1―3 最短最小挙動
「――せいっ!」
守衛の一撃。本来のシャルレスならば脅威にはなり得ない単調な斬り下ろしを、シャルレスは寸前で体を捻って辛くも回避に成功した。
「…………っ」
六十点の回避。ミカにはそう言われるだろう。剣をかわすことはできたが、体勢が崩れすぎた。次撃に対して迅速に対応できない。
身体能力が万全ならば、この体勢からでも致死の一撃をねじ込める猶予がある。しかし体内の魔素を操作され半拘束状態にある今のシャルレスにできるのは、ただひたすらに守衛の剣から距離をとることだけだ。
斬り下ろしの回避で守衛とすれ違うように横に動いたシャルレスは、流れる体に逆らわずにさらに奥へ一歩を踏み出す。この時点で守衛の姿が視界から消え、挙動を直接確認できなくなった。首を捻って捉えることもできたが、奥に流れる体を制御していない以上、下手に流れに逆らう行動をとるべきではないと判断したのだ。
その代わりに、視界から守衛が消える限界まで観察した守衛の挙動から次の一撃を予測する。
斬り下ろしのために踏み込んだ右足を微かに引く動作。強化聖具を持つ右手を外側へと捻る動作。守衛の視線はシャルレスの腹部を向いている。
――中段の横薙ぎ。
刹那の判断にしたがってシャルレスはつんのめるように姿勢を低くする。次の瞬間、頭の上を強化聖具が通過した。
予想は的中したが、喜んでいる余裕はない。守衛が攻撃をやめない限り――否、五分が経過しない限りは、シャルレスは常に思考を続けなければならないのだ。
より多くを見ろ。より深くを考えろ。より正確に動け。
そこに充分な基準など存在しないのだから。
――初めてシャルレスがミカの指導を受けたとき、ミカは言った。
『貴女の能力はとても能動的ですね』
『――?』
『性格の話ではありませんよ。貴女が持つ異能のことです』
何を言っているのか理解できないシャルレスに対してミカは言葉を続ける。
『他者の認識を改竄して自らの存在を隠し、回避できない一撃を与える……攻撃のタイミングは全て貴女の自由であり、並の相手なら動くこともできないでしょう。戦況を支配し、いつでも攻撃を仕掛けられるのですから、能動的と言っても過言ではないと思いますよ』
『…………』
ミカの理解は正確だった。確かにシャルレスはそうして戦っていたのだ。しかし、能動的だと評することはなかった。なぜならばシャルレスの戦い方は――
『だからでしょうか。貴女の戦い方は、殺すためのものに見えます。対象を排除するためのもの、と言い換えてもいいでしょう』
――まさしく、ミカの言う通りなのだから。
暗殺者として育てられたシャルレスの技術は全て、邪魔な存在を排除するためのものだ。そんな戦い方を能動的と評してしまえば、それはまるで自分自身が殺戮のための存在だと自覚してしまうことになる。
ミカの理解はまさに正確だ。シャルレス自身が無意識に忌避していた事実を狂いなく暴いている。
シャルレスもミカの言葉を否定するつもりはなかった。
『――ああ、勘違いしないでください。私は別に、殺すための術が間違いだなどと言うつもりはありません』
『…………?』
だがしかし、続くミカの言葉はシャルレスの予想と異なった。
『“王属騎士団”として活動していればいずれ分かると思いますが、何も否定せずに何かを守れることはありません。時には障害を破壊しなければならないこともあります。そうでなくとも悪魔という理不尽な脅威に晒されるこの王国で、排除のための力は必要不可欠です。……貴女の能力は必ず貴女を、あるいは貴女が大切だと思うものを守るでしょう。それを間違いだと断ずることは誰にもできません』
言い終えたミカは、真っ直ぐにシャルレスを見据えた。
――他人からこの能力をはっきりと評価されたのは初めてだ。シャルレスがこの力を好ましく感じたことはなかった。他人の視線が、感情が、思惑が嫌でも見えてしまうのが怖かったからだ。
思い返してみれば、ミコトやレインたちは、そんなシャルレスの気持ちを察して異能に触れなかったのかもしれない。それは彼女たちなりの優しさであり、自分は確かに救われていたのだと今になってシャルレスは実感する。
しかし、もうあの頃とは違う。苦痛から逃げるシャルレスはもういない。過去に立ち向かうのに十分な勇気を、彼らから貰ったのだ。
『……私がこの力をもっと上手く扱うためには、どうすればいいですか』
「上」に行くためならば、この身に残る傷跡さえも抱きしめてみせる。覚悟はできていた。
ミカが微笑んだ――ように見えたのは錯覚だろうか。
『簡単なことですよ。今の貴女が持つのは“受心”と相性のよい殺すための術。しかし“受心”が通用しない相手がいることは重々承知でしょう。神器使いや高位の悪魔らは視覚以外の感覚で貴女を補足してくるはずです』
聴覚、触覚、気配、さらには能力無効化。“受心”では隠しきれない痕跡からこちらを暴いてくる手合いを嫌というほどシャルレスは見てきた。確かに彼らと相対して有利に立ち回るのは難しい。最低限の剣戟をこなす実力はシャルレスにもあるものの、異能という強力な力を実質的に失った状態では十分に戦えないだろう。
『では、“受心”の強化を――?』
『いいえ。もちろん最終的には異能自体を強化できればいいでしょうが、異能を成長させる画一的な方法はありません。奇跡的に能力が成長するのを待つのは非効率的でしょう。なので、強化するのではなく、今ある異能をより効果的に使うのです』
ミカの言わんとするところが分からず釈然としないシャルレスに、ミカは一つの問いを投げかける。
『姿を消した貴女の位置が看破されるのはなぜですか?』
突然の質問に沈黙するシャルレス。
少し考えてから、シャルレスはおずおずと答えた。
『……私の痕跡を消しきれないからです』
『いえ、その前に原因があるはずです。例えば貴女は、来た道にあった石が、ふと振り返ったときに一つ消えていたとして、それに気付けますか?』
『…………!』
具体的な場面を想像して、シャルレスはようやくミカの意図するところに気付いた。
意識の中で分配できる注意力は有限だ。特殊な能力でも持っていないかぎり、視界内――場合によっては視野の外まで含む事象に対して、その全てを完全に把握することはできない。ゆえに対象の優先度を決定して、優先度の高いものから順に注意を向けるのが普通だ。例えば戦闘中であれば、今まさに相対している敵が最も優先度が高くなるだろう。
つまり、優先度が高いものほど変化を把握されやすい。戦闘中に道端の石ころが一つ消えてもほとんどの場合気にもされないだろうが、相対している敵が突然消えれば、より強く警戒されるのは当然のこと。
『私の位置が看破されるのは、私が消えるから……ですか?』
ミカは頷いた。
『確かに貴女の能力は強力です。しかし対処する術を持った相手からすれば、意識さえすれば実質的に無効化できる能力でもあります。だからこそ使い所を見極めなさい。相手の意識外から、必殺の一撃を見舞えるその瞬間を見定めるのです』
――これまでシャルレスは、戦闘中は基本的に常に“受心”を発動させ、相手の認識を阻害していた。しかし手練を相手にした場合、それはむしろ警戒を強めさせ、位置を看破されるきっかけになってしまう。
ゆえに“受心”の使用を限定し、確実な一撃を狙える瞬間にのみ利用する。他人からの視線を恐れていたシャルレスにとっては考えもしなかった戦術だが、能力の特性から考えても確かに有効な策に思えた。
『そのためにも、今日から貴女には新たにもう一つ、剣の振るい方を覚えてもらいます』
全ては強くなるために。ミカが提示するのは、他人を、そして自らの過去を克服した今のシャルレスならば得られる新たな剣。
『必殺の一撃を見舞う瞬間を迎えるために――守るための戦い方を教えましょう』
――守衛の突きを首を捻って回避するシャルレス。傍から見ていれば肝が冷えてしまうギリギリでの回避だが、シャルレスにそんなことを気にしている余裕はない。
行動の「先」を見るのだ。得られる情報は膨大ではあっても視界内で完結している。可能な限り全てを捉えて予測へと繋げ、次の一手を構築する。
身動きを制限された状態でミカに扱かれる過程で、シャルレスの思考には既に変化が生じ始めていた。
突き詰めた思考の先。シャルレスの瞳に映る守衛の動きが分岐する。
突いた剣を引き戻し再度突きの構えをとる像と、突きの流れに逆らわずシャルレスとすれ違うように詰め寄ってくる像。いずれも未だ現実には起こっていない、虚像とでも呼ぶべき光景だ。
「…………!」
シャルレスの意識下で緩やかに流れる時間が経つにつれ、虚像の一方は薄く、一方は濃く現実味を帯びていく。そして守衛が現実で剣を引き戻した辺りで、虚像の一方と完全に重なった。
「ふうっ!」
鋭い気勢と共に突き出される剣は、虚像と全く同じ軌道を描く。当然だが、格段に回避は容易だ。
先程よりも余裕を持って避けたシャルレスは、そのまま横に飛んで距離を取った。
「…………」
離れた地点で戦闘を見ていたミカがほんのわずかに目を細める。
試練開始から四分四十秒が経過した。恐らく次が最後の交錯。
守衛が猛然とシャルレスに詰め寄る。剣戟の初撃は、流れのある剣戟の最中に比べて最も行動を読みづらい。ここから守衛が取りうる選択肢は数多ある。そこから択を一つに絞るのは至難の業。
しかしシャルレスには見えていた。
初めてシャルレスが短剣を握る手に力を込める。
守衛が選択したのは袈裟斬り。先程までのシャルレスならば、大きく後ろに引くか、距離を保ったまま横に動いて軌道から外れていたはず。
「――」
そのとき、自らに迫る袈裟斬りが虚像と合致する。
現実を前にシャルレスは、守衛の長剣に〈ミツハノメ〉の剣先を微かに沿わせ――受け流す。
「!? おおッ!」
あまりにも滑らかに受け流されたため、あやうく前方によろけそうになった守衛は、何とか体勢を整えて反転し、再びシャルレスへと斬り掛かる。が、シャルレスは足首を捻るだけでくるりと守衛と正対し、二撃目を全く同様に受け流す。
三、四撃目もまるで同じ。シャルレスは守衛の全ての動作を見切り、その場で独楽のごとく転回しながら守衛の攻撃を受け流す。
「くああっ!」
痺れを切らした守衛が剣を大上段に振りかぶり、シャルレスの脳天へと斬り下ろした。袈裟斬りとは異なる、真下へと向く一撃は、短剣を沿わせただけでは受け流せない。
それでも、シャルレスはその場を離れず、振り下ろされた長剣へと〈ミツハノメ〉を触れさせ、水の流れを体現する短剣の曲線部へと伝わる力を繊細に感じ取り――
「……〈流転〉」
力に逆らわず、ただその力の向きだけを変化させた。
ついに守衛はバランスを崩し、つんのめって地に膝を付いた。剣は振り下ろされたときの威力のまま地面に深く突き刺さった。
――たった一手。手首を捻るだけ――まさしく最短最小の挙動のみでシャルレスは自らを守った。最後の一合において、シャルレスはその場を一歩と離れていなかった。
「…………八十五点」
傍観していたミカがそれだけを呟き、ついに五分が経過した。