14.恐怖
私はあの日から、二つの言葉を忘れることができなかった。
一つは、アンドリューの『きっと。ううん。必ず会おう』。どこかで聞いたことがある。なんだろう…本当に、五歳までの記憶を忘れてしまったみたい。都合のいいことだけでよかったのに。
そして、二つ。マリオンの言葉。恋、とかどうとかって。
よくわかんないから、それっぽい本を読んでみた。
でも、さっぱり。…と思いたい。
私の心に鍵をしっかりかけて、見ないふりをしている。…かもしれない。
そんな悩み事を抱えながら、また日常が始まる。
私は、おさぼりに来ないロザリーが心配だが、何もできない自分にイラつきながら、腕にうずくまる。口を尖らして、足元を見つめる。
時間が無駄に過ぎていくのになんとなく気づき、私はおっくうに立ち上がった。ゆっくりと足を踏みしめながら、私は鏡台に歩み寄った。
映る自分を見て、ため息を思いっきりしてしまった。私の黒髪には、もう、何もついていない。ポインセチアは、ここに来る前に、ロザリーの助言で道にすてたのだ。そうでなくても、今頃には枯れているのかもしれないが、それでも寂しいのは変わりない。
そして、私は服の上からネックレスを触った。アンドリューがくれた、あのネックレス…思わず笑みがこぼれる。これは、私とアンドリューとの…
コンコン。
「オディール様。晩餐の時間です」
ああ。また、彼女だわ。
私は鏡越しにマリオンを見つけた。あの真顔は、クリスマスから信用できない…
「またですか…」
「え?」
「また、一人で笑っている。そんなに、クリスマスが楽しかったのですか?」
「…ええ。とっても」
私が振り返って笑うと、マリオンも優しく笑った。
「やはり、恋をされましたか?」
その声に、思わずあっと声を出してしまいそうになる。
「…あの日、あなたは泥酔していたはずよ?」
「いいえ!そんなこと、このマリオンめがするはずありません!」
「…」
していたわよ。
私はパンパンと服を叩き、とぼけてみせた。
「恋だなんて、おかしなこと言わないで?さあ。晩餐、晩餐!」
その言葉に、マリオンが頭をかしげた。
「おかしいですわ。オディール様は、ルシフェル伯爵がお嫌いなはず…ああ、失礼いたしました」
「いいえ。事実ですから」
「では、なぜ、晩餐に進んで行こうとするのですか?」
「そ、それは…そういう気分だったからよ!」
私はマリオンを置き去りにして、部屋から出て行こうとした。
「オディール様」
彼女の声に、私は足を止めた。
「マリオンは、オディール様の味方でございます」
その優しい声に、私は答えられず、黙ってドアを閉めた。
相変わらず、ルシフェル伯爵は白髪ね…と思いながら、私は椅子に座った。もちろん、これは嫌味じゃない。ただ、ずっと前から白髪だから、不老不死の伯爵の気味が悪いというだけだ。…というのは、嫌味か。
また、彼の目の前に、赤いスープ。想像はしない。
「オディール。縁談の件だが…」
ああ。そんなこともあったか。
しかし、連想されたのは、アンドリュー。『君のことを幸せにできるやつなのか』、と語っていた。私を幸せに…
「きっと、無理ですね」
「何を言いたい。オディール?」
思わず私は変なことをつぶやいてしまっていた。
ルシフェル伯爵の顔が、一気に歪む。血が無いはずなのに、真っ赤な顔になっている気がする。
「な、何でもありません…」
私が答えた瞬間、急に寒くなった気がした。お腹の奥底が、ぎゅっと握られたような、気持ち悪い気分。鳥肌ができ、なぜか目が潤む。
この感覚…うさぎ!うさぎを見つけた…あの日の!
「オディール…?何を隠している?」
私の心臓が、ビョン!と飛び跳ねる。
いつ…背後に来たの…!
私の肩の上から、ニョキっと彼の顔が現れる。恐ろしい姿に、私は顔を背けたいのに、背けられない。手が震え、筋肉が全て固まる。
「あ、あ…!」
カシャン!
私が声を出しかけた時、不意に何かが割れた音がした。そのおかげか、私の意識がパッと戻った。
「申し訳ありません!今すぐ片付けますので…」
音がした方向を見ると、ロザリーがあたふたして、その横でマリオンが彼女を手伝っていた
一瞬、ロザリーと目が合うと、彼女が小さく頷いた。
「ごめんなさい、ロザリー。あなたに風邪をうつしてしまったみたいだわ。マリオン。私達、今すぐ休まないと…」
「ええ!もちろん、休んでくださいませ。ルシフェル伯爵様。よろしいですか?」
すると彼は、頷く変わりに、闇夜に消えていった。
私とロザリーは、支え合いながらドアを開け、そこから三十秒数えた後に、同時に肩をなでおろした。
あー!疲れた!




