3─1 襲来
「ん…………」
どこかから聞こえてくる鳥のさえずりを聞いて、レインはゆっくり目を開けた。
朝だ。部屋はまだ薄暗いが、わずかにカーテンの隙間から射し込む光を感じる。いつもと変わらない朝。少しずつ、レインの意識が覚醒していく。
だが、ふと。
「………………すぅ」
レインの耳がここしばらく朝に感じていない音を捉えた。これは……寝息。
正体を探るべく、レインは慎重に横を見る。いたのは……。
「…………アリア」
ベッドの手すりに腕を乗せ、その上に頭を置いてすやすやと寝息を立てる少女――アリアがいた。
「……そっか、俺は……」
――今日から、いや正確には昨日の午後から、この少女と暮らすことになったのだ。
恐らく昨日の夕方、レインが寝てからもずっとこうして傍にいたのだろう。見ればアリアの右手はしっかりとレインの右手を握っている。学園で見るアリアとは違う姿に、レインは思わずドキリとした。
――寝てれば、ただの可愛い奴なんだけどな。
そんなことを思いつつ、レインは朝の半覚醒状態で無意識にアリアの頭を撫でた。赤い髪は、手入れもしていない朝だというのにまるで絹のように柔らかい。
しかしその時、アリアも目を覚ました。
「んぅ…………?」
「あ…………」
反射的にレインは手を引っ込める。アリアはゆっくりと顔を上げ、やがてレインを捉えた。まだ半覚醒状態なのか、心なしか目がとろんとしている。
「……レイン……?」
「ん。おはよう」
「おはよう…………って、レイン!?」
しかしやっと事実を認識したのか、跳ね上がるほどの勢いで起き上がると限界まで仰け反った。
「な、なななな何であんたがここに!? ここは私の部屋――」
「…………落ち着けよ。俺の部屋でもあるんだっての」
「え……? …………あ」
ようやく思い出したのか、アリアは慌ただしい動きを止めた。
「ご、ごめん。そうよね……私、レインと…………」
顔を赤らめながらアリアは一人言のように呟く。レインとしても少し恥ずかしい気はするのだが、しばらくはこの生活が続くことになるのだ。
「色々至らないところもあるかもしれないけど……とりあえず、よろしく」
「あ、こ、こちらこそよろしく……」
こうして一応の挨拶を終え、レインはさっきから気になっていたことをアリアに告げた。
「で、さ……。そろそろ手、離して頂きたいんですけど……」
そう、この間ずっと握られたままだった右手のことを。
「―――」
「ちなみに多分昨日の夜からずっとだったんだけど…………」
「……きゃあああああああ!!」
アリアの叫びと共に握られた手が離され、大きく後ろに引かれて――。
――あ、やばい。
数度の経験から、レインは学んでいた。こうなればもう手遅れだと。
予想通り、会心の平手打ちがレインを襲う――。
「…………あれ?」
――ことはなかった。
中途半端な体勢のままアリアは数度深呼吸して息を整えると、手を下ろして真っ赤な顔を背けるようにして言った。
「わ、私は先に食堂に行ってるから! もう自分でも動けるでしょ!」
そう言うなりアリアは居間を抜け、部屋を出ていった。
「…………」
一人残されたレイン。
「……まあ、一応友人として昇格……なのかな?」
そんな推測をしながら、レインもベッドから下りて食堂へと向かった。
***
「…………」
女子寮の食堂。その片隅でひっそりと食事を取りながら、レインはとてつもない居心地の悪さを感じていた。
学園の食堂と違い、この女子寮の食堂は当然ながら女子しかいない。正確にはレイン以外全員が女子なのだ。広さ自体も学園と比べると一回り以上狭く、唯一の男であるレインは目立つことこの上ない。
ミコトが許可を取ったというからには、皆にはレインがここにいてもおかしくないということは伝わっているはずだ。しかしそれでもなお、女子たちからの視線がレインを突き刺す。
初日の教室以上に辛い視線の地獄。まさしく針のむしろだ。
ちなみに、頼みの綱であったアリアはレインから離れ、一人で朝食を取っている。
アリアとレインが相部屋であるということはまだ伝わっていないのだろう。ならば、わざわざ一緒に食べて迂闊にバラす必要もない。学園の食堂ならば同じクラスだからという言い訳も通じるが、ここではそれ以外何の関わりもないのだから。
周りからの視線をレインは修行僧のような精神でやり過ごし、ひたすら無言で朝食を食べ続ける。しかし、最後のスープを飲み終えようとした時、ついに恐れていた事態が起こった。
「ねえ、レイン君……だよね?」
ひたすら下を向いていた頭の上から、一人の女子の声が聞こえてきた。
「あー……。そうだけど、何か?」
内心で嘆きながら応じる。見上げれば、そこにいたのは予想通り先程からこちらを見ていた女子生徒だった。
レインの脳裏に蘇るのはビルマとの一連の記憶。
この少女も何か自分に不満があるのだろうか。いや、むしろそうとしか思えない。レインの体が緊張でわずかに強張る。
いくら何でもいきなり決闘とは言わないだろうが、女子寮から出ていけ等の文句は普通に考えられるのだ。
「お願いがあるんだけど…………」
「は、はい…………」
思わず姿勢を正してしまうレイン。固くなるレインに対し、女子生徒は言った。
「――私に剣を教えて下さいっ!」
「…………え?」
予想外の台詞にレインは呆然とした。しかし少女はそんなことは気にせず畳み掛けるようにレインに詰め寄る。
「私、レイン君とアリアとの試合を見てたんだけど、レイン君すごく強かったでしょ!? だから、私も強くなれるように剣を教えてほしいんです! お願いします!」
「え、えーと…………」
突然の事態にレインは戸惑う。頭の整理が追い付かず答えを決めあぐねていると、少女の声を聞きつけた他の女子生徒もレインの近くに寄ってきた。
「え、なになにレイン君に剣を教えてもらえるの? じゃあ私もお願い!」
「なら私も! すごかったもん、レイン君!」
徐々にレインの周りに人集りができ始める。この状況に一番乗り遅れているのは、他ならぬレインだ。
答えを出した訳ではないのに何故か教えることが決定しているが、何かを言う余裕すらない。完全に女子生徒たちに囲まれ、脱出する余地すらなかった。
「ちょ、待って誰か助けて――」
そんなレインを救ったのは――。
「――あなたたち。ここは食堂でまだ食事の時間よ。もう少し静かにしなさい」
響いた声。決して大きくはないのに、自然と騒がしかった食堂に浸透し、辺りを静まらせる。
放ったのは、一人参加していなかったアリアだった。わずかに離れた位置からの一言が少女たちを諫めた。
「あ…………」
「そ、そうよね…………」
少女たちも思い直したのだろう。「また後で」と言いつつレインのもとを離れていく。そこにアリアに対する反発はなく、自分の行動への純粋な気付きと、アリアへの尊敬しかないのがレインにも分かった。
強者故の雰囲気、というものだろうか。
アリアは素知らぬ顔で朝食を終え、食器を片付けると自室へと戻っていった。
レインもスープを今度こそ飲み終え、食器を片付ける。食堂を出て慌てて部屋に戻ったが、そこには既にアリアはいなかった。
***
女子寮を出て学園に着き、いまだに道順が不安な廊下を歩いて教室へと辿り着く。実は初めてとなるまともな登校なのだが、レインはさして気負わずに戸を開けて教室に入った。
さすがに数人には見られたが、それだけだった。特別敵視してくる視線はなく、レインは内心で安堵する。思っていたよりも受け入れられているのがレインには嬉しかった。
自分の席へ行くと隣には、やはりアリアが座っていた。レインよりも一足早く登校していたのだ。
アリアは頬杖をつきながらすぐ横の空を見ていた。どんな顔をしてるのかは、レインからは見えない。
レインが自分の席に座っても、アリアは体勢を崩さなかった。
「ありがとうな」
アリアを見ないまま、レインは言った。
「…………何が?」
同じく顔をこちらに見せないまま短く返ってくるアリアの問いに、レインは答える。
「食堂でさ。助けてくれたろ」
「……別にそういう訳じゃないわ。ただ思ったことを言っただけ」
「仮にそうだったとしても助かった。だから、ありがとう」
「…………」
今度はアリアは返事をしなかった。それでも感謝は伝わっただろう。ならば十分だと、レインはそれ以上何かを言うのは止めた。
授業道具の準備を終えたレイン。特にやることもないので机の上に突っ伏す。しかし直後に、アリアの声が聞こえた。
「……ねえ」
「ん?」
「あんたは私に感謝してるのよね?」
「……? そうだけど」
「じゃあ、一つ頼みを聞いてもらっていい?」
「…………」
突然の提案にレインは一瞬思考を止めた。いや、止めたというよりは逆に、凄まじい速さで回転させた。
わざわざアリアが持ち込んでくる頼み。普通に考えれば厄介事か面倒事だ。むしろそれ以外に考えられない。経験上、改まってされる頼み事は大抵これらの部類に属することをレインは知っていた。
「ど、どんな?」
とは思いつつも、まさかここで内容も聞かずに拒否は出来ない。いや、アリア相手では内容を聞いても拒否出来る気はしないのだが、やむなくレインは聞いた。
しかし対するアリアの答えは、レインが予想すらしていなかったものだった。
「……私に、剣を教えて」
「え…………?」
一瞬、レインは何を言われたのか分からなかった。
――アリアに、剣を教える? 俺が?
「何でそんなこと……十分お前は強いだろ。悪魔相手でも普通にやりあえるはずだ」
「でも、私はあんたに負けた。神器を使ってなお、聖具だけで戦ったあんたに勝てなかった」
「それは……運が俺の味方してくれただけで、次をやればどうなるかは……」
「それでも負けたのは事実よ。いいえ、きっと次も私はあんたに負けると思う。悔しいけどね。今のままじゃ私は、私がなりたいと思う私になれない」
「…………」
いつしかアリアはレインの方を向き、赤い瞳を真っ直ぐレインに向けていた。もちろん冗談などではない。本当に心の底から、アリアはレインに教えを乞うているのだ。
だがその瞳を見ても、まだレインは迷っていた。
果たして自分ごときが、誰かに剣を教えることなど出来るのだろうか、と。
自分に自信がない訳ではない。目的のために力をつけ、それなりの力を持っている自信はある。しかしそれは、あくまでレイン自身の目的があったからこそだ。
レインとは違う目標を持つアリアに教えられるものなのか、答えが出せない。
アリアは、いつかきっと自身の目標を叶えるはずだ。それがすぐ先なのかそうでないのかは分からない。それでも、ただひたすらに自分で追い求めるのが正解だとレインは思うのだ。
「俺は…………」
しかし、レインが答えを出そうとした時だった。
ヴー! ヴー! ヴー!
どこか警告音にも似た、けたたましい音が学園に響いた。
「…………!? これは――」
「っ……よりによって今日来るなんて……」
苛立ちながらアリアはため息を吐く。事態を理解していないレインが異音の意味を知ったのは、直後の放送でだった。
『“北”の神壁、第二街区付近に悪魔が接近中。国境騎士団より応援要請を確認しました。神器使い、ならびに強化聖具使いの生徒は学園長室前に集合して下さい』
「……っ!」
あの警告音は悪魔の襲来、そしてそれによる国境騎士団からの応援要請を告げるものだったのだ。
本来悪魔が神壁に近付けば、すぐさま国を守る国境騎士団によって討伐されることになっている。そのためわざわざ接近の度に国民に知らせるようなことはしない。いや、恐らく今回も国民には伝わっていないだろう。
しかし学園には“応援要請”として伝わった。
理由は簡単に推測出来る。この学園には神器使いを含んだ数多くの優秀な騎士がいるのだ。国境騎士団ですら対応しきれない悪魔の接近時には、彼らが召集されるのだろう。
だが――。
「国境騎士団でも対応出来ないくらいに悪魔が発生したのか? いくら何でもそれは……」
常識的に考えて――有り得ない。
直接的に国を守る国境騎士団の兵力は、そこらの小国の軍の兵力すら凌駕する。そこまでの兵力でなお防げない悪魔の襲来など考えられないのだ。
しかしアリアは必要最低限の準備をしながらレインに理由を説明した。
「今はちょうど、王都で神騎士たちの会合が開かれてるのよ。この学園からも神器使いを含めて結構な数が王都に行ってる。多分国境騎士団も同じのはずだし、いつもに比べれば守備が手薄になってるんだと思うわ」
「そんな…………。じゃあ数はかなり厳しいんじゃ……」
「うん。アルスも王都だし、このクラスでの神器使いは私だけみたいね。強化聖具持ちもそこまで数は見込めない。……でも、大丈夫。私が守るわ」
準備を終えたアリアは笑っていた。恐怖など微塵もないのだろう。腰の鞘におさめられた神器〈ヘスティア〉が頼もしく輝く。
「……気をつけろよ」
「もちろん。帰ってきたら……その時こそ剣を教えてよね」
最後にそんなことを言い残して、アリアは小走りに教室を出ていった。
***
アリアは学園長室に向かって小走りしながらも、レインのことを考えていた。
何故自分がレインにあんなことを頼んだのかが分からない。少し前なら、例え思ったとしても押し殺して、自分だけで鍛練を続けただろうに。
そもそも、レインに剣を教えてもらえると決まった訳ではない。あの時、食堂で女子生徒に囲まれたレインは明らかに答えを出すのを迷っていた。
どこか遠慮したようなレインの苦笑が思い出される。それはかつて、幼いころの自分がしていたのと同質の笑みだ。自ら周りとの距離をとって、内心で大きく迷っているのにも関わらず拒絶しようとする笑み。
つまりレインにも、アリアと似たような経験があるということで。
――ねえ、何があったの?
――何があなたをそんなに強く……あるいは弱くしたの?
レインの笑みの複雑さを感じ取ったアリアは教室でつい言ってしまっていた。
『私に剣を教えて』と。
もちろん、レインの“何か”を知ったところで今の自分が変われるとは思えない。むしろ、知ってはいけない禁忌のようにすら思えた。蓋を開けた途端に戻れなくなってしまう、永遠の呪いのような。
レインが抱えているものはそれだけ大きく、きっと苦しい。
だがそれでも、アリアは知りたいと思う。レインが感じたものを、思ったことを。過去の行いと、未来の望みを。
ふと、アリアは最近自分がレインのことばかり考えていることに気付いた。前までは他人になんてほとんど興味がなかったのに。
あるいは、これもレインが自らにかけた魔法なのかも知れない。いや、アリアには“無属”があるから、レインが自分自身にかけた魅力的に見える魔法だろうか。
脳裏に、いつでも飄飄とした態度の少年が思い出された。
「……ふふ」
最後に短く笑うと、アリアは気を引き締めた。
学園長室の前に着いたのだ。
見回してみるが、やはりいつもと比べて数は少ない。それどころか、神器使いはアリア以外にいなかった。
せめてアルスがいれば……と思うのは、ないものねだりというものだろう。会合に参加している彼らを呼び戻す訳にはいかない。そうなる前に終わらせるまでだ。
その時学園長室の扉が開いた。そこから現れたのは、〈フローライト〉学園長、ミコト・フリル。いつもと変わらぬ可愛らしい姿だが、幼い表情はいつもよりわずかに真剣だった。
「急な召集に応えてくれてありがとう、諸君。事情はもう理解しているだろうが、一応確認をしておく。現在“北”の神壁の第二街区付近に悪魔が複数対接近中。情報はまだあまりないが、恐らく下位級だ。指揮個体は見られず、突発的なものと思われる」
ミコトの言葉にわずかに場の空気が緩む。
下位級とは悪魔のおおよその強さを表す級という指標の内の一つだ。悪魔の中では最も弱い位置付けであり、知能や特異体質などはほとんどないとされる。もちろんいくら下位級とはいえ悪魔であることに変わりはなく油断は禁物だが、危険度が低いことだけは確かだ。
指揮個体がいないのならば、まともな戦略もなく、ただ本能のままに向かってきているのだろう。
「作戦内容だが、まあ特に改まって伝えることはない。各自数人ずつチームを組み、各個撃破を狙う。ただしアリアだけは自由に動き回れ。〈ヘスティア〉の焔は仲間ごと燃やしかねない」
「分かりました」
「なお、国境騎士団は別の方面から接近してきた悪魔に対応しているためこちら側の悪魔は我々が一任している。校章による通信で指示を出すから、それに従うように」
「「はい!」」
生徒たちの返事を聞いて、ミコトは頷いた。
「よし、では行こう。来たまえ」
集まった面々はミコトについて学園長室に入る。ミコトが目を瞑り小さく詠唱すると、部屋の中央に巨大な魔法陣が描かれた。
瞬間転移陣。普段は隠されているそれは、転移魔法を大幅に強化した術式を使うための陣だ。巨大なものや一度にたくさんのものを転移させる時に使われる。
「私はここを離れられないが、戦況は通信によって理解するようにしておく。何かあればすぐに連絡しろ。最悪の場合は私自らが出る」
彼らが神壁に転移すれば、当然学園側の戦力は大きく減少する。そうなれば、もし何かが学園に起こった時に対応出来ない。敵は悪魔だけではないのだ。そのためにもミコトはここを離れることは出来ない。
ミコトの言葉を理解して頷きつつ、生徒全員が陣の上に乗った。陣が淡い光に包まれる中、ミコトは言った。
「君たちは誇りある我が〈フローライト〉の騎士だ。悪魔などとるに足りない敵だろう。国境騎士団にすら劣らないほど完璧に、打ち倒してこい」
「「はい!」」
大きな返事が学園長室に響いた直後――陣が一際強く輝き、彼らの姿は消えた。
「ふう…………」
生徒たちを見送ったミコトは自分用の椅子に座り、深く息を吐く。
別に不安がある訳ではない。ただ、少しタイミングが悪かったという苛立ちがあるだけだ。よりによって今狙われるとは不幸以外の何物でもないだろう。
「しかしまあ……アリアがいれば心配はいらないな」
それでも不安や心配はない。彼女がいれば下位級などさして問題ではないのだ。
ふっ、と短く笑った時、ミコトの耳に初めての報告が届いた。
『こちら索敵班。情報通り悪魔が接近中、目視出来るのは八体です。邪犬種二、邪人種六』
ミコトは短く答える。
「了解。当初の指示通りチームを組み殲滅せよ。――作戦開始」
『了解しました』という声で、通信は途切れた。
もうミコトがすることはないだろう。彼らならばやってくれる。
最後にもう一度深く息を吐いて、ミコトは目を瞑った。




