2―3 核心
〈ラルフィド〉の街をひた走る、齧歯類に似た半透明の神獣。神能〈従獣〉にて召喚された〈寝不見〉が、ノッグズ家の屋敷から三日をかけて、この街に到達していた。
グローズの私室から続く微かな痕跡を感知し、愚直に走る〈寝不見〉がついに足を止めたのは、とある路地裏の一角に位置する扉の前。最後にグローズがここへ来たのがいつなのかは分からないが、感知できる痕跡が残っていたということは、彼が習慣的に同じ経路を辿っていたことを意味している。
私室から恐らく誰にも知られずに一人抜け出し、足繁く通っていたと思われるここは、どうやら酒場のようだ。無骨な店構えの上に、主要な道から外れ、立地としても上等とは言えないが、グローズが内密に通う理由があったはず。
近辺に怪しい魔素反応がないことを確認した〈寝不見〉は、無理に侵入を試みず、目立たない路地の隅に身を隠した。小柄で非力な〈寝不見〉は物理的な探索には不向きである。真価はあくまでその眼にあり、得られた情報は全てミカに還元されていた。
ミカから調査の命を受けた第二部隊員がここに到着するのは半日後のこと。そしてさらに数日後、事態は大きな展開を迎えることになる――
***
予期しない不審者との遭遇から早一週間が経過した。屋敷内はひとまずの平穏を保っている。
“騎士城”からの増援も到着し、屋敷周辺は厳重な警戒態勢がとられている。とはいえ、要員のほとんどが潜伏状態での監視のため、表面上は普段と何ら変わらないが。
「こちらの警戒領域では昨夜も動きはありませんでした。引き続き警戒を続けます」
ダイズの私室へと向かいながら、シャルレスはすぐ先を歩くミカへと報告する。不審者の発見から、交代を取りながら二人は常に屋敷内を警邏しており、宿にも戻っていなかった。
屋敷の外に張り巡らされた第二部隊の面々からも一切報告はない。この一週間において不審者の介入はないと思いたいが、断言できる根拠もないのが現状だ。「姿を変える」というあまりにも厄介な能力ゆえに、第二部隊の諜報力を以てしてもその影は捉えきれない。
しかしながら、ミカに焦りはなかった。
『近く、事態が動くかもしれません。休みながらでも最低限気を張っておいてください。いつ何が起こるか分かりませんから』
〈神声〉にて伝えられた指示にシャルレスは同じく〈神声〉で『了解しました』と応えた。盗聴対策の〈神声〉での伝達事項は、それすなわち秘匿性と優先度の高い指示を意味する。信頼できる確証をもってミカはシャルレスに指示を出したのだ。
数分歩いた後にダイズの私室へと着いた二人。ノックと共に名乗ると中から応えがあり、入室を許可された。
重厚な扉の先にはグローズの私室とほぼ同程度の広さの空間が広がっていた。最奥の椅子に座すのは部屋の主であるダイズ。
「突然お伺いして申し訳ありません。貴方に直接確認したいことができましたので」
部屋の中央には来客用の椅子もあるが、二人は扉の近くに立ったまま用件を伝える。不審者が誰に化けるか分からない以上、“王属騎士団”の面々も不用意にダイズに近付かないようにする決まりだからだ。
代理とはいえ屋敷の主であるダイズの私室に押しかけることはそれなりの無礼に値するが、ダイズは微塵も気にしていない様子で「とんでもない」と首を横に振った。
「それで、確認したいこととは? 何か調査の進展が?」
口頭での確認を行うだけならば、直接会わずとも方法はいくらでもある。わざわざ顔を合わせての会話を求めたのは、ダイズの声以外の反応を見たかったからだ。
「〈ラルフィド〉のとある路地裏にある、バッカスという酒場をご存知ですか?」
単刀直入にミカはその名を告げた。
〈寝不見〉がたどり着いた酒場、バッカス。第二部隊員の調査により、ここしばらく店が閉じていることが分かった。この期間は、グローズが行方不明になった日時とほぼ一致している。
無関係とするにはあまりにも不自然。バッカスで何かがあったと考えるのが妥当だ。そして、その事実をダイズが知っているのか――それこそがミカが確かめたかったこと。
「バッカス」とミカが口にした瞬間のダイズの動揺を、二人の騎士が見逃すはずはなかった。
ダイズはしばらく口を開かず、宙の一点を見つめていた。その沈黙もまた質問への答えを示していたが、ミカは何も言わず、ダイズの返答を待った。
やがて短く目を瞑ったダイズは、深く息を吐き、開いた眼でミカを見据えた。
「…………ええ、知っています。グローズは、その店の店主と……男女の仲にありました」
訥々とダイズは語った。
シャルレスが感じていた違和感の正体。「グローズの交友関係は全て明かした」としていたダイズが隠していたのは、貴族の当主において最も秘しておかなければならない関係性だった。
「グローズは私にだけ、このことを打ち明けていました。彼にも事の重大性は分かっていたはずですが……相応しい身分の正妻を娶り、世継ぎを作ることを期待される中で、彼がどれだけ苦悩していたかを知る私には、この事を他言する気にはなれませんでした。……申し訳ありません」
深々と頭を下げる貴族らしからぬ姿のダイズ。長く長く下げられていたその頭が上がるのを待ってから、ミカは重ねて問う。
「グローズ氏の失踪を知ったときに、ご自分でバッカスの関与の可能性について調べられましたか?」
「……いえ、私は屋敷を離れられませんでしたし、私以外にこの事を知る人間を増やしてはならないと思い、誰にも頼みませんでした」
「念のため伺いますが、グローズ氏とバッカスの店主の関係を知る人物に心当たりは?」
「思いあたりません。グローズの性格から考えても、他人に悟られるような迂闊な真似はしないでしょうし」
ダイズの言葉を信じるならば、グローズとバッカスの店主の関係を知る者は居ない。そもそもミカと〈ケルヌンノス〉の能力をしてやっと感知できる程度の痕跡しか残さずに逢瀬を重ねていたことを考えても、周囲には知られていなかったと考えるべきだ。事実、グローズが行方不明になってから今にいたるまで、第二部隊の情報網に対し、グローズの交友関係に関する噂の類は引っ掛からなかった。少なくとも民草に流布しているとは考えられない。
しかしながら――バッカスの店主も同様に隠せていただろうか。第二部隊の調査によれば、店主は騎士ですらない一般人だ。本人が関係を吹聴するとは考えにくくても、人と会っていた事実自体を完全に隠蔽できたかは断言できない。
黒幕の能力を考えればバッカスの店主側から関係が漏れた可能性は十分にある。
「我々は、バッカスの店主とグローズ氏の関係が今回の事件に大きく影響していると考えています。一連の事件において、これまでにない大きな手がかりであると」
ノッグズ家以外の事件に関しても、これほどまでに関与が濃厚な手がかりはなかった。間違いなく今こそが事件解決への好機。
秘していたとはいえ、今こうしてダイズが関係を認めたことで、確証をもって調査を進められる。
「事件解決に向けて大きな進展が得られました。ご協力に感謝いたします。……実は先程、黒幕へ繋がる手がかりがもう一つ見つかりました。これらをもとに、必ずや解決してみせますので、ご安心を。では、失礼したします」
深い礼の後、部屋を後にしたミカとシャルレス。廊下を歩きながら、すぐさま〈神声〉にて情報を確認する。
『今度こそ、ダイズ氏は全てを明かしてくれたように思いましたが……どうですか?』
『同感です。揺さぶりにも動じず――むしろ安堵を抱いていたことからも、彼が黒幕の関係者である説はほぼ否定されたかと』
ミカの「もう一つの手がかり」は完全な虚偽。シャルレスの“受心”によれば、ダイズがこの情報に感じたのは安堵だった。
本心を探る“受心”を前に反応を偽装するのは至難である。ダイズは事件の解決を心から願っているとみて間違いないだろう。
ちなみに屋敷の関係者全員に同様の揺さぶりを込めた質問を行っている。結果から、内通者の類はいないはずだ。
歩きながらミカは告げる。
『これからバッカスの内部を調査します。通気口から〈寝不見〉を忍ばせますが、店の中には至るところに感知魔法が仕掛けられているようです。逆に言えば、敵は我々の動向を探りたがっているということ。なので、敢えて〈寝不見〉を感知させます』
ミカは第二部隊員に携行させる形でさらに五匹の〈寝不見〉をバッカスに送っている。その上で第二部隊員をバッカスから遠い位置に配置し、警戒されにくい〈寝不見〉によって監視を行っていた。仮に内部に侵入した個体が何らかの原因で消滅しても、残りの個体が調査を続行できる。
内部に感知魔法が仕掛けられているということは、敵は「何者かがバッカス内部に侵入した」かどうかを探っている。内部に見られたくないものがあるのか、もしくはそれ以前に、バッカスと事件との関係を探られたくないのか。いずれにしろ、信号を感知したとき、敵は何らかのアクションを起こすはず。
それを誘発することこそがミカの狙いだ。
素直に撤退し、大人しくするならばそれでよし。しかし、迂闊に何かを仕掛けてくるのならば――
『――そろそろ終わらせましょう』
いつも通りの声音。それでいて明確な決意を含んだミカの一言に、シャルレスは言葉は返さず、しかし強く頷いた。