1―2 現場へ
長期滞在の準備といえど、用意しなければならないのはせいぜい衣類の替え程度。今回は栄えた街への滞在なので、屋外で夜を過ごす必要もなく、そのための準備は不要だ。その気になれば衣服さえ魔法で整えられる騎士にとっては、正直なところ着替えさえも必須ではないが。
このような理由で、シャルレスの荷物は片手で持ち上げられる程度の鞄のみ。主な中身は着替えと武器の手入れ用の道具だ。
「忘れ物はありませんね? ……まあ、万が一あったとしても、あちらで用立てることは可能でしょう」
そう確認するミカの荷物もまた同じようなものだ。旅行に行く訳でもないので、身軽であるに越したことはない。鞄は適当な宿泊拠点に置くことになるだろう。
シャルレスは「問題ありません」と端的に答えた。脳内で最終確認をするが、見落としはない。
この遠征がどれだけ続くかはまだ分からないものの、昨日までにシャルレスに割り振られた事務作業はできるだけ終わらせてきた。シャルレスが不在の間は当然ながら他の団員が作業を負担することになり、ただでさえ多忙な第二部隊員の仕事を増やしてしまうからだ。なるべく早く遠征から帰ることができればいいが――
「作業の分担は組織の基本です。まして貴女は貴女にしかできない仕事をするために遠征に行くのですから、負い目を感じる必要はありません」
「……何も言っていませんが」
「不安を感じて右手を少し強く握ったでしょう。任務に対して貴女が恐れることはないでしょうが、ならば他人に頼りたがらない貴女の抱える不安は何なのかと考えただけです。勘違いだったなら忘れてください」
「…………」
内心での気がかりをずばり指摘されるシャルレス。ミカは読心系の能力を有していないはずだが、こうして図星を突かれるのはいつものことだ。こんな芸当を容易くこなせる秘訣は本人曰く「観察から得た情報をもって、単純な推測を無数に試すこと」らしいが、シャルレスには全く理解できていない。
シャルレスが一目で十の事実を見抜くならば、ミカは同じ光景から百の事実を見出すだろう。シャルレスが情報から百の推測をこなすならば、ミカは同じ情報から千の推測を導くだろう。つまるところ、ミカとシャルレスの最も明快な差はそこにある。
「観察と推測」。諜報を担当する第二部隊において重要視される二つの要素。シャルレスがミカから学ぶべき能力だ。
「さて、準備が万全なのであれば行きましょう」
シャルレスが頷くのを確認したミカは執務室を出る。遅れることなく、シャルレスもその後を追った。
***
騎士城に備え付けられた大転移陣で二人が転移したのは、第三街区の都市、〈ラルフィド〉。第二街区の〈フローライト〉に勝るとも劣らない、王国でも有数の大都市である。
〈フローライト〉同様に王都に近いことから大きく栄えた歴史を持ち、物資や人々の流入が盛んなことで知られる。特に〈ラルフィド〉は第三街区でもっとも流域面積の広い大河、アミゾル大河の畔に位置し、この大河を利用した物流の要となっているのだ。大都市でありながらも自然と調和した景観が有名なほか、豊かな食料を生かした食文化もまた魅力の一つである。
シャルレスも実際に足を踏み入れるのは初めてだ。石畳と立体的な街並みが特徴的な〈フローライト〉に対し、平地の上に形成された〈ラルフィド〉の街並みは、高さの揃った家屋がどこまでも続くかのような錯覚を見る者に与える。都市の奥には一段高く形成された人為的な高台があり、そこに主要な建造物が立ち並んでいるのだが、やはり〈フローライト〉ほどの高低差はなく、平面的な街並みだ。
都市内には神騎士学園も存在し、ここも〈ラルフィド〉と呼ばれている。元神騎士学生――シャルレスは正式には休学中なので、一応は現神騎士学生である――としては一度見てみたいところだが、今回の遠征内容に神騎士学園の視察は当然含まれていない。
適当な宿に入り、宿泊用の部屋をそれぞれ借りた二人。移動の邪魔になる荷物を置いて身軽になったことで、準備は万端だ。
「では、現場へ向かいましょう。馬車があればよいのですが……」
「そうですね……」
乗り合いの馬車を探しながら、ミカの指示に頷くシャルレス。しかし、大都市ゆえに馬車もそれなりの数があるはずだと思っていたのだが、市内を走る馬車は想像以上に少ない。水運を主な輸送手段とし、市内にも大小様々な運河が張り巡らされている〈ラルフィド〉においては馬車はさほど重要視されていないのか、目的の方面に向かう馬車はどこにも見当たらなかった。
さてどうするべきか、と迷ったシャルレスにミカは言った。
「仕方ありません、神能を使いましょう。あの路地に入って、私ごと貴女の周囲を隠蔽してください」
唐突な指示にシャルレスは素直に従い、近くの路地裏へ移動した後に“受心”にて自身を含む一定範囲――正しくは一定範囲内のシャルレスとミカのみ――を隠蔽する。自身を隠蔽する際よりも消耗が大きく、かつ複雑な動きをすれば解けてしまうが、ミカの意図を汲み取ったシャルレスは問題ないと判断する。
他人からの視線が切れたことを確認したミカは、腰に吊る鞘から伸びるグリップに手をかけた。
「万象の獣を束ねし神器よ。汝の力で我が声を響かせ。地上の命を掌握する王たる風格で、仇なす一切を屈服させよ。神臨――神器〈ケルヌンノス〉」
一息に引き抜かれた神器〈ケルヌンノス〉は、流麗――というよりも荒々しく豪快な気配を振りまいて、その姿を世界に晒した。
一般的な長剣ではあるものの、神器としては無骨な印象を受ける。派手な装飾や意匠も見当たらず、持ち主には不釣り合いにも思える粗野な見てくれだ。
しかしながら、どんな外見であろうとも、その一振りは紛うことなく神器。特有の覇気を纏って、〈ケルヌンノス〉はその真価を発揮した。
「神能“従獣”――〈召獣:天狩〉」
瞬間、ミカの頭上に陣が浮かび上がり、神々しい光と共に有翼の猛禽が召喚される。
驚くべきはその体長。翼を広げれば大人二人を優に包めそうな体躯を持ち、自然に棲息する同類の倍はあるだろう。両脚から伸びる鉤爪とて例外ではなく、刃物と見紛うほどのそれは、とても自然に生み出されたとは思えない大きさと鋭さを備えている。
――〈ケルヌンノス〉の神能“従獣”は、複数種の神獣を即時召喚し、思うがままに使役する能力だ。喚び出された神獣はそれぞれ異なる特性を持ち、自立行動できるほどの高い知能を有する。
〈天狩〉の特性は飛翔による俯瞰での情報収集、そして高い攻撃力。状況さえ整えば上位級の悪魔でさえも屠れるほどの戦闘力を持つ、ミカの主戦力の一つだ。――もっとも、今は戦闘のために呼び出した訳ではないが。
「どうぞ、シャルレス」
ミカに誘われるまま、〈天狩〉の右脚を掴むシャルレス。同様にミカが左脚を掴むと、〈天狩〉は二、三度小さく翼をはためかせ――
「翔べ」
――ミカの号令に合わせて、急激に大空へ翔び立った。
「………っ」
猛烈な風が顔面を打ち付け、尋常でない圧が全身にのしかかる。地上では味わえない苦しみに耐えること十秒。
風と圧が止んだことに気付いたシャルレスが目をゆっくりと開ければ、そこにあったのは蒼空と白雲。
神壁の上よりもなお高い空中に二人と一体はいた。
悠然と大翼をはばたかせる〈天狩〉は二人分の体重などまるで気にしていないようだ。これまでシャルレスも幾度か経験した急飛翔だが、まだしばらくは慣れないだろう。正直に言って、飛翔中の自分たちを完全に隠蔽できていた自信はない。
眼科には〈ラルフィド〉の街並みが広がっている。第三街区全域を一望することはさすがに叶わないが、普通に生きていれば絶対に経験できない景色だ。
「大丈夫ですか?」
惚けていたシャルレスは、ミカの声で我に返った。「問題ありません」と返事をしつつ視線を遥か先へと向けると、〈ラルフィド〉を出て街道を道なりに進んだところに、小さい――とはいってもこの距離から見えるということは、実際にはかなりの大きさであろう――屋敷が見えた。
ミカは相変わらずの無表情のまま、その屋敷を見据えて呟く。
「最短距離で行きましょう。少し飛ばしますよ」
シャルレスが「はい」と頷くよりも早く、二度目の風と圧がシャルレスを襲った。
***
神王国ゴルジオンにおいて、騎士団には主に二つの種類が存在する。
一つ目は、神王直属の騎士団。便宜的には公騎士団と呼ばれ、“国境騎士団”と“王属騎士団”がこれに該当する。いずれも王国を守る上で大きな役割を持つ騎士団であり、その確かな実力から国民の支持も厚い。騎士団としては最上級の存在だ。
二つ目は、各街区の貴族お抱えの騎士団。こちらは俗に私騎士団と呼ばれる。戦力は騎士団によって大きく差があるが、おおよそ貴族の財力に比例する傾向があり――貴族が金で雇うのだからそれも当然だ――民からの信頼もまた騎士団によって様々だ。有事の際にはもちろん武力を行使するものの、そもそも王国内で「有事」が起こることは少ないため、貴族の領地における治安維持が主な目的である。
ここ〈ラルフィド〉にも貴族が十数家存在し、それぞれが騎士団を有している。今問題となっている事件は、そんな貴族のうちの一つ、ノッグズ家で起こった。
「……さて、到着です。気分は大丈夫ですか? シャルレス」
容赦のない風圧を全身に受けること五分。シャルレスたちは、先程上空から見えていた屋敷――件のノッグズ邸の前に到着した。
地面に立っているはずなのに、ふわふわとした感覚が抜けない。五分間〈天狩〉の脚に掴まっていた疲労など、シャルレスにとってはほとんどないに等しいが、この奇妙な浮遊感ばかりは身体強度如何の問題ではないのだ。
「……問題ありません。もう慣れました」
ごくごく小さな嘘をついたシャルレス。ミカはそれについては何も言わず、「では行きましょう」とだけ呟いて、屋敷へと歩き出した。
まだ屋敷までは歩いて一分ほどの距離がある――着地地点が屋敷に近すぎると突然二人が空から降ってきたように見えてしまうからだ――が、遠くからでも分かるほど豪奢な門は堅く閉ざされている。近くの守衛小屋へ向かい、守衛に取り次ぎを頼むと、さしたる障害もなく門を開けてもらえる――とシャルレスは思っていたのだが。
「“王属騎士団”のミカ・ケルメリア様とシャルレス・エリスティル様ですね。確かに来訪の連絡を頂いております。では、こちらへ」
小屋の中にいた守衛に案内されて辿り着いたのは門の前――ではなく、守衛小屋のさらに奥に位置する広いスペース。
はて、とシャルレスが訝しむと同時、二人の前に立った守衛は重々しく告げた。
「無礼を承知で申し上げますが、お二方が本当に“王属騎士団”の騎士様でおられるかを試させていただきます。近頃は身分を偽って屋敷へ入り込もうとする不貞の輩も多いため、どうかご協力ください」
守衛が鞘から抜いたのは、重厚な輝きを帯びる純白の長剣。神器ではないだろうが、恐らくは強化聖具。よく手入れされた剣は持ち主の実力を雄弁に物語る。
――つまり、本当に“王属騎士団”所属の騎士であることを証明するために、騎士としての力を示せと言うことだ。
あまりにも突飛な試練だが、ミカは飄々としている。恐らくは訪問の連絡を入れた際にはこの試練の旨を伝えられていたのだろう。事前にシャルレスに伝えなかったのはたまたま忘れていたからか――否、この副団長が連絡事項を伝え忘れるはずがない。敢えて言わなかったと考えるのが妥当だ。
「お一人ずつ試させていただきます。五分間、私の攻撃をかわし続けてください。異能、神能など何でも使っていただいて構いません。――ただし私への攻撃だけはご遠慮ください。下手をすると死んでしまいますので」
微笑みながらルールを宣言する守衛。どうやら断る選択肢はないらしい。魔法具や魔法で身分偽装が容易なことを考えれば確かに頷ける試練ではあるが。
「だそうです、シャルレス。まずは貴女から確かめてもらいなさい」
当然のごとく、ミカは傍観の構えだ。恐らくはこれも教育の一環なのだろう。
心中でため息を吐きながら一歩先に進み出たシャルレスは、獲物である〈ミツハノメ〉を抜き放ち、体の正面に構える。
とはいえ、異能を自由に使用できるならば聖具使いに攻撃を受ける道理はない。“受心”で認識改竄を五分間続ければ、聖具使いに為す術はないからだ。
――そう思っていた矢先、ミカが告げた。
「ただし、異能と神能の使用は禁じます。いいですね?」
「……え?」
「“王属騎士団”たる者、純粋な騎士としての身体能力だけでお相手しましょう。その方が実力をより理解していただけるでしょうし」
「…………」
異能と神能の使用禁止。課せられたルールはあまりにも重い。この時点で能力によるアドバンテージが失われた。
シャルレスの反応を待たず、ミカは守衛に伺う。
「それで構いませんか?」
「ええ。私としては問題ありませんが…………」
シャルレスに無言ながらに「それでいいのか?」と確認の視線を向ける守衛。
もっとも、シャルレスが指導騎士の指示を拒むことなどできるはずもなく。
「はい。大丈夫です」
〈ミツハノメ〉の切っ先をほんの少し上げるシャルレス。攻撃のためではなく、長剣を刃で受けるため、わずかに構えを変えたのだ。
能力によるアドバンテージはなし。それでも神器使いの身体能力ならば聖具使いに遅れをとることはない――と短絡的に判断できない理由がシャルレスにはあった。
守衛は最終確認を終え、強化聖具を構える。微かな、しかし確実な緊張が場を包み、しばし静寂した後、守衛は宣言した。
「では、始めさせていただきます。――行きます!」
守衛が地を蹴り、猛然とシャルレスへ迫る。隙の少ない姿勢のまま、常人ならば目で追うのがやっとの速度でシャルレスとの距離を詰める。
とはいえ、それはあくまで聖具使いの域を出ない。普段のシャルレスならば即時にすれ違い、その気になれば首を斬り裂ける程度の速度。攻撃が禁じられている今は、もちろん〈ミツハノメ〉を振るうことはないが、確実に回避に成功できるはず。
――そのはずなのに、足が動かない。いや、動かすことはできるが、尋常ではなく体が重い。まるで体がこの場に固定されたかのように。
「…………っ」
――異能、“操魔”。魔素を直接感知、操作するミカの異能が、シャルレスの体内を蠢く魔素を固定しているのだ。
本来“操魔”は物理的に物体を形成している魔素を操ることはできない。例えば体が魔素で構成されているとしても、悪魔を自在に吹き飛ばしたりはできないのだ。しかし半魔であり、流動的に魔素が体内を動いているシャルレスに関しては、その魔素の動きを固定することで、間接的にシャルレスの肉体を半拘束できる。
これをいいことに、ミカは戦闘においてシャルレスの動きを阻害し、訓練に活用している。つまり、身体能力の高さを生かした強引な動きを封じ、思考を基にした最適な行動を選択するよう促しているのだ。
“操魔”によって動きを制限されたシャルレスの身体能力は、どう見積もっても守衛と同等、あるいはそれ以下。無理矢理な動きで攻撃を回避することはできない。
試練を突破するには、最短最小の動きでの回避が絶対条件だ。
「――せいっ!」
最初の一撃がシャルレスを襲う――