音が一帯に鳴り響いた。
「…………!」
守衛の首を刈りとっていたはずの一撃を防いだのは、神器〈ケルヌンノス〉を携えた神器使い。
「……何者だ?」
「“王属騎士団”副団長、ミカ・ケルメリアと申します。お目にかかるのは初めてですね――」
月明かりに片眼鏡を反射させながら、ミカは一切の動揺なく不審者を見据える。
「――グローズ・ノッグズ卿」
斬り結んだ衝撃で払われたフード。
月明かりが露わにしたのは、この屋敷の当主、グローズ・ノッグズその人だった。
「団長殿……!? なぜ……!」
守衛が息を呑む。しかしその疑問に答えることなくグローズの腕が閃いた。
次の瞬間に放たれる十を優に越える斬撃を、ミカはその場から一歩も動かずに捌ききる。
「――! ふん…………」
不動にして流麗。背後の守衛を庇いつつ、極めた予測と精緻な剣筋にてミカは暴力の具現たる剣を退けた。
距離をとり、腕を止めたグローズは、貴族とは思えないほど乱れた髪を乱暴にかき上げてミカを睨めつける。
「“王属騎士団”の副団長とやらがなぜここにいる? ここが誰の領地か知っているのか?」
不機嫌を隠しもしないグローズの様相は、事前に聞いていた人物像とまるで異なる。表情を露わにし、怒りにも似た気迫を迸らせるだけで、悪寒が守衛の背を走った。
それでもミカは微塵も動じずにグローズと相対する。
「貴公こそ、なぜ今ここに? 伺いたいことは無数にあります、どうか剣を下ろしてください」
明らかにグローズは冷静ではない。何らかの効果で正気を失っているのか、そもそも本人ではないのか。姿を変える能力を持つ不審者がグローズに化けている可能性もある。
いずれにしろ、これは事件解決への最大の好機。
ミカは敵意を見せず、あくまで防戦にのみ応じる構えで説得を試みる。状況が不安定な今、グローズを下手に刺激すべきではないと判断したからだ。周囲の第二部隊員にも待機の命を出している。
「…………出直すとするか」
王国でも有数の神器使いであるグローズは、しかしこの数合で彼我の実力を見定めて踵を返す。
ミカと相対した上での強行突破は困難。冷静にそう判断してしまえるほどの実力差が両者にはある。
ゆえにグローズは、下手に攻撃を仕掛けることなく猛然と〈ラルフィド〉の方角へ走り出した。
「―――」
あまりにも不可解なグローズの行動を前提に置き、ミカの脳裏で思考の火花が弾ける。突発的衝動、錯乱、陽動、別動隊、撹乱、偽装、応援要請、支援体制――全てを考慮に入れたミカが導き出したのは。
『私とシャルレスでグローズ卿を追います。残る総員でノッグズ邸を警護し、誰も屋敷に入れないように。変装による侵入を防ぐため、騎士団員も屋敷内には入らず警護してください』
少数精鋭での追跡、ならびに屋敷の死守――グローズは陽動であると断定し、本命である黒幕が屋敷に侵入することを防ぐための策。
正気でなくとも、行方不明であった彼を確保できれば情報を聞き出せる。ミカとシャルレスの能力をもってして、グローズを確実に捕らえるための布陣だ。
短く指示を飛ばし、ミカは〈ケルヌンノス〉を振るう。
「神能“従獣”――〈召獣:天狩・疾乱〉」
召喚されるは空を切り裂く猛禽と地を駆ける四足獣。いずれも現実に存在する同種の倍はあろうかという体躯を躍動させ、天と地の両方からグローズの追跡を始める。
「屋敷内は現状問題なし。作戦通り、警戒体制を維持します」
命令に従って屋敷から出てきたシャルレスの報告通り、屋敷内部では大きな混乱は起こっていなかった。作戦内容については団員を除けばダイズにのみ〈神声〉によって伝達されているため、使用人への周知を含め、彼が屋敷内で適切な指示を出しているはずだ。
「了解。では、我々も追跡を始めましょう」
頷くや否や、神器使いとしての身体能力を遺憾なく発揮し猛然と駆けだす二人。シャルレスの到着を待ったことによる距離こそあるが、先行する神獣が確実にグローズの姿を捉えている。
グローズが神器使いであるとはいえ、シャルレスおよぴミカの速度は確実にグローズよりも上。追い付くのは時間の問題だ。
「…………」
無言で駆けるミカの脳裏では、今もなお思考の火花が散っていた。
***
ミカの作戦および指示が各員に通達されてから十五分ほど経った頃。
ダイズは私室にて、浮かない表情で椅子に腰掛けていた。
使用人たちには緊急時用の魔法具にて現況を伝えてある。もとよりダイズを含めて屋敷の人間に何かができる訳でもないので、下手に騒がず待っていることしかできないのだが、グローズが姿を見せたとなれば落ち着いていられるはずもない。
いまだミカからは何の連絡も届いていなかった。捕らえた報告がない以上は追跡を続行しているのだろうが、既に屋敷からはかなり離れてしまっただろう。“王属騎士団”の中でも指折りの精鋭である彼女がそこまで手間取る事態に不安は募るばかりだが、信じて待つしかないのだ。
どうにも落ち着かず、椅子に座り直したダイズの耳に、慌てた様子の激しい足音が聞こえた。
「…………!?」
貴族の屋敷に似合わない部屋前の廊下を走る音。すぐさまダイズは立ち上がり、短剣へと手をかける。敵の狙いは自分であるという可能性が現実味を帯びる。
何者であっても部屋に通してはならない。すぐ先程、ミカから念を押されたことをダイズは反芻していた。
神器使いたるダイズには戦闘への怯えはない。集中力を研ぎ澄ませ、眼前の事態へと備える。
段々と大きくなる足音がダイズの私室前で止まるや否や、その扉が叩かれた。
「ダイズ様!! 私、シャルレス様に追われて――」
聞こえたのは先日浴場で倒れていたニーナの声。届いた情報がダイズの脳裏で弾ける。
“王属騎士団”の団員たちは全員屋敷の外にて警戒体制を敷いている。シャルレスもまさに先程ミカと共に外に出たはず。再びニーナが狙われている。本当の標的はニーナ? ならばこのシャルレスは化けた黒幕――
――否、それは後付けの理由。ニーナの緊迫した声が聞こえただけで、ダイズは半ば衝動的に扉を開けていた。
「ニーナ!」
開けられた扉の先、ニーナは恐怖で引き攣った表情を浮かべながら、ダイズへと抱きついてきた。
「ダイズ様、ダイズ様……!」
幼子のようにダイズにしがみつくニーナ。外傷はなさそうだが、余程の恐怖を味わったのか体が震えている。懸命に自身へと縋る彼女を安心させるべく、ダイズも自身の緊張を弛緩させ、柔和に話しかける。
「ニーナ、もう大丈夫だ、私がいる。心配はいらない。一体何があった?」
ダイズ様、とだけ繰り返すニーナは相当に気が動転しているらしく、会話もままならなそうだ。小さく震える彼女を少しでも落ち着かせるため、ダイズは質問を止め、彼女を優しく抱きしめた。
「ニーナ……大丈夫、大丈夫だ……」
二人の距離は縮まる。それはもはや主人と使用人の関係としてではなく。
「ダイズ様…………っ」
ニーナの腕がダイズの背に回される。
「ニーナ…………」
さらにその手がダイズの後頭部へと伸ばされる。
「ダイズ……様――」
その手のひらから濃密な闇が漏れ出したときには、全てが遅かった。
それは生物の心を蝕む“障心”の波動。神器使いの心でさえも容易に砕き掌握する凶悪な能力の一端が解放される。
――ただし、確かにそれは遅かったのだ。
寸前、冷気がニーナの背を撫でた。
「――」
悪寒や錯覚ではない。神経を刺激し、身体を強張らせる極低温の空気。物理的な冷たさは、同時に命に迫る鋭さを備えている。
否、文字通りニーナの心臓に〈ミツハノメ〉が音なく近づいていた。
「――ふっ」
背後からの接近に気付いたニーナはダイズを解放し、〈ミツハノメ〉に対して体の軸をずらすように上体を捻る。完全に気配を消して接近していたがゆえに必中の距離にあったと思われた一撃は、その巧みな身のこなしによって、薄皮を裂く程度に留まった。
距離を取り、背後からの接近者を直視するニーナ。
そこに先程までの怯えた表情はなく、不敵な笑みだけがある。もはやダイズが知るニーナでないことは明らかだ。
「貴女はここにはいないと思っていたけれど……一体どういうことかしら?」
ニーナでない何者かが問う。疑問を呈する言葉に意味はないのか、動揺は見受けられない。
対する接近者――シャルレスもまた、内心を窺わせない瞳をもって敵対者を直視し、神器〈ミツハノメ〉を構えた。
「答える義理はない。ここで終わるだけ」
守るべきものを背負ってシャルレスは対峙する。
――シャルレスの真価が問われようとしていた。