5―3 悉くを灼くもの
〈ゲブ〉がアンゴラーの胸に深々と突き刺さった、ちょうどそのとき。
アムルとアンゴラーが激突する地点から少し離れた位置にて、アリアは気を失って項垂れていた。
アムルの異能“死気”――〈夜叉吐息〉にてアリアの意識は強制的に刈り取られ、左脇腹を倒木の枝に貫かれた状態にもかかわらず、気絶していたのだ。
しかし、気を失うその直前。アリアは死と直面する瞬間に、本能的に極限の集中状態を実現し、その意識は〈ヘスティア〉に内存する精神世界へと落ちていた。
「…………」
何も見えない闇に包まれた空間。自身の輪郭や、無限に広がる床だけは不思議と知覚できる。朧気に腕――と思われる部位――を動かして左脇腹に触れるが、痛みはおろか傷跡も感じられない。
「物理世界の肉体はここには反映されないわよ。当然、時間効果もね」
アリアが振り返ると、そこには、すらりとした長い脚を組み、豪奢な椅子に腰掛ける妖艶な女性がいた。
アリアが持つ神器に宿る神、ヘスティア。相変わらず顔は見えないが、艶かしく微笑んでいるのは分かった。いつかとは随分と違う出で立ちにアリアは違和感こそ覚えたものの、口にする必要はない。
むしろ、他に言わなければいけないことがあった。
「ヘスティア。私に力を貸して」
単刀直入に助力を頼むアリアに、ヘスティアはわずかに視線を横に流しつつ答える。
「……十分に貸しているつもりだけど? 〈顕神〉はかなり深くなったわ。以前とは比べものにならないほど貴女は成長したはず」
「でも足りなかった。私はもっと強くならないといけない。このままじゃ、守れない」
間髪入れず、アリアは真っ直ぐにヘスティアを見つめて言葉を返す。
今、現実世界ではアムルがアンゴラーと必死の攻防を繰り広げているはず。さらに、気を失う少し前、アリアはアムル以外の何者かの気配を感じていた。確証はないが恐らくはミーシャだ。アムルの〈天声〉から窮地を察し、応援に駆け付けたのだろう。
直接戦闘の様子を捉えることはできなかったため、詳細な戦況は分からない。しかし少なくとも優勢にはなっていないはずだ。もしそうなっていたならば、アムルがあれほどの覇気を振り翳すはずがない。
すぐにでも戦線に復帰しなければ。そしてそのためには、ヘスティアの助けが必要なのだ。
「…………」
ヘスティアは微笑んだまま、少しの間、沈黙した。
――見透されている。アリアはそう感じた。ヘスティアの表情はおろか視線がどこに向けられているのかも分からないが、アリアの内心をじっと観察しているのは分かる。ヘスティアを相手に隠し事はできない。
「…………怖いのね?」
そして、ヘスティアは短く問うた。
「自分が強ければ救えるかもしれない。自分が弱いから救えない。自分のせいで誰かが死ぬのが怖い。貴女が抱える意思は、大体そんなところかしら」
「…………!」
ヘスティアの推測は、アリアにとって完全な図星だった。言語化されたことでアリア自身もより明確に認識した。
アリアは怖れているのだ。
「貴女にとって、あの男――アムルは命を懸けてまで救う必要がある? もちろん恩義はあるでしょうけど、そのために大義を捨てる覚悟はあるの? ここで死ねば、貴女の目的は果たせないのよ?」
「…………」
「普通に考えれば答えは明白よね。でも見捨てられない。それはなぜかしら。貴女が騎士だから? アムルは苦しんでいるから? いいえ――自分のせいで人が死んだと思いたくないから。そうよね?」
「…………わ、私は――」
「貴女の意思は好きじゃないわ。だってそれは、単なる自己保身だもの」
自己保身。ヘスティアの言葉がアリアの心を抉った。
「―――」
否定したいはずなのに口が動かない。それは、アリアが心のどこかで自覚していたことだからだ。
レインを救うという点に関してのみならば、決して保身などではないと断言できる。レインさえ救えれば他には何もいらない。アリアはそのために力を得て、そのために生きているのだから。極端な話をすれば、自身の命を犠牲にしてもレインを助けられればいい。
――では、レイン以外に関してはどうか。
アリアはなぜ他人を助けようとしているのか。
民を守るという、アムルのような崇高で揺るぎない目標がある訳ではない。騎士としての誇りも人並みにしか持ち合わせない。他人のために大義を捨てる義務がアリアにはない。
つまり、アリアにあるのは、能動的な意思ではなく、消極的な理由だ。傷付きたくない――そんな自分のための理由だ。
だから、自分は極致に至れないのだ。
「…………」
俯いたアリア。
何も言わなくなったアリアを見て、ヘスティアは小さく鼻を鳴らした。アリアは「まだ」なのだ。その領域に至るには足りないものがある。それを確かめるまでは、力を与えることはできない。
あとほんの少しのきっかけでアリアは至る。しかし、それは今ではないのか――そう、ヘスティアが思ったとき。
「……私は弱いわ」
アリアがぽつりと呟いた。
弱々しく、吹けば消えそうな火が見える。アリアの心に宿る火種は今すぐにでも絶えてしまいそうだ。やはり今日ではないのだろうと直感したヘスティアは不満げに口を開く。
「弱音は嫌いよ。私はそんな貴女を見たくて認めたつもりじゃ――」
「だから何?」
同じく不満げに、アリアはヘスティアを遮った。
「…………え?」
「そんなことは分かってる。要は私が強ければよかった話でしょ? 私がアンゴラーを簡単に捻れるくらい強くて、アムル副団長の手を煩わせる必要もないほど完璧に作戦をこなしてればよかったのよ。そんなことは分かってるの!」
火種が勢いを増していく。消える寸前だった火種は燃え盛る炎へ移り変わる。
「でも仕方ないじゃない! だってあんたが協力しないから! 私一人でできることなんて高が知れてるのよ! なのに『まだそのときじゃないわ』とか『認められないわね』とか、そんなのはもういい!」
内に秘めた炎。恐らくはアリア自身が抑えつけていた衝動。蓄えに蓄えて、外に漏れ出さないように必死に隠していた熱量。
一度溢れたそれは二度と塞き止められない。人知れず蓄積されていた炎は、周りのあらゆるものを取り込んでより大きく、力強くなっていく。
――そして炎は、煌々と煌めく焔へと昇華する。
「気持ちとか資格とか意思とか面倒なのよ! 私は弱い! 自己保身するくらい弱い! でも助けたい! だからあんたはそのための力を貸しなさい! あんたが私を主と認めるなら!」
矢継ぎ早に全てを言い放ったアリアは、呼吸の必要もない精神世界にもかかわらず、肩で大きく息をしていた。まるで子供が駄々をこねるように、思いの丈を吐き出したのだ。
呆気に取られ、しばらく言葉を失ったヘスティアは、アリアの体感でたっぷり十秒もかかってから、静かに呟いた。
「……逆上して、まるで幼子ね。自分が弱いことに対して、貴女は納得できるの? 矜持はないのかしら」
「納得できるはずないじゃない。腸も煮えくり返ってる。でも、だからって止まってられるほど余裕はないの」
赤く輝く瞳に揺るぎない信念をのせて、アリアは言葉を継ぐ。
「『目標に貴賤はない』。誰かがそう言ってたわ。自己保身でも何でも、私は進み続ける。私は私のために私を肯定し続ける」
それは、アリアがどこかで聞いた言葉。誰が言っていたのか、どこで聞いたのかは覚えていない。しかしなぜかその言葉だけが、ふとアリアの頭に浮かんだのだ。
「――でも、そのためにはあんたの力が必要なの。悔しいけど、私だけじゃ……できない。だから――」
アリアは懇願するようにヘスティアを見つめた。
「…………」
アリアの心の内で轟々と燃え盛る焔。あらゆる柵を滅する熱量の前に障害は無意味。もはやアリアは止まらない。それはヘスティアにも分かった。
それでも、ため息を吐いてヘスティアは否定する。
「……貴女、自分の状態を理解してる? 魔法は使えない、体力も底を尽きかけてる、おまけに脇腹に穴が開いてるわ。そんな状態で、これまで以上の力を制御できると思う?」
「できるわ」
「…………。下手すれば“壊放”で貴女もろとも死ぬわよ?」
「死なないわ。制御してみせるもの」
「……制御云々の前に、出血で死ぬ可能性は?」
「焼いて塞げばいいでしょ」
根拠もないくせに、ぬけぬけと答えてみせるアリアに、ヘスティアは微かに笑う。
「だとしても――」
そしてまた一つ、懸念とも呼べる反論を告げようとしたとき。
「ああ、もう! とにかく私が言いたいことは一つだけ!」
アリアはヘスティアを指差して叫んだ。
「主として命ずるわ! 私に力を貸しなさい! あんたの力は、私が使いこなしてみせるから!!」
――その姿はどこまでも傲岸不遜。懸念や反論など知ったことかと切り捨てて、己を阻む障壁を灼く。止まることは考えもせず、我が道を行く傍若無人な振る舞いに、ヘスティアは――確かに笑った。
「…………それでこそ、ね」
近付くように手招きしたヘスティア。突然の指示に戸惑いながらも歩み寄ったアリアの手を優しく掴むと、ヘスティアはその手の甲へ、そっと唇を乗せた。
「……ヘ、ヘスティア…………?」
アリアが動揺した瞬間。
ドクン、とアリアの心臓が震えた――そんな感覚を抱いた。
「あ…………っ?」
体が燃えるように熱い。内側から爆ぜてしまいそうな膨大な力が暴れている。これまで感じたことのない激烈な衝動がアリアを支配する。
瞬間的にアリアは悟った。これが、ヘスティアの根源たる力なのだと。
「制御してみせなさい。できなければ死ぬだけよ」
途端、意識が朧気になっていくのをアリアは感じた。この精神世界にいられる時間はもう長くないと瞬間的にアリアは悟る。
なぜヘスティアが突然自分を認めてくれたのか、アリアには分からなかった。しかしこの力には確かにヘスティアの思いが秘められている。恐らくはアリアと同じように悩み、迷い、そして決断するに至った全てが詰まっている。
どうせすぐに会話できる……と後回しになどせず、アリアは素直に叫んだ。
「……ありがとう、ヘスティア! 絶対に使いこなしてみせるから――!」
それだけを言い残したアリアごと、世界は一度強く瞬く。
次の瞬間には、アリアはこの世界から弾かれていた。現実へと戻っていったのだ。
「…………」
一人、精神世界に残されたヘスティアは虚空を見上げて脚を組み直す。
アリアに欠けていたのは自信。目標に気を取られ、周りの強者に気圧され、アリアの本質を失った状態では、暴れ狂う力を制御できるはずもない。逆に言えば、肉体や精神は既にできあがっていたのだ。
今ならば、もう大丈夫だろう。燃え盛る熱量を取り戻したアリアならばヘスティアの焔さえ支配できるはず。
そして、ヘスティアがアリアを認めた理由がもう一つだけ。
「さて、私も戻らないとね……主にだけ任せておく訳にはいかないもの」
――傲岸不遜なアリアのその姿にこそ、ヘスティアは惹かれ、目醒めたのだから。
ヘスティアの力を賜って、アリアはついにその領域へと至る――
***
「…………」
深々とアンゴラーに〈ゲブ〉を突き刺したアムルは、もはや得物を抜き去ることもできず、静止していた。
“壊放”を起こした〈ゲブ〉は既にアムルの言うことを聞いていない。バチバチとエネルギーを爆ぜさせながら、小刻みに震えている。〈嚇突〉で一時的に巨大なエネルギーを放出したために今は活動が抑えられているが、しばらくすればアムルをも巻き込んで暴走するだろう。
アンゴラーは微動だにしない。先程までの気配も嘘のように静まっている。
「…………すまない、ミーシャ」
涸れた声で、アムルはそれだけを口にし――
「……アあアああぁアああァアアアア!!」
突如咆哮したアンゴラーの右腕がアムルを強かに打ち据えた。
「…………っ」
抗う余力は残されていない。勢いのまま大木に背中から激突したアムルは脱力し、ずるりと崩れ落ちる。
十分な握力さえ残っていなかったアムルは、アンゴラーの一撃により〈ゲブ〉を手放した。辛うじてアンゴラーの胸に刺さったままの〈ゲブ〉は活性を失い、輝きを失う。
目を血走らせ、荒く息を吐くアンゴラー。不快感を隠す気もなくあらわにして、胸に突き刺さる〈ゲブ〉を引き抜くと、その場に放り捨てた。
「ふぅゥウゥウヴ! ふザケた真似ヲぉお…………!」
アンゴラーは荒れ狂う怒りを滾らせ、アムルに憎悪の視線を向けていた。
――〈嚇突〉は確かにアンゴラーの核を捉えていた。しかし激突と共に“死気”が弱まった瞬間、アンゴラーは体内を流動化させ、核の中心をずらしたのだ。結果として核が破壊されることはなく、アンゴラーは生き延びた。
流動化が間に合わなければ確実に〈嚇突〉は核を貫いていた。事実、掠めただけで核にはヒビが入っていたのだ。あとわずかでもエネルギーが核に伝わっていればアンゴラーは死んでいただろう。
「死に損ナいガ……!」
死に肉薄した恐怖がアンゴラーを突き動かす。事実、アンゴラーをここまで追い詰めたのはアムルが初めてだったのだ。
今すぐにでもアムルを殺しかねないほどの迫力のアンゴラーを閉じかけた視界に捉えながら、アムルは笑った。
「ここまで、か…………。……最期は、呆気ないものだな」
ふと、ミーシャはどうなっただろうとアムルは思った。呼吸するのが精いっぱいで、首を捻ることさえできないアムルにはミーシャの様子は確認できない。“死気”で意識を刈り取ったために苦痛はほとんど感じなかったとは思うが……いや、ミーシャはそんな苦痛に怯むほど、か弱くはないか。
いずれにしろ、アムルにできることは全てやった。これ以上の結果は望むべくもないだろう。覚悟はとうの昔にできている。
騎士の最期としてはあまりにも情けないかもしれない。もっと多くの民を守れたはずだった。もっと多くの騎士を育てられたはずだった。
それでも、為すべきことを為せたのだ。後は、アムルがこの世で最も信頼する旧友に全てを任せ、退場するのみ。
「死ネ……〈咬手〉ォ!!」
迫り来るアンゴラーが見える。どうせなら一思いに終わらせてくれ、とアムルは静かに目を瞑った。
「さらば…………」
アンゴラーの鋭い指がアムルの首を噛みちぎる瞬間。
――仄かな熱がアムルの頬を撫でた。
「あ…………?」
アムルが目を開けたときには、寸前までと、視界の様子がまるで異なっていた。
眼前に背を向けて立つのは赤髪の騎士。その隣に横たわるのはミーシャ。アムルの右手の近くには〈ゲブ〉。
――そして、少し離れた位置で右腕の肘から先を失ったアンゴラー。
「死なないでください。まだまだ教えてもらうことがあります」
赤髪の騎士がこちらを見ずに呟いた。その制服の左脇腹には血で濡れた跡と焼け焦げた跡が残っている。
瞬間、アムルの左腕がジュワッ! と燃えた。
「が…………ッ!」
「手荒ですみません。でも、ひとまずはこれで大丈夫です。ミーシャさんも、多量出血で死ぬことはありません」
見れば、ミーシャの肩口にも確かに火傷のような跡がある。あまりにも粗雑だが、同時に、ただ火を近付けただけでは、あれほど大きな傷跡を塞ぐことはできないはず。もちろんアムルの左腕も同様だ。
そして何より、神能がいつ行使されたのかアムルには分からなかった。
「……手間をかけさせる奴だ。まさか、この土壇場で認められたのか」
明らかに覇気が洗練されている。神の気配もより強く、濃密に感じられた。以前までとは、もはや比べるに値しない。
――焔を統べる女王。彼女が放つ焔は、いまや悉くを灼く。
〈ヘスティア〉を構え、赤髪の騎士――アリアは極致へと至る。
「〈神双化・悉灼〉」




