94. 居心地の悪い喫茶店 (博之父視点)
お買い物中、麗&春太郎と遭遇し少し話をする事になった冬田夫妻(博之両親)。
博之父視点を彼の回想と共に…。
あまり気分の良い話ではないので、苦手な方は次話へどうぞ。
「麗ちゃん…よね?」
「ご無沙汰しております…。」
日曜日の百貨店、子供服を取り扱うフロア。妻の買い物についてここへ時々足を運ぶようになったはつい最近——ここ約1年半のことだ。
偶然とは言え、よりにもよってこんな所で再会するなんて…。
妻が遠慮がちに声をかけると、彼女は少し驚いたような表情を見せたが、すぐに畏まった挨拶とともに私達夫婦に深々とお辞儀をした。
私の予想に反して彼女の表情は穏やかであった。
「元気そうで何よりだわ…差し支えなければお茶でも飲みながらお話しできないかしら……」
妻はやはり遠慮がちに彼女に問いかけた。こちらが望んでも、彼女がそれを望まないのは想定済み。いや、むしろ断られる可能性の方が高いであろう。
「麗、お待たせ。」
彼女の返事を聞くよりも先に、1人の青年が現れた。
私はその青年に見覚えがあった。目が合えば彼はすぐさま「お久しぶりです」と私達に頭を下げた。どうやら私達夫婦とは面識があるようだ。
「浅井 春太郎です。高校の時、博之くんと同級生で何度か家にお邪魔させてもらった……」
確かに聞いた覚えのあるような名だ。妻は思い出したように相槌を打つ。息子の友人であれば、見覚えがあると感じたのもなんら不思議は無い。
彼は息子の愚行を知っているのだろうか……こうして彼女の隣にいる時点で、知らぬ筈はあるまい。
少なくともあの日までは自慢の息子であった。
それが今では「愚息」という言葉は彼のためにあるのだと思わずにはいられぬ程愚かなことを息子はしでかしたのだ……。
***
「いやぁ、娘に打ち明けられた時は正直愕然としてしまいましたが、父親が冬田さんのところの博之君だと聞いてほっとしました。最近は欲しくてもなかなか授からないなんて話も珍しくありませんから……順番が逆になった事くらいとやかく言うのも野暮だと思うんです。こんな状況ですし、結納はせず、式は海夏が安定期に入る秋頃に挙げるということでいかがでしょうか?」
これを青天の霹靂と言わずして何というのだろうか。突然の来客、そして突然告げられた内容に私は言葉を失った。
来客というのは、特別親しいというわけではないがそれなりに付き合いのある同じ町内の住人の金井氏と息子の同級生である彼のお嬢さんである。
何かの間違いではないか――そんな言葉が喉元まで出かかったが、事実確認は必要である。終始笑顔で一方的に話を進めようとする金井氏の心底嬉しそうな様子に水を差す勇気のなかった私は、息子から知らされていないことを理由に話し合いを先延ばしにすることしか出来なかった。
金井氏にお引き取り頂いた直後、私は離れて暮らす息子を呼びつけた。
俄かには信じ難い。息子には婚約者がいるのだ。それも、9年付き合い、仕事の関係で離れて暮らしているものの一時期は同棲までしていた女性が。離れて暮らしているとは言え、週末には彼女のもとへ足繁く通い、数日後には仕事を辞めた彼女と新居での生活を始め、近々籍まで入れる予定があるというのに……。
何かの間違いであって欲しい――それを切に願っていたのは私だけでなく妻も同じであった。
息子の婚約者というのは、それは素直で可愛らしいお嬢さんなのである。娘が欲しくても出来なかった私たちにとって、彼女は最早実の娘のような存在となっていた。妻は息子以上に彼女を頼り、彼女はそれに嫌な顔をするどころか、いつも笑顔で妻の頼み事を引き受けてくれた。
そんな彼女との関係が、こうもあっけなく壊れてしまうなど想像すら出来なかった。
愚息の不貞に、私は怒り狂い、妻は泣き喚いた。どちらが本命であるかは、火を見るよりも明らかであった。
「海夏には堕ろしてもらうつもり……」
愚息の一言で、私は気付いてしまった。彼には選択肢などないことを。
金井氏のお嬢さんを妊娠させた責任を取る――その一択以外の選択肢など存在してはいけないのだ、と。
そうと決まれば、誠心誠意謝るしかない。勿論、謝ったからといって許される筈もない。
先方――彼女の父は大層ご立腹であり、彼女は精神的なショックから倒れてしまった。愚息はそれでも彼女と夫婦になりたいのだとのたまい、先方を余計に怒らせてしまった。
その結果、当人同士の話し合いはおろか、私達夫婦から彼女に直接謝罪させてもらうことすら許されず、「もう娘の前に姿を見せないでくれ」と言われ、「これ以上関わりたくない」との理由で訴訟を起こされることも慰謝料を請求されることもなければ、受け取りすら拒否された。
辛うじて、愚息名義の口座に2人で貯めていた貯金を受け取ってもらったくらいだ。半分は元々彼女のものであったのだが、残り半分の受取りすら同棲していた時に支払うはずであった家賃だからと言ってようやく受け取ってもらえた程。息子に関わるものは極力排除したいとの先方の思いを感じずにはいられなかった。
彼女への直接の謝罪すら許されなかった私達夫婦にのしかかる罪の意識は非常に重く、徐々に疲弊してゆく妻の姿がそれを物語っていた。更に追い討ちをかけたのが、街中で偶然見かけた彼女の姿である。
やせ細り、目には力がなく、かつて私たちに笑顔を向けていた彼女とはまるで別人。胸を抉られるような思いに、妻はさらに神経をすり減らしてしまった。
夏が過ぎ秋を迎え、愚息は式を挙げた。
幸か不幸か、愚息の結婚に関して親戚をはじめとした周囲に元婚約者を紹介する前であったので、周りは予定通りの相手と予定通り式を挙げた事になっている。
参列者に高校時代の友人が一人もいなかった事を除けば、なんら不自然は点はない。
それはつまり、愚息のしでかしたことが如何に彼女を苦しめ、共通の友人たちの不興を買ったかということなのである。その事実に、彼女に対する罪悪感がより膨らんでゆく。
12月に入ってすぐ、孫が産まれた。「柊」と名付けられた孫は、愚息の幼い頃に瓜二つであった。
孫は可愛い。そんな孫を産んでくれた愚息の嫁にも感謝をしている。
孫の存在はいいものだ。本当に癒される。
愚息が婚約を破棄した彼女に対する罪悪感が薄れたり、消えたりする事はないのだが、孫の誕生は「これでよかったのだ」と思わせてくれた。
孫が産まれて1年と少し。愚息夫婦はお世辞にも「良い夫婦」とは言えまい。
「子は鎹」――私と妻に癒しを与えてくれたように、孫には愚息夫婦の仲を取り持ってもらいたいと思う。
***
「この後約束があるので、それまででしたら…」
妻の申し出に彼女がそう答え、隣の彼が笑顔で頷く。誰が提案したわけでもないが、私たちの足は自然と子供服売り場の片隅にある喫茶店へと向かっていた。
必要以上に愛想を振りまくウェイトレスに案内されたのは、些か柔らかすぎるソファの席である。席に着くとすぐさま、お冷のグラスとお絞りが置かれたので、メニューを見ぬままブレンドを注文し、妻もそれに倣った。私は気を遣わせてしまったのだろうか。珈琲よりも紅茶を好んで飲んでいたはずの彼女も、彼女の連れも同じものを注文した。
居心地の悪さは、この店に似つかわしく無い私達の関係のせいなのか、座り心地の悪いソファのせいなのか。
日曜ということもあり、周りは祖父母と一緒に買い物に来た親子連れ、お腹の大きな娘とその両親、そんな組み合わせの客ばかりだ。
もしかしたら端から見たら私達だって、若夫婦とその親だと思われているかもしれない。そう思ってしまったことが後ろめたかった。その後ろめたさは誰に対するものであるのかわからないが。
彼女を娘のように可愛がっていた妻に対してなのか、以前とは変わってしまった息子に対してなのか、愚息のせいで貴重な9年間を不意にしてしまった彼女に対してなのか、はたまたこんな席に同席させてしまった彼女の連れに対してなのか。
いずれにしても、彼女に対する未練があるからそう思ってしまったのだろう。
今でも心のどこかで、彼女が息子の嫁であったら……と考えてしまうことがある。年末年始で帰省した息子の様子にそれを痛感した。
愚息が孕ませたのがもしも別の女性だったら、そちらをなかったことにしていたかもしれない自分が怖い。「ご近所」というごく狭い共通のコミュニティに所属する金井氏のご息女であったからこそ、倫理的で尤もらしい建前を並べて、身近なコミュニティでの世間体を守っただけに過ぎない。
息子が愚かであるなら、その親である私も然り。
「君も知っているのだろう……」
「……はい。」
私の問いに彼女の連れは困惑混じりの表情で答えた。本題に入る前に念の為確認をしておきたかったのだが、確認するまででも無かったようだ。彼女や息子との関係を考えれば、嫌でも耳に入ることであろう。
「今更だと言うのは重々承知している。私達の自己満足でしか無いのかもしれない。それでも、直接謝罪したいと常々思っていた。麗さん、息子が本当に申し訳ない事をした。謝って済むことで無いと分かっているが謝らせて欲しい。本当にすまなかった。」
1年と11ヶ月越しの謝罪の言葉は受け入れられるのだろうか。受け入れられないのであれば構わない。それだけのことをしたのだ。
「こちらこそ、可愛がって頂いたのにきちんとお礼もご挨拶もしないままで申し訳ありませんでした。」
「良いのよ、こうして元気そうな姿を見られるだけで…。」
思ってもいなかった彼女の言葉に胸が押しつぶされるような思いだ。申し訳無さそうに詫びる彼女に、妻は涙を堪えられなくなってしまったらしい。謝られるくらいなら、責められたほうが気が楽だ――妻も同じように考えたのではなかろうか。
「20代なんて1番楽しい時じゃない…その20代、麗ちゃんの9年間を台無しにしてしまって申し訳無かったと思っているの…無駄にしてしまったんじゃないかって……本当にごめんなさい……」
「台無しだなんて……最後はあんな形になってしまったけれど、9年間一緒に過ごした事を後悔していません。友人に囲まれて楽しく過ごせたのは冬田くんのお陰ですし……」
泣き噦る妻に彼女は微笑みながら感謝の言葉を口にした。
「本当に可愛がって下さりありがとうございました。実は来月、彼と式を挙げるんです。籍は元旦に入れました。皮肉でもなんでもなくて、収まるべきところに収まった結果だと思うんです。私は今、幸せです。だから…もう泣かなで下さい……」
その言葉に救われた。それと同時に、恥ずかしくなった。
誰の為の謝罪であったのか——紛れもなく自分の為のものであった——という事に気付いてしまったからだ。
私はただ、赦されたかったのだ。
赦されて、楽になりたかったのだ。
彼女の表情は穏やかで、とても幸せそうであった。
「あの子は…それを知っているのかしら…」
「はい。先日、僕の友人を交えて食事をした時に直接報告をしました。」
息子は、その時どう思ったのだろう。口にこそ出さなかったが、彼女への想いを断ち切れていない様であった愚息だ。
***
「今日こうしてお会い出来て良かったです。妻が以前、僕に漏らしたんです。あなた方にきちんとお礼も出来なかったのが心残りだと——」
別れ際、彼女の連れは彼女に聞こえぬ様に私にそう語った。彼女に対して、私も妻も身内の様な感覚が残っていたのは否めない。彼はそれに気付いていたのかもしれない。
『僕が幸せにしますから…では失礼します。』
彼のその言葉に、彼女は他人なのだとやっと気付かされた気がした。




