5―2 感情ゆえに
時間は少し前後する。
『第一部隊全隊に通達。目標の危険度を絶位級以上と推定。作戦は中断し、総員撤退せよ。速やかに本部に連絡し、団長の指示を仰げ。これは――未曾有の危機である』
第一部隊の神器保有者全員に〈天声〉にて伝えられた指示。それはすぐさま、アムルに次ぐ指揮権を持つミーシャにも伝えられた。
「…………」
ミーシャは動きを止め、アムルとアンゴラーが今まさに死闘を繰り広げているであろうマンテ山の麓の方を見遣る。
隊員が戦闘に直面した場合、本来は、随時戦闘の様子を経過報告することになっている。しかし今回アムルからの報告はほとんどなかった。つまりそれだけ余裕のない緊迫した状況であったということだ。
総員撤退の旨を示す〈天声〉に続いて、現時点での経過の報告がアムルから伝えられた。アンゴラーが成長し、アムルをもってして手に負えない脅威と化したことが克明に示されたのだ。団長であるカイルが作戦を練るために必要な情報を最後に報告し、アムルの〈天声〉は終わった。
「ミーシャさん」
動こうとしないミーシャにウォンは声をかける。しかし返事はない。
なぜアムルがカイルに指揮権を譲渡したのかは考えずとも分かる。つまりはアムルがこれ以上指揮を執るのが困難だと判断したということだ。騎士団二位の強者でさえ手に余る悪魔が王国内部に侵入している――これがどれほど異常で危険な事態かは言うまでもない。
そして、アムルは恐らく、そんな悪魔に敗北を悟ってしまった。
「諦める」とは、騎士団にある騎士において恥ずべきことではない。もちろん己の力量不足は省みてしかるべきだが、民を守る騎士には時に力不足を認め、撤退する必要があるからだ。むしろ、適任でないことを認めずに無理をした結果、取り返しのつかない事態に陥ってしまう危険もある。
その意味では、いつまでも自分で討伐することにこだわらず、すぐさま次の作戦、あるいは希望へと繋げようとするアムルの判断は決して間違っていない。間違っていないが――
「アムル副団長…………」
――第一部隊員にとって、絶対的な騎士の象徴たるアムルが勝てない事実は、とても信じられるものではなかった。
小さく呟いたミーシャは、撤退の命令を承服するつもりはないのか、いつまでも動こうとしない。一部の隊員が既に撤退を始めようとしている中、本来ならばミーシャが臨時の指揮を執り、他の隊員を先導するべき場面だが。
「……ミーシャさん」
今から自分が言おうとしているのは騎士の本懐に背くものなのだろうなとウォンは思う。ミーシャを危険に晒してしまう可能性だってある。組織の一員ならば言うべきではないと分かっている。
それでも、アムルを見つめるミーシャには、後押しが必要なのだ。
「アムル副団長を、助けてあげてください」
「…………え」
ウォンは、ミーシャが心の奥に秘めていた思いを知っている。いや、ウォンだけでなく、誰もが知っている。
ウォンに顔を向けたミーシャ。騎士としての責務と、人間としての感情の間に揺れるその表情は、あまりにも悲壮だ。
ゆえに、ウォンは、大それたこととは知りつつも全隊へと問う。
『ミーシャさんがアムル副団長の救出に向かうことに対して、反対する方はいますか?』
返ってくるのは沈黙。
反対は――なし。
第一部隊としての総意。ミーシャが迷いを振り切れるように、全隊がミーシャの思いを肯定した。
ミーシャは目を丸くし、一瞬泣きそうな表情を浮かべた。しかしそれでも決して涙を溢すことはなく、覚悟と決意を右手に込めて握り締める。
「……ありがとう。私、行ってくる。隊を任せるね、ウォン君」
「はい。悔いの残らないよう、頑張ってください。――アムル副団長をお願いします」
深々と頭を下げたウォン。ミーシャは微笑み、「任せて」と応えると、すぐに麓へと駆けていった。
ウォンは頭を上げると、少しの間だけ目を瞑った。
はたして自分の後押しは正しかったのだろうか。ミーシャを、そしてアムルを苦しめる結果に導いたのではないだろうか。アムルの指示にただ従っていれば、それでよかったのではないだろうか。
ぐるぐると数多の問いが頭を埋め尽くす。答えはどこにも落ちていない。
そのとき、一つの通信が耳に届く。
『しっかりしろ、ウォン』
『……グリンさん』
仮設第四班の一員だった、古参の強化聖具使いのグリン。ウォンの指導騎士でもあったグリンは、弟子とも言えるウォンに短く語る。
『悩むな。我々全隊が、お前やミーシャ副団長補佐を肯定した。皆、同等だ』
直接何かを言った訳でもないのに、グリンはウォンの迷いに気付いたらしい。敵わないなとウォンは小さく笑う。
後悔は後でするものだ。そして、今はまだ後でない。することは、しなければならないことは決まっている。
『――撤退しましょう。それが、俺たちが今なすべきことです』
***
アムルの眼前で、赤い命の滴が弾けた。
アンゴラーの〈咬手〉がミーシャの左腕を肩口から噛みちぎった。言葉にすれば、事実はたったそれだけ。
しかし刹那、アムルの奥底で何かが蠢いた。
『ゲブ』
脳裏でゲブへと呼び掛ける声。ゲブの反応を待たず、アムルは命じる。
『俺たちとアンゴラーを遮断しろ。俺の体はどうなってもいい。やれ』
有無を言わせない口調。感情的になったことがほとんどないアムルのいつも通りの声――しかし、アムルの思考を探ることができ、加えて長く共にいたゲブだからこそ感じ取れる気配が陰に隠れている。
ゲブに拒否する選択肢はなかった。
『いいだろう。だが、もって三十秒だ』
途端、アムルの覇気が膨れ上がり、アンゴラーがその異変に気付いた。不測の事態を避けるため、恐ろしい速度でアンゴラーが離脱――直後、〈大地の抱擁〉がアムルたちを守る防壁のように突き出す。
〈神双化・大地纏〉。神器使いの奥義にて、アムルは再びアンゴラーを退ける。“創地”はそれで終わらず、後退したアンゴラーを瞬時に〈獣の箱庭〉が包んだ。
ただでさえ重傷の肉体に追い打ちとなる〈神双化〉の負荷。しかし今、アムルは肉体の限界を精神で抑えつけ、まさしく命を削ってアンゴラーを拘束する。大地は常に脈動し、アンゴラーが箱庭から抜け出ないように幾重にも層を厚くしていた。
束の間の安寧が得られた空間で、アムルは倒れるミーシャを支える。
「なぜここに来た、ミーシャ……。俺は撤退の指示を出したはずだ」
アムルの右腕を濡らす血は温かく、生々しい生命を感じさせた。そんな血液が止めどなく流れていく。ミーシャには、アムルのような強引な止血を可能にする術はない。このままでは一分も持たないだろう。
詰問するアムルの腕の中で弱々しく呼吸するミーシャは、儚く笑った。
「……左腕を取られたなんて報告、してませんでした……よね? 駄目ですよ。情報は、正しく伝えないと……。貴方が教えてくれたことです」
「そんなことはどうでもいい。何をしているのか分かってるのか? お前は……もう…………!」
核心的な言葉だけは、どうしても言えなかったアムル。しかし、ミーシャもそんなことは分かっている。アンゴラーの前に飛び込んだ瞬間に、ミーシャは結末を覚悟していたのだ。
「アムル、副団長…………」
ふと、ミーシャはある衝動に駆られる。
いつもなら絶対に叶わなかった行為。それでも今は。せめて今だけは。
――ミーシャは朦朧とした意識の中、無事に残った右腕を伸ばし、アムルの頬を優しく撫でた。
「あの日から……貴方に初めて会ったあの日から、思ってたんです。貴方を支えたい……傲慢かもしれないけど、守ってあげたいって。……だから……よかった。最期に、守れた…………」
「ミーシャ――」
アムルが何かを言うよりも早く。
ミーシャは目を閉じ、その右腕はだらりと垂れ下がった。
アムルはミーシャに何も伝えられなかった。
「―――」
そのとき、ピキリと〈獣の箱庭〉にヒビが入り、直後粉々に破壊された。〈大地纏〉が限界を迎えたのだ。
「……マダ余力はあっタカ」
箱庭から抜け出たアンゴラーは改めて周囲を確認する。
アムルの覇気は完全に霧散し、もはや聖具使いにも思えないほど弱々しい気配しか残っていなかった。恐らく神能はもう使えない。魔素も存在しない。闖入者の気配もない。
今度こそ、アムルは無防備な状態。
「俺は…………お前を守りたかったんだ、ミーシャ」
既に意識はないだろうミーシャに、一言だけ呟いて、アムルはミーシャを地面に横たえさせる。
その背後にアンゴラーは音なく立っていた。
無造作に振りかぶられた右腕。容易くアムルを殺せる状況。
ゆっくりと振り返ったアムルの頬には一筋の滴が伝い――
「…………はは」
――その瞳には、“死”を予感させる色が瞬いていた。
「…………ッッ!!」
考えるよりも早くアンゴラーは距離を取る。攻撃を受けた様子はない。傷は一つも負っていない。
しかし――着地した瞬間から、体が動かない。
「な……ニ…………ォ」
声を上げることさえままならないアンゴラーの先で、ゆらりとアムルは立ち上がった。〈顕神〉は既に解けかけており、真っ直ぐに立つこともできないほどに疲弊した姿は、本来恐れる必要もない弱者の佇まいのはず。
だというのに、アンゴラーはアムルから目を離せない。なぜならば、その挙動が自身の死をまざまざと予感させるからだ。
「はは……動けないか? そうだろうなぁ。そうだろうよ」
アムルは不気味に笑う。いや、口角こそ上がってはいるが、瞳は少しも笑っていなかった。言い様のない圧がアンゴラーを縛っていた。
アムルの気配の正体。それこそが、アムルの異能――“死気”。
気配とは、覇気とは何か。それらは決して漠然とした感覚ではない。その本質は「予感」だ。この生物は何かを起こす、何かを有している、きっと自分に影響を与える。そんな予感が、気配や雰囲気として認知される。
ならば最も強烈な予感とは何か――そう、それすなわち死の予感。眼前の何者かは自らに死を与えるだろうという予感こそ、生物の本能を最も刺激する。究極の予感は生物の肉体を縛り、一切の自由を奪うのだ。
“死気”はアムル自身の覇気を爆発的に増大させ、そしてその増大率はアムルの感情に左右される。負の感情に支配されればされるほど、増大率は跳ね上がっていく。
「〈夜叉吐息〉」
感情のままに膨れ上がったアムルの覇気。
その瞬間、一帯の生物の意識が強制的に刈り取られた。
アムルの“死気”が影響を及ぼすのはあくまで覇気そのもの。つまり、それを受け取る生物を選択できる訳ではない。“死気”を行使したアムルは無造作に覇気を振りまくことしかできない。
ゆえに、近くに仲間がいるときには迂闊に扱えない異能なのだが、アムルはもはやそんなことを考えていられるほど冷静ではなかった。
意識に直接影響するほどの濃密な気配を浴びてアンゴラーの硬直は一層強まる。肉体強度がどれだけ高くても、精神をアムルに支配されてしまえば関係ない。
アンゴラーに沸き上がる初めての感覚。それこそが恐怖。
もしも本能のままに暴れていた状態であれば、命の危機に対しても能動的に動けていたかもしれない。しかし今、理性を獲得し、打算的な行動をとることを覚えてしまったアンゴラーは、眼前の脅威に恐怖を感じてしまった。
皮肉にも、理性を得たことによってアンゴラーは自由を失ったのだ。
とはいえアムルは動くのもやっとな瀕死の姿。例えアンゴラーが動けなくとも、負けることはない。
そんなアンゴラーの計算など知ったことかとばかりに、アムルは震える体で〈ゲブ〉を逆手に構えた。
半身になって深く腰を落とし、〈ゲブ〉の切っ先はアンゴラーの胸に向けられる。それは幾度もアンゴラーの防御を突破した一撃の構え。
まさかそんなはずは――ハッタリに違いないと否定するアンゴラーの視界で、〈ゲブ〉が凶暴に光り輝く。
『主!? 一体何を…………!』
ゲブが声を上げる。アムルは体の限界を超えて神能を引き出そうとしているのだ。
――神器とは本来、人には過ぎた力を有している。神器使いはその超然たる体力と精神を以て神能を制御する訳だが、消耗や負荷に耐えきれない状態で力を行使しようとすれば、やがて強大な力は保有者の制御を外れて暴走する。
“壊放”と呼ばれるその状態は、保有者の意思に沿わず暴走し、やがて保有者の命をも奪う危険性を孕んでいる。
今、アムルは意図的に“壊放”を起こそうとしているのだ。
キイイイイィィィィ……! と〈ゲブ〉が甲高い音を立て、その刀身に幾何学的な紋様が浮かび上がる。同時に、溢れ出る純粋なエネルギーがバチバチと断続的に爆ぜ、辺りを仄白く照らした。
『やめろ、主! そんな負荷を負えば主は――!』
『関係ない。……いや、今こそ俺は終わらせなければならないんだ』
ゲブの制止も無視してアムルは無理矢理に神能を引き出す。体にかかる負荷は既に限界寸前だ。しかし逆に、肉体の限界に極限まで近付いた今こそ、“壊放”を引き起こす好機。
「ぐ……お……ぉお……おぁ…………!!」
肉体が上げる悲鳴を精神で抑えつけ、暴走しようとする〈ゲブ〉を強引に引き上げる。本来人間が許容できるはずもない苦痛が、アムルの“死気”をさらに強化する。
ミーシャは己を犠牲にしてアムルを守った。ならばアムルも、己の身を呈してやり遂げなければならない。民草を守る騎士として、眼前の脅威を排除しなければならない。
ここで逃げたのならば、ミーシャは悲しむだろう。アムルはミーシャにとって、常にアムルたりえなければならない。絶対に誰も見捨てず、全てを救う騎士。そんな理想を追い続けてきた先達として――
「ああああああああああああああ!!」
痛み、哀しみ、悔い、怒り。あらゆる感情を曝け出したアムルの覇気は、アンゴラーをより強固に縛った。
瞬間、神器は“壊放”に達する。
神器を持ったアムルは、正しく人外の力を発揮した。
「……〈嚇突〉」
音を置き去りに、〈ゲブ〉はアンゴラーの胸に深々と突き刺さった。




