10.涙の止め方
デニッシュは、とても美味しかった。でも、アンドリューが、なぜ女子向けの本の話を知っているかについての、面白い弱みをゲットできなくて、ほんの少しもったいない気分だった。
「なあ。ロザリーさんだっけ?巻いてしまってよかったのか?」
「うーん…いいんじゃない?」
私の適当さに、アンドリューは呆れ顔を浮かべる。
「なあ、サ…オディール」
「サラでいいわ。でも、ロザリーが来たらオディールにして。怒られちゃうから」
「じゃあ…サラ」
アンドリューの表情が、なぜか神妙になった。
「君の家は、どこなんだい?いくらお嬢様だからって、あんなにいい服を着てわざわざ偽名を使うのはおかしいだろう。あの格好なら、本名を名乗ってもいいはずだ」
私はギクリと顔を歪めた。
ばかなくせに、切れる男ね…と、一瞬だけ感心する。どうやってごまかそう…?
「あれか?マリッジブルーってやつ」
「マリッジ…?」
「ブルー。聞いたことあるだろ?結婚前に女が心配事だらけになって、どっかいっちゃうやつ」
「そんなんじゃないわ」
「じゃあ、なんだってんだ?」
…やってしまった。よくわからないけど、マリッジブルーって言っとけばよかった。
養父のルシフェル伯爵が、バンパイアとは言えないし…
「ずっと…ずっと、伯爵が怖くって、街に出られなかったの。でも、もうすぐ結婚しちゃって、本当に自由がなくなる。だから、今のうちに、最初で最後の自由の味を知りたかったの」
私の中途半端な言い訳を、アンドリューは黙って聞いていた。少し眉の間にシワを寄せたので、もしかして彼は、私の嘘に気づいているのかもしれない。
なのに、アンドリューはうっとうしそうに髪を掻きむしった。少し私から目をそらし、悲しそうに笑った。
「それか…こんなにお忍びが下手な理由は」
「そんなに下手?」
「クリスマスに喪服着るやつは、目立つだろ?目立つ行為は、お忍びとは言えない」
その通りね…
私は観念したように肩をすくめると、彼は優しく笑った。その瞬間、彼の姿と、記憶の薄い、大きな背中の男の姿が重なった。私の誕生日に、七面鳥を持ってきた…あの男。
「ねえ。サラ。その結婚する予定の男はどんなやつなんだ?君を、幸せにできるやつなのか?」
その優しい声のセリフは、私の心臓をゆっくりと突き刺した。
幸せ…?そんなの、思いもしなかった。ずっと。いや。今、この時まで、私は幸せなんか知らなかった。今、感じている感情も、幸せと言うのかさえ、怪しいくらいだ。
でも、きっと、私は結婚したら、バンパイアにされてしまう。そのことで、私はロザリーと引き裂かれてしまう。それは、幸せじゃない。
「幸せ?そんなの関係ないのよ…伯爵に結婚しろと言われた男と結婚する。それしか私に選択肢はないの」
「幸せが約束されない結婚に何の意味がある?」
「じゃあ、あなたは、幸せのある結婚が正解って言うの?幸せのない結婚はおかしいって言うの!?」
私がアンドリューに迫ると、強気だった彼の表情が一瞬で歪んだ。
「…おい。泣くなって」
彼の言葉で、やっと私は目から水が出ていたことに気づいた。
…おかしい。おかしいわ!最近、泣いてばっかり!そんな人じゃなかったのに。そんな女じゃ…!
「ば、ばか!洪水みたいに泣くなって!ああ…俺、ハンカチ持ってたっけ…」
混み合う街の中、アンドリューが必死に私をなだめて、私は訳も分からず泣き続ける。周りの目は暖かかったり、冷たかったり…
私は涙を流す方法を忘れてしまっていたのに、なぜか出てしまった。でも、止める方法も忘れている。
きっと、しばらくは、アンドリューに迷惑をかけてしまうな。
そう思って、彼のくしゃくしゃハンカチを受け取った。




