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4─1 手ががり?

 アリアの修練が開始してから、五日が経過していた。


「〈封焔陣サークルフレイム〉!」


 詠唱と共に、アリアの周りに漂っていた小さな焔たちがレインの周りをぐるりと囲む。その直後。

 ぼっ! と途端にそれらは大きな一本の焔柱となり、レインを飲み込んだ。


 ――が。


「〈魔障壁デウォール〉」


 呟きとともに、焔柱は根本から砕けるように霧散した。立っているのは無傷のレインだけ。


「~~~っ」

「そんな火力じゃまだまだ無理だな」

「無理じゃないわよ! 見てなさい……いつか……っ」


 そうしてアリアは、次の魔法のために再び集中する――。


  ***


 五日が経過してなお、アリアはレインに傷一つ付けることが出来ていなかった。


 一番惜しかったのは、レインが休憩を取っている最中に後ろから〈焔球フレイム〉を放った時だろうか。案の定まるで背中に目がついているかのように防がれ、「休憩中に当てても無効だからな」と釘をさされてしまったが。


 そんな訳でアリアとしてはかなりフラストレーションが溜まっている状態だ。しかし一方で、レインは口にこそ出さないが、アリアの進歩に驚いていた。


 わずかにではあるが、今もこうして〈魔障壁〉で受けているアリアの魔法に変化が起こっているのだ。具体的に言えば威力が上がっている。到底〈魔障壁〉を破るには足らない威力だが、体感出来るほどの成長をこの短期間で成し得た者をレインはこれまで見たことがない。


 レインは少しだけ〈魔障壁〉を解いてアリアを見る。赤いの瞳には、自信と悔しさと、折れることのない強い想いが見えた。


「余裕見せてるんじゃないわよ! 〈焔球〉っ!」

「……うおっと、閉じろ!」


 すんでのところで〈魔障壁〉は隙間を塞ぎ、アリアの魔法をいなした。


「くっ、もう少しだったのに……!」

「危ない危ない……」


 威力だけではない。狙いも速度も、魔法の要素全てが上昇している。アリアの変化は正しく驚異的と言う他ない速度の進歩だった。


 ともすれば異常とも言える進歩を為し遂げさせているのは、恐らくアリアの意思だ。強くなりたいと思う気持ちこそが、アリアの魔法の上達速度を底上げしている。あの失敗がアリアを確実に変えたのだろう。


 失敗から学んだもの。アリアにとってのそれは恐らく、戒め。


 自分の弱さを、愚かさを知り、次に同じことを繰り返さないように。アリアが願うのは、恐らくたったそれだけだ。


 もう一つの大きな要因は――。


「はあああああっ!」


 裂帛の気合と同時、〈ヘスティア〉の剣先に生成されていた焔が大きさを増した。単純な魔法である〈焔球〉だからこそ、腕の上達を見るのには適している。間違いなく初日よりも巨大なのだ。


「〈焔球〉っ!」


 振られた〈ヘスティア〉に呼応するように〈焔球〉はレイン目がけて飛翔した。レインは避けず、敢えて障壁で受ける。

 轟音と共に、〈魔障壁〉がびりびりと揺れる。傷ぐらいは付いたかもしれない。


「〈ヘスティア〉……か」


 もう一つの大きな要因。それはあの神器、〈ヘスティア〉だ。


 究極の炎熱操作を可能にする神能、“神之焔ブレイズ”。普段から焔を扱っているアリアは、魔法における火の扱いに慣れているのだろう。魔法全体の中でも、特に炎系の魔法の伸びが著しい。


 レインも問題点を見つけては口頭で指摘しているのだが、正直それすら不要な気がしている。今のアリアなら、自分だけでも十分に修練を積むことが出来るだろう。


「せあああああっ!」


 と、そんなことを考えてぼーっとしていたレインは、アリアが剣を構えて駆けて来るのに気付き、慌てて障壁を解いた。


「はあっ!」

「ちっ!」


 降り下ろされた〈ヘスティア〉の一撃を、音もなく抜いた愛剣で迎撃する。が、やはり重い。あまりの衝撃に体勢を崩され、苛立ち紛れに舌打ちする。


 剣の修練もしたいから、私が剣で向かっていった時は、〈魔障壁〉を解いて剣で応じて――。


 修練の初日に言われたアリアの要求だ。全くもってその通りだと従うことにしたのだが、レインにとって一番辛いのはこの時間である。


 何せ相手は神器使い、それもかなりの腕前を持つのだ。魔法ならまだしも、今の状態で剣で勝てる自信は全くと言っていいほどない。

 試合の時は〈重力過多グラビティオーバー〉で阻害出来たものの、今は修練である以上、そんなことをする意味がないのだ。


 凄まじい速さで迫り来る剣撃をレインは必死で弾くことに徹する。自分から攻撃することは認められていないし、第一、出来るとも思えない。無理に攻撃に転じれば手痛い反撃が返ってくるだろう。


 と、その時。


 ガンッ! とレインの手が痺れた。剣を強く叩かれ、衝撃が腕に伝わったのだ。


「――ッ」


 幸いにも剣を落としてはいない。だが、生まれたわずかな隙に――。


「……せあッ!」


 レインの目に、嵐が映った。目の前から襲いかかってくる剣撃という名の嵐。密になって向かってくる剣には、かわすほどの隙間すらない。


 間に合わ――。


「…………異――」


 その時、レインは、それを。


 キキキキキキンッ!


「――なっ!?」


 全て弾いた。


 予想していなかった出来事に、アリアの剣は最後の数発を残して止まる。レインはアリアの隙に素早く反応し、


「はっ!」


 完璧なタイミングで迎撃した。お互いに大きな力がかかり、同時に吹き飛ぶ。もちろん転ぶことなく着地し、二人は荒い息を吐いた。


「はあ……はあ……少し休憩するか」

「……ええ」


 短い返事に頷いて、レインはアリアと共に近くの段差に腰かけた。

 少しばかり体温が上がったレインの体は、以前倒れてしまったときから完全に回復している。“力”を使わないに越したことはないが、どうしても反射的に行使してしまうから困ったものだ。染み付いた感覚はすぐには消えてくれない。


「……まさか弾かれるとは思わなかったわ」

「え、あ、ああ」


 しばし息を整えた後、アリアは唐突に言った。


 アリアの言葉が何のことを言っているのかはレインにも分かる。というか、間違いなく追及されるだろうと思っていた。挙動不審なのを自覚しながらレインは言葉を返す。


「あのままだと数発はまともに食らってだろうから、な」

「さっき、何したのよ」

「べ、別に何も。体が自然と動いたというか……」

「……ふうん」


 怪しまれたな、とは思いつつも、素直に言う訳にはいかないのだ。内心で冷や汗をかきながら、レインは素知らぬ顔で、持ってきた水筒から水を飲む。


「…………」


 じーっ、と見つめてくるアリアに耐えられず、レインは自分から話を変えた。


「そ、そう言えばお前の魔法、少しずつだけど進歩してるよな。正直驚いた」

「……まあね。自分でも驚いてるわ」


 追及はとりあえず置いておくことにしたのか、アリアは顔を前に戻し答えた。ひとまずほっとしつつレインは話す。


「特に炎系はすごいな。多分〈ヘスティア〉の影響もあると思うけど」

「〈ヘスティア〉が?」

「ああ。お前、普段から“神之焔”で焔を扱ってるだろ? だから、炎をイメージしやすいんだよ。集中とか詠唱の時に焔を使う経験が生かされてるんだ」

「へえ……。あ、そう言えば、神能ってどうやって起こってるの?」

「え?」


 アリアの質問にレインは首を傾げる。


「どうやってというか……原理のことよ。魔法は周りの魔素を使ってるけど、神能もそうなの?」

「あー……。うーんと、そうだな……神能は魔素は使ってない……かな。神能の場合、リソースは行使する人の体力というか気というか……言葉じゃ上手く伝えられないけど」

「…………」


 答えになっていないような答えを聞きながら、アリアは黙っていた。虚空を見つめる瞳には何も映っていない。或いは、レインの目には映らない何かが映っているのか。


「……まあ、いいわ。続き始めましょ」

「ん、おう」


 頷くとレインは水筒を置いて立ち上がり、またいつもの位置に立った。


「……行くわよ!」

「ああ、来い!」


 アリアが集中を始める。再び、修練が始まった。


  ***


「はあー……。今日も疲れたな……」


 その日の夜。レインは寮の自室の風呂から上がり、濡れた髪をタオルで拭きながらぽつりと呟いた。


 あの後二人は、闘技場の使用可能時間のぎりぎりまで修練を続けた。結局アリアは今日も魔法を当てることは出来ず、ご機嫌斜めのようだ。寮の部屋に帰るや否や自分の定位置――二段ベッドの下――に潜り込み、レインが風呂の用意をしても入ろうとしなかった。


 普段は色々なことを考慮した結果、アリアが先に入るようにしているのだが、今日はレインも疲れていることもあり、許可を取った上でやむなく先に入らせてもらった。今はその風呂上がり、という訳である。


「アリア、風呂空いたぞ……って、おい」

「すぅ……すぅ……」


 レインが居間に入り、アリアを見ると、既にアリアはすやすやと寝息を立てていた。よほど疲れていたのか、制服のまま着替えることもなく寝てしまったらしい。


「……しょうがないか。飯食ってる時も半分寝てたしな」


 レインでさえこんなに疲れているのだ。数時間魔法を打ちっ放しだったアリアの疲労がどれだけ凄まじいかは、想像に難くない。

 ただ問題は――。


「……どうしてこいつは俺の剣を抱いてるんだ?」


 ――アリアが、しっかりとレインの愛剣を抱いていることにある。


 別に盗んだとかそういうことではないのだろう。レインとはいえ、いくら何でも風呂場にまで剣を持っていくほど酔狂ではない。そのため透明化も解除して居間に放ってあったのだから、恐らくそれを抱いて寝てしまったのだろうが……。


 レインの魔法をもってしても夜寝ている時まで透明化を保っておくのは不可能であるため、寝るときはすぐ近くに剣を置いておくのがレインの決まりである。今日ももちろんそうしておきたい。


「悪い、返してもらうぞ……」


 寝ているアリアを起こすのも申し訳ない。出来るだけ静かに、素早く剣を返してもらおうとレインは手を伸ばしたが――。


「ぅん…………」


 アリアが微かに寝返りを打った。かけられていた毛布が捲れ、アリアの足――というか太ももがあらわになる。


「……! ちょ…………」


 アリアの今の服装は制服。即ちスカート。もとより短いスカートが、横になっている体勢のためにさらに捲し上げられたように短くなっている。柔らかな丸みを帯びた太ももが、下着すれすれまで見えているのだ。


 まるでそこから重力が放たれているように、レインの目は惹き付けられた。無防備なアリアの姿に思わずごくりと唾を呑む。


 ――落ち着け。こんな場面は初めてじゃない。冷静になれ……。


 心の中で必死に自分を落ち着かせる。本能と理性が凄まじい攻防を繰り広げ、結果――。


「はーっ、はーっ…………よし、大丈夫……」


 かろうじて、理性が本能を押さえつけた。ここで踏みとどまれたのは、一重にレインの強靭な精神があったからだろう。精神を鍛えていたことにここまで感謝することはあるまい。


「よいしょっ……と、あれ……」


 丁寧に剣を掴み、アリアの腕から引き抜こうとするが、予想以上に堅く抱かれていて抜けない。というより、諸々の関係で剣を――もといアリアを――直視出来ないため、力を上手く入れられないのだ。試行錯誤するが、どうにも上手くいかない。


 ――仕方ない。少しだけ……。


 剣を返してもらう。それ以外の雑念は一切捨てて、レインはアリアを見た。

 何かを考える時間すら脳に与えずに、ほぼ無意識にレインは剣を抜き去った。


「……よし!」


 しかしその時。


「あぅ…………」


 アリアが目を開けないままレインの右手を掴んだ。これは……。


 ――寝惚けて、剣と勘違いしているのか。


 と、レインが思ったのも束の間。

 容赦なく、アリアはレインの右手を、剣と同じ位置――胸元に持っていく。


「ちょっ……!? 違っ、アリア……!」


 抗おうとするものの、左手は剣でふさがれ、体はろくに動かせる体勢ではなく力が入らない。一瞬にして雑念がレインの頭を埋め尽くし、そして――。


 右手が、何かに触れた。


「うわ……柔ら……っ」


 脳が――痺れる。


 抗おうとして抗えるものではない。悲しいかな、それは男としての本能とも言える何かだ。

 ぼんやりとする思考の中で、レインは自分が法に触れる行為をしていることだけを確信した。しかし体からは一切の力が抜け、このまま倒れこんでしまいたい衝動に駆られる。


「ぁ……ぅぅ……あっ…………」


 アリアの嬌声が聞こえる。


 倒れちゃ、ダメだ――。微かな理性の声も聞こえた。


「あ……もう、無理――」


 しかしそんな理性の抵抗虚しく、レインが重心を傾けた時。


「ん……んぅ……?」

「…………!」


 ――アリアが目を開けた。


 同時、レインの意識も覚醒する。寸前で体に無理矢理力を入れて制動し、致命的な事態に陥ることだけは回避した。


「危ねぇ……ア、アリア、起きたか。風呂入れるぞ」


 咄嗟の判断で、レインは風呂に入るように起こしに来た体を装った。これなら何とか……とレインが自分の判断を心から誉めた時だった。


「あう……っ? レ、レイン……まさか……」

「え? ……あっ」


 またしても、完全に失念していた事実。レインの右手は、アリアの体のある一部分・・・・・に置かれていたままだった。


 常識的に考えて、それが示すのは。


 アリアが顔を真っ赤にし、トロンとした半覚醒の瞳に涙を浮かべ。


「私を……襲――」

「違う違う違う!? 違うから!?」


 間違いなくそう思われるけど違うから――! と、レインは心の中で絶叫した。


  ***


「レイン……本当に違うのね?」

「違うって! 心の底から違うよ!?」


 三分後。事の顛末を話し終えたレインは、全力でアリアの質問に肯定した。


「まあ……年頃の男子なら仕方ないのかも知れないけど」

「だから違うって……」


 力なくレインは項垂れる。悪いことは何一つしていないはずなのに、どうしてここまで心理的ダメージを受けているのか、自分でも不思議なほどだった。

 というかそれよりも。


「それはとりあえず置いといて……何で俺の剣を抱いてたんだ?」


 レインは素直に思っていたことを聞いた。


「え? あ、あー、それは……」


 途端に歯切れが悪くなるアリア。レインがじっと見続けると、アリアはやがて堪忍したように白状した。


「……何か剣に秘密でもあるのかなって思ったのよ」

「秘密?」

「だっておかしいじゃない。あんたぐらい強いなら多分神器だって普通に扱えるのに、聖具を使ってるなんて。だから、何か仕掛けがあるんじゃないかと思って……」


 弱々しいアリアの答えに、レインはふう……とため息を吐いた。


「そんなことか……。秘密なんてこの剣には何もないよ。確かに聖具かも知れないけど、俺にとっては大事な剣なんだ。……いや、今は・・聖具、かな」

「え?」

「何でもない。それより、風呂入ってきたらどうだ?」

「……うん。そうさせてもらうわ」


 レインの剣に対する疑問は解決したのか、或いは置いておくことにしたのか。いずれにしろ、アリアは今は納得したことにしてくれたようだった。

 アリアは手早く準備をして、風呂場へと向かった。


「…………」


 部屋に一人になったレインは静かに床に寝転んで天井を見る。

 明るく光るのは、これまた魔法を応用して作られたランプだ。さすがに昼間とまではいかないが、蝋燭などよりは確実に明るい。


 右手の剣を翳すと、白い鞘は全てを反射しきらきらと光った。目を閉じれば、鞘の中の刀身もまた、同じように光る様が思い浮かぶ。そこに黒という色は全くない。


 むしろ黒は、剣で隠された自分に影という形で存在していた。


「秘密……か」


 目を開けて剣を置く。最早自分には眩しすぎるように感じる光から目を背けるように、レインは目の辺りに手を置いた。

 途端に暗くなった視界に、ある光景が思い浮かぶ――。




 雨が降っていた。大粒の、重く冷たい雨が。レインは雨の中で、体が濡れるのも厭わずに立ち続けていた。いや、動くことが出来なかった。


 目の前にあるのは、力なく横たわった女性。右腹からは大量に赤い何かが流れていた。呼吸はない。恐らく心臓も動いていない。触れば冷たいだろう。そんなことは実際に確かめずとも分かった。だからこそ、レインは確かめなかった。確かめたくなかった。


 横には、全ての元凶であった黒い屍体があった。爬虫類を思わせる頭は胴体から離れ、腕や足もまた同様に落ちている。どす黒い液体が、雨で流されていく。


 レインは一振りの剣を握っていた。剣先からは、黒が滴っていた。


「あぁ……あ、あああ……」


 声にならない悲鳴がレインの口から溢れる。それが果たして何なのかはレインには分からない。怒りなのか、悲しみなのか、恐怖なのか、どれでもないのか、或いは全てなのか。

 

 あの時、レインは初めて絶望を知った。

 あの時、レインは初めて死を知った。

 あの時、レインは初めて無力を知った。

 

 そしてあの時レインは初めて――“力”を願った。


 守るためではなく、救うためではなく、失わないためでもなく、奪われないための力・・・・・・・・・を。


 その時。


「力が欲しいか?」


 レインに聞こえたのはそんな声だった。


 レインはゆっくりと振り返る。背後にいたのは、一人の男だった。レインと同じように雨に濡れながら、むしろ笑うように男はいた。

 迷うことすらせず、レインは頷く。まだ幼い黒い瞳には、決意よりももっとおぞましい光がぎらついていた。


 男はレインの返事に、今度こそ明確な笑みを浮かべた。


 大粒の、重く冷たい雨が降っていた――。




「…………」


 思い出したくないもの、忘れたいものこそ、人は忘れられないものだ。雨の日の記憶は、正しくレインにとってのそれだった。いつもどこかで顔を出し、レインを過去に突き落とそうとする。


 そう、あの時も。


 幾度となく願い、失敗してきた。自分なんかが、どの口を持って言えようか。「次に失敗しなければいい」などと。

 

 ――俺が、アリアに何かを教える資格なんて……。


 ふと、思った時。


「レイン? 何でここで寝てるの?」


 かけられたのはアリアの声だった。

 いつの間にか閉じていた瞼を開ければ、そこにはこちらを見下ろしてくるアリアがいた。


「あれ……今日は早いな、風呂」

「全然早くないわよ。むしろお風呂で寝ちゃって遅いくらい」

「え……そ、そう?」


 どうやら物思いに耽りすぎていたらしい。そう言えば確かに、外が真っ暗になっている。


「悪い、今日は早く寝るよ。明日もあることだし」

「うん。私もそうする」


 さっさと明日の準備を終え、共に二段ベッドの定位置に入りランプを消す。一瞬にして、辺りは闇と静寂に包まれた。


 早く寝るとは言ったものの、レインはどうしても寝る気にはなれなかった。直前にあまり良くないものを見たせいか、今寝れば同じような悪夢に襲われそうだ。だったら寝ないでいた方が後悔せずにすむ。

 それに、アリアのことについても、もう少し考えておきたいと思ったのだ。果たして自分に何かを教える資格があるのかどうか。


 失敗を繰り返さないつもりでレインはここに来た。ミコトを頼り、幸運としか言えないほどの偶然で入学することも出来た。すべきことをこなしている自信はある。


 それでも、あの光景がちらつくのだ。

 またいつか、同じ光景を見ることになるのでは、と。いくら足掻いても、自分には無理なのではないか、と。


 ならば、自分には――。


「……私は感謝してるわよ」


「…………アリア」


 聞こえたのはすぐ下からの声だった。レインと同じように起きていたらしい。


「真面目に付き合ってくれるし、丁寧に教えてくれるし、実際強くなれてるし……だから、その……ありがと」


 真っ直ぐに気持ちを伝えるのが苦手なアリアの口下手な感謝は、むしろ普通よりも強くレインに届いた。

 アリアはため息を吐いてから言う。


「あんたが何で悩んでるかは分かんないし、聞いたところで私が何か出来るとも思えない。多分、それくらい難しいことなんでしょ? ……けど、私が一つ言えるのは……」


 一呼吸置いてから、アリアは言った。


「あんたがここに来たのは、そしてやってることは間違いなんかじゃない。少なくとも私は、おんたのお陰で少し変われた。だから――迷わないで」

「…………」


 迷わないで――。


 それはいつかも誰かに言われた言葉。

 いつ誰に言われたのか分からなくても、そのたった一言に救われたのは確かだ。どうしようもないほど辛かったレインを救ってくれた。あの時自分は、何と言ったのだろうか。


 思い出すことは出来ない。けれど――。


「…………ありがとな」


 多分、こう言った。確信はないけれど、何故か自信だけは不思議なほどあった。


「…………明日もしっかり付き合ってもらうんだから、さっさと寝なさいよ」

「おう、お休み」


 それだけを返してレインは目を瞑る。少しだけ心が軽くなった気がした。たった一言二言なのに、これ以上なく勇気づけられたような感覚。


 ――やっぱり、敵わないな。


 レインはそんなことを思った。


 アリアの言う通り、今日は早く寝よう。明日に備えなければいけない。


 ――そうだ、少し修練の内容を変えてみるか――。


 レインの悪夢を見る予感は、全くなくなっていた。

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